仕事
大堀敏靖
小路雄馬は四十を過ぎても独身で、飄々と生きてい
る。働いている風でもなく、かといって道楽に耽って
親の財産を食いつぶしているわけでもない。彼には働
かないでも生活していけるだけの資産がある。マンシ
ョンを五棟、広大な駐車場を所有し、百台ほどの車が
契約を結んでいる。大抵の資産家なら「いやその維持
管理がなかなか大変でしてな」などというが小路雄馬
はそんなことは言わない。「ゼロ。働かずして天地の
広大な恩を受け、生くるのみ」などと意味のよくわか
らないことを嘯いている。
会社勤めのストレス人間にはまったくうらやましい
境遇で、そんな生活を一年でも送れたらどんなにかい
いだろうと思う。しかし、そんなことは努力しても叶
うわけではなく、それは先祖が余程徳を積んで子孫が
その恩恵を享受しているか、その人自身の前世が余程
有徳の人であったかいずれかであろう。しかし、意外
とそんな生活は退屈極まりなく、普通人には一週間と
耐えられない牢獄のような生活かもしれない。小路は
「日々是好日」と言う。
小路のところには毎日入れ替わり立ち代りさまざま
な人々が訪ねてくる。もちろん誰も訪ねてこない日も
ある。それでもさびしいなどとは思わない。朝は畑仕
事をし、午前中はなにやら書き物をして、昼からはＤ
ＶＤで洋画を見て過ごす。邦画を見ることもある。落
語を聴くこともよくある。夜になると、春は田んぼの
蛙の鳴き声、秋は虫の集きを聞いて楽しむ。テレビは
気分が散漫になるのでめったに見ない。コーヒーを煎
れて、ＮＨＫのラジオを聴いて九時には床に就く。マ
ンションの管理は業者に任せてある。地代家賃が毎月
数百万円入ってくる。自分では生活費以外めったに使
わないので、金は溜まる一方で、災害があると大抵匿
名で百万円くらい寄付している。そういう陰徳を積ん
でいるので、金はますますこういう人に吸い寄せられ
るように集まってくる。
今日は三年連続で大学受験に失敗した、かねてから
小路のところに出入りしている千本木という若者が訪
ねてきた。さすがに弱った顔をしている。
「また駄目でしたか」
「先生教えて下さい。僕は大学というところへは行け
ない人間なのですか」
「そんなことはない。君は有名な一流大学ばかり受験
し、それでろくに勉強もせず、女性の尻ばかり追い掛
け回しているからいつまで経っても受からないのです。
本当に行きたければまじめに勉強に専念することです
な。ま、カフェでも飲みましょう」
例によって小路は手ずから豆を挽いてよい香りを室
内に漂わせながらコーヒーを出して客をもてなす。客
にとってはこれが一番の目当ての者もいれば、まず小
路の牧歌的風情に癒しを求めて二番目にコーヒーを楽
しむという者もある。いずれにしても小路の煎れるコ
ーヒーは客にとって重要なのである。
「君の頭の中は女体のことで満ちているでしょう。勉
強のことなんぞ、百分の一も占めていない。私にはよ
くわかります。その助平な心をそのままに一流大学に
合格しようという根性がそもそも間違っているのです
そうは思いませんか」
「まったくその通りです、先生。返す言葉もありませ
ん」
｢ 若いころは大抵そんなものですが、君はちょっと度
が過ぎている。色欲の霊に憑かれているようですから
お祓いを一度してもらうといい｣
「僕は異常ですか、あ、ありがとうございます。あー、
おいしい」
「裸婦のフォトをぺろぺろ舐めまわしながら一日に七
回も自慰をしているのはどう考えてやり過ぎで、みっ
ともないことですぞ。おまけに最後は裸婦のフォトを
食べてしまうというじゃありませんか。客観的に見て
自分が如何に無様か考えないといけませんぞ」
「そうですか。無様か・・考えたこともなかったな・
・いいな、この香り」
「わかりました。私にいい考えがあります。君を一流
大学に受からせるプロジェクトを立ち上げましょう」
三浪落第の千本木は驚いた。
「君は来週から私のマンションの一室にこもって朝八
時から、夕方五時まで勉強するのです。昼食は私が出
します。つまり仕事として勉強に励むのです。そして
夕方からは二時間本当の労働をしてもらいます。私の
マンションには子供の勉強をみてもらいたいという人
が何人かいます。君は一日の受験勉強が終わった後、
家庭教師としてその子たちを無償で教えるのです。私
は君を東大の優秀な学生といってウソをついて紹介し
ます。君はうしろめたい気持ちに耐えて東大生として
教えるのです。一切報酬はもらってはいけません。そ
してその労働の後、私は君に最高の報酬を与えましょ
う」
「え、最高の報酬？」
浪人は身を乗り出した。
「君が一番望んでいる女体を差し上げましょう。身体
を持て余している有閑夫人が私のマンションには何人
か若い男の身体を欲しがっています。君が下半身を緊
張させて待っていれば有閑女は泣いて喜ぶでしょう」
「やります。先生。そんなプロジェクトなら乗らない
はずはありません。先生、感動しました。やる気がめ
らめら湧いてきました。先生はやっぱりすごい。ただ
ものではないと思っていました」
「ただし、勉強する部屋には裸婦のフォトは持ち込ま
ぬこと。勉強中の自慰は禁じます。もしやってしまっ
た場合はその日の報酬はなしとします。部屋には机と
折りたたみ式のベッド以外何も置きません。昼間眠る
のも禁止します。もし勉強に行き詰ったら私のところ
に来なさい。アドバイスとカフェを差し上げましょう」
「先生は神様です。東大に絶対合格します。本物の東
大生に必ずなります」
翌週から若者の四浪目の生活が始まった。朝八時に
小路の経営するマンションの最上階の一室に入る。が
らんとした３ＬＤＫのフロアにマホガニーのシックな
机が置かれている。大変明るい部屋で、遠く富士が見
える。壁には小路が書いた「東大合格」の墨書と赤門
のカラーコピーの拡大版、そして天皇皇后両陛下のお
写真が貼られている。おまけにどこで調達したのか、
部屋の西には広目天、東は持国天、北は多門天、南は
増長天のいわゆる四天王の像が配置され、机に向かう
若者に睨みを利かせる格好になっている。これでは邪
なことは考えられない。かりに邪なことを考え、下半
身をいじるようなことをしたら、四天王に仕掛けられ
た監視カメラかセンサーが反応して電気ショックとか
不快な周波数の音で懲らしめられることにでもなって
いるのだろう。暇を持て余した小路先生ならそれくら
いのことはやりかねない。一人になると大抵女の身体
に空想を這わせていた若者もさすがに勉強に専心せざ
るをえなくなった。
勉強は異様にはかどった。昼になるとドアフォンが
鳴り、やけに色っぽいおばさんがサンドウィッチとオ
レンジジュースを持って立っていた。胸元が開いて乳
房の谷間がぎりぎりまで露出している。勉強に満たさ
れていた若者の頭の中にまた女体の誘惑がよみがえっ
た。
「小路先生からです。勉強はかどってる？ 一人エッ
チはしないこと」
せりふの棒読みのようなことを言って女は去ってい
った。
「先生は僕を試しているんだ」
四浪生は昼からまた猛然と勉強した。昼食後しばら
く眠気に襲われたが、夜の報酬のことを考えると目が
冴え渡った。参考書、問題集に向かう集中の中でいつ
しか陽は西に傾き、シルエットになった富士を背景に
茜色に染まった空を烏の群れが飛んでいった。
五時になると彼は勉強を切り上げ、指定された別棟
のマンションに行き、ドアフォンのベルを押した。出
てきたのはこれもまた妙に色気のある若すぎるくらい
の母親だった。
「千本木先生ですか。どうぞ」
応接室には少年とメタル眼鏡の神経質そうな父親が
待っていた。
「東京大学の千本木です」
小路に言われたようにウソを堂々と言う。突っ込ま
れたらどうするんだと思う。
「東大生の先生で、翔太、よかったわね。宅の主人も
東大出ですの。翔太も東大に行かせるつもりなんです
けど、この子は誰に似たのかちっとも勉強しないもの
ですから」
「お前に似たんだよ」
亭主がぶっきら棒に言う。
「千本木さん。私はね、この子には伸び伸びと育って
貰いたいんですよ。勉強なんて高校からで十分だと私
は思うんだが、うちのヤツがきいきいうるさく言って
この子はへそを曲げていると思うんですよ。一緒に遊
んでやってください。あなたのように苦労して大学に
入った人なら人間の幅もあるから、大丈夫だと思った
んですよ。東大でなくても早稲田でも慶応でもいいん
です」
「いえ、東大でなくてはだめです。東大以外は大学で
はありません。東大に行かせるためにこの子を産んだ
のですから、東大でなくてはだめなんです」
｢ お前のそういう狭い考え方がこいつの根性をねじま
げているんだよ。わからんのか｣
「お分かりにならないのはあなたでしょ。自分が東大
だからって、へんな理解者ぶるのはおよしなってくだ
さらない。東大じゃなければ私はだめなんですから」
｢ 海の燈台でも行ってろ｣
「なんですって」
「そんなに東大がよければ海の燈台守でもやってりゃ
いいんだ。ばか」
母親は顔を覆って泣き出した。翔太と呼ばれる子供は
ソファにもたれて鼻をほじっていた。大物かもしれな
い。
「すいません。千本木さん。じゃ一つ向こうの部屋で
お願いします。これをどうぞ」
父親が彼に封筒を差し出す。「御礼 千本木先生」
と書かれている。
「あ、これはいただけません。けっこうです」
「そういうわけにもいきませんよ」
「本当にいいのです。私は将来教職に就くつもりです。
勉強のつもりでこの仕事を引き受けました。むしろお
金を払いたいくらいなのです。全力で指導させて頂き
ます。必ず成績をあげてご覧にいれます」
これも小路に吹き込まれたせりふである。
しかし、父親の顔が驚きと敬意の入り混じったもの
に変貌していった。
「わかりました。あなたは今時珍しい青年だ。すばら
しい」
母親も涙で化粧が崩れパンダのようになった目で口
を開けてこちらを見ていた。
中学生の翔太は初め千本木に対して人見知りをして
いたが、すぐ慣れてくるとぞんざいな口の利き方をし
始めた。
「てかさ、先生、金もらっときなよ。カッコつけても
始まんないよ。世の中金じゃん」
「そうかな。そうかもしれないけど・・」
「なんか先生、東大生って感じじゃないね。浪人臭さ
が抜けきらないっツーカ」
千本木は狼狽した。大人は騙せても子供には見破られ
ているかもしれない。
「ま、オレは先生みたいなタイプ、嫌いじゃないけど
ね。油ぎってないっツーカ、草食系っツーカ」
「・・じゃ、勉強始めよっか」
「てかさ、いいよ先生。オレ勉強できるようになるか
らさ。わざと悪い点取ってんだよ。親たちへの反抗だ
よ。東大とかなんとか、ったくウザってぇんだよ。先
生のお蔭でできるようになったってことにするからさ。
こうやってくっちゃっべっていようよ、ね、先生」
それはあり得ることである。学校の受験体制に反発
してわざと白紙答案を出し続け、最下位の成績を維持
しながら、一浪して東大と早稲田に合格し、強いて東
大を蹴って早稲田に進学したツワモノの同級生がいた。
翔太もその類かもしれない。だとすれば千本木の存在
意義は何か。無報酬で家庭教師に出向き、実は初めか
ら優秀だった生徒を「指導」して成績を挙げたことに
なって、感謝される。どこにも実質はないではないか。
穴を掘って埋めるにも似た無駄な労働である。
「翔太君。君はまじめに勉強しなきゃいけないよ。正
直言おう。僕は実は東大生ではない。浪人している。
それも四浪目だ」
「えっ、マジ？ それってヤバくね？」
「マジやばいと思う。しかし、君の話を聞いて僕は正
直になろうと思った。君は自分の力をわざと出してい
ない。しかし、僕は自分の力をかなり出してもなかな
か大学に受からないんだよ。まだ力の出しようが足り
ないかもしれないけども、とにかく君とは違う。少な
くとも受験の時は全力を出している。しかし、受から
ない。君は不誠実じゃないか」
「てかさ、先生、その前に東大生とか言って、偽って
家庭教師なんかちゃっかりしている先生の方がよっぽ
ど不誠実なんじゃない」
さすがに賢い。
「ぼくはね、このマンションのオーナーをしている人
に頼まれてここに来たんだ。ウソをついたことは後ろ
めたかった。だから今正直にこうして打ち明けた。そ
れにそもそも無報酬だよ」
「でもうちの親が知ったらマジやばいっすよ。即解雇
っすよ」
「そうだろう。それでもかまわない。僕が言いたいの
は、君の生きる姿勢のことだ。親に反抗もいいだろう。
しかしね、人に労役を課されたら、逃げたり、反発す
るんじゃなくて、思いっきり引き受けて、要求された
倍くらいの働きをするつもりになれば、もうそれは強
制や服従を超えて主体的になっているんだよ。三時間
勉強しろと言われたら、六時間勉強して、期待された
倍くらいの成績を取っちゃうことだよ」
「へぇ、先生、なんかすごいね。浪人して苦労した人
は違うね」
「それは聖書にある考え方だけど、禅の教えにも随所
作主というのがあって、どんなところでも自分が主役、
主人公にならなくてはいけないんだよ。強制されたと
思ったら脇役になってるんだ。主役はそれを自分の血
や肉にしてしまうんだ。一切を引き受けて環境を支配
し、運命を変えてしまうのが、随所作主の生き方なん
だよ」
「へぇ、なんかよくわかんないけど、すごいよ。オレ
先生のことマジ気に入っちゃったよ。勉強がんばるよ。
キリストみたいだね」
実はこれは小路からの受け売りに過ぎなかった。勉
強から逃げようとする千本木を小路はよく説諭してく
れた。何度も聞かされた訓戒だった。
七時まで改心した翔太の勉強に付き合い、それから
母親がどうしてもいうので、夕食を共にした。翔太は
けっして千本木の本性を明かしたりしなかった。「い
い先生」と言い、「勉強がんばる」と親の前で誓って
くれた。
○ ○
「刺激です」
と、厚子は言う。
「先生でもいいですよ」
「いやいや私はゼロですから。そういうことはもう通
り過ぎている。ま、カフェでも煎れましょう」
「やった、嬉しい。・・でも、身体が求めているんで
すもの。なんとかならないかしら」
「娘を幼稚園に送り、友だちとお茶をして、ランチを
食べてワイドショーを見て娘と夕食を食べる。それが
生活というものです」
「もういやなんです。こんな単調な生活」
「じゃ、働けばよろしかろう。パートでも嘱託でも」
「それも面倒でいやなんです。若い男と恋がしたい。
小栗旬クンみたいな子と。燃えるだろうな」
「燃えますが火傷しますぞ」
「火傷はいやね。でも恋がしたい」
コーヒーの香ばしい匂いが部屋に満ちる。
「旦那さんはどうなるんです。単身赴任でまじめに働
いてる旦那さんは」
「何やってんだかわかりませんよ。向こうで羽伸ばし
てますよ、きっと。こちらはこちらで自由にやればい
いでしょ。なんとかして下さいよ、先生」
「そんなに言うんなら、手を打ってやってもよろしい
が、条件がありますぞ」
厚子は身を乗り出した。
「ま、どうぞ。あなたは娘さんを送ってから、このマ
ンションの独居老人を一軒ずつ訪ねるのです。そして
声をかけ、身の回りの世話を何かしてあげて下さい。
一時間は最低老人のお相手をしてやって下さい。もち
ろん老人が望まなければ、短く切り上げて下さい。私
の名前を言えば怪しまれません」
「ホントにおいしい。・・私にボランティアをやれと」
「そうです。そして娘さんを寝かしつけた後にあなた
にご褒美をさしあげましょう」
「ご褒美？」
「若いイケ面で身体を持て余したのがいます。あなた
はその男の部屋を訪ねれば、念願が叶います」
「本当ですか。乗りますよ。どうせ暇なんだから。友
だちとしゃべっているよりおもしろそうだし。いいこ
とするんですものね」
「そうです。確実に人の役に立つ仕事です。報酬は男
ですな」
「ああ、おいしい。先生のコーヒー最高。そして先生
も最高。なんか私、生きる喜びが湧いてきました。先
生、キスしていいですか」
厚子は小路に抱きついて唇を近づけてきたがもとよ
り小路は応じなかった。
翌日から厚子の新しい生活が始まった。生産性のな
いおしゃべりやワイドショーには訣別し、確実に人の
喜ぶ、役に立つ仕事に時間を費やす。報酬は金ではな
く、厚子が一番求めている若い男。小栗旬か韓流スタ
ーのようなかっこよくて正義感と純真な心をもった男。
こんないい話が他にあるものか。お金なんかより絶対
男だ、と厚子は久しぶりに心の高鳴りを感じて化粧も
念入りにした。午前と午後で二件ずつ小路の指定した
独居老人を訪ねる。小路の方から、話がしてあるらし
く、どの老人も厚子の来訪を喜んでくれた。
どの老人も話好きで、相手をしてくれる人に飢えて
いた。それが仕事なのだから親身になって聞いてあげ
る。
「どうも最近うちには泥棒が入るらしくって、せっか
くスーパーで買っておいた魚が冷蔵庫からなくなって
いたり、牛乳も飲まれているのよ。わたし気持ち悪く
ってお巡りさんに来てもらって調べてもらったんだけ
ど、鍵はきちんとかけてくださいね、また何かあった
ら来ますというくらいで、捜査もしてくれないのよ。
昨日も私がお昼寝していたら、ダイニングの方でガタ
ガタ音がしていたから私はふとんをかぶって震えてい
たのよ。そうかと思うとね、だれだかしらないけど、
勝手に入り込んできて、おうどんの玉をたくさん冷蔵
庫に入れていくのよ。もう気持ち悪くて気持ち悪くて、
あなた、ずっといてくださらない。あたし怖いのよ。
お金ならあげるから」
「白川さん。私は毎日来ますよ。すぐ近くに住んでい
ますから、電話頂ければすぐに飛んできますよ。お金
なんて要りません。ボランティアですから」
必要とされ、感謝される。こんなすがすがしい気持
ちは久しぶりだった。
二件目の訪問が済むと小路から携帯に電話があり、
ランチを届けてほしいという。最上階にエレベーター
で昇り、届けた部屋にいたのは小栗旬とイ・ビョンホ
ンを足して二で割ったような少し暗い感じのかなりの
若い男だった。後からそれが今夜の「ご褒美」だと知
らされた。厚子の身体の中で津波のような血潮がめぐ
り始めた。「あの子ならいい。あの子なら最高だ」
かわいいおばあちゃんばかりだと思っていたら、四
軒目のじいさんは曲者だった。元教師の大原というそ
の老人は目つきからしておかしかった。それは厚子を
欲望の対象とみる獣の目だった。厚子を迎えた玄関で
すでに老人のジャージの一部が盛り上がっていた。
「私はね、いたって元気なんだ。人の世話になんかな
らなくても大丈夫だぞ。せっかく来てくれたんなら、
仕様がない、肩でも揉んでもらうか」
おそらく揉むのは肩だけでは収まらないだろうと思
った。
ソファにうつ伏せで肩や腰を揉んでいたときは大人し
かったが、仰向けになったとき驚いたことに前が突起
して露出していた。薄目を開けて厚子の反応を見てい
る。
「これはいけませんよ。しまって置きましょうね」
しかし、すぐにまたはだける。年寄りのくせによく
もまあこれだけ突起させられるものだと感心する。
「おじいちゃん。私はそういうつもりはありませんか
ら。誤解されては困りますよ」
しかし、またはだけて、手を伸ばしてくる。振り払
う。すると起き上がって逃げる厚子の背中から抱きつ
いてくる。と、その時だった。玄関に人の気配がした。
足音がして遠慮もなく上がり込んでくる。
「あ、じじい。また女の人連れ込んで何やってんだ。
このエロじじい」
老人は甚だしく狼狽して、はだけた突起物をしまい
こんでいる。
「すいません。うちのエロじじいがまたご迷惑かけた
んじゃありませんか。しようがねぇな、じじい。年を
考えろよ。ったく」
「翔太。オレが連れ込んだんじゃないぞ。この人が頼
みもしないのに勝手に上がりこんできたんだ。あちこ
ち身体をさわられたのはオレなんだぞ」
「いいかげんなことを言うな。この人はボランティア
の人だろう。独居老人を訪ね歩いている親切な人だろ
う。大体いい年してエロいから駄目なんだよ。ママに
も変なこととして嫌われたじゃないか。人前では偉そ
うに教育講演なんかして、陰でだらしねぇエロじじい
じゃないか。オレ恥ずかしいよ。あんたの孫であるこ
とがマジ恥ずかしい」
老人は背中を向けて煙草をふかし始めた。
「翔太君っていうの。いいわよ。特に何かされたわけ
じゃないから。これくらいのことはよくあることよ」
「おばさん。よくないよ。もしオレが来なければこの
エロじじいどこまで付け上がっていたかわかんないよ。
警察へ届けよう」
厚子は驚いたが、それよりも「おばさん」と言われ
たことがかなりの打撃だった。今夜のイ・ビョンホン
も自分をおばさんと思うのだろうか。化粧を厚くし、
部屋の灯かりを落とさなければならない。
「もういいのよ。今日はもう帰るね。大原さん、失礼
しますね」
老人は背中を向けたままだった。
娘と食事を済ませると、一緒にテレビを見た。時計
に時々目をやった。いつも通りできのよい娘は八時を
過ぎると眠ってしまう。ベッドに寝かしつけ、「ごめ
んね」となぜか謝り、部屋を出た。
○ ○
家庭教師を終えた千本木は午後八時前に部屋に戻り、
シャワーを浴びて、高鳴る鼓動を抑えながら、お相手
の来訪を待った。緊張で身体が震えた。性欲も何もな
かった。下半身も萎えていた。まともに相手をするこ
とができるかさえ危ぶまれた。ドアフォンが鳴って、
応じると昼食を運んできた女が映った。周囲を気にす
るようにして立っている。
玄関でいきなり、唇を吸われ、そのままベッドまで
引きずられていった。嵐、津波、土石流、こういう形
容がぴったりするめくるめく悦楽の極致の断続する二
時間だった。女は事が済むと微笑を残して去っていっ
た。
千本木は興奮と疲労の中で今日一日振り返りこんな
充実した日は今までになかったと思った。これが毎日
続くことになる。自分は確実に東大に合格するだろう
と思った。
○ ○
千本木青年は小路の考えたプロジェクトに律儀に従
い学力を飛躍的に高めていった。いつの間にか勉強は
趣味にも似た快楽となっていた。模試の判定も東大文
ⅠＡ判定が出た。そして勉強に励むうちにいつしか過
剰な性欲は失われ、「報酬」も辞退することが多くな
った。家庭教師先の生徒翔太も素直に勉学に励み、両
親を満足させている。翔太の成績が突然上向きになっ
たことはマンション中の評判になり、うちの子も教え
て貰いたいと千本木先生は順番待ちの状態である。
一方厚子有閑夫人は、独居老人を訪問するボランテ
ィアに生き甲斐と誇りすら感じるようになり、老人の
方も厚子の来訪を心待ちにしている。翔太の祖父大原
もその後幾度か訪ねたが、おかしな真似はしなくなっ
た。それは厚子の淫な心が大原老人をして魔を差さし
めたのだろうと厚子は分析した。娘の教育にも熱心に
なり、「ご褒美」をキャンセルすることが目立ってき
た。大事な娘をおいて遊んでいていいのだろうかとい
う罪悪感がもともとあったし、千本木青年に飽きたと
いうわけではないのだが、以前ほど狂おしい感情は起
こらなくなっていた。娘や老人たちのことを考えるこ
とのほうが多くなった。夫とも電話で連絡をとること
が多くなった。
小路の働きで二人の悩めるマンション住人は健全な
人間に改造されつつある。しかし小路はそれを意識し
ているわけではない。風が吹いて雲が行き、水が低き
に流れるのと同じことで、今日も客にカフェを煎れて
いる。
（了）
大堀敏靖
小路雄馬は四十を過ぎても独身で、飄々と生きてい
る。働いている風でもなく、かといって道楽に耽って
親の財産を食いつぶしているわけでもない。彼には働
かないでも生活していけるだけの資産がある。マンシ
ョンを五棟、広大な駐車場を所有し、百台ほどの車が
契約を結んでいる。大抵の資産家なら「いやその維持
管理がなかなか大変でしてな」などというが小路雄馬
はそんなことは言わない。「ゼロ。働かずして天地の
広大な恩を受け、生くるのみ」などと意味のよくわか
らないことを嘯いている。
会社勤めのストレス人間にはまったくうらやましい
境遇で、そんな生活を一年でも送れたらどんなにかい
いだろうと思う。しかし、そんなことは努力しても叶
うわけではなく、それは先祖が余程徳を積んで子孫が
その恩恵を享受しているか、その人自身の前世が余程
有徳の人であったかいずれかであろう。しかし、意外
とそんな生活は退屈極まりなく、普通人には一週間と
耐えられない牢獄のような生活かもしれない。小路は
「日々是好日」と言う。
小路のところには毎日入れ替わり立ち代りさまざま
な人々が訪ねてくる。もちろん誰も訪ねてこない日も
ある。それでもさびしいなどとは思わない。朝は畑仕
事をし、午前中はなにやら書き物をして、昼からはＤ
ＶＤで洋画を見て過ごす。邦画を見ることもある。落
語を聴くこともよくある。夜になると、春は田んぼの
蛙の鳴き声、秋は虫の集きを聞いて楽しむ。テレビは
気分が散漫になるのでめったに見ない。コーヒーを煎
れて、ＮＨＫのラジオを聴いて九時には床に就く。マ
ンションの管理は業者に任せてある。地代家賃が毎月
数百万円入ってくる。自分では生活費以外めったに使
わないので、金は溜まる一方で、災害があると大抵匿
名で百万円くらい寄付している。そういう陰徳を積ん
でいるので、金はますますこういう人に吸い寄せられ
るように集まってくる。
今日は三年連続で大学受験に失敗した、かねてから
小路のところに出入りしている千本木という若者が訪
ねてきた。さすがに弱った顔をしている。
「また駄目でしたか」
「先生教えて下さい。僕は大学というところへは行け
ない人間なのですか」
「そんなことはない。君は有名な一流大学ばかり受験
し、それでろくに勉強もせず、女性の尻ばかり追い掛
け回しているからいつまで経っても受からないのです。
本当に行きたければまじめに勉強に専念することです
な。ま、カフェでも飲みましょう」
例によって小路は手ずから豆を挽いてよい香りを室
内に漂わせながらコーヒーを出して客をもてなす。客
にとってはこれが一番の目当ての者もいれば、まず小
路の牧歌的風情に癒しを求めて二番目にコーヒーを楽
しむという者もある。いずれにしても小路の煎れるコ
ーヒーは客にとって重要なのである。
「君の頭の中は女体のことで満ちているでしょう。勉
強のことなんぞ、百分の一も占めていない。私にはよ
くわかります。その助平な心をそのままに一流大学に
合格しようという根性がそもそも間違っているのです
そうは思いませんか」
「まったくその通りです、先生。返す言葉もありませ
ん」
｢ 若いころは大抵そんなものですが、君はちょっと度
が過ぎている。色欲の霊に憑かれているようですから
お祓いを一度してもらうといい｣
「僕は異常ですか、あ、ありがとうございます。あー、
おいしい」
「裸婦のフォトをぺろぺろ舐めまわしながら一日に七
回も自慰をしているのはどう考えてやり過ぎで、みっ
ともないことですぞ。おまけに最後は裸婦のフォトを
食べてしまうというじゃありませんか。客観的に見て
自分が如何に無様か考えないといけませんぞ」
「そうですか。無様か・・考えたこともなかったな・
・いいな、この香り」
「わかりました。私にいい考えがあります。君を一流
大学に受からせるプロジェクトを立ち上げましょう」
三浪落第の千本木は驚いた。
「君は来週から私のマンションの一室にこもって朝八
時から、夕方五時まで勉強するのです。昼食は私が出
します。つまり仕事として勉強に励むのです。そして
夕方からは二時間本当の労働をしてもらいます。私の
マンションには子供の勉強をみてもらいたいという人
が何人かいます。君は一日の受験勉強が終わった後、
家庭教師としてその子たちを無償で教えるのです。私
は君を東大の優秀な学生といってウソをついて紹介し
ます。君はうしろめたい気持ちに耐えて東大生として
教えるのです。一切報酬はもらってはいけません。そ
してその労働の後、私は君に最高の報酬を与えましょ
う」
「え、最高の報酬？」
浪人は身を乗り出した。
「君が一番望んでいる女体を差し上げましょう。身体
を持て余している有閑夫人が私のマンションには何人
か若い男の身体を欲しがっています。君が下半身を緊
張させて待っていれば有閑女は泣いて喜ぶでしょう」
「やります。先生。そんなプロジェクトなら乗らない
はずはありません。先生、感動しました。やる気がめ
らめら湧いてきました。先生はやっぱりすごい。ただ
ものではないと思っていました」
「ただし、勉強する部屋には裸婦のフォトは持ち込ま
ぬこと。勉強中の自慰は禁じます。もしやってしまっ
た場合はその日の報酬はなしとします。部屋には机と
折りたたみ式のベッド以外何も置きません。昼間眠る
のも禁止します。もし勉強に行き詰ったら私のところ
に来なさい。アドバイスとカフェを差し上げましょう」
「先生は神様です。東大に絶対合格します。本物の東
大生に必ずなります」
翌週から若者の四浪目の生活が始まった。朝八時に
小路の経営するマンションの最上階の一室に入る。が
らんとした３ＬＤＫのフロアにマホガニーのシックな
机が置かれている。大変明るい部屋で、遠く富士が見
える。壁には小路が書いた「東大合格」の墨書と赤門
のカラーコピーの拡大版、そして天皇皇后両陛下のお
写真が貼られている。おまけにどこで調達したのか、
部屋の西には広目天、東は持国天、北は多門天、南は
増長天のいわゆる四天王の像が配置され、机に向かう
若者に睨みを利かせる格好になっている。これでは邪
なことは考えられない。かりに邪なことを考え、下半
身をいじるようなことをしたら、四天王に仕掛けられ
た監視カメラかセンサーが反応して電気ショックとか
不快な周波数の音で懲らしめられることにでもなって
いるのだろう。暇を持て余した小路先生ならそれくら
いのことはやりかねない。一人になると大抵女の身体
に空想を這わせていた若者もさすがに勉強に専心せざ
るをえなくなった。
勉強は異様にはかどった。昼になるとドアフォンが
鳴り、やけに色っぽいおばさんがサンドウィッチとオ
レンジジュースを持って立っていた。胸元が開いて乳
房の谷間がぎりぎりまで露出している。勉強に満たさ
れていた若者の頭の中にまた女体の誘惑がよみがえっ
た。
「小路先生からです。勉強はかどってる？ 一人エッ
チはしないこと」
せりふの棒読みのようなことを言って女は去ってい
った。
「先生は僕を試しているんだ」
四浪生は昼からまた猛然と勉強した。昼食後しばら
く眠気に襲われたが、夜の報酬のことを考えると目が
冴え渡った。参考書、問題集に向かう集中の中でいつ
しか陽は西に傾き、シルエットになった富士を背景に
茜色に染まった空を烏の群れが飛んでいった。
五時になると彼は勉強を切り上げ、指定された別棟
のマンションに行き、ドアフォンのベルを押した。出
てきたのはこれもまた妙に色気のある若すぎるくらい
の母親だった。
「千本木先生ですか。どうぞ」
応接室には少年とメタル眼鏡の神経質そうな父親が
待っていた。
「東京大学の千本木です」
小路に言われたようにウソを堂々と言う。突っ込ま
れたらどうするんだと思う。
「東大生の先生で、翔太、よかったわね。宅の主人も
東大出ですの。翔太も東大に行かせるつもりなんです
けど、この子は誰に似たのかちっとも勉強しないもの
ですから」
「お前に似たんだよ」
亭主がぶっきら棒に言う。
「千本木さん。私はね、この子には伸び伸びと育って
貰いたいんですよ。勉強なんて高校からで十分だと私
は思うんだが、うちのヤツがきいきいうるさく言って
この子はへそを曲げていると思うんですよ。一緒に遊
んでやってください。あなたのように苦労して大学に
入った人なら人間の幅もあるから、大丈夫だと思った
んですよ。東大でなくても早稲田でも慶応でもいいん
です」
「いえ、東大でなくてはだめです。東大以外は大学で
はありません。東大に行かせるためにこの子を産んだ
のですから、東大でなくてはだめなんです」
｢ お前のそういう狭い考え方がこいつの根性をねじま
げているんだよ。わからんのか｣
「お分かりにならないのはあなたでしょ。自分が東大
だからって、へんな理解者ぶるのはおよしなってくだ
さらない。東大じゃなければ私はだめなんですから」
｢ 海の燈台でも行ってろ｣
「なんですって」
「そんなに東大がよければ海の燈台守でもやってりゃ
いいんだ。ばか」
母親は顔を覆って泣き出した。翔太と呼ばれる子供は
ソファにもたれて鼻をほじっていた。大物かもしれな
い。
「すいません。千本木さん。じゃ一つ向こうの部屋で
お願いします。これをどうぞ」
父親が彼に封筒を差し出す。「御礼 千本木先生」
と書かれている。
「あ、これはいただけません。けっこうです」
「そういうわけにもいきませんよ」
「本当にいいのです。私は将来教職に就くつもりです。
勉強のつもりでこの仕事を引き受けました。むしろお
金を払いたいくらいなのです。全力で指導させて頂き
ます。必ず成績をあげてご覧にいれます」
これも小路に吹き込まれたせりふである。
しかし、父親の顔が驚きと敬意の入り混じったもの
に変貌していった。
「わかりました。あなたは今時珍しい青年だ。すばら
しい」
母親も涙で化粧が崩れパンダのようになった目で口
を開けてこちらを見ていた。
中学生の翔太は初め千本木に対して人見知りをして
いたが、すぐ慣れてくるとぞんざいな口の利き方をし
始めた。
「てかさ、先生、金もらっときなよ。カッコつけても
始まんないよ。世の中金じゃん」
「そうかな。そうかもしれないけど・・」
「なんか先生、東大生って感じじゃないね。浪人臭さ
が抜けきらないっツーカ」
千本木は狼狽した。大人は騙せても子供には見破られ
ているかもしれない。
「ま、オレは先生みたいなタイプ、嫌いじゃないけど
ね。油ぎってないっツーカ、草食系っツーカ」
「・・じゃ、勉強始めよっか」
「てかさ、いいよ先生。オレ勉強できるようになるか
らさ。わざと悪い点取ってんだよ。親たちへの反抗だ
よ。東大とかなんとか、ったくウザってぇんだよ。先
生のお蔭でできるようになったってことにするからさ。
こうやってくっちゃっべっていようよ、ね、先生」
それはあり得ることである。学校の受験体制に反発
してわざと白紙答案を出し続け、最下位の成績を維持
しながら、一浪して東大と早稲田に合格し、強いて東
大を蹴って早稲田に進学したツワモノの同級生がいた。
翔太もその類かもしれない。だとすれば千本木の存在
意義は何か。無報酬で家庭教師に出向き、実は初めか
ら優秀だった生徒を「指導」して成績を挙げたことに
なって、感謝される。どこにも実質はないではないか。
穴を掘って埋めるにも似た無駄な労働である。
「翔太君。君はまじめに勉強しなきゃいけないよ。正
直言おう。僕は実は東大生ではない。浪人している。
それも四浪目だ」
「えっ、マジ？ それってヤバくね？」
「マジやばいと思う。しかし、君の話を聞いて僕は正
直になろうと思った。君は自分の力をわざと出してい
ない。しかし、僕は自分の力をかなり出してもなかな
か大学に受からないんだよ。まだ力の出しようが足り
ないかもしれないけども、とにかく君とは違う。少な
くとも受験の時は全力を出している。しかし、受から
ない。君は不誠実じゃないか」
「てかさ、先生、その前に東大生とか言って、偽って
家庭教師なんかちゃっかりしている先生の方がよっぽ
ど不誠実なんじゃない」
さすがに賢い。
「ぼくはね、このマンションのオーナーをしている人
に頼まれてここに来たんだ。ウソをついたことは後ろ
めたかった。だから今正直にこうして打ち明けた。そ
れにそもそも無報酬だよ」
「でもうちの親が知ったらマジやばいっすよ。即解雇
っすよ」
「そうだろう。それでもかまわない。僕が言いたいの
は、君の生きる姿勢のことだ。親に反抗もいいだろう。
しかしね、人に労役を課されたら、逃げたり、反発す
るんじゃなくて、思いっきり引き受けて、要求された
倍くらいの働きをするつもりになれば、もうそれは強
制や服従を超えて主体的になっているんだよ。三時間
勉強しろと言われたら、六時間勉強して、期待された
倍くらいの成績を取っちゃうことだよ」
「へぇ、先生、なんかすごいね。浪人して苦労した人
は違うね」
「それは聖書にある考え方だけど、禅の教えにも随所
作主というのがあって、どんなところでも自分が主役、
主人公にならなくてはいけないんだよ。強制されたと
思ったら脇役になってるんだ。主役はそれを自分の血
や肉にしてしまうんだ。一切を引き受けて環境を支配
し、運命を変えてしまうのが、随所作主の生き方なん
だよ」
「へぇ、なんかよくわかんないけど、すごいよ。オレ
先生のことマジ気に入っちゃったよ。勉強がんばるよ。
キリストみたいだね」
実はこれは小路からの受け売りに過ぎなかった。勉
強から逃げようとする千本木を小路はよく説諭してく
れた。何度も聞かされた訓戒だった。
七時まで改心した翔太の勉強に付き合い、それから
母親がどうしてもいうので、夕食を共にした。翔太は
けっして千本木の本性を明かしたりしなかった。「い
い先生」と言い、「勉強がんばる」と親の前で誓って
くれた。
○ ○
「刺激です」
と、厚子は言う。
「先生でもいいですよ」
「いやいや私はゼロですから。そういうことはもう通
り過ぎている。ま、カフェでも煎れましょう」
「やった、嬉しい。・・でも、身体が求めているんで
すもの。なんとかならないかしら」
「娘を幼稚園に送り、友だちとお茶をして、ランチを
食べてワイドショーを見て娘と夕食を食べる。それが
生活というものです」
「もういやなんです。こんな単調な生活」
「じゃ、働けばよろしかろう。パートでも嘱託でも」
「それも面倒でいやなんです。若い男と恋がしたい。
小栗旬クンみたいな子と。燃えるだろうな」
「燃えますが火傷しますぞ」
「火傷はいやね。でも恋がしたい」
コーヒーの香ばしい匂いが部屋に満ちる。
「旦那さんはどうなるんです。単身赴任でまじめに働
いてる旦那さんは」
「何やってんだかわかりませんよ。向こうで羽伸ばし
てますよ、きっと。こちらはこちらで自由にやればい
いでしょ。なんとかして下さいよ、先生」
「そんなに言うんなら、手を打ってやってもよろしい
が、条件がありますぞ」
厚子は身を乗り出した。
「ま、どうぞ。あなたは娘さんを送ってから、このマ
ンションの独居老人を一軒ずつ訪ねるのです。そして
声をかけ、身の回りの世話を何かしてあげて下さい。
一時間は最低老人のお相手をしてやって下さい。もち
ろん老人が望まなければ、短く切り上げて下さい。私
の名前を言えば怪しまれません」
「ホントにおいしい。・・私にボランティアをやれと」
「そうです。そして娘さんを寝かしつけた後にあなた
にご褒美をさしあげましょう」
「ご褒美？」
「若いイケ面で身体を持て余したのがいます。あなた
はその男の部屋を訪ねれば、念願が叶います」
「本当ですか。乗りますよ。どうせ暇なんだから。友
だちとしゃべっているよりおもしろそうだし。いいこ
とするんですものね」
「そうです。確実に人の役に立つ仕事です。報酬は男
ですな」
「ああ、おいしい。先生のコーヒー最高。そして先生
も最高。なんか私、生きる喜びが湧いてきました。先
生、キスしていいですか」
厚子は小路に抱きついて唇を近づけてきたがもとよ
り小路は応じなかった。
翌日から厚子の新しい生活が始まった。生産性のな
いおしゃべりやワイドショーには訣別し、確実に人の
喜ぶ、役に立つ仕事に時間を費やす。報酬は金ではな
く、厚子が一番求めている若い男。小栗旬か韓流スタ
ーのようなかっこよくて正義感と純真な心をもった男。
こんないい話が他にあるものか。お金なんかより絶対
男だ、と厚子は久しぶりに心の高鳴りを感じて化粧も
念入りにした。午前と午後で二件ずつ小路の指定した
独居老人を訪ねる。小路の方から、話がしてあるらし
く、どの老人も厚子の来訪を喜んでくれた。
どの老人も話好きで、相手をしてくれる人に飢えて
いた。それが仕事なのだから親身になって聞いてあげ
る。
「どうも最近うちには泥棒が入るらしくって、せっか
くスーパーで買っておいた魚が冷蔵庫からなくなって
いたり、牛乳も飲まれているのよ。わたし気持ち悪く
ってお巡りさんに来てもらって調べてもらったんだけ
ど、鍵はきちんとかけてくださいね、また何かあった
ら来ますというくらいで、捜査もしてくれないのよ。
昨日も私がお昼寝していたら、ダイニングの方でガタ
ガタ音がしていたから私はふとんをかぶって震えてい
たのよ。そうかと思うとね、だれだかしらないけど、
勝手に入り込んできて、おうどんの玉をたくさん冷蔵
庫に入れていくのよ。もう気持ち悪くて気持ち悪くて、
あなた、ずっといてくださらない。あたし怖いのよ。
お金ならあげるから」
「白川さん。私は毎日来ますよ。すぐ近くに住んでい
ますから、電話頂ければすぐに飛んできますよ。お金
なんて要りません。ボランティアですから」
必要とされ、感謝される。こんなすがすがしい気持
ちは久しぶりだった。
二件目の訪問が済むと小路から携帯に電話があり、
ランチを届けてほしいという。最上階にエレベーター
で昇り、届けた部屋にいたのは小栗旬とイ・ビョンホ
ンを足して二で割ったような少し暗い感じのかなりの
若い男だった。後からそれが今夜の「ご褒美」だと知
らされた。厚子の身体の中で津波のような血潮がめぐ
り始めた。「あの子ならいい。あの子なら最高だ」
かわいいおばあちゃんばかりだと思っていたら、四
軒目のじいさんは曲者だった。元教師の大原というそ
の老人は目つきからしておかしかった。それは厚子を
欲望の対象とみる獣の目だった。厚子を迎えた玄関で
すでに老人のジャージの一部が盛り上がっていた。
「私はね、いたって元気なんだ。人の世話になんかな
らなくても大丈夫だぞ。せっかく来てくれたんなら、
仕様がない、肩でも揉んでもらうか」
おそらく揉むのは肩だけでは収まらないだろうと思
った。
ソファにうつ伏せで肩や腰を揉んでいたときは大人し
かったが、仰向けになったとき驚いたことに前が突起
して露出していた。薄目を開けて厚子の反応を見てい
る。
「これはいけませんよ。しまって置きましょうね」
しかし、すぐにまたはだける。年寄りのくせによく
もまあこれだけ突起させられるものだと感心する。
「おじいちゃん。私はそういうつもりはありませんか
ら。誤解されては困りますよ」
しかし、またはだけて、手を伸ばしてくる。振り払
う。すると起き上がって逃げる厚子の背中から抱きつ
いてくる。と、その時だった。玄関に人の気配がした。
足音がして遠慮もなく上がり込んでくる。
「あ、じじい。また女の人連れ込んで何やってんだ。
このエロじじい」
老人は甚だしく狼狽して、はだけた突起物をしまい
こんでいる。
「すいません。うちのエロじじいがまたご迷惑かけた
んじゃありませんか。しようがねぇな、じじい。年を
考えろよ。ったく」
「翔太。オレが連れ込んだんじゃないぞ。この人が頼
みもしないのに勝手に上がりこんできたんだ。あちこ
ち身体をさわられたのはオレなんだぞ」
「いいかげんなことを言うな。この人はボランティア
の人だろう。独居老人を訪ね歩いている親切な人だろ
う。大体いい年してエロいから駄目なんだよ。ママに
も変なこととして嫌われたじゃないか。人前では偉そ
うに教育講演なんかして、陰でだらしねぇエロじじい
じゃないか。オレ恥ずかしいよ。あんたの孫であるこ
とがマジ恥ずかしい」
老人は背中を向けて煙草をふかし始めた。
「翔太君っていうの。いいわよ。特に何かされたわけ
じゃないから。これくらいのことはよくあることよ」
「おばさん。よくないよ。もしオレが来なければこの
エロじじいどこまで付け上がっていたかわかんないよ。
警察へ届けよう」
厚子は驚いたが、それよりも「おばさん」と言われ
たことがかなりの打撃だった。今夜のイ・ビョンホン
も自分をおばさんと思うのだろうか。化粧を厚くし、
部屋の灯かりを落とさなければならない。
「もういいのよ。今日はもう帰るね。大原さん、失礼
しますね」
老人は背中を向けたままだった。
娘と食事を済ませると、一緒にテレビを見た。時計
に時々目をやった。いつも通りできのよい娘は八時を
過ぎると眠ってしまう。ベッドに寝かしつけ、「ごめ
んね」となぜか謝り、部屋を出た。
○ ○
家庭教師を終えた千本木は午後八時前に部屋に戻り、
シャワーを浴びて、高鳴る鼓動を抑えながら、お相手
の来訪を待った。緊張で身体が震えた。性欲も何もな
かった。下半身も萎えていた。まともに相手をするこ
とができるかさえ危ぶまれた。ドアフォンが鳴って、
応じると昼食を運んできた女が映った。周囲を気にす
るようにして立っている。
玄関でいきなり、唇を吸われ、そのままベッドまで
引きずられていった。嵐、津波、土石流、こういう形
容がぴったりするめくるめく悦楽の極致の断続する二
時間だった。女は事が済むと微笑を残して去っていっ
た。
千本木は興奮と疲労の中で今日一日振り返りこんな
充実した日は今までになかったと思った。これが毎日
続くことになる。自分は確実に東大に合格するだろう
と思った。
○ ○
千本木青年は小路の考えたプロジェクトに律儀に従
い学力を飛躍的に高めていった。いつの間にか勉強は
趣味にも似た快楽となっていた。模試の判定も東大文
ⅠＡ判定が出た。そして勉強に励むうちにいつしか過
剰な性欲は失われ、「報酬」も辞退することが多くな
った。家庭教師先の生徒翔太も素直に勉学に励み、両
親を満足させている。翔太の成績が突然上向きになっ
たことはマンション中の評判になり、うちの子も教え
て貰いたいと千本木先生は順番待ちの状態である。
一方厚子有閑夫人は、独居老人を訪問するボランテ
ィアに生き甲斐と誇りすら感じるようになり、老人の
方も厚子の来訪を心待ちにしている。翔太の祖父大原
もその後幾度か訪ねたが、おかしな真似はしなくなっ
た。それは厚子の淫な心が大原老人をして魔を差さし
めたのだろうと厚子は分析した。娘の教育にも熱心に
なり、「ご褒美」をキャンセルすることが目立ってき
た。大事な娘をおいて遊んでいていいのだろうかとい
う罪悪感がもともとあったし、千本木青年に飽きたと
いうわけではないのだが、以前ほど狂おしい感情は起
こらなくなっていた。娘や老人たちのことを考えるこ
とのほうが多くなった。夫とも電話で連絡をとること
が多くなった。
小路の働きで二人の悩めるマンション住人は健全な
人間に改造されつつある。しかし小路はそれを意識し
ているわけではない。風が吹いて雲が行き、水が低き
に流れるのと同じことで、今日も客にカフェを煎れて
いる。
（了）
文芸誌「群系」 第２３号 ２００９年夏 掲載
［原稿用紙２９枚］