つかず離れず
由利未知
ラインが入っている。
長い文章が打ってあった。仕事の合間なので、流し
読みしたが要は金に困っているということである。甥
の和己が暴れて人の車に傷をつけたという。相手が怒
鳴り込んできて十七万を請求されたので十万はなんと
か払ったが、あと七万がどうにも工面できないので、
前借できないだろうかという内容だった。
とうとう来たか。
所詮金目当ての付き合いでこの男からは金がいくら
でもむしりとれるかもしれないということになると何
のかのといって、金を無心するようになる。
最近読んだＮの小説にもソープランド嬢に入れ込ん
で闇金に借金をして返済に窮しているので必ず返すか
ら百万円貸してくれないだろうかと懇願されて、相手
の気を引くためにいい顔をして百万を渡したところが
姿をくらまされてしまった、という話だった。そのソ
ープランド嬢は、金を持ってきた主人公にキスをする
と最後の交情を自ら求めていったが、陰部が臭かった。
風呂に入らずにやってきた。主人公は歯も二回磨き万
全のデート態勢で百万もって出かけていったのである。
事実とすれば男心を弄んだひどい話だと思う。男はや
け酒を飲み、やけ食いをしてふらふら街をさまよった。
金の相談をされた時点で気づかなければいけなかった
が、女に飢えた男の頭は正常な思考ができない。あの
女に限ってそんなことはあるまい。本当に困っている
のだから、ここで自分が力になってやれば、向こうの
気はぐっとこちらに傾くにちがいない。そうでなくと
も「愛」は相手のために無償の献身をすることである。
たとえそれが、巧妙な詐欺にしても騙されて相手が喜
ぶならばそれをわが喜びとしなければならない。そう
考えて金を用意して渡す。姿をくらまされる。騙され
たと気づいた時点で喜べばいいが、そんな聖者、聖人
君子のはずがない。怒り、憎しみ、口惜しさがこみ上
げてどうしようもなくなる。
そんな話を読んだばかりだった私は、これはとうと
うやってきたと思った。美己も元風俗、今もラウンジ
と呼ばれる盛り場の店でパートで働いている。水商売
の女である。一方昼間は、自宅近くの喫茶店のウエイ
ターとホームセンターの裏方として働いている。風俗
を辞めてからさすがに収入が減ってしまったので、バ
イトを掛け持ちしなければならない。中卒なのでホー
ムセンターにしても正社員になれない。
風俗を辞めた当初は贔屓の客が数人いて継続して会
いながら援助の金を得ていた。その一人が私だった。
しかし、それらの客も一人減り、二人減り、とうとう
私だけになってしまった。しかし、それは確かめたわ
けではないからまだつながっている客は他にもいるか
もしれない。山田という六十代のおっさんの話は美己
の口からよく聞いていた。すでに定年で仕事の第一線
からは退いているが、とにかく働き盛りにはよく働い
て金は貯めたらしい。妻子はあるのかどうかは知らな
い。山田のおっさんは美己にメールをしてもなかなか
返信がないのによく腹を立てた。確かに美己は返信が
遅い。夜打つと翌朝しか返ってこない。どうでもいい、
こちらの甘えたようなメールは無視する。返信も女ら
しからぬ不愛想な素っ気ないもので、「わかりました」
「ありがとうございます」「いつですか」などと短い
内容しか返ってこない。仕事と割り切っているからか
もしれない。しかし、仕事ならばなおさら男の気を引
くように「ナニしてますかぁ？ 早く会いた〜い。美
己のこと放っておかないで」などと送れば単純な男は
それで突進していくのである。週一くらいでも会いた
いと思うだろう。
絶対にそんなメールは打ってこない。それで返信も
遅いとあれば山田のおっさんも怒るのもムリはない。
会ったこともない私より一世代上のおっさんであるが、
その気持ちは共有できて「そうだ、そうだ」と連帯感
すら湧いてくる。美己にそれを指摘したこともあった。
しかし、「はい、すいません。気を付けます」と返し
たきりで、改まることはなかった。
そんなことだから、客は減り、店も辞めることにな
って、支援していたなじみの数も減ってしまったのだ
ろう。しかし、それは私としてはむしろ歓迎すべきこ
とで、美己を独占できることになる。山田のおっさん
も同様に考えていたらしく、店を辞めたころストレス
か安心感からかぶくぶくと太り、十五キロくらい体重
が増えたことがあったが、山田のおっさんは「もっと
太れ。もっと食べろ」と言った。「もっと太れば客が
つかなくなるから俺はそのほうがいい。太って動けな
くなった美己を俺が世話する」と言った。それは私も
同じ考えだったが、さらに私は豊富な肉に圧迫される
のを喜ぶような変態的な嗜好があったため、美己がぶ
くぶく太ることは二重の意味で歓迎だった。しかし、
美己としてはまだ三十代半ばの独り身の女としては痩
せたいばかりで、その後「ラウンジ」でバイトするよ
うになると細身にもどってしまった。一時はあばらが
浮き出るくらいにやせてしまったので興ざめしたが、
今はちょうどよいくらいに肉がついている。当人はま
た痩せたい、腹の肉をなんとかしたいと言っている。
「今月は会えますか」と打診のメールを打ってくるこ
とがある。事務的で素っ気ないので皮肉の一つでも言
いたくなる。こちらが優位に立っているので無理な要
求もしてみたくなる。
「金のためなら山田さんや他のじいさんたちに当たっ
てくれ」
「山田さんはもう連絡が取れなくなって、長いです。
佐藤さん（私のこと）しかいません」
男に甘えることが下手で若さと多少の男好きのする
顔だけでやってきたが、内面のかわいらしさがなけれ
ば男相手は厳しい。
「わかった。それじゃあお願いがあるがいいか」
「なんですか」
「この前部屋に置いてあった黒いアイマスクと手錠の
ようなロープを美己につけたい」
「私を目隠しして縛るということですか？」
「そういうこと」
「わかりました」
「それからゴムなしでやりたい」
「それはダメです。ピル飲んでませんから」
なんでも引き受けてくれそうで、しかし、ダメなこ
とははっきり言う。それが結構毅然としているので、
それ以上頼めない雰囲気がある。こちらも本気で頼ん
でいるわけではないので、それ以上は頼まない。万が
一美己が妊娠してしまったらそれはまた大変なことで
責任を迫られたら甚だ困るのはこちらの方である。「
いいですよ」などと言わずにすんなり拒絶されたこと
に安堵している。
店を辞めて五年。店にいたときも四、五年通ったの
でかれこれ十年の付き合いになる。二十代だった美己
は三十八の熟年女になっている。
美和という年子の姉がいて同じように風俗で働いて
いたが、これが飽き性で何事も長続きしない。しかし、
美己とちがうのは男に甘えることができることで、二
十歳の時に好きになった男について東京に行った。そ
して子供を孕んだため、結婚を迫ると相手は妻子がい
る上、やくざ者だということが判明した。姉の窮地に
上京し、乗り込んで行って談判したのが美己である。
「はっきりしたらどうなんだ。責任取るのか取らねぇ
のか、てめぇが手つけた女だろうがッ」
やくざと言っても下っ端の男は美己の迫力にたじた
じになって縮こまりはしたが責任を取るとはついに言
わなかった。こんな男は埒が明かないということで、
見切りをつけて姉妹は大垣の実家に戻った。彼女らに
は義父がいた。母は実父とは離婚して再婚していたの
である。その義父が「わかった。俺が責任もって生ま
れてくる子の面倒はみる」と言ってくれた。
ところがこの義父は間もなく病に倒れて死んでしま
った。姉の美和は生んだ子供よりも新しい男、男にし
か興味のない女だった。育児全般を次第に母と妹に任
せるようになって、責任感の強い美己が父親役、生ま
れてきた男の子にとって祖母にあたる母が母親役とな
って、子は育てられた。
姉美和は別にアパートを借りて自由に生活していた。
美己が身体の具合がすぐれないとき姉を紹介されて、
私は姉美和の客になったことがあった。どんな姉かと
会うまで楽しみと緊張感があったが、美己とほとんど
相似形で、声もよく似ていた。違うと思ったのはメー
ルだった。会ってすぐに「また来週会ってもらえませ
んか」とメールが来た。こちらから遊びでメールして
も美己のようにスルーすることはなかった。すぐに返
事が返ってきて、「そんなこと言わないでよぉ。もう
イヤッ」などとシナをつくることもできた。そこは美
己とは大違いで相手にしていれば楽しかった。
私は美己と美和と交互に客になってどちらもそれほ
ど違いはなく、二人とも一緒に相手にできることを夢
想していたが、彼女たちはお互いのよがった姿を見る
など冗談ではないと思っていたのでそれは実現しなか
った。
美己が紹介してくれた姉であるし、その後、美己に
聞いても「美和もよろしく」と言っていたので問題は
ないと思っていたが、どうも私を巡って、姉妹は険悪
になって、酔った時に盛り場で殴り合いのけんかにな
ったらしい。美己は、肩から乳房にかけてあざを作っ
ていた。
「お姉にやられた」
「美己と美和のことどう思ってますか」と酔ったとき
かと思われるが、メールが来たことがあった。
姉妹を交互に相手にして、「こんなことやっててい
いんだろうか」という、その贖罪意識からか私の足の
指は水虫に突然冒され、それの菌がどこかに入り込ん
で化膿して歩行も困難になった。左足の指と指の間の
水虫で、水虫などなったことがない私が突然こんなこ
とになったのは、姉妹を掛け持ちして快楽をむさぼっ
ていることに対する罰（ばち）だろうと思った。私は
もともと美己の客である。美和は浮気したようなもの
で、本来の相手ではない。そう判断して、「もう美和
には会わない」と美己に宣言した。すると見事に水虫
は引いて歩行も楽になり、水虫は快癒した。
姉の美和からはその後もたびたびメールがあって、
「お金に困っていますから、会ってもらえませんか」
と懇願されたが、また歩行困難にはなりたくない私は
婉曲的に拒絶した。そのとき「付き合ってくれるなら
会ってもいい」とかいい加減なことを調子に乗って送
ったのが美己に伝わって「お姉と何、メールでやり取
りしてたんですか。人間性疑いますけど」と言われた。
そういう嫉妬をしてくれることは私としては嬉しいこ
とだった。
姉妹を二股かけたところが、何も楽しいものではな
く、面倒なだけで、そっくりの姉妹を相手にしても、
一人を相手にしているのとなんら変わりはない。せめ
て純潔の証として、もっともこんな付き合いに純潔も
へったくれもないものだが、姉の美和は拒絶して美己
一人を相手にすることで、男としての操を立てたいと
思ったのである。
そういう思いが通じてか、美己が相手にする客は私
一人になり、彼女は、午前中は知り合いの喫茶店、午
後はホームセンターの裏方、夜はラウンジで水商売と
いうバイト生活に徹して私一人を身体を許す客として
頼ってくれるようになった、ようだった。それは確認
していないのでわからない。調子のいい姉美和と違っ
て美己は嘘をつくような女ではなかった。
私は美己に専念するようになったが、一方、姉美和
は家賃が払えなくなったという理由で、アパートを引
き払って、母親と妹と息子がいる実家であるマンショ
ンに戻ってきた。自分の生んだ実の息子を母親と妹に
預け、すぐ近くのアパートに住んでいたが、家賃が払
えなくなって戻ってきたという、あきれ果てた娘、姉、
母親が歓迎されるはずもない。身勝手に好き勝手に生
きている姉には美己も愛想が尽きていた。ファッショ
ンヘルス、コンビニ店員、道路工事人、パチンコ店員
など、どのバイトも長続きせず、家賃も滞納して追い
出され、行く場所もなくなって、実家に戻ってきたの
である。しばらく居候をしていたが、酒を飲むと必ず
姉妹、母娘で喧嘩となった。美己たちの実父と離婚し
て再婚したがその旦那に先立たれ、今は独り身で年金
生活を送る五十代半ば過ぎの母親と三十代真ん中の姉
妹が三人とも煙草を吹かしながら、酒を飲み、酔って
くると必ず喧嘩になるという図もまた凄まじいものが
ある。私は現場を見たわけではないが、汚い言葉で罵
り合う図が彷彿とする。
「なんじゃ、てめぇ、出戻りのくせしやがって、どの
ツラ下げてここにおるんじゃ」
「おめーにそんなこといわれる筋合いはねえ。妹の分
際ででけー口きくんじゃねえ」
「酒がまずくなるからやめてくれ。寄ると触ると喧嘩
しかできねーのかおめーらは」
その時、美己の甥、美和の息子である己和（きわ・
美己と美和の下の字を取って命名した）は隣室で口を
開けてあどけなく眠りこけていたと思われるが、父親
は行方の知れないやくざで、そのＤＮＡをしっかり受
け継いでやがてそれは表面に見える形であらわれてく
るだろうし、母親、叔母、祖母がそんな酒宴をする家
庭環境で、まともな育ち方をするとは到底思われなか
った。
中学に上がったと聞いたときどんな子かと聞くと、
「おぼこくて、かわいい、まだ私と一緒に風呂に入っ
ている」と美己は言っていた。中学くらいになれば陰
毛も生えて、それを身内に見られるのも避けたがるは
ずであるが、育ての母のような叔母とまだ風呂に入っ
ているというからにはやはりおくての子なのだろう。
煙草は、と聞くと「私らが吸っていると煙臭いといっ
て、嫌がる」そうだった。それは中一の頃の話である
が、中学生というのは、完全変態の昆虫に例えると蛹
の期間で固く固まっているが微妙に著しく内部では変
化が起こって、気が付くと完全に姿を変えている。
己和は夜遊びをするようになり、彼女もできた。そ
の娘を家に連れてきたが、美己が言うには不細工だっ
た。姑と嫁のような立場であるから己和の彼女は同性
として厳しく見る。自分のことは棚に上げて、暗いと
か気が利かないとかかわいくないとか難点を列挙した。
メールに入った写真も見せてもらったが、マスクをし
て顔はよくわからない。十代にしては老けて見え、最
初美己の友人かと勘違いした。
己和はなんとか定時制の高校には入ることができた。
真面目にやっていれば高卒の肩書は手にすることがで
きたのである。そうすれば正社員として安定した会社
に就職する道も開けたはずである。しかし、どういう
経緯だか詳しくは聞いていないが、ろくに登校もしな
くなり、中退してしまった。そもそも親からしてが、
中卒でその中学もろくに登校しないでたまに登校して
も校長室で校長と一緒に煙草を吹かし、禿げ上がった
先生の頭に薬用紫電改をふりかけて棒で叩いていたと
いう母親と行方知らずのやくざ者の父であるから、真
面目に勉強しろという方が無理だったのだろう。叔母
である美己にしても姉と同様の道をたどり風俗に身を
落としてしまった。しかし、美己は姉と違って高校進
学もかなり真剣に考えて私立進学を先生にも相談した
のである。しかし、結局はやくざな姉と同じになって
しまった。初めは単純労働の工場で働いたが、根気の
ない性分で続かない姉は風俗に声がかかるとそちらに
靡き、月百万は裕に稼げる道に妹も導いてしまった。
こんな母や叔母に「学校へ行きなさい」と言われた
としても説得力がない。祖母も含めて喫煙し、酒を飲
んでは汚い言葉で罵り合うような家庭環境で真面目に
やる気が起こるはずがない。
母である美和はまた実家を出て、工事現場で知り合
った男と暮らすようになった。息子のことはもう母親
と美己に任せた、自分は関わらないと言いおいて男の
下に走った。要するに母であるより女として生きると
いうことである。これは世間では無責任と評価される。
畜生にも劣る外道とみなされても仕方がない。しかし、
そんな評価や世間体など当の昔にかなぐり捨てて、あ
るいは元来持ち合わせていない半生を送っている美和
にしてみれば、自分が自分の幸福を求めて何が悪い。
息子に束縛される筋合いはない。そもそもあの倅はや
くざ者が自分を騙して妊娠させ、責任もとらずに自分
に押し付けた男の分身である。何で自分がそんな倅に
束縛されて一生を送らねばならないのか。幸福になる
権利は自分にもある。好きな男と結ばれて幸福になる
のに邪魔になる倅ならば放擲してもよい。幸いしっか
りした妹と母親がいる。倅はあの者たちに懐いている
ので面倒をみてもらえばそれでいいだろう。それも天
の配剤で自分は倅という束縛から解放されて自由に恋
愛をして好きな男と幸せになる権利がある。女として
生きる道がある。
そう考えたのだろう。自宅からは数十キロ離れた場
所で工事人足をする男と生活を始めた。当然、美己と
姉は大喧嘩になり、己和はどうするつもりだ、自分が
生んだ子供ではないか、と美己は姉に迫ったが、男の
ことしか頭にない自由奔放な美和は聞く耳も持たず、
未練も後ろめたさもなくさっさと出て行った。己和が
「お母さん…」とか言って泣いて縋れば、また美和の
心もさすがに揺れたかもしれないが、倅の方でも美己
や祖母の方にアイデンティティがあったために、どう
ぞご勝手にという冷淡な反応だった。
押し付けられた美己たちはいい迷惑である。その甥
ができのいい品行方正、謹厳実直な少年ならまだ救わ
れる。そうした場合でも大学に進学させるとかまた苦
労が出てくるが、奨学金とかバイトでそういう人間な
らば自立して叔母や祖母に迷惑をかけないように生き
ていくだろう。しかし、己和は次第に本来のＤＮＡを
発揮して、やくざな道に突進していった。夜遊びをす
る。その仲間が悪いことを教える。喫煙、飲酒、万引
き、不純異性交遊、ドラッグまではどうだか知らない
が、行きつく先は見えていた。父親と同じ道を驀進す
ることになるだろう。彼女を作っては短期間で次々に
相手を変えた。美己に言わせると不細工ばかりで、つ
まり自分の器量に劣る女ばかりである。己和が持てる
男だというわけではない。母親に見捨てられ、潜在意
識で母親の愛を求めている己和が身近な女の子の中に
母親の愛を見出して求めるために女の子の方でも自分
を必要としてくれる己和を不憫に思って相手をしてい
るという図があった。
類は類を招んで相手にする女も美己に言わせれば不
細工で内面もヤンキーのあばずれだった。家を出て己
和の部屋に居候するケースになることが多かった。己
和が「俺んち来いよ」とか盛んに誘ったからだろう。
母親はいない。甘いおばあさんとちょっと厳しい叔母
さんがいるだけの己和の家ということで、来やすかっ
たのだろう。
そうすると、女の子の両親が「ウチの子を返せ。監
禁するな」と怒鳴り込んでくる。そんなつもりは毛頭
なく、食事の世話までしてやっているのに「監禁」と
は何だと美己もカチンとくる。
「はぁ〜？ どういうことですかぁ」
「ウチの子を返せと言っとるんじゃ」
「返せも返さないもそっちの子が勝手に上がり込んで
居ついてだけの話じゃないですか」
「ウチの娘をたぶらかしたのはそっちの坊主とちゃう
んか？」
「たぶらかす？たぶらかされてイヤイヤやってきたと
は思えない様子でしたけどねぇ」
「とにかく瑚々亜（ここあ）は泣いて帰りてぇって俺
に訴えたんや。返せ」
「ココアかカフェオレだか知りませんけどね、こちら
としてもさっさとお引き取りいただいた方が助かるん
ですよ。どうぞお連れください」
「警察に訴えてもええんやぞ。監禁しやがって」
さすがに美己も堪えられなくなる。生来のヤンキー
の地が出てくる。
「やかましいは、じじい。そんならこっちは住居不法
侵入に訴えるぞ」
そういうやり取りがあったようだが、部屋の中から
己和の彼女を引っ張り出してきて、
「あんた、泣いて帰りてぇとか言ったのか」と確かめ
た。娘は窮地に追いやられ、泣き出して言ったとも言
わなかったとも言わなかった。
「二度とウチの娘と関わってくれるな」
「それはこっちのセリフやわ。二度と来るな」
美己もヤンキーの血が騒いで、負けじと罵り、父親
と眼付き合わせていた。
「悪ガキも悪ガキなら育てた親もズベ公や」
「うるせぇじじい、さっさと帰れ」というと美己は台
所から塩を持ってきて鷲掴みにすると親子めがけて投
げつけてドアを閉めて施錠した。外からドアを二、三
回蹴られた。
それでもその娘とはまだしばらく続いたようだった
が、次に聞いたときにはすでに別の女になっていた。
そして高校は退学させられたのか、自ら退いたのかわ
からないが、とにかく辞めていた。そしてふらふらし
て、コンビニで一応はバイトしてまたその金で悪ガキ
たちとつるんで遊び歩いていた。
また新しい彼女を家に引っ張り込んできて、部屋で
夜中までしゃべっていたかと思うとよがり声なども聞
こえたりして、やがて新しい彼女の妊娠二ヶ月が発覚
して美己たちは驚愕し狼狽した。
「どうするのよ。生活力もないのに子供作って」
「オレは下せって言ったけど、花音（かのん）は産む
と言ってる。オレは花音とその子のために頑張って働
いてもいい」
「そんなこと言ってコンビニの店員でどうやって二人
のめんどう見るの」
「生活ナントカを受ける」
「生活保護か？ そう簡単にはいかんよ。私らがいる
から援助してもらえって言われるて、きっと」
「じゃ、そうする」
「あほ。甘い。この家が大変なことはあんたやってわ
かっとるやろ。あんたのお母さんは家賃入れてくれん
かったし、おばあちゃんの年金とわたしのバイトでな
んとかやってるんやでね。あんたがしっかりせなあか
んのやに、あんたまで私らに世話かけてどうするの」
「働くでええて」
そんなことを言って己和は煙草に火を点けて、狐の
ような目をした彼女と部屋に入って、またテレビを見
ながら夜中までしゃべっていた。
ところが己和の彼女は幸か不幸かあっ気なく流産し
てしまった。わずかな期間だったが母親としての自覚
も持ったと思うので、さぞ悲しんだだろうと思いきや、
医者の帰り路、マクドナルドに寄って思い切り好きな
ハンバーグやポテトフライを食べ、ドリンクを飲んで
快活にしていた。出産、子育てという大いなる束縛か
ら解放され、釈放された容疑者のような晴れ晴れとし
た気持ちだったのだろう。それは己和の母親美和と似
ていた。母親と似た女を無意識のうちに己和は選んで
しまうのだろう。
そんな話を聞いていた矢先の美己からのラインだっ
た。
「こんなお願いをするのは本当にこれで最後にします
から、聞いてください。甥の己和が暴れて人の車に傷
をつけてしまいまして、その車がメタリック塗装の車
で十七万の塗装代がかかるそうですが、十万はなんと
かそろえましたが、後の七万がどうしても工面できま
せん。前借りできませんか。佐藤さんしかお願いする
人はいなくて。しばらくは一万円で会ってもらってい
いですから」
一回会うたびに二万円を渡していた。これまでも病
院代が足りないので前借したいなどとたびたび懇願さ
れ、急場をしのぐ金を渡し、いつもは見送ることもな
い美己がいつまでも手を振って感謝の意を表している
のがバックミラーに映っていた。それで感謝されて美
己の気持ちを引き付けられるならそれに越したことは
ない。
しかし、それよりも美己が私に恋をして、「お金な
んか要りませんから会ってください」ということを期
待していたが、生活が大変な美己は絶対にそんなこと
は言わなかった。しかし、金を手にしてそのまま姿を
くらますということもなかった。姉美和と比較しての
話だが変に甘えて歓心を買うような女ではなかった。
根がまじめで、男に甘えるようなことはできない。あ
れ買ってくれ、これが欲しいなどということは全くな
い。何か欲しいものはないかと聞くと、別にそういう
ものはないと言ったが、強いてまた尋ねるとケーキと
店に来ていく服が欲しい、と言った。
生活に追われ、ろくに休みもとらず、バイトを三つ
（私と会うことも仕事とすれば四つ) も掛け持ちし、
姉から押し付けられた甥と糖尿病と診断された母親の
めんどうを引き受けざるを得ない境遇の美己は確かに
気の毒だった。
服は高そうであるし、好みがわからず、こちらのセ
ンスもないため、買って与えるわけにはいかないが、
ケーキなら調達できる。評判のケーキを買って持って
行った。「めっちゃおいしかったです。ありがとうご
ざいます」とラインが来たが、本音は「ケーキより金
をくれ」というニュアンスがにじんでいた。
中卒だから正社員にはなれないが、料理が得意だと
いう美己なら、調理師の資格を取れば、安定した仕事
に就く可能性が出てくる。ベネッセの「ユーキャン」
のことを自分でも言っていたので、是非勉強して資格
を取るようにと私は幾度となく促した。それから、喫
煙を辞めれば相当な経費節減になるので、健康のこと
もあるし、煙草を止めるかもっと減らすかするように
やんわりと奨めた。
例によってヒステリックに反発することはなく「分
かりました」と受け入れてくれたが、「今は忙しすぎ
る」とか「己和が高校に行くまでは」とかいろいろ理
由を並べて実行に移さなかった。煙草も一時私の前で
は全く吸わなかったが、それは我慢していただけの話
で、「いいて。吸いたかったら」というと、会ってい
る二時間足らずの間に五、六本は吹かしている。
「酒は止められますが、煙草だけは絶対に辞められな
い。煙草があってこそ生きていけます」と姉の美和は
言っていたが、美己も同じだった。一箱二百円ぐらい
ならば、一本は十円で、たったの十円で気持ちが落ち
着き、リラックスできれば安いものだが、ほぼ倍に値
上がりした。それでも二十円なら安いと思うが、これ
を一日に二箱も吸うと八百円かかり、十日で八千円、
月に二万四千円かかる。年間に換算すると、約三十万
かかる。禁煙すればそれだけの金が浮いて、十年で三
百万円のまとまった金が溜まる。
しかし、こういう理屈は嗜好者には通じない。好き
なことを止めろと理屈をいくら並べられても頭ではわ
かるが身体がついていかない。ドラッグに嵌る人間も
同様だろう。私の乗る車にしても、ハイブリッドとは
いえ、二酸化炭素を撒き散らし、運動不足を招き、税
金、車検、ガソリン代、保険代、故障の修理代、購入
費用と莫大な費用が掛かり、電車、バスを利用し、ど
うしても必要な時、タクシーやレンタカーを利用すれ
ば、どれだけ節約になるかしれない。十年で換算すれ
ば五百万は裕に浮くだろう。地球環境、自分の健康、
美容、経費節減にそれだけプラスの理屈が成り立つが、
車の便利さにはそれらは及ばない。通勤の手軽さ、ち
ょっとした買い物、人の運搬もこれほど便利なものは
ない。好きな音楽をかけてエアコンを効かせて快適に
ドライブできる。レンタカーやタクシーではこうはい
かない。
であるので、煙草を止めるようにという経済的側面
からの説得は功を奏さない。肺の中にドロドロのター
ルが溜まりこんでいるイメージ的な脅しや、煙草を吸
うと早く老けるという脅しもダメだった。
私は三十歳の誕生日を迎えるに際して禁煙に踏み切
り、以降一本も吸っていない。私の場合は煙草を吸う
自分に対する嫌悪感があった。煙草に引きずられ、煙
草を吸うために生きているような自分が許せなかった。
辞めたいという願望があったのだが、そもそも美己、
美和姉妹にはそういうストイックな気持ちが欠落して
いる。止めて健全な生活を送ろうというような向上心
がまるでない。もう、落ちるところまで落ちても構わ
ないというような諦念しかない。
風俗の仕事を止めて喫茶店でバイトをするようにな
ったとき、午前のバイトなので早起きをしなければな
らない。五時半には起きているという。「早起きの気
持ちよさがわかりました」と美己は言っていた。仕事
後、明け方まで酒を飲んだりして昼過ぎまで寝ていた
風俗時代とはまったく異なった生活になり、その普通
っぽい健全さを知ったのだろう。だからこの女は環境
さえ健全であればもっと普通のまともな人生を送って
いたのだと思う。姉と違って高校への進学も考えてい
た。根がまじめで、根気のよい性格なので、事務作業
もおぼえたことはきちんとできるはずである。離れた
ところに住んでいて年一回は会うという実父はどんな
男なのか知らないが、母親は写真を見る限り若いころ
は遊んでいたようだが、風俗や水商売の仕事をしたこ
とはないらしい。どちらかにやくざな血がながれてい
てそれを受け継いではいるが、環境でカバーできるは
ずである。
煙草を止めることと調理師の資格を取ることはわた
しが美己に一時本気で望んだことだった。好きな男の
願いならば女はどんなことでも応えようとするはずだ
が、一向に資格はとろうとする様子もなく、煙草もす
ぱすぱと吸い続けている。私は塾の講師をしているが、
全く教育力がないということになる。人格的感化力も
ないということになる。
「出家とその弟子」の唯円と遊女かえでや「汝の罪
赦されたり」とキリストが遊女マグダレーナに言った
ように私はなんとか美己を普通の健全な女に変革しよ
うとロマンチックに望んだ時期があったのであるが、
今のところまったく功を奏していない。私に教育力、
感化力がないことは認めたくないので、私の本気さが
まだ足りないだけだろうと思っている。足りないのは
別の願望があって美己が今のままでいることを望んで
いるからだろう。
つまり煙草を止め、調理師の資格を取り、健全な普
通の女になってしまうことは、向上心によって人間性
が高まることで歓迎すべきことに相違はないが、それ
で失われてしまうのは、自暴自棄的、投やりな人生観
で、「私も人並みに幸せをつかめるかもしれない」と
考え、年齢相応の相手を見出し、急いで結婚して家庭
に収まってしまう恐れがある。そうなれば、会うこと
はできなくなる。不倫をしても会うことはできるが、
道徳的な後ろめたさが生じてくるし、美己の性格では
家庭生活に専念し、子供が生まれれば子育てに夢中に
なり不倫してまで欲望を充足させることなど考えなく
なるだろう。
男と交わることが好きでそれで金になるこの仕事に
充足していると言っていた女である。それは普通の女
の幸せをあきらめ、体を資本にしてでもとにかく生き
ていく覚悟を決めたという意味であるが、そこから滲
み出る女の刹那に賭ける情念が失われることは私とし
ては残念な気がしたため、美己の更生を潜在意識で望
んでいないところがあった。
それで、本気で禁煙と調理師免許資格取得を望んで
いたわけではないかもしれない。そしてまた、美己が
普通の女としての幸せを願望した場合、年相応の相手
ではなく、そのベクトルが私の方にまっすぐに向いて
くることを恐れる気持ちも私にはあった。
「わたしをどうしたいんですか…」と美己に迫られた
ことがあった。
毎回二万の出費を惜しむ吝嗇の気持ちと、純粋に金
のためか、それとも私に対して少しは恋愛の感情をも
っているのかどうか確かめたい気持ちからメールでや
り取りしているうちに直接電話をかけてきて、真面目
に問いかけてきた。それは私と結婚してくれるのかど
うか本気か遊びかという問いかけだったと思う。
「…オレは美己から離れられんのや」
それはうまい返答だったと思う。女心はそれで満足
し、仕事の相手としてもうれしい言葉だったと思う。
それ以上は追及してこなかった。
付き合っているのに「結婚してくれ」と言わず、ず
るずるだらだらと交際し続ける男にいら立って離れて
いってしまったのが、私とこれまで関係のあった女の
ほとんどだった。私は単にフラれたと思いショックを
受けていたが、私に結婚の意思がまるでないことが原
因であったと思う。
しかし、美己は仕事の相手と割り切っているのか、
自分が女としての幸せを放棄しているためか、離れて
いくことはなかった。気まずいような空気になっても、
連絡をとれば何事もなかったように会う約束ができた。
これが私としても理想的な付き合い方で、分かれる
にしても何のあと腐れもなく、イージーにできるし、
会いたくなればまた会ってくれるだろうし、自分にふ
さわしい相手で何も強いて更生を望まなくてもいい。
しかし、ここで金の要求という問題が起こってきた。
金の切れ目が縁の切れ目という。これまでは少額で
気安く応じてきたが、七万となるとさすがに身構える。
これに応ずれば次はさらに十万、二十万、五十万、百
万と金額が跳ね上がってくるだろう。「柔らかい土は
掘られる」という台湾の諺がある。カモだと思われた
ら徹底的にむしり取られ、骨までしゃぶられるかもし
れない。
それは何としても阻止しなければならないと私は身
構えたのである。
（つづく)
月刊ＷＥＢ風 ２０１６年月１１号 通巻第９２号
［原稿用紙３３枚］
