東烏山学園高等部校長職（９）
大堀敏靖
山田榛名と福岡美音から、足島誠二が自由形のクラ
ス代表に自ら立候補したことを聞いて後川貞郎は驚い
た。
「まさか、立候補するとは思わなかった。マジびびっ
た」
「推薦するのもムツカしーなって美音と話してたんだ
よ。ウチら何も言ってないのにいきなりまっすぐ手を
挙げて自由形に立候補すんだよ。絶対に勝てるわけな
いから、みんな別のヤツの方がいいと思ってるけど、
身障者が尊重される世の中じゃん。だーれも反対しな
かった。偽善者ばっかだよ」
「そうか。そりゃ、まずよかった」
「てか、お礼はしてくれるんだよね。カラオケと２Ｐ
…」
「え、お前ら何もしてないじゃん。足島が立候補した
んだろ。お礼もなにも」
「もし、足島が立候補しなければ、クラスの空気を無
視して推薦するつもりでいた」
「ずっと気を揉んでたんだからね。結果は出たわけだ
から約束は果たしてよ」
「わかった。水泳大会が終わって、足島が大恥かいた
のを確認して約束は果たす」
「ヤッターッ」
こんなヤンキー女たちとカラオケなど少しも行きた
くはなかった。貞郎は山脇彩香と行きたかった。
とにかく、足島が水泳大会の自由形に自ら立候補し
て参加し、全校の前で、特に主催する彩香の前で大恥
をかいてくれることになったのは喜びだった。渡りに
船というか、飛んで灯に入る夏の虫というか、思い通
りになる自分の時代がやってきたと貞郎は思った。
あとは水抜きであったが、水泳部のカッパとともに
夜陰に乗じてプールに忍び込み栓をはずすだけの話で
あるから、これもすんなり成就しそうに思われた。
ところがカッパは前日になって決行を渋り始めた。
「なんか、オレ、そういう悪いことをするとバチがあ
たるってよぉ、ばあちゃんに聞かされて育ったから、
人が困るようなことやるとバチがあたるような気がし
てなんか飯も喉とおらなくなってよぉ。やっぱやらな
きゃなんないの」
頭の悪い人間はこれだから困る。田舎くさい道徳心
が肝心なときに頭をもたげて計画を台無しにしてしま
う。
「あのさ、いたずらなんだよ。青春の思い出。殺人と
か強盗とか強姦とかしようってんじゃないんだ。後年
『オレもワルだったよなー。水泳大会のプールの水を
こっそり抜いちゃったからナー』って後輩や部下達に
語って人間的魅力を醸し出すエピソードになるだけな
んだって。飯も喉を通らんなんて、情けないこと言う
なよ」
「だけどよぉ、プールがカラッポじゃあ、みんな困る
んじゃないの。先生たちや生徒会の人間とかはさ」
「バカだな、お前。困らせるためにやるわけだろ。ま
た水入れるだけの話だよ」
「でも水道代かかるし」
「お前が払うわけじゃねーし。学校はシコタマ儲けて
んだから、水道代なんか屁でもねーし」
「水、もったない」
「日本は温暖湿潤気候に属しててな、雨は豊富に降る
の。降りすぎて毎年どこかで水害が起きてるくらいだ
ろ。天の恵みを速やかに循環させるだけの話で何もバ
チの当ることじゃねえッ」
「でもよぉ…」
「じゃあ、もういい。オレ独りでやるから。栓の位置
と抜き方教えてくれ」
「わかった。やるよ。オレも思い出作りたいし。これ
やんなかったらなんか後悔するような気がするし」
おかしなところに引っかかってくれた。この男には
こんなことしか青春の思い出がないのか。
「臆病とか気が小せぇとかチキンとか言われ続けて、
ただ一つ人より得意な水泳で何とか見返してやろうと
思ってたんだけどよぉ、この間の市大会に敗けちゃっ
て。オレの青春オワッターッつー感じだった。水抜き
に青春かける」
貞郎は、こんなことに青春を賭けるというカッパが
いかにも気の毒に思った。いたずらというか、人を困
らせるこんなネガティブなことが一生の誇りとなるは
ずがない。いかにも地味である。
貞郎はカッパの手を両手で握って力強く上下に振っ
た。
「ありがとう。お前はオレの一生のトモダチだ。この
ことは絶対忘れない。青春を賭けてプールの栓抜きを
してくれるトモダチを忘れるわけがない。忘れるもん
か」
カッパはそういわれて目を潤ませているようだった。
榛名や美音といい、このカッパといい、勉強のできな
い連中は本当に単細胞なのだと貞郎はつくづく思った。
ところが、カッパとともに夜陰に乗じて学校に忍び
込み、プールの水を抜くことは独りでも十分成し得る
簡単な作業だった。プールの外の道路側の鉄板をこじ
開けると、排水溝とバルブが見えて、赤い印がついた
部分が排水溝と垂直の状態になっていた。これが即ち
「止」の状態である。排水するには赤い印が排水溝と
平行になればよい。
カッパが懐中電灯を持って照らしてくれた。難なく
バルブは回った。プールの中でゴボっという音がした。
排水が始まったのだろう。背伸びしてプールをのぞく
とロープで仕切られ月光を映した鏡のような水面にわ
ずかに動揺が起きたように見えた。
「よしっ。これで明日の朝はカラっポだな。先公たち
や生徒会の連中があわてふためく姿が目に見えるな」
彩香があの美しい顔を曇らせ、悲しむ顔を是非見た
いものだと思った。
貞郎たちは深夜のコンビニによって、カッパにコー
ラを奢って、ビンをぶつけて乾杯した。
「カッパの青春に乾杯！」
「なんかよぉ、悪いことするのって、スリルがあって、
いいね」
しかし、二人は知らなかった。二人が栓を抜いた正
に直後に誰あろう足島誠二が足を引きずりながらやは
り水を抜こうと鉄板を開け、「排水」になっているバ
ルブを「止」にしてしまったことを。このためプール
の水はその時間差、五分間だけ排水されたが、わずか
に三センチほど減少したに過ぎなかった。
一旦は自らクラスの自由形代表に立候補した足島が、
このような精神の葛藤、心変わりを経て栓を抜こうと
思い立って実行に移したかはわからない。一途に彩香
のことを慕う足島は彩香の主催する水泳大会にみずか
ら積極的に関わりたいという意志を持ったということ
は推測できる。しかし、思い切ったことはしてみたも
のの、実際に水泳大会が近づき自らが不様な泳ぎを全
校生徒の前にさらして他の選手がゴールしてもいつま
でも一向に前進しない泳ぎを続けるというその想像に
耐え切れなくなり、水泳大会の中止を目論んで水抜き
という自己防衛の手段に思考が及んだことは確かだろ
う。
しかし、日ごろは冷静な足島も犯罪的行為に及ぶと
気持ちが動転して、すでに「排水」状態になっていた
ものをわざわざ「止」にしてしまったことに気づかな
かった。彼は人に見られてはまずいと思い焦っていた。
まさか、鉄板を開けた状態が「排水」になっていると
は足島でなくとも夢にも思わなかったであろう。しか
し、事実は小説よりも奇なり、でたった五分前に二人
の悪童達によってバルブは「排水」にされ、すでにプ
ールの水は少しずつ減じていたのである。
そうとは知らない足島は急いで岐路につきながら首
尾よく事が運んだことに満足とて拳を握り締めていた。
――翌日。
登校した貞郎、カッパ、足島は犯罪者が必ず犯行現
場を気にして再訪する例にもれず、まっさきにプール
がカラッポになっていることを確認しようとやってき
た。そして二人と一人は鉢合わせになり、背伸びして
プールを見て愕然としたのであった。水は満々とたた
えられている。三人を嘲るように夏の陽光を浴びてま
ぶしく水面は照り返っている。
「あれッ」
カッパが小さく叫んだ。
「なんでだ。なんで水が入っている」
貞郎が呻くように呟いた。
「どうしてだろう。やはり悪は叶わないのか」
足島がひとりごちた。
「おい、カッパ、確かにこのバルブはプールの栓なん
だろうな」
「まちがいないって。何べんもやってるもん」
足島が驚いた顔をしてこちらを見ているのに貞郎は
気づいた。
「おい、足島、お前、なんでここにいるんだ」
「いや、僕はちょ、ちょっと確かめたいことがあって」
「何を」
「今日の水泳大会に僕は出場するのだけれど、戦いの
場を確認したいと思って…。そういう君たちこそ、プ
ールの栓とか変なことを言って、何なの」
「うるせぇ。てめぇの知ったことか。関係ねぇんだよ。
身障者の知ったことかッ」
「そんな言い方はないと思う。撤回してよ」
「うるせぇもんはうるせぇんだよ。会議やってんじゃ
ねぇんだ。撤回もクソもあるかッ」
「僕は昨日の夜プールの水を抜こうとしてバルブを開
いた。ところが水はいつものようにたっぷり入ってい
る。君たちが阻止したんじゃないのか」
「はぁ？ プールの水を抜いたぁ？ お前そんなこと
したのか」
「したよ」
「じゃあ、何で水入っている？」
「それは君たちが阻止したんじゃないのか」
「わからん。おい、カッパどういうことなんだ。説明
しろ」
「後川にわからないことが、オレによぉ、わかるわけ
ないって」
「そうだな。足島、なんでお前が水を抜こうとしたん
だ。理由を言え」
「泳ぎたくなくなったからだよ。立候補して選手にな
ったけどどう考えても恥かくだけだから。そういう君
たちはなんで」
「だから、うるせぇんだよ。どうだっていいじゃねぇ
か、おめぇとは関係ねぇんだよ」
「僕が答えたからには君たちも答える義務があると思
う。そうじゃないと公平じゃない」
「調子こいてる生徒会の連中にほえ面かかせてやりた
かっただけだ。てめぇのような自己中の理由とはちが
う。大義がある。ま、しょがねぇな。水抜きは失敗」
「失敗、失敗」
カッパが繰り返す。
「しかし、もう一つお楽しみがあるから、ま、イッカ
ッ」
貞郎は不敵な笑みを浮かべた。それはカッパの知ら
ない企みだった。目の前にいる足島が全校生徒の前で
奇怪な泳ぎを披露して笑われ者、さらし者になって、
彩香にも愛想を尽かれるという自動的に行われるショ
ータイムがある。
「まぁいい。足島君、今日の水泳大会は残念ながら予
定通り開催されるが、わざわざ立候補したんだから、
少しは自信もあったと思う。精々がんばってくれよ。
ココロから応援してるから」
「ああ、やるからには全力で泳ぐよ」
「しかし、お前もプールの水を抜くなんて大胆なこと
を考えるもんだ。大したもんだ。見上げたもんだよ」
「お互いに未遂に終わったんで、シークレットという
ことでいいね」
「そうしよう」
足島は何も意識していなかったが、貞郎は恋敵を目
前にして闘争心むき出しになっている自分に驚いた。
自分はこんなにも彩香のことを愛しているのかと思う
と怖くなった。淡白な足島に勝てるのか不安になる。
彩香は開会式で行うスピーチを完璧に暗唱していた。
スマホに録音したものを繰り返し聴いた。推敲は百回
くらい行った。生徒会長生命を賭けたスピーチだった。
長過ぎずしかし、インパクトのある内容を心がけた。
自分でもなかなか自信があった。祖父にも聞いてもら
い、会長の先輩である後川一郎にも聞いてもらった。
二人とも太鼓判を押してくれた。
「いいと思う。無駄がなく、簡単にして明瞭なスピー
チである。時間もちょうどいい」
「いいですね。みんな感動しますよ。感動しない人間
はどうかしているでしょう」
まだ梅雨明けは宣言されていないが、好天に恵まれ
た。時折散発的に蝉の鳴き声が聴こえる。真夏本番の
間断のない、数珠を繰るような鳴き方ではない。天気
予報ではオホーツク海高気圧が北から張り出して最高
気温も三十度に届かないと言っていた。確かに日差し
は強いが、時折秋のような涼風が吹き抜けてゆく。蒼
空には箒で掃いたような筋雲も見えた。
昨年新設したプールのギャラリーはプールに張り出
すように屋根が突き出して陽射しを遮っていた。東烏
山高等部三五〇人の生徒教職員二二名が満々と讃えら
れた青いプールのサイドとギャラリーに集まった。
大会運営はすべて彩香が中心になり、生徒会執行部
が取り仕切る。
副会長のＭＣで、開会が宣言され、国歌斉唱が行わ
れた。しかし、まともに歌うものがほとんどおらず、
校長と教頭、それに足島誠二の生の声と彩香がマイク
で歌う声のみが際立っていた。なかには座ったままス
マホをいじったりしゃべり続けたりして起立しない者
もいた。荒れた中学の行事であるから仕方がない。彩
香も慣れていた。
続いて校長の挨拶が行われた。
「えー、皆さん。本日は生徒会主催の水泳大会という
ことで、こうしていつもより狭い空間に全校が集結す
ることができました。本校の歴史を紐解きますと、戦
前は毎年夏になると海岸まで出かけていって、禰彦島
まで三キロの遠泳をやっていました。だからトンカラ
の生徒は泳ぎには皆自信があったのです。人間は元々
海の中から発祥したもので、胎児であるときも羊水の
中に浸っていますから、泳ぎは得意なはずなのです。
水の中は懐かしいはずなんです。泳ぐことは本来の姿
に戻ることができることですから、元気になれるはず
です。一つ今日は選手に選ばれた皆さんはクラスのた
めに全力で泳ぎ、競技を楽しんでもらいたいと思いま
す。競技の合間には選手でない人たちもプールに入っ
て自由水泳を楽しんでもらいますから、先祖返りをし
たつもりで、本来の伸び伸びした人の姿に戻って、大
いに楽しんで欲しいと思います。
そして、一つこの場を借りて皆さんに報告したいこ
とがあります。驚かないで聞いて欲しいと思います。
実は本校はしばらく行ってこなかった定期テストを復
活することになりました」
生徒の中から「えーっ」という声が一部漏れたが、
大半の生徒はすでに知っているのか無反応だった。そ
して、三分の一くらいの生徒たちはまったく校長の話
を聞いておらず、したがって反応の仕様もなかった。
「テストのない学校ということで、それが本校のカラ
ーである一面もあったのでありますが、本校の学力は
著しく低下して保護者、生徒の一部からもテストの復
活を求める声が上がっていました。テストというもの
はそもそも…」
校長の話は長くなりそうだった。ここでテストの復
活を全校に告知することは彩香も聞いてなかった。彩
香はメモ書きに「短めにお願いします」と走り書きし
て、ＭＣを務める副会長を通じて渡した。運営は任さ
れている。これくらいしてもいい。校長はメモ書きに
目をやって、「わかった」という合図をした。
「テストというものはそもそも、生徒諸君をテストす
るというよりも教師側がどれだけ指導によって生徒に
定着させることができたかを見るという意味合いの方
が強いもので、試されているのは教師の力量でありま
す。したがって諸君は準備をしないで抜き打ちでやる
テストというものが本来のスタイルのはずです。とこ
ろがいつの頃からか、生徒に内容を定着させるための
テストという意味合いに著しく傾いて、問われるのは
生徒諸君のみで、指導の成果というより、生徒諸君の
努力の成果を見る場となってしまっていたのでありま
す」
校長は早く手短にまとめようとする様子ではなかっ
た。言いたいことは最後までしっかり言わなければ気
が済まないという雰囲気だった。生徒たちの大半は全
く聴いていなかった。しかし、校長はそんなことはさ
したる問題ではなく、聞いていようがいまいが、話さ
なければ気がおさまらない勢いがあった。
「教師にとってテストの成績がよくても悪くてもなん
ら反省材料とはならず、悪い成績を取った生徒は努力
不足、あるいは無能というレッテルを貼り、よくでき
た生徒にはその努力を褒めるというよりは自分達の指
導の賜物であると解釈して、全くのご都合主義でやっ
てきたのであります。あまり平均点の高いテストでは、
軽く見られると思い、難問、奇問を出して解けた生徒
のいないことに快哉を叫ぶという、まったく本末転倒
の教師もいる始末でした。ですから、いっそのことテ
ストを廃止すれば、もっと健全な教育ができるのでは
ないか、生徒たちはテストの重圧から解放されて伸び
伸びとその伸びようとする本性を発揮して学力が上が
るのではないかという、また極端な考えからテスト廃
止という思い切った施策に踏み切ってしまったのであ
りました。そして、学力が低下し、大学合格実績は当
然のことながらサッパリ挙がらなくなり、とても公開
できないため非公開とし、自由教育の名の下、学校の
雰囲気も品格というものが失われ、風紀は乱れ、非行
も目立ち、かつての東烏山学園のイメージは土砂崩れ
のように崩れるに至ったのでありました」
生徒たちはやはりほとんど聴いていなかった。
「なげーんだよ、ったく。水泳大会と関係ねえだろ」
「サゲーッ。引くよね、自分だけいい気になって、ク
ソ長い話聞かされっつーの、マジむかつく」
彩香はこれはまずいと思って、二枚目のメモをＭＣ
を務める副会長に渡した。
「短くお願いします。そろそろまとめて」
しかし、校長は今度は一瞥もせずに話を続けた。と
にかく言わないことには気が済まないという校長にも
それなりの覚悟があるようだった。
「ですから、皆さん。あまり長くなるのもよくありま
せんから、この辺りで私の話は終わりたいと思います
が、テストを復活してまたかつての東烏山学園、トン
カラ、トンウーの名誉を奪還したいと思ってますから、
ひとつ皆さん、テストを苦痛と考えず、クイズ感覚、
ゲーム感覚で楽しみながら取り組んでほしいと思うの
です」
「できねぇーよ、そんなことッ」とか「そうだー、ト
ンウーを日本一にッ」などとガヤが入った。前者は貞
郎が、後者は足島が言ったのではないかと瞬間彩香は
思った。両者とも別人だったかもしれない。
「わが東烏山学園は創設者烏山悦子先生の祖国日本を
思う並々ならぬ愛国の情が結実して創設された愛国高
校であることは皆さん、よくご存知のはずです。そこ
らへんの話はこの後生徒会長から話があると思います
が、勉強は自分のためではないんです。自分にもその
恩沢は跳ね返ってきますが、自分だけの利己的な勉強
では限界があります。祖国日本のために自ら何ができ
るかを考えたとき、大きな力が湧いてきて、汲めども
尽きぬ無限のエネルギーの供給があって、勉強の成果
も挙がるはずです。そういうわけですから、皆さん。
今日は水泳を大いに楽しんで、そして明日からは勉学
を大いに楽しんでトンカラの栄光を奪還していただき
たいと思います」
ようやく終わったことに対する盛んな拍手が起こっ
た。
「続きまして、主催者である生徒会執行部を代表して
生徒会長山脇彩香が挨拶します」
とうとうその時がやってきた。不思議に緊張感はな
かった。今日の蒼空のように心も澄み切っていた。い
いスピーチができそうだった。
「皆さん、今日は」
スクール水着姿の彩香を、持ち込んではいけないと
触れられていた携帯、スマホで撮る男子生徒があちこ
ちにいた。
「撮影はやめなさい。持ち込みは禁止したはずだ。や
めなさい」
教師のいうことなど聞く生徒たちではなかった。教
師も注意するに止まっていた。
「こんにちわー。待ってましたカイチョー。色っぽく
ねー」
貞郎の指示に従って、ガヤ、野次、怒号、指笛など
を入れることになっていた。ラッパや太鼓、シンバル、
小型エレキギターなども密かに持ち込まれていた。
「なぜ水泳大会を開くことにしたのか、から話したい
と思います。それは学園に一体感を持ちたいと思った
からです。私たちは自由です。どんなことを思おうと、
どんなことをしようと、自分の責任の下に自由のはず
です。でも自由と放縦は違います。各々勝手ばらばら
に好きなことをやるのではなく、理性と目的に則った
自由が本当だと思います。理性は動物的な欲望を抑え
て、他の人格、世界の環境などに配慮した行動だと思
います。目的はそれぞれの生きる上での目的があるで
しょうが、トンウー生としての共通の目的を考えたい
と思います。わたしはその共通の目的を確認したいと
思い、全学園が一つのプールを見つつ一体感を持てる
水泳大会が必要だと考えました。
それではそのトンウー生の共通の目的とは何か。そ
れは創設者烏山悦子先生がお示し下さった『使命に生
きる日本の若者、大和の心で世界を包む、真正日本人
の育成』ということです。
ところで先日私は不思議な体験をしました。こんな
こと話しても信じてもらえないかもしれませんが、あ
えて話したいと思います。先日、この学園のＯＢでも
ある祖父と烏山先生のことを話していると、祖父を通
じて烏山先生と交通できるようになったのです。これ
がもう怪しげな話だと思われると思いますが、そした
ら先生がお茶をどうぞとおっしゃるんです。ふと振り
返って私は驚きました。まだ湯気の立っているお抹茶
と懐紙の上に置かれた羊羹がいつのまにかテーブルの
上に置かれてありました。信じてもらえなくてもいい
ですが、私はそのお抹茶と羊羹をいただきました。普
通でした。美味しかったです。
それで私はたしかに烏山先生はあの世か霊界から私
たちを見守っていてくださることを確信致しました」
このオカルトめいた話にギャラリーやプールサイド
はしーんと静まり返り、彩香の話に聞き入っていた。
「私たちには使命、つまりミッションがあるのです。
先生から期待されているミッションを果たすためにこ
の学園で学んでいるのです。それは何かというと、大
和心で世界を包む、というミッションです。今世界で
は宗教的、民族的対立からテロや紛争が絶えません。
エネルギーや食糧の奪い合いから戦争になるかもしれ
ません。そこに必要なことは寛容に全てを許して包み
込む心ではないでしょうか。日本人は古来、この包み
込みの精神を大事にしてきました。やまとという国号
はその精神を端的に表しています。世界を平和に調和
させる理念は日本の大和の理念しかないのではないか。
その大和の心を最もわかりやすく体現されているのが、
天皇陛下でらっしゃいます。陛下は純粋に日本の繁栄
と世界平和を祈ってらっしゃいます。このように純粋
な祈りを伝統とされている、中心者をいただいている
という幸福に私たちはまず感謝しなければならないと
思います。そしてこういう、国のあり方を造った先人
たちの英知を思わないではいられません。私心をもた
れることなく、純粋に民や世界の幸福と平和を祈って
らっしゃる中心者を仰ぎつつ、私たちも利己的な心を
なるべく持たず、友人のため、クラスのため、チーム
のため、そして地域社会、国家、世界のために何がで
きるか、包み込む大和の心で考えなければいけないと
思います。
水泳大会にこんな話は相応しくないかもしれません
が、皆さんがここトンウーで学ぶこと、そして日本人
として生まれたことの意味を噛みしめて、ミッション
を胸に生き生きと大いなる目的のために学び、そして
卒業してからも活動ができたらいいと思って、私の考
えを述べさせてもらいました。
ちょっと長くなってしまいました。プールの水がぬ
るくなってしまったかもしれません。今日は、選手の
皆さんはまずクラスのために全力で泳いでください。
それが同時に自分の成長にもつながるはずです。そし
て選手でない皆さんはクラスの仲間を思い切り応援し
てください。ありがとうございました」
拍手が起こる。足島、貞郎が率先して拍手をし始め
たようである。多少端折った部分があったが、ほとん
ど暗記したとおり言えて拍手ももらい彩香は満足だっ
た。席に戻ると校長が「山脇会長、グッジョブです。
感動しました」と言ってくれた。
副会長のアナウンスで競技に移り、運営委員達がて
きぱきと動いて、クラス対抗の水泳大会が始まった。
プールの水を抜けなかったのはなぜかと考えて、貞
郎は結局、足島が栓を止めたんだろうと結論した。そ
れは真実であったが、足島も止めるつもりはなく、抜
こうと考えていたのは本当だった。こういうところに
ラッキー・ガール彩香の運の強さがあった。あるいは、
祖父の霊媒によって交通のできた創設者烏山悦子が言
っていたように、先生のご加護によって妨害が未然に
阻止できたのかもしれない。
貞郎が計画を妨害されて恨むとすれば、その対象は
足島だった。あの男が全ての邪魔をして自分の前に立
ちはだかっているように思えた。身障者であることを
武器に彩香に近づき愛を勝ち取ろうとしている。大体
今の世の中、いわゆる「弱者」に過度に親切ではない
のか。バリアフリーはいいが、極少数者のためにそこ
までする必要があるのかと思うことがある。
政府の記者会見で内閣官房長官が話している横で盛
んに手話をしている。耳の聞こえない人もライブで知
りたいことに対する思いやりだと思うが、これを見て
いる耳の不自由な人々はどれくらいいるのか。あとで
テロップを流す映像を見てもらえば済むことではない
のか。テレビの画面の隅に現れた手話の係りの人の映
像が気になって、肝心の官房長官談話を聞き逃してし
まうことがある。蛍を呼び戻そうとして川を綺麗にし
たために、他の昆虫を絶滅させてしまうという話もあ
る。いわゆる「弱者」に気を取られすぎて、健常者が
普通に目指すべき目的が見失われてしまっていること
があるのじゃないか。仕事場に身障者枠というのがあ
って、わがままな身障者が周囲にさんざん迷惑をかけ
て「どうせわたしを解雇することはできないんだから」
と嘯いていたという話も聞いた。身障者が善人とは限
らない。健気に懸命に生きている人ばかりとは限らな
い。その地位に胡坐をかき、ふんぞり返って傲慢にふ
るまっている身障者もいる。それでも「弱者」という
ことで、バカ殿に恭しく仕える家臣のようにしなけれ
ばならないのか。
いや、断じてそんな必要はない。ふんぞり返ってい
る傲慢「弱者」に復讐しなければならない。体の不自
由を武器にして彩香の同情心をそそり、取り入ろうと
する足島、プールの水抜きを妨害した邪魔者足島には
復讐しなければならない。身障者に優しい振りをする
偽善的世の中に叛旗を翻さなければならない。
幸いその機会はすでに用意されている。わざわざ足
島が立候補してクラス代表の自由形に出場してくれる
のである。これこそ天の配剤、このチャンスを逃して
はならない。あのブザマな、人生の悲哀を感じさせて
くれる滑稽な泳ぎを見れば、全校は笑いの渦の中に投
げ込まれるだろう。大した余興となるだろう。最大の
エンタメとなる。
それをさらに際立たせるには演出も必要で、足島が
スタート台に立ったら「アッシジマッ、アッシジマッ」
のコールをはじめ、指笛を吹き、太鼓を叩き、シンバ
ルをじゃんじゃん鳴らし、エレキを会場いっぱいに響
かせる。それを停められる教師などどうせいないだろ
う。お祭りだ。フェスティバルだ。青春の祭典だ。や
りたいだけやろうぜ。
それは自分につれなくして足島などと仲良く下校す
る彩香に対する復讐でもある。そして全校から笑われ
者になる足島と付き合うことが自分にとってマイナス
であることに気づくだろう。足島の滑稽さ、無価値さ、
男としての不完全さを認識させられて、彩香は自然、
足島からは距離を置くようになるだろう。
足島をさんざん惨めにすることは自分と彩香が幸せ
になるワンステップとなる。一昨日仲間と集まって、
足島の泳ぎを最大に盛りたてるリハーサルもやった。
笑いが始終起こり、内容はどんどん膨れ上がって、間
違いなく最大のショータイムになることは確実だった。
騒がしく音の出るものを各人家からかき集めて持参す
ることになっていた。仲間は一箇所に集中するのでは
なく、プールを囲む四方八方に散らばりそれぞれが騒
ぐことになっていた。そうするほうが、生徒会や教師
が止めにくくなる。かの天才アドルフ･ ヒットラーは
演説を盛り上げるためにさくらを用いたが、会場の対
角線上、×形に配置したと伝えられている。集めて配
置するよりあまねく全体に散らして配置した方が、効
果がある。組織的に行われているのではなく、自然発
生的に起こった騒ぎと見せかけ、同調する軽薄な者た
ちが少なからずいるだろうし、群集心理というものも
働いて、異様な騒ぎとなるであろう。
彩香が水着姿で困惑する様をぜひ見てみたい。必ず
それをスマホで撮るように福岡美音に頼んでおいた。
その美音と仲のいい山田榛名の名がアナウンスで告
げられると散らばった仲間がヒューヒューと反応した。
ラッパや笛を吹くもののあった。早く騒ぎたくてうず
うずしている。
榛名はスタート台に立つと手を振った。自信がある
のだろう。いつもと違う榛名に見えた。やがてスター
トの用意の合図があると、手を振っている間の笑顔が
消え、獲物をねらう猛禽類のような目になって水面を
見つめた。ブザーが鳴って飛び込む。それが、針が垂
直に投げ込まれたように、まったく水の動揺を起こさ
しめない、静かな美しいスタートだったので、貞郎は
感動した。
十メートルくらいは水面に現れず、姿を表わしたと
きはすでに他の競泳者を体一つ分くらい離していた。
水をかき始めるとグングン前に進み、みるみる他を突
き放して、ダントツの一位でゴールした。仲間でなく
ともこれを注視していたので全プールから拍手と歓声
が起こった。
「スゲーッ。ハルナ。びびった。」
「見なおしたぜー、ハルナ。俺たちのヒーローだ」
「ばか。ヒロインつーんだ。一応女だから」
月刊ＷＥＢ風 ２０１６年月７号 通巻第８８号
［原稿用紙３３枚］
