大堀敏靖
三日後の土曜に迫った持久走大会のことを考えると私の心は俄かに波
立ち焦燥感を伴った落ち着かない熱風に晒された。ただ走ればいいだけ
だ、と自分に言い聞かせたが、十キロの道のりはやはり長い。あの苦し
みの持続、遠いゴール、喘いだ無様な顔を仲間の前に晒すことなどを考
えると何も手に就かない。
前年の私の成績は学年五位で、クラスでは一位だった。
「スタートの時もゴールの時も同じ顔してるんだもんね。ヤッちゃん無
表情だよ。本当に」
無欲な私は「ヤッちゃん」と呼ばれて仲間から愛され、勉強もできた
ので学級委員にも選ばれた。しかし、私はリーダーと呼ばれるような存
在ではない。勉強ができたって、人気があったって、リーダーとは限ら
ない。それは私自身が一番よく知っていたし、前期の学級委員を務めた
奥村がそれを見抜いて、クラスで委員を選出する時に、石山に入れるよ
うに周囲の者に薦めていた。ところが、女子の票が私にほとんど流入し
てしまったため、私が学級委員になることになった。
女子の委員はめんどう見のよい、人望のある佐倉志摩子になった。志
摩子は私とペアで委員に選ばれたことに満足していることを全身に表し
て憚らなかった。神経質な私は学級委員という大役が務まるかどうか、
ただ不安だけが広がり、周囲の景色が皆ベールの向こうに見えたものだ
った。
「ヤッちゃん。ヤッちゃんでしょう」
どうしようもなく落ち着かなくなった私は、一番落ち着く場所は、と
考えて、手拭いと石鹸を持って近所の銭湯に出かけた。家にも浴室はあ
る。しかし、私は銭湯が好きだった。高い天井、反響する客の声や桶が
タイルとぶつかる音、全身の細胞が解放されたような気持ちになる。
私は振り向いて、それが志摩子であると気づくまでにかなりの時間が
かかった。
「びっくりした？」
制服の志摩子ばかり見ていた私には特にその胸の見事な突出が目につ
いて、年上の娘のように見えた。
「ヤッちゃん。出たら待っててね」
と、志摩子は小さく手を振った。
私は頷いたが、そんな一方的な約束なんか無視して長風呂しようと思
い、「男」と大書された暖簾をくぐった。
私は衣服を脱ぎながら志摩子も今裸になっていることを思った。しか
し、肉体的感興は何も起こらなかった。
湯船につかると細胞が開いて、閉塞感から解放された。大会はなんと
かなるという気がしてくる。結果はどうあれ、走ればいいだけの話では
ないかと開き直ってくる。
風呂から上がると出口の木の長椅子に座っている湯上がりの志摩子の
視線とぶつかった。
「ね、ヤッちゃん。ここ座って」
艶っぽい話方だと思った。志摩子に請われるまま、私は横に座った。
赤味を帯びたつやつやした志摩子の頬が少し横にあり、シャンプーの匂
いが漂った。志摩子は潤んだような目を私に向けた。
「ね、今誰もいないから。ほら、私の胸。さっき見てたでしょう」
私は志摩子の大胆さに驚いて言葉も出なかった。
「触りたい？ 触ってもいいよ」
私はただ驚いていた。志摩子はシャツのボタンを外すと、私の手を握
り、胸襟を開いて、熱い弾力のある半円球に触れさせた。そして私の肩
に額をつけて、しばらく動かなかった。
その時、確かに私は三日後に迫った持久走大会の緊張や不安など全く
忘れていた。異様な驚くべき体験だったことは事実だが、これによって
志摩子を愛することからはますます遠ざかった。
「ね、ヤッちゃん。持久走大会、クラス一位取ってね。私も頑張るから
一緒に頑張ろうね」
クラス一位は取れそうだと思った。志摩子は学年全体でも一位を取れ
るだろう。彼女がどうあれ、私は私で全力を尽くすつもりであった。
○ ○
その頃の私は、「女みたい」とか身体が痩せていたため「ひょろひょ
ろ」などと悪口を言われると著しく傷ついた。生きる気力をなくする程
の打撃となった。背ばかりがもやしの如く高く伸びて、なよなよした女
の腐ったような自画像を頭に描くたびに自己嫌悪に苛まれ、私と百八十
度異なった方向に枝葉を伸ばしている奥村や石山に内心憧れていた。彼
らは勉強以外の人間的精神面で遙に私の前を突っ走っていた。剣道部に
属する彼らは武士道を体現する「男」に思えた。
担任の理科教師北沢は、生徒が宿題を忘れると頬をちぎれるほどに引
っ張り、三十回の腕立て伏せを課した。ある日、奥村が宿題を忘れた。
すると石山が、「俺もつきあう」と言ってワークブックを忘れてきたこ
とにして、一人ずつ点検する北沢に「忘れました！」と教室中に響く声
で言った。石山は思い切り頬を指で引っ張られ、ひらめのような顔にな
っていた。そして宿題を忘れた、奥村を含む五、六人の者たちと一緒に
腕立て伏せをしながら木刀で尻を何回も叩かれた。
私はそこに美を認めて陶然となった。友のために苦しみを共有する！
その痛みはどんなに心地よいものであろうか！
奥村と石山の友情はその一件でさらに堅固なものとなったであろう。
男の友情、苦しみの共有、私には手の届かぬ麗しい世界がそこにあっ
た。少しでも近づきたい、できたら私も彼の岸に辿りついて男の世界の
住人になりたい。私は切実にそう思った。
しかし、また別の角度から私を魅了する男がいたことを私はここに記
さねばならない。
その男の名を山田正男という。私は山田のことをあまり知らない。あ
るいはよく知れば私の密かな彼に対する敬意の念は雲散霧消したかもし
れない。よく知らぬために切れ切れの風聞として得た山田という人間の
像が私の中に結晶して理想化されたかもしれない。
この男は早くから陰毛が生えたことで知られていた。小四の頃から陰
毛を持ち、小六の修学旅行の折、仲間から寄ってたかって下半身をいじ
られ、射精して、宿の寝具を汚してしまったことを聞いていた。
短身、黒い顔、「生まれてきて、すいません」とでも言いたげな卑屈
な愛想笑い、それは愛を感ずるには十分な要素であった。
夏休みに「一人一研究」という課題が出されて、九月に各人の研究や
作品が展示された。私は友人から「必見」と聞いて山田の研究作品を見
た。それは大学ノオト一冊に数学の計算問題をびっしり解いたものであ
った。そして担任の教師の評価欄にはＥという最低の評価とともに「こ
れは単なる計算練習であって、研究とはいえません」と書かれていた。
この労作をこのように評価する担任も粋な人だと思ったが、私はますま
す山田に愛を感じた。社会の底辺を支える人々、私の視線はこのような
虚飾のない、真実の生き方をする人々に注がれた。
「孤独の太陽」………彼が学年末の学級文集に書いた作文を思い出す。
孤独の太陽
山田正男
僕は、研修旅行にいった時、みんなは夜、どこかへ遊びにいったが
僕は、部屋で一人、ココアを飲んでいた。僕は孤独だった。ぼくは孤
独の太陽だ。
僕はみんなといると必ずいじめられる。夕食の後も、棒に手足を結
ばれてナマケモノみたいにしてＨやＫにかつがれた。女子が笑ってい
た。先生が「やめろ！」と言った。僕は、一人でいる時が一番いい。
ぼくは「孤独の太陽」だ。…
学校の階段下の倉庫に山田が一夜閉じ込められたことも、笑い話とし
て伝わっていた。「鬼ごっこ」を付き合わされた山田は、掃除用具を収
納する倉庫に逃げて隠れた。それを、悪い仲間が外から鍵をかけた。中
から「開けろ！」と言ってドアを叩く音がしばらく聞こえたが、やがて
静かになった。複数のものがそれを知っていたが、日が暮れ、下校時刻
が来ると仲間は皆そのまま帰ってしまった。宿直もおらず、無人化され
た学校の倉庫の真闇の中で山田はその一夜をどうして過ごしたのか。少
しはモップを布団代わりに眠ったのか。翌朝、出勤してきた教師がドア
を叩く音に気がついて山田は解放されたが、その日はそのまま授業を受
けた。勿論息子が一晩帰ってこないことで家では大変な騒ぎになってい
たはずであるが、その間の事情を私は知らない。
母性本能を刺激するにも至らない山田（現に山田は女子生徒たちから
疎んじられていた）を理想化し、生き方の見本のように崇める一方、奥
村や石山たちの「男らしさ」に憧憬する私があった。私は勉強は人並み
以上に得意であった。しかし、勉強以外に何か人間を律したり、支配す
る力のあるのを感じていた。しかし、私には勉強以外に力を誇示する場
はなかった。部活動のバスケも、球が己のいうことをきかず、レギュラ
ーになれそうもなかった。ただ、三日後に迫った持久走だけは、勉強と
並んで人並み以上にできることではあった。これに力を尽くすことは私
に課せられた宿命のように感じた。
○ ○
持久走大会が近づくにつれ、息苦しいような重圧にさいなまれた。
ところが、その前日、私以上に大会を重圧に感じ、立ちはだかる最大
の苦難への対策を講じている者たちがいることを私は知った。それは他
ならぬ、奥村と石山であった。
「休むか、明日」
「理由がない。マラソンから逃げたとあっては男がすたるからな」
「別ルートをごまかして走るか」
「先公たちが立っているからな。それはできぬ」
「とにかく走ればいいのだろう。思い切りゆっくり走ろうじゃないか。
仲間がいれば恥ずかしくもない。仲間を募ってゆっくり走ってやろうじ
ゃないか。こんな過酷な労役を生徒に強いる教師どもに反抗の意味をこ
めて」
「よし、決まった。まず間違いなく山田は仲間になるな。あと二、三人
ほしいな」
たまたまその場にいて会話を聞いていた私はその時、自分でも何故そ
んなことを言ってしまったのかわからないが、考えもせずに、「俺もや
る」と、言ってしまった。重圧から逃げたかったかもしれない。その時
志摩子の、胸に触れた時の伏目勝ちの表情が頭をよぎった。
いっしょに頑張ろうね。…………
しかし、私はこの頃、全力を尽くすことは恰好の悪いことであるとい
うニヒリスティックな思想を持っていた。
私の気持ちは俄然軽いものになった。百の力を有しながら二十しか出
さぬ。能ある鷹は爪を隠す。わざとゆっくり走ることはどんなに恰好の
よいことであろうか。
○ ○
北グラウンドに対角線上に白線が敷かれ、折からの伊吹おろしにジャ
ージの体操着が身体に貼りついた。密かなたくらみを持つ四人は対角線
の一番端で、風にあおられる寒さと過酷なレースの緊張感に顔をこわば
らせた仲間を優越感を持ちながら眺めていた。
奥村、石山、山田と私は一団となってジョギングのようにゆっくり走
る。もっとも苦しい人間のペースに合わせて「完走」し、このような過
酷な試練を生徒に与える学校に無言の抗議をする。これが大義名分であ
った。山田は石山の脅迫に近い勧誘に、卑屈な笑いの中で同意した。も
とより仲間に加わらずとも速く走ることができる人間ではなかった。
ピストルの合図でスタートが切られた。無邪気な他の者たちは狭い校
門に殺到してゆくのを我らは高見の見物のように後ろから眺めて微笑し
た。
校門を出る所で「靖彦ガンバレ！」という志摩子の声援を聞いた。そ
れは白布に落ちた一滴の墨汁だった。「もてる男は大変だあ」と石山が
私の肘をつついた。
校門を出ると坂を下りて、畑の中の一本道を走る。ところどころに教
師が立っている。二つ目の角に、理科教師北沢が腕組みをして立ってい
た。
「遅いぞ、お前たち」
そう言われた時も私は微笑を禁じえなかった。またしても奥村と石山
はこの教師をたばかることに成功し、その友情の絆を一段と強めること
ができたのである。そして、私は憧憬していたこの男たちの世界の住人
となることに成功した会心の笑みであった。さらに贅沢にも山田、自然
主義の最先端をゆく山田まで仲間とすることができた。私の至福の時だ
ったかもしれない。 私は全く苦しくなかった。他の者たちは息が切れ
てもはや言葉を交わすこともままならぬ状況だった。顔が紅潮して、崩
れてゆくのが手に取るようにわかった。
やがて小さな川の堤防に沿って走る中間地点の辺りで、山田が悲痛な
呻き声を洩らし始めた。
「だ、だめだ。クソがしてぇ。もうだめだ」
余裕のある私は、振り向くことしかできない奥村や石山に代わって、
「頑張れよ。我慢できないのか」と山田に問うた。
「できねぇ。腹がいてぇ。クソがもれる…」
「ゆっくり走ってやるから頑張れ」
「もうだめだ。先に行ってくれ。クソがもれる…」
そういうと山田は、枯草の堤防を川に向かって下りていった。私は奥
村と石山を呼びとめて、山田を指差した。
「何やってんだ。あいつ」
「我慢できないらしいんだよ」
「仕様がねぇな」
山田はすでにジャージのズボンやパンツを下ろして、尻をこちらに向
けてしゃがむところだった。
その時、金淵という生徒から恐れられている鬼のような体育教師が、
怒鳴りながら走ってきた。
「こら。何やってんだ。走らんか」
私たちは金淵に山田を指差して説明した。
「いいから、走れ。お前たちは走れ」
金淵には逆らえなかった。一番遅い者に合わせて走るという協定はこ
れによって崩れて一人の落伍者を生み出した。
この山田の一件より少し前から、私は大阪へ行くべきを東京行きの列
車に乗ってしまったような、身体の内奥より沸いてくる違和感を感じて
いた。山田のことで一時忘却されたものがまた奥村と石山の三人で走り
始めると頭をもたげてきた。私は少しも苦しくない。奥村と石山は苦吟
している。剣道部は走り込みが足りないのだろう。しかし、考えてみれ
ば瞬時にして勝負を決する剣道に持久力など必要としない。それより瞬
発力である。バスケ部に所属する私はしらぬ間に持久力がついたと思わ
れる。校門を出るところで聞いた、「靖彦、頑張れ」という志摩子の声
援が次第に墨滴の染みを頭の中に広げていた。志摩子はおそらく女子の
中で一位を取るであろう。私が最下位近くでゴールしたことを知れば失
望するであろう。別にそれは構わないと思ったが、その胸に触れたこと
を考えると、自分はずいぶんやくざな、ふざけた男のように思われた。
奥村や石山は息を切らしながらそれでも百ある力のうち六、七十は出し
ているのだろう。自分は二十以下である。今にも列車を飛び降りて、逆
方向の列車に乗り換えたい衝動に駆られた。
三つめの角を曲がって、追い風を背中に受けた時に私は彼らに「やっ
ぱり俺、走るから」と言った。
その時、奥村と石山が何を言ったか、どんな顔をしたか、心の中で何
を思ったか、私は知らない。私は、自分の内奥からの要求に任せて抜け
駆けを決意したまでである。「男」とか「約束」とかいう奥村か石山の
声が吹きすさぶ寒風に混じって背後から聞こえたような気がする。しか
し、私は構わず走った。
彼らはすぐに私の遙か後方となり、私は見る見るうちに苦悶して走る
同学年の仲間たちを追い抜いていった。私は抜きながら彼らに「おい、
頑張れよ」と声をかける余裕もあった。
私たちより先にスタートを切った、肥満体の下級生が仲間を背に負っ
て走っていた。山田に通ずる人間味を彼らに感じ、私は彼らを愛した。
そうして、そういう者も何も追い抜くだけ追い抜いて、結局私は百二十
人いる同学年の男子生徒の中で三十五位でゴールした。
○ ○
私は「３５」と書かれた紙片を手にして、コンクリートのギャラリー
で、後続でゴールしてくる者たちを見ていた。呼吸も完全に平静に戻っ
た時、奥村や石山が、苦吟した表情でグラウンドに入ってきた。私の抜
け駆けの後、彼らはそれなりに力を尽くして走ったのだろう。彼らより
後にまだ幾人かが息も絶え絶えに入ってきた。そして最後に戻ってきた
のは山田だった。目尻に皺を作り、歯を見せながら、無様なしんがりの
帰還だった。山田は今度も仲間の最底辺を担ってくれたのだった。
私を見つけた奥村と石山が近づいてきた。
「裏切り者……」
「男の屑だな」
口々に私をそう痛罵した。それは当然の非難であろう。しかし、私は
彼らに媚びるように笑ったが全く反省はしてなかった。自分は自分の内
奥の欲求に従ったまでで、最善を尽くして走ることに目覚めたのであり
私は正しいという論理を組み立てて自己弁護していた。
奥村はコンクリートの側面を蹴り、石山は霜柱の残る地面に唾を吐き
棄てて去っていった。その後に山田が哀しみを帯びた笑い顔を作って私
のところにやってきて、言った。
「ごめんよ、ヤッちゃん。ごめんよ」
謝らなければならないのはおそらく私の方だっただろう。
「いいから、いいから」と、私は優位に立った者のように応えていた。
その時、男子の後に出発した女子の先頭がグラウンドに入ってきた。
志摩子は今一人の女子と一位をめぐってデッド・ヒートを展開してい
た。私は志摩子が、前の学年の最後尾の走者が行く手をふさぐのをよけ
て、次第に二位と差をつけながら懸命に走る姿を見ていた。そして「あ
の女は俺のものだ」と心の中で呟いていた。
（了）
文芸同人誌「風」 第７号 平成十三年三月 掲載
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