大堀敏靖
一 酒
酒の飲めない私が、酒について何も語ることもないの
だが、酒にまつわる幾つかのエピソードはこれで持って
いる。学生時代の「コンパ」には、随分苦しめられた。
酒の好きな人には享楽であろう。しかし、飲めない人間、
また人付き合いの苦手な人間には地獄である。何のため
に会費まで払って地獄を味わわねばならないのか。人間
社会の矛盾に私は苦しんだものだった。
しかし、今はどうかというと相変わらず飲めないが、
酒と和解して、全く苦しめられることはない。誰も私に
は強要しない。道交法が改正されて、飲酒運転に大変厳
しい罰則が課せられることになり、ますます下戸には順
風が吹いている。ただ、飲まないために、車の運転手を
仰せつかることになり、それは損な役割だ。
知人の話によると何でも人間は酒を分解する機能を持
つ玉──多分男子の睾丸のようなものだろう──を二つ
持った人と一つ持った人、全く持たない人の三タイプに
分類されるらしい。
知人の話によると何でも人間は酒を分解する機能を持
つ玉──多分男子の睾丸のようなものだろう──を二つ
持った人と一つ持った人、全く持たない人の三タイプに
分類されるらしい。春になると急性アルコール中毒の事
故が相次ぎ、最近では判定をしてもらって、酒を断る主
張が医学的に堂々とできるらしい。昔はそんなものなか
った。私は確実に「全く持たないタイプ」である。「二
つ持つタイプ」の人は底なしに飲めて顔にも出ない。「
一つ持つタイプ」の人は、ある程度飲めるが顔が紅潮し
たり、眠くなったりして限界がある。「まったく持たな
い」私のようなタイプは少しでもアルコールが身体に入
ると忽ち異変を生ずる。心臓が早鐘のように打つ。顔面
が充血して一・五倍くらいに膨れ上がる。そして吐き気
がして吐く。
あれは大学一年のサークルの「追い出しコンパ」の時
だった。つがれたビールに口だけつけて、何とかその場
を取り繕って、一刻も早い閉会をただひたすら念じてい
た私だったが、宴たけなわにして、九州出身の二人の先
輩に呼びつけられた。
「おーい、大堀。ちょっと来んしゃい」
上座の方にＴとＳという硬派を絵に描いたような九州
男がニヤニヤしながら手招きしている。Ｔはやたらと人
を撲ることでよく知られていた。「朝起こしてくれ」と
後輩に頼んでおいて後輩が言われた通り「Ｔさん、Ｔさ
ん、朝ですよ」と起こしに行くと「起こし方に優しさが
ナイ」という理由で後輩は撲られた。酒宴の終わりには
校歌を歌うが、酔ってふざけていた後輩を見つけては片
っ端から拳で撲り倒していく現場を私も見た。何と恐ろ
しい男だろう──と戦慄したものだった。
そして今一人のＳも同じく九州男児を絵に描いたよう
な野蛮な風貌をしていた。文化とは反対の位置にある男
で東京にいること自体が場違いだった。この男は酒宴の
席でよくテーブルをひっくり返した。後輩たちは何で怒
られるかも分からず、撲られた。熱烈な愛国主義者で、
共産党の学生たちが、君が代を侮辱する講演会を開催し。
たのに憤慨して、後輩たちを引き連れて会場に乱入した
垂れ幕を引きちぎり、逃げまどう共産党の学生たちを会
場外まで追いかけてゆき、どぶ川まで追いつめて、川の
中に突き落とした。軟派を絵にしたような長髪の共産党
の学生たちは突然の野蛮人の襲撃に全員泣き叫んでいた。
また、Ｓは相当に酔って早稲田通りを歩いていた時に、
突然片方の視界がぼやけた。コンタクトレンズが外れた
のだった。高額のコンタクトだった。Ｓは通行人を止め、
「コンタクトが外れました。ご協力ください」と演説す
ると、道行くサラリーマンや女子学生七、八人が歩道に
はいつくばってコンタクトを捜した。
「あ、ありました！」女子学生が叫ぶと、Ｓは人目も憚
らず女子学生に抱きついた。
「どうも、ご協力ありがとうございましたッ」と一同に
礼を言い、高田馬場駅までたどりつくと正体を失ってし
まった。気がつくと駅員室におり、何故か布団が敷いて
あったので、自分のために用意してもらったものと思い、
そこで朝まで寝た。
こういう話を聞かされていた私は「おーい」と呼ばれ
てもはや観念するしかなかった。拒めば、彼らの顔は曇
り、鉄拳が見舞ってくるだろう。
私は二人の前に正座した。Ｔがコップをテーブルの上
に置き、Ｓが日本酒をなみなみとついだ。Ｔが言った。
「うまか酒ばい。どうね」
この見た目、水と変わらない液体を喉の奥に流し込み
さえすればこの場から逃れられる。それだけのことでは
ないか。私は考えることを放棄して一気に火のような液
体を口中に流し込んだ。
「おお。まあまあじゃな」
二人はそんなことを言って相変わらずニヤニヤしたま
ま私を解放してくれた。
二人は知るまい。それから私は明け方まで地獄を彷徨
い、血の池、針の山、奪衣婆、火あぶり、火の車、竜の
口、さいの河原を転々としたことを。胃の中の食物を吐
けるうちはよかった。もはや胃液しか吐けなくなっても
吐き続け、最後は血のかたまりをべっとりと吐いた。こ
こで自分は二一年の短い生涯を終えるのかと思い、野蛮
な九州男二人のニヤニヤした顔が浮かんでは次第にかす
んでいった。──
気がつくと昼だった。助かったと思った。もう酒は飲
まない。絶対飲まない。無理やり口に押し込まれても、
春日局が薬を拒んだように口から垂れ流せばいいんだ。
撲られても絶対飲まないぞと心に誓った。
それからもクラス・コンパや同県人の集まり（稲門会
といった）に出たが、こういう集まりには何の得るもの
はないことがわかった。
酒宴後に大隈講堂の前に連れていかれ、円陣を作る。
学生服の男が一升瓶を掲げて叫ぶ。
「酒が飲めんで早稲田と言えるか！」
「そうだ！」
と、他の者が口々に同調する。しかし、私は同調しない
酒が飲めんでも早稲田だ。だれがそんなことを決めたの
だ。確か日露戦争の英雄、日本海会戦でバルチック艦隊
に完全勝利を果たした東郷元帥も「酒が飲めんで男が務
まるか」と部下に言っていたらしい。私は東郷元帥は立
派な将軍として尊敬するが、その一点だけは納得できな
い。酒が飲めなくても立派な歴史上の人物はたくさんい
たのだ。
例えば、幕末維新の英雄西郷隆盛、そして彼と談判し
て江戸無血開城に導いた幕臣勝海舟、長州の英傑を多数
輩出した吉田松陰、皆「げこ」だった。明治から大正、
昭和にかけて大アジア主義を唱えた右翼の巨頭玄洋社の
頭山満も意外なことに酒が飲めず、チョコレートが大好
きだった。それから東映やくざ映画の一時代を画し、今
も国民的かつ国際的スターである高倉健さんも酒は一滴
も飲めず、毎日コーヒーを五・六十杯飲んでいる。「傷
だらけの天使」でショーケンと共演し独特のキャラクタ
ーが受けた水谷豊も酒は飲めない。時代を逆上ればあの
戦国の風雲児織田信長も酒がダメだったらしい。
これだけの歴史上、銀幕上のスターたちが飲めないの
だ。私が飲めなくたっていいじゃないか。酒が飲めなく
ても早稲田であり、男であり得る。文句あるか。
最近では、前述した通り、「げこ」は医学的見地から
市民権を得ており、昔のように人非人のような扱いを受
けることはなくなった。いいことだと思う。
今の私は酒が飲めないことを残念に思うことが時々あ
る。「ヤケ酒」が飲めない。こういう時酒を飲めば気が
紛れるんだろうなと思うときがある。「ヤケ烏龍茶」「
ヤケコーヒー」「ヤケ牛乳」を飲んでも腹がタポつくだ
けだろう。しかし、「ヤケ喰い」はできる。廻転寿司の
店に入って片っ端から皿を取って平らげていく。むこう
が見えなくなるくらい皿を積めば少しは気も紛れるかし
れない。
今度生まれ変わったら、酒を分解する「玉」を必ず二
つもって生まれて来たいものだ。
二 龍安寺
龍安寺の石庭は四度目だった。
初めて訪れたのは三十年前、高校時代である。今、京
大病院の研究室にいる男と京都を巡って歩いた。
その男Ｋは寺社自体よりもオリエンテーリングのよう
に京都の地図を見て、計画通りに寺社仏閣を巡り、スタ
ンプを押すことに情熱を燃やしていた。鉄道に異様に詳
しいマニアックな人間だった。五浪の末、医科大学に合
格した後は人体に関してマニアぶりを発揮して、大学で
行われる人体解剖には必ず見学に行き、あまり毎度やっ
てくるものだから先生に顔を覚えられ、「ちょっと、君」
と言われて、死体の頭を持ったり、取り出した内臓を容
器に並べるのを手伝ったりした。マニアとはこんなもの
だろう。それが職業に結びついているのだから幸せなこ
とだ。死体の解剖など私には想像もつかないが、マニア
の脳みその中には死体を見るとドーパミンがたっぷりと
泌み出してきて、ハイテンションになり、目もぎらぎら
光りだすのだろう。
こういう男と高校時代訪れた龍安寺石庭は何の感動も
もたらしてくれなかった。写真の通り石が配列されてい
るだけだった。「こんなもの俺にだって造れるぞ」とい
うのが率直な感想だった。Ｋは庭に面した縁側に座ると、
次の目的地の「仁和寺」を地図で確認するに余念がなか
った。何のためにこの男と古都を巡っているのだろう、
と私は思った。Ｋは満足しているようだったが、私は不
服で、自分が一体何を求めて京都へやって来ているのか
わからなくなった。 古い歴史、伝統的なものはいいと
思う。京言葉や寺の香の匂いはなんとも言えない良さが
あった。しかし、実際、金閣寺や弥勒菩薩を前にしても
期待していたより感動はない。むしろ旅行案内の写真を
見ていたときの方が精神の昂揚感があった。
Ｋは理系の合理的発想の頭だから元々、寺社仏閣など
興味はない。地図を見て現実にその場所にそのものがあ
ることを確認することに満足している。欲張って一日に
十も十五も寺を回る旅に私は甚だ草臥れていた。これが
一回目の龍安寺で、Ｋとは大学まで付き合ったが今は断
交している。マニアには付き合いきれない。
それから二十年近く龍安寺のことは意識に上ってこな
かった。度々京都には訪れていた。社会人となってから
出張で京都に来たことがあり、Ｓ学園という大手の学習
塾の入塾式に出て、顧問の有名な先生の話を聴いた。社
長や仲間はそのまま帰ったが、私はせっかく京都に来た
のだからと思い、一泊して四条辺りをぶらぶら歩いた。
たまたま四月で祇園の歌舞練場で「都をどり」が掛か
っており、私は初めて舞妓さんたちの舞台を見た。上演
の前に飲んだお茶を、郷ひろみや伊集院静と噂のあった
あの佳つ乃さんが立ててくれたこともあってか、私はひ
どくこの「都をどり」に感動した。舞台の両脇で鼓や太
鼓三味線を生で演奏している光景も華やかだったが、出
演者が全員そろって桜吹雪の舞うフィナーレの美しさは
一際格別で、私はなぜか涙が出て仕方がなかった。これ
が「日本」だと思った。 特攻隊の若者たちが命を賭け
て守ろうとした美しい「日本」がここにあると思うと涙
がとめどもなく流れてきた。着物を着た日本女性をこん
なに美しいと思ったことはなかった。
「都をどり」はそれから毎春、四・五回見に出かけた。
感動は次第に薄らいで退屈に思うようになった。今は行
っていないが、桜が咲くころになると「都をどり」のこ
とを思う。
また別の機会に会社の仲間と京都を訪れた時、高雄で
川床料理を食べた。高雄は京都といっても随分山深いと
ころにあった。下を川が流れる露天に床を張って京料理
を食べる。料理が進んだところで、そこに白塗りの芸妓
さんがやってきて、酌をして、舞を披露してくれた。下
方から川音が聞こえ、八月の終わりころであったが、暑
さはまったく忘れていた。それにしても夏の夜の闇の中
から現れた白塗りの芸妓たちは、古都の千二百年の深み
の中から現れた物の怪のようにも思われ、私はその妖艶
な舞に見とれ、彼女たちの舞を見ながらなぜかまた特攻
隊の兵士たちを思い目頭が熱くなった。京の奥深さを見
たような気がした。おそらく京都のあちこちにはこのよ
うな歴史のエア・ポケットのような場所がいくつもあり、
どこかの時代にふと迷い込んでしまうこともあるように
思われる夜だった。
川床料理に味をしめた私は、京の奥座敷と言われる貴
舟にも何度かＡという市会議員をやっている男と訪れた。
義経が少年時代を過ごした鞍馬山がすぐ近くにある。下
界よりも気温が五度くらい低い。出町柳から汗だくにな
って電車を乗り継いで貴舟で降りると涼しさを実感する。
川床に腰を落ちつけるとすぐ尻の下を流れる清流の音に
完全に暑さを忘れる。
京料理は実際物足りない。食べるのも勿体ないくらい
に見栄えは美しい。しかし、腹はふくれない。同伴する
食い道楽のＡも同感に違いない。コンビニのおにぎりを
二三個買って持ち込んだほうがよいと話し合った。
市会議員を務めるＡと塾講師の私は川床料理を瞬く間
に平らげると物足りない気分のままにそこを動こうとし
ない。平日なので、周囲に他の客はほとんどいない。
「このまま、その崖をよじ登って姿をくらませば金を払
わずに済むな」
と私が言う。Ａは、
「いや、この下を流れる川の流れに乗って、しばらく下
って、次の川床の店にたどりついたらはい上がって、ま
た京料理を食べる。そしてまた下る。それを二三回繰り
返したらいいですぞ」などと、言う。
木陰になって夏の日も遮られている。尻の下には絶え
間ない川音。渡る山風も心地よい。私と食い道楽市議Ａ
は他の客もおらず、店の者も来ないことをよいことに仰
向けになり、しばらくうたた寝をする。晩夏を思わせる
熊蝉の鳴き声が鞍馬山の方から幻聴のように聞こえてく
る。「京の奥座敷」とはよく言ったもんだと思う。
私と龍安寺を再び結びつけたのはこの食い道楽の市会
議員Ａである。彼は殊勝にも度々、龍安寺石庭を訪れて、
しばらく静寂の中に身を置き、自己を見つめるのだと言
う。石庭の意味がわかってきたのだと言う。
私は二回、彼に付き合って石庭を訪れた。確かに二十
年ぶりに目の当たりにしたそれは、印象が違っていた。
そのあまりの簡素さが、私の近年目指している、ある精
神の境地に合致しているのを感じた。余計なものはすべ
て削ぎ落として、石と苔だけで庭を完成させている。わ
れわれの現代生活には余りにも無駄が多すぎる。食べ過
ぎて太り、ダイエットをし、ジムに通う。生活のために
働き、本来の志も曲げて社会生活を送る。休日は行楽に
出かけ、高速の渋滞に巻き込まれ疲れて帰ってくる。何
のための営みなのか考えもせず、無駄を積み重ねて日々
を送っている。わかっていても捨てられない。
然るにこの庭は、大胆にも、木も水も花も捨て去って
十五個の石と苔、玉砂利だけで世界を形成している。見
事なまでの深さ、シンプルさだ。室町の大名細川氏に依
頼されて、このような庭を完成させた作者はタダ者では
ない。全てを捨てていたのであろう。切腹を命ぜられる
覚悟でこのような簡素でミステリアスな庭を造り上げた
のだろう。
しかし、そこには絶対的な自信もあった。恐るべきま
での孤高の精神性がこの庭に凝縮している。名工に鍛練
された名刀にも似た覚悟と潔さがこの庭には感じられる
哲学のない、精神の死んだ、贅肉だらけの醜悪な現代に
対する強烈なアンチ・テーゼである。
Ａと二回訪れた大人になった私は石庭にそんなことを
感じて、やはりただの庭じゃないと実感したものだった。
私は社会人となってから毎年一キロずつ体重を増やし、
今は八十キロを優に越えてしまった。腹筋運動は若いこ
ろから欠かさずやっているが、私の腹部は贅肉と筋肉が
混在している。体重を身長の累乗で割った値は二十五を
越え、「肥満」の域に達している。Ａも食い道楽だけあ
って、背は私より低いにも関わらず体重は百キロを越え
ている。そういう肥満体二人が龍安寺をどうこう論ずる
資格はないだろう。弛緩しきったフシダラな生活とこの
石庭はおよそ対極に思われるからだ。
しかし、ひ弱ないじめられっ子の少年が、正義のヒー
ローに憧憬するように、贅肉だらけの中年が、鋭利な刃
物のような禅寺の石庭に憧憬するのは似たところがある
正座させられ、叱咤されて、警索棒で打たれるような爽
快さがある。剣の達人に名刀を持たせて斬られればおそ
らくこういう快さがあるだろう。
そして昨晩秋、四度目に私単独で訪れた龍安寺石庭は
また全く新たな一面を見せつけて私を驚かせた。
木枯らしの吹く冬の到来を予感させる日だった。私は
東海道線を乗り継ぎ昼過ぎに京都駅に降り立った。それ
から市バスに揺られて、立命館大学前で下車する。この
大学を私は一浪した春に受験して落とされた。最近では
歌手の倉木麻衣が通っている。私を蹴落とした大学を横
目に見て、木枯らしに木の葉の舞う通りを少し歩いて、
龍安寺山門前に到る。拝観料五百円を小窓から支払って
案内のパンフレットを貰う。石庭方丈で靴を脱ぎ、禅寺
特有の巨大な書の衝立や目玉のギョロついた龍の絵に迎
えられて、石庭前に至る。
今日はここに一時間座り、石庭を究めようという覚悟
で来た。しかし、やはり、写真で見るのと同じ単なる石
の配列じゃないかというのが第一印象である。即物的に
「石」としか捉えられない。こんな庭のためにはるばる
列車を乗り継いで木枯らしの中をやって来たのかと思う。
しかし、とにかく一時間、勝負するつもりで対座して
みよう。
「一体何なんだ、この石庭は。どういうつもりでこんな
庭を造ったんだ。世界遺産に指定される意味はどこにあ
るんだ」と、心の中で呟く。石たちは黙している。
私は縁のほぼ中央に座を占めて座り続ける。拝観客は
次々にやってくる。平日でも途切れなく、次々にやって
来る。さすがに世界遺産だ。しかし、大抵の拝観者は長
くて五分くらいしかいない。一応縁に腰を下ろす。ガイ
ドやリピーターの口舌を聞く。「なるほど」とか「ホー
ッ」とうなづいて、デジカメや携帯の写真に収めて方丈
の裏の方に消えていく。しかし、私は動かない。座り続
けている。
「ずいぶんスッキリしたお庭だこと」
「これは公案みたいなもので、自分で考えるんだよ。禅
問答するんだよ。庭とね」
「あら、そうなの」
東京言葉で老夫婦が会話している。その通りだろう。
私はこの公案と対決するためにやってきた。虎が子を従
えて河を渡る様を表しているとか、遠近法で背後の土塀
が造られているとか塀に油を塗り込めて、わざと汚れた
ようにして庭を引き立たせているのだとか、皆それぞれ、
説明してくれる。しかし、そんな解釈は少しも答になっ
ていない。
三十分経過した頃、隣に座った関西のおじさんが、二
三人の連れに説明した。
「見てみい。石は十五個あるけども、どこから見ても十
四個しか見えーへん。一個隠れてるんやわ。あの大きい
石の向こうに一個隠れてるんや。ずっとむこうの端に行
くとそれは見えるんやけどな、今度は今見えてるあの小
さい石が見えんようになる。つまり、どこから見ても十
五個には見えへんゆうこっちゃ。十五というのは、満月
は十五夜いうやろ、完成の数なんや。そやけど人間には
全部見えない。つまり、仏様はちゃんといるんやけど、
人間には見えんいうこっちゃな」
「へー、さよか。あんた詳しいな」
私は一団が去ってから立ち上がって西端まで行って確
かに先程まで見えていた石が隠れてしまい、代わりに隠
れていた小さい石が見えるのを確認した。それは結構知
られた解釈かも知れなかったが、私は慄然とした。人間
に完全は見えない。しかし、実体は十五個、完全なのだ。
仏は完全なのである。このような深い哲学をこのシンプ
ルな庭は隠し持っていたのであった。 さすがに六百年
の鑑賞に堪えてきただけのことはある。製作者がどこか
でほくそ笑んでいるように思われた。「どうだ。参った
か──」他にも仕掛けがあるのじゃないか。深い。恐る
べき深淵を持った庭だ。禅や仏教の深遠な哲理の神髄を
この異様に簡素な庭は余すとこなく体現し、二十世紀隆
盛を極め、今世紀に至って疑われ始めている西洋の物質
文明を無言のうちに全否定しつつ、未来永劫変わること
のない不滅の真理を呈示している。六百年の封印が今解
かれようとしているのではないか。いや、封印などされ
ていなかった。六百年間示し続けてこられたのだった。
この庭には宇宙がある！
一時間座り続けた私は異様な昂奮状態に陥り、方丈を
出ると千五百円の湯豆腐を食べ、京都駅の地下で食い放
題のそば八段を平らげて、生ハツ橋を土産に買い、夢中
で帰って来た。そして会う人ごとにこの話をした。どれ
くらい伝わったのかわからないが、皆、私が一時間も座
っていたのは「立派なことだ」と認めてくれた。
「都をどり」「川床料理」に代わって「龍安寺石庭」に
当分は嵌まりそうだ。
三 容子
本当はそんな名前ではないのだが、仮に容子としてお
こう。年は二十二離れていた。私はいいのだが、それだ
け年長の男と一年間も付き合った容子は立派だと思う。
立派なのか物好きなのか、よく考えてみれば結婚した訳
でもないので、物好きに過ぎないのであろう。
職場に事務のアルバイトとしてその女はやって来た。
事務員の求人広告を見て容子のかけてきた電話を私が取
った。大学四年生。
「じゃ、就職活動してますよね。もう決まったんですか」
「いえ、事情があって就職はしばらくできないんです。
それでバイトを探してまして…」
「そうですか。ま、じゃあ履歴書持って一度来て下さい」
その時の私の応対は大変冷酷だったと後で容子は言っ
た。こんな女は冷酷に扱っておけばよかったのだ。私は
正解だった。私には邪々馬を見抜く感が備わっている。
何故なら十年前、容子の数倍はひどい、邪々馬を相手に
していたからだ。
男を知る女や遊び好きな女はにおいでわかる。目線が
定まらず泳いでいる。処女はどこか固い蕾のようなとこ
ろがある。高級クラブで働き、客として訪れた青年実業
家に近づいて愛人となり、家まで建てさせたＳ子と十年
前これも一年間相手をさせられた私は、容子にＳ子と同
じにおいを嗅ぎつけていた。
容子の採用はすんなり決まった。容子と面接した共同
経営の相方は、
「美形だよ。パアッとした感じで明るくしてくれると思
うよ、きっと」
と言った。不細工な女より、美しい女に越したことはな
い。私も履歴書の写真を見て、「おっ、やったね」と小
さく叫んで期待した。
出勤初日、夏の講習の教材の仕分けを頼むと容子は規
定の時間が過ぎても残ってやった。それは責任感ではな
く、少しでも長く働いて金を一円でも多く取ろうとする
魂胆に過ぎなかった。私は初出勤の美人パートに優しい
ところをアピールしようと、山と積まれた教材の中で一
人奮闘する容子に声をかけにいった。
「木村さん、もういいですよ。あとはやっておきますか
ら…」
ところが容子はそういう私に一瞥をくれただけで、思
いやりの声を黙殺して、作業の手を止めなかった。この
女は私の思いどおりにはならないことを直感した。プラ
イドの高い女だ。
可愛げのない容子を攻撃する方法を考えた場合、美人
美形とは言いながら、よくよく見れば化粧で誤魔化して
いるだけで、化けの皮を剥奪すれば、お笑いタレントの
山田邦子に似ていることを私は発見した。「なんだ。山
田邦子じゃないか。大したことねえよ」私は心の中で呟
いていた。
一週間経過したころ、容子が初めて私に話しかけてき
た。
「先生は早稲田出身なんですってね」
「ああ、そうだけど」
「学部はどこですか」
「政経ですよ」
「へえ。先生、年はいくつなんですか」
私は躊躇した。生徒たちには絶対に年齢は明かさない。
三十代だと思われている。二十八といっても信じている
生徒がいる。しかし、容子は生徒ではない。仕事仲間に
なる。仕方なく、
「四十三」 容子は驚いた顔をした。
「見えません。絶対三十代だと思いました。二十代って
言われても信じます」
この女は私に興味があるのだと思った。
「結婚してますよね。お子さんは」
「独身です」
それには表立った反応はなかった。しかし、内心喜ん
で舌なめずりしたに違いない。もっともこの女なら妻子
持ちでも狙ったカモは自分のものにすることにためらわ
ないだろう。
「ね、先生今度私と遊びにいきませんか」
これにはさすがに驚いた。二十二歳年長の男をあそび
に誘う女子学生とは何なのか。考えられない。
「遊ぶ？ 何して。鬼ごっこ？ かくれんぼ？」
私はそういって交わしたが、後で容子が言うには、そ
う言われて相手はしてもらえないことをこの時は断念し
たらしい。
ところが、また十日ほどすると、事務室に二人きりに
なったときをねらって容子は話しかけてきて、いろいろ
世間話をする中で、
「メル・アド、教えてくれませんか」
と、ディズニーのキャラクター入りのメモ用紙を差し出
した。
とうとう来たかと私は思った。
「いいですよ。ついでに電話番号も書いておくね。毎日
メールくれますか」
「します。絶対」
その夜、さっそく容子からメールが来て、返事を送る
としばらくして電話がかかってきた。私は若い女と電話
でこのように話すのは慣れていない。緊張して何を話し
たかも覚えていない。ダメ押し的にその後容子からメー
ルが来て、
「今日は先生とお話ができて嬉しかったです。チョコッ
とだけようこは先生に興味があったので。おやすみなさ
い」
いつものことながら、最初は「好きでもなんでもない
女の相手だ」と余裕の心のつもりが、少しずつ相手のペ
ースに巻きこまれていく。二十二の小娘と侮っていたと
ころもあっただろう。 それにしても容子のアプローチ
は凄まじかった。昼間仕事場で会っていても毎夜メール
は届いた。他愛のないことが書かれていたが、台風の接
近しているある夜、「これから来てくれませんか」と書
かれていた。これから来いと言われても容子は一人住ま
いをしているわけではなく、家族がいるところにどうし
てこんな夜中、こんな年長の男がのこのこ訪ねていかれ
ようか。しかし、容子が言うのは家の前まで車で来て、
どこかへ話しに行こうということだった。意図は分かっ
た。しかし、「話」だけで済むとは思われない。容子は
挑んでくるだろう。私も覚悟を決めなければならない。
「今日はダメ。仕事があってね。明日なら行く。台風が
きても行く」と私は少し逃げて、返した。
翌日は台風が日本列島を縦断していった。仕事は早く
切り上げられ、容子がやっていたもう一つのコンパニオ
ンの仕事も取りやめになったとメールがあった。外は次
第に風雨が強まっていた。台風を理由に昨日の約束をキ
ャンセルすることもできた。しかし、それは完全な逃げ
になる。「来て」容子はメールを送ってくる。私は覚悟
を決めて、台風の嵐の中を女に会いにいくことにした。
「ようこの家わからなかったら電話してね」すでに恋人
同士のやりとりになっている。私は心の中で「これは新
入りの事務員の相談に乗ってやるために出かけるだけの
話なんだ」と幾度も自分に言い聞かせていた。しかし、
成り行きは想像ができた。
容子の自宅の前に車をつける。ワン・コールすると、
玄関から傘もささず走って容子は出てきた。
「今晩は。ごめんなさい、先生」
「いや、いいよ」
容子は友だちとカラオケに行くと言って家を出てきた。
車を走らせながら私は、
「言っとくけどね。今日は何もしないつもりで来たから
ね。ただ話すだけ」
「へぇー、そうなんだ」
とは言っても夏の夜でしかも外は嵐が吹き荒れている。
容子の肌はかなり露出している。容子はそのつもりでき
ている。
「ね、先生。手握るくらいはいいでしょ」
「えっ、手？ 手ぐらいならいいかな…」
「握って」
私は助手席の容子の膝の上の手の甲に手を置く。
「あ、やっぱりだめだ。自制が利かなくなる。そんなつ
もりで来てないんだから」
「自制？ そんなものいらないってば」
男の扱いに慣れた女はかようにして男を自分の世界に
引きずり込んでいく。いったん引っ込めた左手であるが
また容子の手を探って重ねられた。握ったり指を絡ませ
たりする。容子は私の手を胸にあてたり、首筋に持って
いったりした。
「あ、駄目だよ。理性が利かなくなる。そんつもりない
から。話すだけだから…」
「理性なんていらないってば。気持ちよくなればいいじ
ゃない」
私はファミレスの駐車場に入り、車を停めようとした
が容子は首を振った。
「え、じゃ、どこに行けばいいんですか」
「とにかくこんなとこはイヤ」
こういう場合、これまで私は河原に向かった。夜の河
原はホテル代を惜しむ他の車が何台も等間隔で停まって
いた。どの車もエンジンがかかっている。しかし、今日
はこの天候である。河原まで行く気にはなれない。ホテ
ルへ行く気もない。とにかくまた車を走らせた。容子の
手を握る。首筋や胸に手を這わせる。それは久しぶりの
若い女の柔らかい感触だった。商売の女には望めないプ
ロセスだ。右手でハンドル、左手は容子の方に伸ばして
は理性から引っ込めたりを繰り返している。
「どこか停めたら」
容子が言うので、広い空き地の横の人通りのなさそう
な細い道に停車した。風雨はさらに少しずつ強まってい
る。木の葉や小枝がフロント・ガラスに飛んできては当
たっていた。
サイド・ブレーキを引く。私は私のちょうど半分しか
人生を歩んでいない小娘容子を横にして身体が震えた。
場数を踏んでいないから緊張する。何度も同じことをし
ていれば慣れてくる。容子は何度も男とこんなことを繰
り返してきたのだろう。恥じらいも生娘らしさもなく、
大胆に私に迫ってきた。
「先生、抱いて」
この先は詳述が憚られるので割愛するが、とにかく台
風の夜から一年、ふた回り歳の離れた気の強い女の餌食
になった。交尾しながらメスカマキリに頭を喰われるオ
スカマキリの境涯を羨ましく夢想していた私だったから
これは私の招いた災厄だったのだろう。災厄とはいいな
がら、Ｓ子という物凄い女で免疫のできていた私には多
少の余裕があった。楽しめるだけ楽しもう、というのが
私のコンセプトで、甘んじて容子のセクシュアル・スレ
イブになろうと決めた。
容子には高校時代から付き合っている二十代後半のヨ
シオという男がいて、「ヨッちゃん」と容子はその男の
ことを呼んでいた。自分のことを「ようこ」と一人称で
言い、元カレだか今カレだかわからない男「ヨッちゃん
のことを平気で私に聞かせた。私には嫉妬なんか皆目な
かった。男を知っている女であるから何人か男関係はあ
ったに決まっている。ヨシオとはまだ切れた訳ではなく
私と会うようになっても、時々誘われるままに、食事を
して身体を許していた。ヨシオにも容子は私のことを「
三十代の美容師」とウソをついて話していた。
「ヨシオ君と結婚すればいいんじゃないの。ちょうどい
いと思うけどな」
「ヨッちゃんとは五年続いているけど、今だったら絶対
あんな男に声かけられてもついていかないよ。高校生で
わからなかっただけだから」
「背も高くて国立大学出で、名の通った会社に勤めてい
る。どう考えてもヨシオ君と結婚したほうがいいと思う
けどね。こんなオジさん相手にしても埒あかないよ」
「先生はようこと結婚する気あるの。大体ようこのこと
好きなの」
私はこんな女と結婚するつもりはなかった。
「先生は私のカラダが目当てなんでしょう。そうでしょ
う」
それはその通りであった。若い女のからだは何物にも
代え難い魅力だった。
「カラダも、それから心も」
「ようこをどうしたいのよッ」
「嫁さんか、愛人」
結婚したくても、土建業を営む私より十くらい年長の
クセのありそうな容子の父親が許すわけがない。写メで
風呂上がりの父親を見せてもらったが、とても太刀打ち
できる相手には思えなかった。秘蔵の一人娘を二十も年
長の男に渡すはずがない。
私は容子が、この先の話を持ち出すのを一番嫌い、避
けていた。「楽しむだけ楽しむ」という所期のコンセプ
トを貫かなければならない。
ところが全てを「相談相手」として報告してくる容子
によって、いつまで経ってもヨシオと切れないことが次
第に私の心から余裕を失わせていた。クリスマスに容子
はキー・ホルダーをプレゼントしてくれ、私はブラウス
を返礼に買ってやった。その帰りの車中で容子は初めて
私と「付き合っている」ことを認めた。そもそもこんな
小娘から半年近くかかってそんな承認を得ること自体屈
辱的なことなのだが、セクシュアル・スレイブなのだか
ら仕方がない。私は有難く承認を喜んだ。
であるのに、大晦日の夜、容子は俄に電話をしてきた。
「ヨッちゃんと、今夜会う。初詣に行くの許して」
毎年ヨシオと初詣は恒例になっていたので行くのだと
いう。私はどちらでもよかったが、こういう場合、本気
で付き合っている男なら怒るだろうと考えて、
「許さん。絶対許さんぞ」と怒鳴った。
「ごめんなさい。でも行くから、ごめんね」
掌に乗っかっているのは私なのだ。それを承知で「楽
しむだけ楽しむ」のだから仕方ない。私の思い通りに動
く女ではない。
元旦の午後、容子と会った私は昨夜のことを聞かされ
た。
「お参りしてからホテルに行った。ごめんね」
私はステアリングを平手で叩いた。
「行ったのか、お前は」
「だって、ヨッちゃんが、遠くから一所懸命来てかわい
そうなんだもん。一回きりだったよ」「一回も二回もや
ったには変わりないッ。オレはどうなるんだッ」
私は怒っているつもりだが、本当に容子を好きな男な
らブン撲るだろうと思った。
「もう、やめる？ 私たち」
「やめようか。二股かけるような女とは付き合いたくな
いから」
「でも、できない。ようこは先生から離れられない。ご
めんなさい。もうヨッちゃんとは会わないね。ゼッタイ
会わないね」
容子は毎日欠かさずメールをくれた。そのまめさには
感心した。私は必ず返していたが、私の方から積極的に
送ったのは数える程しかない。容子はそれが不服だった
のか、どうでもよかったのか、
「先生からはくれないね。これだけようこがメールして
るからようこの気持ちはわかってるでしょ。ようこのこ
とどう思ってるのよッ。好きなの、嫌いなの、ハッキリ
しなさいよッ」
と、訴えることもあったが、私はのらりくらりと交わし
て、若い容子の体だけはなんとか半永久的に確保したい
ものだと考えていた。ヨシオの存在が気に障った。
四月の終わり頃だったか、珍しく容子からメールが来
ないので、私が打つと、「話があります」と改まって返
してきた。大抵想像はついた。ヨシオ絡みのことだろう
案の定、その日容子はヨシオと会って、生理だったにも
関わらずヨシオの求めに応じたと打ち明けた。
私は初めて、その時ヨシオにも容子にも怒りの気持ち
が沸いた。私の存在を知りながら度々容子を誘っては容
子をほしいままにするこれもひと回り以上年下のヨシオ
という男が断じて許せなくなった。それまでは若年者た
ちの「ママゴト遊び」を傍観しながら髭をなでているだ
けの私だったが、「ふざけたことしやがる」と心の底か
ら怒りがこみ上げ、傍観者を放棄してしまった。容子は
私のものである。私の女に手をつける盗人のようなヨシ
オが許せない。しかも生理中の女の体をいたぶるとは何
事か。絶対許せない。ヨシオを許容する容子も許せない。
「わかった。もうこれまでにしよう。オレとしても不愉
快だから。そんな話聞きたくないから。もうこれきりだ
「ごめんね。ごめんなさい…」
容子は電話の向こうで泣き出した。
「泣くくらいなら二股かけて男と遊ぶな」
今から思えば煮え切らない私への報復としてヨシオの
ことを全部喋っていたのかもしれない。いちいち報告す
るとは余程の馬鹿か、サディストだろう。
「今後のために言っておくがな。好きな男なら、別の男
のことなんか話すんじゃないぞ。わかったか」
容子は泣き続けていたが、「そんなこと百も承知ダワ
ヨ」と思っていたかもしれない。それから三日間、毎夜
容子からメールが入ったが無視した。
「別れた気がしません。私が全部悪かったんです。考え
直してくれませんか…」
私は「もういいッ」と突っぱねながら、容子からメー
ルが届くと安堵していた。これが来なくなったらその不
安は底知れない。容子は私の心を見抜いて余裕で下手に
出るメールを送ってきたのだろう。
「ごめんなさい。許して。なんで返事くれないんですか
三日目とうとう私は返信をしてしまった。
「ヨシオと生理の日もセックスし続けていればいいだろ
う。そんな不潔な女はいらん」
容子は三日ぶりに私からの返事を貰うと電話をかけて
きたが、私は出なかった。
「なんで出てくれないの。私が悪かった。先生しかいな
い。ヨッちゃんが悪いの。私を誘うから。文句があるな
らヨッちゃんに言って。携帯の番号教えるから」
ヨシオの携帯番号が送られてきた。誰がかけるもんか
と思ったが、翌日気が変わって、生理の日の女にチンポ
コを差し込もうとする男は間違っていることを諭してや
ろうと思い、電話することにした。おそらく罵り合いの
修羅場となることは覚悟した。
「もしもし、ヨシオ君か。容子の知り合いの者だがな」
「え？ 誰だッ、お前」
「だから容子の知り合いと言っている」
「名前を言えよ。それが礼儀だろ」
容子からはなかなかやり手の営業マンだと聞いている。
「名前なんかいいッ。ヨシオ君はこの間の日曜日、生理
中の容子とやったらしいな」
「何だッ、お前。話があるなら会って話そうじゃないか。
これから会いに行こうか」
さすが戦闘的営業マン。中学生相手の塾講師はひるみ
そうになる。
「電話でいいッ。容子はな、お前がムリを強要したから
今、身体を悪くして寝ているんだぞ。何してくれたんだ
ッ」
「名前を名乗れ。誰ともわからん相手にそんなこと言わ
れても話にならんだろう」
「な、名前か。名前はオーホリだ」
「オーホリ？ オーホリさん。あんた容子チャンとどう
いう関係なの」
「偉そうな口利くな。オレはお前より年上なんだぞ。言
葉遣いを改めろッ」
「すみませんね。オーホリさん。で、容子チャンとの関
係は？」
「仲良くしている」
「僕はね、オーホリさん。もう五年以上も容子チャンと
付き合っていて、両親とも顔見知りで家にお邪魔したこ
とが何度もあるんですよ」
「それがどうした」
「ははーん。あなた美容師さんでしょう。容子チャンが
言ってましたよ。かなり年上の美容師と最近付き合って
いるってね」
容子が私のことをそう言ってヨシオに話していること
は聞いていた。ヨシオはそれを信じていた。
「美容師だったらどうなんだ」
「僕と容子チャンはいろいろあったけど長い付き合いな
んです。それが去年の夏、急に他に好きな人ができたと
か言いだして、あんまり会ってくれなくなったんです」
容子は本当にどの男にも包み隠さず全てを話している
ことがここでわかった。美容師はウソであるが。
「ヨシオ君。オレはね、もう四十を越えている。容子と
結婚なんてできる訳はない。君はどうなんだ」
「僕、ですか。まぁ、まだ若いですし、結婚までは、ど
うですかね」
「容子は今ね、結婚を考えているんだよ。君がしっかり
していないから、こんなオジさんに救いを求めているん
じゃないか。どうなんだ君は。容子と結婚する気はある
の」
「いやぁ、それはないこともないですが…」
「はっきりしろッ。容子のカラダだけが目当てなんじゃ
ないのか」
「そんなことは。でもオーホリさんも容子のカラダが目
当てなんでしょ」
「うるさいッ。私は容子の将来を心配してだな」
言いながら、私はこの男と仲間なのではないかと思っ
た。容子という、若いカラダを武器にして、年上の男を
たぶらかし、食事、映画、指輪、バッグ、服など散財さ
せ、見返りにカラダを提供して、「男なんてバカね」と
嘯いている悪女に引っ掛かった、被害者同士なのではな
いか。連帯感が感じられもする。敵は本能寺にあり、で
お互い攻めるべきは容子なのではないか。「ヨシオ君。
私の言いたいことは容子を幸せにしてやって欲しいとい
うことなんだ。君しかいないと思う。しっかり容子を抱
きとめてやってくれないか。頼む」
「わかりました。オーホリさんのおっしゃりたい趣旨は
大要理解致しました」
ヨシオは営業トークになっていた。
「そうか、それならいい。ありがとう」
おかしな展開になってしまった。まさか容子の幸せを
祈る電話になろうとは思わなかった。いい子ぶって、も
し本当にヨシオが容子のことを真剣に考え始めたら、私
に勝ち目はないのだから、容子を失うことになる。「こ
の助平男ッ」と罵倒して終わりにしておけばよかった。
私は後悔したが、その後、容子は私がヨシオに本当に
電話したことを知ると驚愕して、何を話したのだとしつ
こく泣きながら訊いた。
「何を話そうとこちらの勝手だろう。困るんだったら番
号など教えなければよかったのだ」
「だって本当にかけるとは思わなかったんだもん。どう
してかけたのよぉ。何話したのよぉ」 この女はやはり
馬鹿かもしれない。少しも計算などしていない。本能の
赴くままに好きなようにやっているだけの話だ。
「ヨシオに聞いたらよかろう。オレは電話してよかった
と思っている。あいつはなかなかいい奴だとわかった。
友だちになる気はないがな。今度あいつと結託して容子
に復讐するかもしれない」
容子はヨシオに電話して詳細を聞き、それをまた私に
報告してきた。この時は、容子やヨシオが完全に私の掌
の上に乗ったと思った。
それからしばらくはまた、元通りの状態に戻った。容
子の話では、ヨシオは、私と容子の関係が、自分と容子
の関係と同じだと知ると衝撃を受け、それ以後、電話も
メールも来なくなったということだった。容子から電話
しても出ないので、「私はヨッちゃんに嫌われた」と言
った。これは私にとって不安の種が一つ消えたことで歓
迎すべきことだった。
しかし、ヨシオがまた考えを変え、容子にアプローチ
してくれば、容子はまた靡いてしまうのだろう。容子が
ヨシオを完全に嫌いにならなければならなかった。ヨシ
オは相当の床上手で、容子を悦ばせる術を心得ていた。
彼らはほとんど毎週会って、会うたびに二回はやってい
たのであるから、年間百回、通算五百回もやったことに
なる。容子の体にはヨシオが染み込んでしまっているの
であるから心で拒絶しても、電話で甘いことを言われれ
ば、体が靡いてしまうのだろう。
床下手な私は到底太刀打ちできない。「心で勝負」と
言ったところが虚しい。容子は相当好き者には違いなか
った。体も悦ばせられる男でなければならない。
容子を知ってから一年になろうとしていた。容子は塾
の事務員の仕事をすでに昨秋辞めていた。私としても家
族が職場にいるようであったので早く辞めてくれたこと
はよかった。容子はいろいろ職を探したが、今は医療事
務の仕事をやっていた。
他へ行けばそこにいる男は際立った容子を放ってはお
かないだろう。そういう心配はあった。 七月になり、
またある日からメールが来なくなった。毎日来るものが
来ないと不安になる。そういう場合何かあるのは確かで
ある。私は三日ほど我慢したが、堪えきれなくなり、
「どうした。メールくれないね」と打った。しばらくす
ると電話があった。
「先生ごめんね。他に好きな人ができたから、もう会え
ない」
「ふーん。それはよかったね。うまくいくといいね。で
それは職場の人？」
「それは言えない」
「別に言えばいいじゃん。年上の人？」
「それも言えない」
「ふーん。わかった。じゃあ、元気でやれよ。生理の日
までやらないようにな」
「どうしてそんなこと言うの。まじめに話してよ」
「別れ話にまじめも糞もあるか。勝手にやれって言うこ
とだよ。じゃあな、さいなら」
「ごめんなさい。さようなら」
必ず容子からまたメールがあるはずだと私は高をくく
っていた。これまでもそんなやり取りはあった。しかし
待てど暮らせど来なかった。「去る者は追わず」である
から見苦しいことはしてはならない。まして相手はまだ
大学を出たばかりの人生半分の小娘なのだ。何事もなか
ったように日常を送らねばならない。
内面は嵐だった。しかし、誰にも気づかれることなく、
遊びが終わったように微笑のうちに日々を送った。人知
れず嘔吐を催し、現実がベールの向こうにあるような底
知れない孤立感に苛まれ、子どもたちを相手に授業をし
ている時と物を書いている時だけは救われていた。誰か
に話せば少しは気も楽になったかもしれないが、とても
かかることを相談できなかった。
容子からはその後、二・三度電話があったが、ヨリを
戻そうというものではなく、昔の友人を懐かしんで挨拶
する程度の意味しかなかった。私は容子が付き合ってい
る人がいるというので激怒して、
「付き合っている男がいるなら、昔の男に電話なんかす
るな。そういうところがお前の無神経なんだよ、ばか！」
と、怒鳴った。
「電話するんじゃなかった。せっかく先生のこと心配し
て電話したのに、するんじゃなかった」 電話を切って
からメールが入った。
「本当は付き合っている人なんていません。先生には本
当に悪いと思ってますから、十万くらいならお金返しま
すから銀行の口座番号教えてください」
「ウソつくな。容子が男なしでいられるもんか。金など
いるか！」
「じゃ、どうしたらいいんですか」
「知るか。こっちが聞きたい」
「先生こわいです。何するかわからないから」
「孫子の代まで呪ってやる。覚悟しておけ」
多分、容子は私がストーカーとなって、執拗に嫌がら
せなどしてくることを恐れていたのだろう。しかし、私
には「武士道」や「禅」への信奉があるから、そんなこ
とは絶対にできない。「去る者は追わず」である。
それからまたしばらくして容子から着信があった。私
はふろに入っていたため出られなかった。それから二日
後に私から容子に電話したが、すでに電話は通じなくな
っていた。容子は携帯を替えたのだ。
それから度々、自宅や職場、私の携帯へ「非通知設定
の着信がよくあった。Ｓ子の時も別れてから半年ぐらい
無言電話が続いた。それは容子からのものかどうかわか
らない。私がヨシオのように図太く容子にアプローチす
ればおそらく容子は会ってくれるだろう。しかし、私は
そういう人間ではない。「来る者は拒まず」の人間で自
分からいい女を獲得しようと動き出す男ではない。
「ダメじゃん。それじゃあ。先生、幸せが掴めないよ。
自分から動かなきゃ」
容子がいつかそう言ったことがあった。確かに彼女は
私に近づき、見事に獲得しているので言行一致である。
Ｓ子も「私は何でも欲しいものは手に入れるのよ」と言
っていた。
私が彼女たちから学ぶことは、おそらくそれなのだろ
う。
「欲しいものは自分で出かけていって手に入れなさい。
待ってばかりいたってダメですよ」
私の人生哲学「来るものは拒まず、去る者は追わず」
は否定された。今後は「来るものは拒まず、来ざる者、
去る者はストーカーとなってでも追え」に切り換える。
そうすると、容子のことも追わなければならない。「非
通知設定」の電話は今もある。「先生にならストーカー
になって追われてもいい。それだけ愛されていることだ
から…」
容子はそう言っていたではないか。
（平成十八年二月）
文芸同人誌「風」 第８号 ２００６年夏 掲載
［原稿用紙６３枚］