つかず離れず ２
由利未知
甥が人の車にバイクをぶつけてその塗装代に十七万
かかり、十万は工面したが、あとの七万はどうしよう
もないので、助けてくれないか、前借できないかとい
う美己からの懇願があった。七万を許せば、その先さ
らに金の額は跳ね上がって、十万、五十万、百万と平
気で無心されるようになるだろう。格好の金づると見
做されてしまうかもしれない。早いうちに芽は摘まな
ければならない。
七万くらいなら出せない金ではない。「そうか」と
言ってポンと出せば思い切り感謝されるだろう。しか
し、話が込み入っていて、自分の姉の子供、甥の不始
末のための金を私から借りようとしている。その甥は
半年前にバイクを盗んで警察沙汰になっている。保護
観察の身で、またそんな事故をやったことが警察に知
れたらアウトだという。アウトというのは少年院にで
も送られるということだろう。父親がやくざ、母親が
育児放棄のヤンキーとあっては、刑務所行きも時間の
問題かもしれない。
未成年とはいえ、選挙権のある年齢くらいにはなっ
ているなら、自分のやったことは自分で始末しなけれ
ばならない。親ではなく、叔母さんに泣きついて「何
とかしてよ」もないものである。美己は「知らん。自
分で何とかせえ」と突っぱねるべきで、尻拭いをして
いては、ろくに反省もせず、同様の悪事を繰り返すだ
けだろう。真面目にコンビニでも働けば、十万くらい
の金は優に稼げるはずである。そのうちの三万でも返
金に充てれば、半年で完済となる。そうやって社会の
厳しさと自立した男としての自覚が確立されるだろう。
私は美己にそういうことを諄々とラインで説いて聞
かせた。
「ありがとうございます。私のことを思ってくださっ
て」と書いていたが、「このドケチが」というのが本
心だっただろう。こういう場合何も言わずに要求され
た金額をポンと出してやるのが、「檀那」というもの
のあるべき姿かもしれない。理屈を言って説教したと
ころが「ケチ」としか結局みなされない。
私は結局七万の金を出さなかったが、美己は金融機
関を走り回り、これがダメなら闇金しかありませんと
私に訴えていたものを、私は突っぱねてしまって、そ
れからしばらくは連絡がなかった。
「こちらも余裕があるわけではない。美己に会うため
に食費を切り詰め、やりたいことも我慢して会ってい
る。そんなヤクザな不良の甥のために何でオレが七万
もださなあかんのかわからん」などと書いてしまった。
おそらく美己の中で私に対する失望があっただろう。
この男は頼りにならない。いざとなれば逃げていく。
最後まで私を、責任をもって世話してくれる男ではな
いと思っただろう。出してやるべきだったかもしれな
い。美己はそういうお願いをして聞き入れてくれるか
私を試したのかもしれない。そして、私はそのテスト
に見事に不合格となって、「頼りにならない男」とい
う烙印を押されて、今後は適当に相手していればいい
ということに美己の中で腹は決まったかもしれなかっ
た。
しかし、仮にそうなったとしても、こちらとしては、
そんなヤクザな甥のために七万という金を前借とはい
え、支払うのは納得がいかなかったのだから、それは
仕方のないことで、それで十年近く続いた美己との縁
が切れてしまったとしても止むを得ない。もっと建設
的なことで金の御用立てを頼まれるのであれば考える。
高校を中退し、女を孕ませ、人のバイクを盗み、謹慎
中に車にぶつけるとは普通ではない。そんな不良のた
めに一円だって出したくはないという私はまちがって
いるだろうか、いやまちがってはいない。
「闇金に手を出せば一家は崩壊です」と美己は私に
訴えたが、私は応じなかった。
二週間が経過した。一体どうしたのだろう。連絡は
なかった。「美己に会うのに食費を切り詰め、やりた
いことも我慢している」などと書くのではなかった、
と後悔した。それはウソである。毎月二万くらいの金
ならば、酒も飲まない、煙草も吸わない、ギャンブル
もやらない私にはその分だと思えば納得できる。余裕
はある。美己は私がそんなことを書いたので、私に負
担をかけてはいけないと思って、自ら会ってくれとは
言いづらくなったのだろう。
そう解釈もできるが、頼りない男として私を見限っ
たとも考えられる。若いころの私なら女から連絡が途
絶えると、生活に支障をきたすくらいに煩悶して、あ
あでもないこうでもないと考えを巡らせ、あれがいけ
なかった、これが失恋の原因だと臆断して、電話でも
して真意を確かめれば済むことをプライドの高さから
それもできず、「ごめん。なかなか電話できなかった。
元気してる」の相手からの一言で地獄から天国に引き
上げられるようなことが幾度もあった。人間そう簡単
に人を好きになったり急に嫌いになったりするもので
はない。
恋の駆け引きとか、先に連絡取った方が負けだとか、
イニシアティブがどうだとか、そんなことは考えたっ
て、フラれるときはフラれるし、続くときは続くもの
で、太々しく付き合おうとしたり、誘いかけて言った
方が勝ちになることは体験上知っていた。
これまでも、美己との間がこじれたことは幾度かあ
った。
姉の美和とのことで、険悪になって、ヤンキー口調
で罵られたこともあった。
「てめぇよくもぬけぬけとメールなんかしてくれたな、
あーッ。実の姉とやったような男と付き合えるわけね
ーだろう。考えてモノ言え、クソボケ」
美己は悪態をついたので、「そういう言葉遣いはよ
くない、何の得にもならんで」というと黙っていた。
メールで「もう会いません」と言ってきたこともあ
ったが、私は会いたくないというのは美己の本心では
ないことが如実に分かったので、「会ってくれ」「会
いたい」と何度も執拗にメールすると、間をおいて、
「考えます」返答が来て、尚も「会いたい。会ってく
れ」と懇願すると、「いつですか」となって、「明日」
と返すと「わかりました。二時に行きます」と靡いて
くれた。
太々しく時間をかけて迫っていけば女は陥落してく
れる。城を落とす要領は女を口説くのに似ていると勝
新太郎の演じた秀吉が言っていたセリフである。
七万の金の前借を懇請されて、それに応じなかった
ため、嫌われたとしても、私は美己がいいのだから、
執拗に求めていく。ストーカーとは違う。家の近くま
で行って迫るようなことはしない。正攻法で会いたい
というだけの話で、会えば向こうには金が入るシステ
ムだからむしろ歓迎なのだろう。商売女の言を借りれ
ば「絶対嫌な男となら金をもらっても相手はしない」
のだそうだから、絶対嫌いではない限り、稼ぎになる
相手は欲しいばかりである。そこに金を超える感情が
入っていたとしても、「金のため」という口実で「会
ってください」ということができる。自分の感情の本
心を隠すことができる便利な関係だった。
普通の関係ならば、「結局金が目当てなのか」と迫
りたくなる。女の方も、「つまり体が欲しいだけか」
と詰め寄り、「そんなことはない」と言えば、「じゃ
あ、結婚してよ」「今はできない」ということになっ
て揉める。
しかし、私と美己のような関係ならば、余計な感情
はシャットアウトして、利害関係で契約的に成立して
いる合理性があった。
余計な感情ばかりで成り立っている、普通の男女の
付き合いもしたこともあるにはあるが、確かにタダで
会うことはできる。向こうが許せば美己としているこ
とと同様のことができる。しかし、食事代、映画代、
入場料、入園料、ガソリン代、贈り物など少なからぬ
費用がかかり、一回に五千円の散財があるとすると週
一で会ったとしても、月二万かかり大体美己と会うく
らいの費用はかかる。会っている時間は普通の付き合
いの方が断然多いので、好きな女と一緒ならばその方
が差引きしてもいいだろうと思うが、傍から見るほど
女と一緒にいるのは楽しいものではない。気を許すよ
うになるとわがままも出てくる。結婚する気があるの
かどうかと迫られる。こちらも他の男と会っているの
ではないかと気を揉んだりする。嫉妬もする。痴話喧
嘩もしょっちゅうする。総じて面倒くさい。
こういうのをすべてクリアして結婚し、家庭を持つ
に至っている男は偉いと私は率直に思う。家庭を持ち、
子育てをする男は世間的に言えば普通なのだが、その
普通ができない私にすれば羨望の的で尊敬に値するの
である。そんな苦労を乗り越えてまで手に入れたい普
通の結婚家庭生活とはそんなに魅力的なものだろうか。
結婚すれば恋愛感情は消え失せ、「生活」という二文
字が重く伸し掛かってくる。家族のために一日の大半
は捧げることになり、自由なプライベートな時間は著
しく制限される。ほとんどなくなる。そんなことはわ
かっていても好きになった女とバラ色の新婚生活を思
い描いて、自分たちは人とは違うと思って結婚するの
であろう。
デート代の出費は同じで、面倒いことは一切なくて、
男女の交情がもてるならばこちらの方がいいではない
かと思うのだが、結婚に至る交際と違うのは何も生産
性がないということで、私の精虫はゴムの中に閉じ込
められてテッシュにくるまれて廃棄される。美己の卵
殻と合流することは、ゴムに不良品があって、精虫が
通過するほどの穴でも開いていない限り、ない。二人
のつながりを決定的にするかすがいがいつまで経って
も出来上がらない、非生産的な交際である。
「私をどうしたいんですか」
と美己が聞いたとき、
「私をどうしたいんですか」
と美己が聞いたとき、
「美己からは離れられんのや」
と私はうまいこと言ってのけた。しかし、あの時、
「結婚して欲しい」
と、もし言っていたらどうだったろうか。
「え。…ムリに決まってるじゃないですか。ナニ言っ
てるんですか」
と言いつつ、内心無常に喜んだ美己が想像できる。
水商売、ソープランド嬢と身を落とした美己である
が、女である限り、男からのその一言をどこかで待っ
ている。白馬に跨った王子が迎えに来て、花束を差し
出しながら、
「結婚！」
と言って自分をどこかに連れ去ってくれることを待た
ない女はいない。
もっとも近年は事情が変わって、そんな男は砂浜に
砂金を見つけるくらいの確率でしかいないのであるか
ら、自分から白馬に跨って男を探しに市井に下りてゆ
く。適当に見繕って強引にでも肉体関係を作ってとに
かく結婚するというたくましい女たちが増えているよ
うである。
以前は「三高」といって、（高収入・高身長・高学
歴）の男が結婚相手の理想とされたが、不景気が長く
続いた後では、「三平」（平凡・平均・平穏）が結婚
相手としては妥当だとみなされているようである。ば
りばり働いて生活力のある女にしてみれば、自分の意
のままになる気楽な相手のほうがいい。白馬の王子だ
とその後の宮殿生活が気を遣って窮屈にちがいない。
イニシアティブは相手にあるのだから、養ってもらう
代わりに従わなければならない。
それよりは自由にやりたい。子育ても自分のペース
でやりたい。男も男で、年上の嫁さんの方が楽ができ
る。女房の実家だと向こうの両親もよくしてくれると
考えて、女の言いなりになる方が得策と考えて、エコ
タイプのコンパクトカーに乗り、平凡、平均、平穏な
草食的な男子を志して、たくましい生活力のある女の
出現、強引に肉体関係を迫られ、妊娠などの既成事実
も作られて、尻馬に乗せられて連れ去られることを実
際願望する男も増えているようである。
美己はどうかといえば、以前は月百万くらいは優に
稼ぐという逞しさはもっていたが、それは若さを資本
とする限定的な生活力だった。当時は稼いだ金をホス
ト通いにつぎ込んで、あるホストに夢中になり、その
男の子供を孕んだらしいが下したか、流産したことを
姉の美和から聞いた。
「男付き合いなんて面倒くさいばっかりで、恋愛なん
てしたいとも、もう思いません」と店にいる頃は言っ
ていた。
三十五くらいになった頃、
「結婚は考えないのか」と尋ねると、「考えます」と
言って、「いつする」と聞くと「そのうち」と言って
いた。「佐藤さん（私）と結婚したい」とは言ってく
れなかった。そんなことを冗談でも言う女ではない。
根がまじめで、男に甘えられない。男に媚るくらいな
ら、自分独りで生きていく方がマシだと考える女で、
しっかりしていると言えばそう言えるが、男としては
少し物足りない。金の無心ではなく、「寂しいから会
いたい」とか「なんか声が聴きたくなった」と意味も
なくコールしてきたりして欲しいが、そんなことは一
切なかった。事務的なメールしか来ない。私のことは
ただの仕事上の付き合いと割り切って、ビジネスに徹
し、好きな男に見せるような女としての本性は明確に
割り切って、線を引いて見せないのかもしれない。そ
れはそれで寂しいがこちらとしてはありがたいことで
もあって、割り切った付き合いであと腐れがないので
都合がいい。少し物足りないが、これが理想で、望ん
だ関係なのだろう。
連絡もないので、こちらからラインで送った。
「元気か、美己。どうしてる？」
ほどなくして返信が来る。
「元気ですよぉ。佐藤さんもお元気ですかぁ」
周囲の影響か、自ら反省してか、「ぁ」とか「ぉ」
とか小文字の捨て仮名を使ってかわいらしさを演出す
るようになった。スタンプも送られてくる。購入しな
いと使えないもので絵文字が進化して、微妙な心情を
カラフルに表現している。姉の美和に言わせればまだ
人真似の初心者レベルの代物なのだろう。
姉美和は妹美己のことを、気の利かない、流行おく
れの、野暮な女で、何を仕出かすかわからない危険な
女でしたがって結婚もできないと貶している。
一方、妹美己は、姉美和のことを、飽き性で、何を
やっても長続きせず、責任感の欠如した人非人で、チ
ビで不細工だとこき下ろしている。二人はほとんど相
似形なのだからお互いを貶すことはブーメランとして
自分にも直に返ってくることに気づていない。
美己も小柄で一五〇センチくらいしか背はない。し
かし、当人たちにしてみればお互いに、「あんなのと
一緒にされては溜まったもんではない」と心情なのだ
ろう。
オーストラリア人のＡＬＴが、疑問に思っているこ
とを言っていたのは、オーストラリアとニュージーラ
ンドは隣国でも友好関係を麗しく保っているのである
が、彼らからは相似形に見える韓国や中国と日本はど
うして仲良くなれないのか、ということであった。
日本人からすれば、あんな下等な低民度、低レベル、
嘘つきで約束も守れない、エゴの塊のような民族と同
じ黄色人種というだけで一緒にされてはかなわないの
であって、そもそもアーノルド・トインビーが分類し
た七つの文明において、日本は一つの文明を形成して
おり、中華文明とは明確に区別される。決定的に内面
が異なるわけで、文明圏も等しく同じ地政学上に位置
するようなオーストラリアとニュージーランドの関係
と全然異なる。そういうことは歴史学者や文明論者で
ないかぎり、当事者に聞いてみないとわからない。兄
弟姉妹というのは、同じ腹から生まれてきても別物で
あることは自らの兄弟姉妹を想起すればわかることだ
ろう。似ているのは外面と表面的な癖や習慣くらいで、
人格はまったく別物である。
彼女らの言い分はそれとまったく同じで、姉妹であ
るからといって、一緒にされることを極端嫌がってい
た。だから、一緒に見做してしまった私を巡って姉妹
は酒の勢いもあって、盛り場で殴り合いの喧嘩をして、
美己は肩から乳房にかけて痣を作っていた。
「私はあの女とは違う」ということを白黒はっきりさ
せる闘争だったと思う。
美己は生活上の事情からか、私に恋愛感情を少しは
持ったためか、ラインのやりとりにかわいらしさが少
しは滲むようになった。
いつものようにまた会うことになった。
甥の一件はまったく問題にしていないようである。
どうなったかは知りたかったが、会った時聞けばいい
し、吝嗇だったかもしれないという負い目も多少あっ
たので触れないでいた。
待ち合わせは美己の家の近くのコンビニである。そ
こから歩いて十分くらいのマンションに住んでいるこ
とは知っているが、家の前まで迎えに来てほしいとは
決して言わない。住居を知られたくないのだろう。こ
ちらも名前すら明かしていない。「佐藤」というのは、
店に通い詰めていた時の偽名で、待合室で茶を飲んで
テレビを見て待っていると、他の客もいる中で、従業
員が、
「それではさくらさん御指名の佐藤様。お待たせいた
しました。ごゆっくりどうぞ。行ってらっしゃいませ」
などと、無神経に言うので、本名を呼ばれてもしや知
り合いが客にいて振り向かれでもしたらと思うと偽名
を使うしかなかったのだが、そのまま私のことは「佐
藤」で通っている。美己は私のことを「佐藤さん」と
いう。
美己の誕生日は二月七日だということは聞き出して
知っている。誕生日にはおめでとうとラインで送る。
しかし、彼女から私の誕生日はいつかと聞かないので、
私の誕生日にメールは来ない。
「客のことはあれこれ聞くな」と教育されているのか、
元来人のプライバシーには興味ないのか、好きでもな
い男の誕生日など知りたくもないのか、いずれかだろ
う。これだけ長いこと相手をしていて、誕生日に祝福
のメッセージをもらっておいて、「ところで佐藤さん
の誕生日はいつなんですか」くらいは聞いてもいいと
思うが、そんなこと聞けばメッセージとかプレゼント
とか面倒なことになるので聞かないのかもしれない。
いずれにしても好きな男に対する態度ではない。ただ、
バレンタインには、義理っぽいチョコレートはくれる。
コンビニで買った安物であることはわかる。「時間が
なかったからごめんなさい」とか言っているが、好き
な男に対してなら、ゴディバとかリンツをくれるとか、
手づくりのハート型をくれるとかするのが本当だろう。
金がない、バイトを三つ掛け持ちで時間がないという
のも確かだろうから、仕方がないかもしれない。
クリスマスには「メリークリスマス」、元旦には、
明けてすぐに挨拶を送ってくる。どうでもいい男と言
う訳でもないだろう。
コンビニに待ち合わせて時間に遅れてくることはな
い。必ず十分前にはやってくる。時間にルーズで待た
されるとそれだけで人間性を疑いたくなるが、時間厳
守のこの一面だけは褒められる習慣である。姉の美和
も数回待ち合わせたが、時間に遅れることはなかった。
母親か父親から時間厳守を厳しく指導されたか、花柳
の世界で仕込まれたことかもしれない。
道路に面したコンビニなので、車が信号で停止し、
右折するのを待っているのを美己はコンビニの前から
確認できるはずだが、手を振るとか微笑むとか大抵の
恋する女が男に対してするようなしぐさを決してしな
かった。美和もしなかった。眉間に縦じわを寄せてじ
っとこちらを伺っているだけである。
他の男には普通に微笑したり手を振ったりするのか
もしれない。私に心を許していない証拠かもしれない。
しかし、そんなことはどうでもいい。女は表面とは裏
腹な内面を持っていることを私は身内の女に確認して
いる。散々陰で悪口を叩いていながら、当人の前では
微塵もそんなそぶりも見せず、少女漫画の主人公のよ
うな目をして、懇意に振舞っている。相手が去ればま
たぼろくそな悪口をまくしたてている。
そういう女に騙されている男は世間には星の数ほど
もいるのだろう。騙されていたことも気づかずに付き
合いを終わってしまった付き合いもあったであろう。
それならそれで知らぬが仏でよかったのかもしれない。
男を惑乱させる媚態を変に作るよりは不愛想の方がナ
チュラルでまだいい。私と美己が続いているのはそれ
が理由かもしれない。
「おはようございます」と午後であるのに、業界挨拶
をする。助手席に乗り込んでくる。
私は車を走らせる。
しばらく沈黙がある。
お互いまったく違う世界の空気を呼吸しているのを
意識してしばらくはお互いの持ち込んでいる空気が混
じりあい、中和していくのを待っている。親しい間柄
でも一か月のブランクがあれば、話の取っ掛かりに困
るときもある。
美己が黙っているので、私から話しかける。
「今日も仕事か」
「はい。午前中は喫茶店でした」
「夜もか？」
「夜もありますね」
「そりゃ大変だ」
ここでまた会話が途切れる。
車の走行に連れて景色が流れていく。コンビニ、高
校、ラーメン店、交差点、県のコミュニティ―施設、
ＪＲの高架があって、道路はその下をくぐる。
「で、どうなったの」
聞かないのも不自然な話題を振ってみる。
「えっ」
「甥の車の弁償の話」
「ああ、あれ、払いましたよ」
あれだけラインでやり取りしたのだから、その吝嗇
をなじるとか、ムリなお願いをしてすみませんでした
と詫びるとかあってもよかったが、美己の頭の中には
済んだ話として収まっていたようだった。
「どうやって払ったの」
「借りました」
「誰に？」
「店のママに」
ラインのやり取りではママには病気の時も前借した
のでこれ以上迷惑はかけられないということだった。
私は店のママの度量に負けたことになる。
そのママというのは、美己と同年齢で、酒は一滴も
飲めない人らしい。美己はナンバーツーとして、飲め
ないママの分をサポートしている。美己は飲める。姉
美和の話では底なしに強いそうである。そして、あち
らの方も強く、男との交情が好きで、好きなことと仕
事がマッチしているので羨ましいと美和はこぼしてい
た。
しかし、酒には強いが、何をするかわからない性格
で姉妹と母と飲んでいた時に、当時付き合っていたホ
ストの悪口を言われて逆上し、部屋にあるものを次々
に倒したり、落としたりして、興奮して、ついにはベ
ランダの手すりを乗り越えて下まで落下してしまった。
四階から落ちたわけである。十五メートルくらいはあ
る。奈良の大仏のパンチパーマのような螺髪から落下
したことになる。清水の舞台も同じくらいである。し
かし、清水の舞台から実際飛び降りた人が江戸時代に
二百三十四人いたらしいが、生存率は八十五％を超え、
若い人では九十％を上回る。ほとんど助かっている。
美己も怪我をして救急車で運ばれたが、助かった。
警察が来て検証をしていった。美和は警察の検証に立
ち会って、美己が落下した植え込みを指さして写真を
撮られた。おそらくその時もスマイルではなかっただ
ろう。落下すれば手足の骨折とか、全身打撲とか考え
られるが、美己は驚くべきことに恥骨骨折だった。ど
うやって落下したら恥骨だけの骨折になるのか知らな
いが、とにかく女にとっては大事なところを負傷し、
二週間の入院生活を余儀なくされた。
そういうことで酒に強いが酔うと何を仕出かすかわ
からない美己は酒が一滴も飲めないのにラウンジを仕
切っているママから七万の金を借りて甥がぶつけた相
手の車の塗装代に充てた。
「それにしても己和（きわ）はちょっと悪すぎやしな
いか」
私は運転しながら尋ねた。相手の身内を悪く言って
はいけない。例え相手が悪口を言っていてもそれに同
調して悪く言ってはいけない、という結婚生活の戒め
を聞いたことがあるが、私は聞いた話から総合して、
私にも金の無心をされるというトバッチリが飛んでき
たことから、己和の悪口を言いたくなってつい言って
しまった。
「そうですね。悪いですね」
「反省はしているか」
「してますね」
結局七万の金を出してくれなかった男がその上、甥
の悪口まで言いやがる、と美己は内心苦々しく思って
いたかもしれない。電話では悪態をついたことはある
が、面と向かって美己が私に抗議するとか感情的にな
るとか一度もなかった。
密かに舌打ちしたり嫌そうな顔をしてるのではない
かと助手席をうかがったが、普通の顔をして前を向い
ていた。
「家庭裁判所って何？ 前にも悪いことしたのか？」
「半年前にバイク盗んで捕まって、大人しくしている
ように家裁から言われてたんです」
「盗んだ…。じゃあ、今回車にぶつけたバイクも盗ん
だやつか」
「いえ、それは買ったヤツです」
「バイクってそう安くはないな。自分で買ったのか」
「いえ、私の知り合いの人が、オレが買ったるって買
ってくれました」
安くても十万以上はする。そんな金をポンと出して
くれるスポンサーが美己にはついていることになる。
私は俄かに動揺した。甥にバイクを買ってくれた男
がいる。その男にお礼をしなければならないが、美己
ができるお礼といえばそれは思い切りサービスするこ
とである。思い切りのサービスといえば男が一番欲し
ていることをしてやることである。男が一番欲してい
ることというのは、私と美己がこれからしようとして
いることである。
美己が他の男に抱かれる！
美己が他の男に身を摺り寄せて悶えて声を上げる！
美己が、多額の金もポンと出してくれる男に心惹か
れていく！
そう思うと私は穏やかではいられなくなった。若い
ころの私ならばとても耐えきられなくなって、車を停
めて美己を下すか、Ｕターンしてコンビニで美己を下
すかして言っただろう。
「もういい。その男と仲良くやってくれ。じゃあな」
そうすることが本気の恋愛の証であり、相手もその
情熱に、嫉妬の深さに感動してくれるだろうと思って
いた。
しかし、今の私は心のうちにわずかな波乱は確かに
起こったが、蹴散らせるくらいのミニ津波で、人も家
ものみ込んでしまうほどの巨大津波ではない。
「ふーん」
と言ってポーカーフェイスのまま運転し続けるだけ
であった。しかし、一言言ってやった。
「そんなら、その人に七万円出してもらえばよかった
んじゃないの」
やや動揺したのは美己の方で、
「あ、その人、もう連絡取れなくなってるんで、ダメ
ですよ」
余計なことを言ってしまったので取り繕うような言
い方だった。そうやって慌てるところを見ると、その
男とは相当深い関係にあるのかもしれない。その男は、
甥にバイクを買ってやれるくらいの経済力のある男で
その見返りに美己の体を自由にしていると思うと、完
全に美己は自分独りの所有物のように思っていた私と
してはあまりおもしろい気分ではなかった。
実際その男とはもう連絡も取れなくなって切れてい
るのかもしれない。山田のおっさんのことかもしれな
い。しかし、美己がはっきり言わない分、こちらは余
計な空想を膨らませて、自分には太刀打ちできない、
会社の重役か経営者で、美己はその男に身も心も惹か
れつつあるのではないか疑りたくなった。これから行
うことのスパイスになるのか興ざめの要因になるのか
知れなかった。
「店の客で美己に入れ込んでいる人とかはいないの」
以前そう尋ねたことがあった。
「います。毎週来て私を隣に座らせる人がいます」
「で、体触ったりされるの」
「そういう店じゃありませんから、そんなことはしま
せん」
「誘ったりするの」
「されますね。でも断っています」
「男に迫られれば悪い気はせんやろう」
「でもその人やくざなんです」
「やくざ…」
皮のジャンパーを着て角刈りでいかつい顔だが惚れ
た男の弱みで店に通い詰めて美己に迫ってくる頬骨の
出た男が浮かんだ。
その男と私が対立することになったら、とても太刀
打ちできない。その男と一対一で徒手空拳で戦うのな
らなんとかなるかもしれないが、バックにいる組関係
の若頭とか手下の鉄砲玉のような若いのが出てきたら
到底かなわない。
「私、やくざ嫌いですから」
私の気持ちを察してか美己はそう言った。
「自分からオレはやくざだって言ったのか」
「話聞いてればわかりますよ。そっちっぽいことしゃ
べってますから。それに指がないですから」
姉の美和も東京まで付いていって妊娠させられた相
手の男は妻子持ちのやくざだった。この姉妹はそうい
う男を引き付けるところがある。それでは美己に十年
近くも引き付けられている私は何なのだ。私もヤクザ
の血が流れているのか。おそらく多分にそういうＤＮ
Ａや血は持っているのだろう。父は戦争から復員して
くるとしばらく単車を乗り回し、ちんぴらがかってい
たという、親しい人からの証言を聞いたことがある。
その妹つまり叔母は完全に道を外れたヤンキーで薬に
も手を出していた。私はまともな就職をせずに塾の講
師をしている。結婚もしていない。これは見方によっ
てはやくざな人生で道を外れている。美己に惹かれる
のは必然なのかもしれない。指のないやくざは同類と
いうことになる。
私はその指のないやくざが美己の甥のバイクを買っ
てやったのではないかと勝手に思い込んで、嫉妬しな
いわけにはいかなかった。
それでも「今日はやめよう」と言う訳にはいかず、
私と美己はいつもの場所へ向かっていた。
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０１７年月１号 通巻第９４号
［原稿用紙３３枚］
