オーディション（５）
大堀敏靖
「ＭＨＫ素人のど自慢」のオーディションまであと
四日と迫っていた。
朝、登校すると藤田智絵がクラスの境目の廊下で翔
太を待っていた。翔太を認めると小さく手を振った。
まるで親しい間柄のようである。第三者が見れば二人
はいい仲で付き合っているのではないかと思われても
いいような風情である。しかし、付き合っているわけ
ではない。大体この年頃の女子は誰に対しても愛想を
振りまいて誤解を与えることしばしばである。当人は
その意識はないのだから、夏目漱石はこれを「アンコ
ンシャスなヒポクラシー」と言った。無意識に偽善を
働いている。意識的にならいい。無意識というのは、
際限もなくやってしまうから罪深くなる。
釈迦の弟子が師に尋ねた。
「知っていて犯す罪と知らずに犯す罪はどちらが重い
ですか」
釈迦は応えた。
「真っ赤に焼けた火箸を知っていて握るのと知らずに
握るのとではどちらが火傷がひどいか考えてみよ。ど
ちらだ」
「知らずに握ったほうが酷い火傷となります」
「罪、また然り」
しかし、翔太は叔父宗康からそういうことのレクチ
ャーを受けて、体験上ではないにしろ、知識としては
承知していたので、ああ、これだなと思っていた。種
の保存の人類意識あるいは神の摂理によって男女はど
んなにしてでも引き付けあって、子孫を残さなければ
ならない。しかし、叔父が言うにはそんな理屈は実際
の恋愛には何の効力もない。理屈で恋愛なんかできる
ものではないし、仮に理屈で押し切った恋愛が成立し
たとしても、そもそもが実体のないイリュージョンな
のであるから、空しくなるだけだろう、ということだ
った。思い切ってぶつかってつかんだものが勝ち、実
体験できる。
「翔太君、昨日の話だけど、キワは明日の夜、塾もな
いし、是非『アラ雲』を見に行きたいって言ってるよ。
いい？」
『アラ雲』というのは評判になっている『アラと雲
の王女』というディズニーアニメである。歌が大ヒッ
トしている。自分らしさを追い求め、夢をかなえてい
く王女の物語で、自己実現を願う女性に圧倒的に支持
されている。カラオケや街中の商店は言うに及ばずデ
イケアの介護施設や幼稚園でもこの歌が頻繁に流れ、
歌われている。
しかし、翔太は正直なところディズニー映画は好き
でなかった。動物や植物、食器やつぼなどが人格化し
て歌を歌いだす。幼児のころは喜んでいたが、声変わ
りし、陰毛も生えてくるとさすがにそんな子供だまし
の映画はおもしろくない。それどころかそんな映画に
つき合わされると不快、苦痛にさえなってくる。そう
いう思いが顔に出てしまったかもしれない。
「あ、いやなの？ 明日都合が悪いの？ それともデ
ィズニーのアニメがいや？」
「そうじゃないけど…」
翔太はまともに智絵の目も見ないで俯いている。
「いやなら、いやって、正直に言ったほうがいいよ」
いやだと言えば、この話は流れてしまうだろう。橘
貴和子がついているとはいえ、大好きな智絵と映画に
行けるという、願ってもない僥倖は立ち消えになって
しまう。
「いやじゃないけど、歌のレッスンがあるから…」
「あ、のど自慢近いもんね。私も明日、たまたまＡＨ
Ｏのダンスの練習がないのでいいと思ったんだけど、
翔太君、ダメなら仕方ないよね」
叔父と甥の間柄でレッスンなどどうにでもなる。レ
イトショーが引けてからレッスンでも構わないのだ。
「でも、いいよ。行くよ」
「え、いいの。レッスンはいいの」
「映画の後でやればいいから。おじさんは夜型人間だ
から」
「ホント？ めっちゃ嬉しい！」
智絵は選抜選挙でレギュラーに選ばれたメンバーの
ような顔をして喜んだ。
「じゃ、放課後また相談しようね。またね」
やはり小さく手を振って隣の教室の中に消えていく。
付き合っている者同士のようである。
この模様を教室の中から逐一見ていた男がいた。黒
縁眼鏡、白髪頭の谷口である。
「なんだよ、翔太、すっかり恋人同士じゃんかよ。の
ど自慢に出て全国放送で告る前に付き合ってたんじゃ、
意味ねえじゃん。どうなってんだよ」
「ええっ？ 違うって、橘貴和子が映画を見に行きた
いっていうから、藤田智絵が付き合ってついてくるだ
けだから」
「ナニッ！ 橘貴和子？ 橘がおめえと映画行きたい
って言ってんのか」
「うん」
「マジでか？」
「僕は藤田智絵と二人きりで行きたいんだけど、藤田
は橘貴和子に付き添っていくという条件で、つまり友
情から付いてくるだけだよ。でも、藤田と二人きりだ
と間がもたないから、そのほうがいいかもしんない」
翔太は気がついていなかったが、橘貴和子の名を聞
いて谷口の心は激しく動揺していたのである。なぜな
ら谷口は密かに演劇部のマドンナでお嬢様タイプの橘
に恋心を抱いていたからである。
「な、頼むから、男一人に女ふたりではバランスがよ
くねえじゃん。オレも一緒に行かせてくんねぇかな」
「え、谷口が一緒？」
トンでもないと初め思ったが、いや、待てよ。それ
はいいかもしれないな。会話もろくにできないより、
通訳として智絵たちとも普通に話せる谷口に付き合っ
てもらったほうが何かと好都合かもしれない。翔太は
思い直して、
「僕はいいけどね。聞いてみるよ、藤田に。谷口から
聞いてもいいと思う。休み時間に」
「そうか。ダブルデート成立。ヤッタ！」
放課後、大半の者が帰ってしまった閑散とした教室
に谷口と翔太がいるところへ、隣の教室から智絵がや
ってきた。やはり小さく手を振る。
谷口がやおら立ち上がった。
「藤田。お願いがあるッ」
「え、なに？ 急に」
「明日の映画鑑賞会にオ、オレも同行させてほしい」
上官に報告する下士官のように、珍しく谷口が緊張
していた。智絵の背後に橘を見ているのだろう。
「あ、そういうこと。私は構わないけど、翔太君はい
いの」
翔太は頷いた。
「じゃ、あとはキワがいいというかどうかね」
智絵はスマホを取り出してメールを打ち始めた。指
を巧みにスライドさせて最後にポンと押した。
翔太にとってはどちらでもいいことだったが、谷口
にとっては、入試の合格発表を見るくらいの審判を待
つ待ち時間となった。一分後に智絵のスマホが振動し
て返信が来た。
谷口が顔の前で手を組み合わせて祈っていた。
「べつにいいって」
智絵が谷口を見て明るく伝えた。
「そうか。ヤッタ！」
柔道の技を決めた選手のように両拳を振り上げてガ
ッツポーズをした。
「べつにいい」の五文字が人を天国に導いている。
翔太はどうでもよかったが、おそらく智絵も橘も翔
太のことを思っているところへ、橘に相手をしてもら
いたい谷口がくっ付いてきて、谷口は女子二人にとっ
ては無用の存在で、邪魔になりさえしなければ構わな
いという気の毒な立場なのであるが、翔太にとっては
通訳として会話をスムーズにしてくれるので、必要な
存在であった。
「そんなに嬉しいの。谷口君」
「ガチで。チョー嬉しい。今まで生きてきて一番幸せ
って感じ」
「谷口君がキワのこと想ってたなんて意外だったなー」
「オレ、ああいうお嬢様タイプに弱いんだよね。逆の
ものに魅かれるっつーか、自分にないものを求めるっ
つーか」
「私のオーディション見に来てくれたじゃん。あれは
何だったの」
智絵が不服そうに言った。
「あれ、藤田、妬いてるの」
「ちがうよ。自分のファンを一人失ったアイドルの気
持ち」
「なるほどね。オレは正直言ってアイドルとしての藤
田の一番のファンだよ。声援送っていた連中よりもず
っとね。アイドルとして評価している」
「マジで？」
「オレさぁ、自分でも不思議なんだけど、オレがいい
って思った新人の芸能人は必ずブレイクすんだよ。大
衆の感覚っつーのか、それがビンビンにわかっちゃう
んだよ。オーディション見ててそのビンビンか来たか
らね。藤田が全国レベルでブレイクするのはまずまち
がいないね」
「ホント？ 嬉しいこと言ってくれるじゃん。キワに
上手く取り入ってもらおうとか下心ないよね」
「ないよ」
翔太は二人の会話を椅子に座ったまま聞いていて、
この二人はやがて恋に落ちるのではないかと嫉妬した。
それは高校生として極フツーの会話であったが、翔太
には奇跡にも思え、そういう会話は恋をしている、交
際をしている男女にしか成立しえないもののように思
っていたからである。
そのとき教室の入り口に立ったスラリとした影が見
えた。
「あッ」
谷口が一気に緊張した。
「あ、キワだ」
メールを見て橘貴和子が翔太たちのクラスの教室に
やってきたのだ。
「ごきげんよう、皆様。谷口さん、貴方も映画ご一緒
してくださるんですって？」
今日はお嬢様口調になっている。変幻自在で、先日
の横暴なヤンキー口調が信じられない。これが演劇部
の凄さだ。
「あ、はいッ。いいんでございますか、オレなんか」
智絵が手で口を覆って笑っている。翔太も吹き出し
そうになった。
「大勢で参ったほうが楽しゅうございますから。結構
なことだと思います」
「あ、ありがとうございます。じゃ、自分はお供させ
ていただきます」
「『アラと雲の王女』の上映はレイトショーだと八時
半からで、終わりが十一時近くになりますから、私た
ち高校生にはちょっと遅すぎます。ですから、六時か
らのトワイライトショーではと思うんですが、皆様い
かが？」
「け、けっこうでございますッ！」
鶏の早朝の第一声のように谷口が叫んだので、智絵
も翔太も声を立てて笑った。橘も口に手を上品にあて
ながら、「ほっほっほっほッ」と笑った。
どう考えても先日と別人のように思える。もしかし
たら双子で性格の全く異なる姉妹なのか。
「じゃあ、決まりね。五時半に劇場前のマックに集合
して、少し腹ごしらえしてから、観ましょうよ」
「そうだな、それがいい」
翔太は何も発言しないまま、事は決まっていった。
「尾瀬さん。それでようございます？」
橘が翔太を、慈愛をこめた目で見つめながら尋ねた。
「いいよ」
やはり視線を合わさずに翔太が小さな声で応えた。
「みんなで行こうって盛り上がってんだろうがよ、テ
メーもなんか、口利いて発言したらどうなんだ、この
フヌケ野郎」
と、今にも胸倉をつかまれてガン飛ばされることを
翔太は恐れていた。
しかし、今日の橘はそれが本来なのか、演技なのか
わからないが、母親か年の離れた姉のようなオーラを
発して少しも脅威ではなかった。
「尾瀬さん。わたくし、明日が楽しみです。じゃ、お
勉強がありますので、皆様、御機嫌よう」
「あ、ごきげんさんで、ございます」
谷口が上ずって言った。智絵が手を振る。翔太はぼ
ーっとしている。
橘が去ると、智絵が声を立てて笑った。
「谷口君、キワの前だと変。笑わせないでよ」
「仕様がないだろ。あんなしゃべり方されたら、どう
反応していいか、わかんないよ。藤田は慣れてるから
いいかもしんないけど」
「おかしいよ。でもわかる。キワも相当変わってるか
ら、フツーじゃないよね」
「それにしても、橘の目的はこの翔太ってのは本当な
の。オレは絶対信じられないけど」
「そうらしいよ。でも谷口君もがんばってね。気持ち
が強いほうが勝ちだから」
「そうだな。いくら物好きでも、さすがに翔太よりオ
レのほうが男のランクは上だと思うよな」
「さあ、それはどうだか。翔太君はのど自慢に出よう
としているんだから。全国放送の。谷口君にはできな
いことじゃないかしら」
谷口の動きが止まった。
「あ、そこか。そっち系か。それだと勝てないかもな。
芸能界に関わろうなんて気持ちは微塵もないからな。
そこかぁ…」
翔太は橘などどうだっていいと思っている。谷口と
張り合うような気持ちも毛頭ない。元よりこんな近眼
の白髪頭の男などライバルと思ったこともない。翔太
は智絵のことしか考えていない。そして、智絵の目的
は必ず自分なのだと固く信じている。単なる友情で受
験やＡＨＯのスケジュールで多忙なのにここまで関わ
ってくることは考えられない。
智絵もダンスの練習があるからといって帰っていっ
た。
「て、ことだよ。翔太。橘はつまりおまえがのど自慢
に出るっつーから、気になるみたいだな。応えてあげ
られるか」
「ムリ。僕は藤田智絵とのど自慢のことでいっぱいだ
もん」
「そうだろうな。じゃオレがやっぱり、橘と仲良くな
るしかないってことだな」
「それでいいと思う」
「後悔すんなよ。橘に想いを寄せられるなんていう贅
沢な話はないんだから。藤田はやがて東京へ行って手
の届かない存在になるだろうし。後悔すんなよ」
「しない」
谷口は自信があるようだった。女というのは、男が
強引なアプローチをかけると大抵はこちらに靡いてく
る。顔とかスタイルとか関係ない。純粋な気持ちを貫
けば十中八九は受けいれられるということを体験的に
知っているようだった。そういうアグレッシブな行動
力のない翔太は知らぬ世界のことだった。
しかし、その夜、映画を見に行くことについて叔父
宗康と翔太の間で一悶着があった。
叔父はオーディションが近づいている今、女の子と
チャラけて映画など見に行くべきではないというので
ある。これまで練習して高めてきた気持ちが鈍るとい
うである。
「翔太。芸の道も武道と同じだよ。ストイックにしな
いと芸は磨かれない。オーディションまであと三日と
いうその時に、女の子と映画を見に行くというのは、
いかにもまずい。せっかくこれまで積み上げてきた努
力が大半崩れてしまう。蟻の一穴というのがあるから。
ちょっとした油断が命取りになる。こういうことは、
用心に用心を重ねたほうがいい。物事を成功させるに
は、どこまでも慎重でなきゃいけない。成否は仕上げ
の最後の瞬間にかかっているという。翔太。悪いこと
は言わない。キャンセルしなさい」
その言い分は尤もなところがあった。叔父は意地悪
で言っているのではない。土曜日のオーディションの
成功、つまり予選通過をひたすら念頭に置いて、「コ
ーチ」として助言しているのである。それくらい熱を
入れて指導してきたといえる。そういう叔父の気持ち
はわかる。しかし、三人と約束してしまった翔太とし
ては、今更行けないとは言えない。
「それはそうかもしれないけど、今更キャンセルはで
きないよ。約束を破ることになるもん」
「だって、誰が困るというわけじゃなし、映画は逃げ
ていかないから来週でもいいじゃないか」
映画は確かに来週も番組は変わらない。
「でも、だめだよ。行くと言っちゃったんだから、行
かないわけに行かないよ」
「翔太が言えないのなら、あの子に僕から電話して言
ってやるよ」
「ダメだよ。絶対ダメだよ。明日は行かなきゃ、ダメ
なんだってば」
「なぜ」
橘が怖いからとは言えなかった。自分に好意を寄せ
ている女の子が怖い。谷口はいいとして、智絵にも、
約束よりも私事を優先する身勝手な人間と思われたく
なかった。翔太が谷口の立場なら、簡単にキャンセル
できただろう。しかし、明日の映画鑑賞会は翔太を抜
きにして成り立たない。橘貴和子が翔太と映画を見た
いということから始まった話だからだ。
「よし。わかった。僕から、チエちゃんに電話して、
状況を確かめる。それで判断することにしよう」
叔父は智絵に電話してコンタクトをとりたいだけな
のではないかと思った。叔父は恋のライバルと見なし
たほうがいい。
「あ、もしもし、今いいかな。…
うーん、そうか、そういうことか、でも来週ではダ
メなのかな。…ああ、そうか。それなら仕方がないね。
わかった、じゃ、あさってね。待ってるよ。…すぐ会
えるから。バーイ」
「すぐ会えるから」？ なんだ、それは。まるきり
恋人同士のようなやり取りではないか。嫉妬しないわ
けにはいかない。智絵は叔父にどんどん気持ちが傾い
ているのではないか。
「事情はわかった。どうも抜き差しならない状況らし
い。翔太のことを思いつめて、食事も喉をとおらない
くらいらしい。勉強も手につかないらしいから、翔太
は人を救うと思って、橘さんとつきあわなきゃいけな
いな」
「え、やだよ。ムッちゃんも知ってるだろ。僕は藤田
智絵が好きなんだよ。そのためにのど自慢も練習して
きたんじゃないか。なんで横から急に入ってきた橘と
僕が付き合わなきゃいけないの」
「え、翔太、承知したわけだろ。さっきものど自慢の
練習より、映画に行くことを強く主張してたじゃない
か。それは橘さんの気持ちに応えたいっていう気持ち
じゃないのか」
「ちがう」
「じゃ、なんなんだよ」
詰問する叔父のその目は、もはや恋敵の目になって
いると翔太は思った。
「藤田智絵が企画したことだからだよ。彼女が一緒だ
からなんとか実現させてあげたいと思ったんだよ」
橘に襟首つかまれて、空中に浮いた身体を投げ飛ば
され、何度も蹴られて半殺しにされるのが怖いからと
は言えなかった。
翔太が、おそらく初めて叔父に食って掛かったので、
叔父宗康も少しショックを受け、驚いたのだろう、い
つもの叔父の顔に戻った。
「そうか。そうだな。元来の目的はのど自慢じゃなく
て、藤田智絵なんだからな。せっかくのグループ交際
のチャンスだから行ってくるといい。その代わり、帰
ってからもいつも通り練習するから。僕は翔太のオー
ディションにプロデューサーとして賭けているから」
叔父は叔父で真剣なんだということが翔太にも伝わ
ってきた。自分はあやふやでいいかげんだが、智絵と
いい、橘といい、谷口といい、真剣に人生に取り組ん
でいる者たちばかりだということがわかった。自分の
このいい加減さは、主婦の中にどっかりとあぐらを掻
いて、友達とやれ観劇だ、やれ温泉旅行だと人生を満
喫している母の影響が強いと思った。大学受験もある。
ほとんどめども立っていないが、なんとかしなければ
ならないと思った。とりあえずは明日の映画鑑賞会を
無事切り抜けることを考えようと翔太は思った。
谷口はダブルチーズバーガーにコーラ、翔太はシェ
ークとフライドポテトを注文して、智絵たちを待った。
夕刻のマックは高校生たちで溢れ返っていた。同性
同士しゃべくる者もいれば、参考書を広げて勉強する
者、ひたすらスマホに向き合う者もいた。
翔太と谷口は注文したものを前において二人とも黙
って座っていた。緊張していたのである。
殊に谷口の緊張は度を越えていた。テーブルの下で
足を震わせているので、脚にあたってがたがたとテー
ブルが揺れた。顔は引きつって、蒼白状態だった。
「やべぇ。オレ、どうかなりそう。ちょっと、すまん」
そういうとトイレに駆け込んでいった。翔太とても
想いを寄せる智絵と硬軟自在に使い分ける橘が間もな
く現れると思うと、心臓が太鼓のように鳴るのが自分
でもわかった。今日の橘はお嬢様かヤンキーか知れた
ものではない。気分によって変わるんだろう。逃げ出
すという手もある。先日も不良たちが来てごちゃごち
ゃしている隙を見てダッシュした。いたたまれなくな
ったら逃げればいい。卑怯とか男らしくないとか、何
と思われようが自分の身を守るのが先決なのだ。橘は
知らないが智絵は優しく許してくれるはずである。橘
には「いいかげんしろ」と首を絞められるかもしれな
い。その前に思い切り逃げるしかない。
その時、入り口の自動ドアが開いた。まず制服姿の
ままの智絵が現れ、続いてひと際背の高い橘が帽子を
被り、セレブピンクのウールコートにタイトスカート、
ニーハイブーツを履いてオーラを放ちながら入店して
きた。帽子はかわいらしいが完全に大人の女に見えて
とても同級生には見えなかった。
店にいた女子高生、そして男子高生も一斉に橘に注
目した。智絵もＡＨＯに合格してそこそこ顔は知られ
ていたので、女子高生たちはひそひそ囁き合って二人
に注目していた。
智絵は店内を見回し、翔太を発見すると手を振った。
そうすると女子高生たちは一斉に翔太の方に注目した。
どんなイケメンがいるのかと注意を向けたのであろう
が、冴えない男がしょぼくれた風情で座っているばか
りで、一体誰に向かって智絵が手を振ったのか、理解
に苦しんでいるようだった。そこへ小便を終えて前の
チャックを上げながら白髪頭に眼鏡の谷口が戻ってき
たので、ますます女子高生たちは混乱しているようだ
った。
翔太は谷口に智絵たちが来たことを目で合図した。
谷口は橘を認めると立ち尽くしたまま鼻をふくらませ
た。
「しょ、翔太、オレはもうダメだ。あんな美しい人と
どうやって一緒にいたらいいかわからない。頼む。オ
レは帰る」
「じょ、冗談じゃないよ。こっちだって逃げ出したい
ばかりなんだからさ。谷口がそんなこと言ったらきて
もらった意味がないじゃないか。逃げないでよ」
「今、ションベンしたばかりなんだけど、もうちびり
そうなんだ。ウンコも出ちゃうかもしれん」
トレイを持って二人が近づいてくる。
「お待たせー。翔太君、谷口君待った？」
「ごきげんよう。尾瀬さん、谷口さん。今日は楽しく
映画鑑賞いたしましょうね」
今日もお嬢様だった。翔太は安心した。
「私、お腹すいちゃった。あれ、二人食べずに待って
てくれたの。ごめんね。さ、食べましょうよ。あと十
五分しかないよ」
智絵はまったく屈託がなかった。智絵はベーコンレ
タスバーガー、橘はチキンクリスプ、それに二人とも
三角チョコパイとフライポテト、バニラシェイクを買
っていた。緊張感から神経が細ってしまっている男二
人を尻目に、元気のよい女子高生二人は、大口を開け
てハンバーガーにかぶりついた。それに触発されて男
たち二人も小口をあけて食べ始めた。
「私、このハンバーガーにかぶりつく瞬間が一番幸せ。
翔太君はハンバーガー嫌いなの」
智絵がシェイクを右手に持ちながら翔太に尋ねる。
「嫌いじゃないけど…」
「お腹すいちゃうよ。私、この間、映画の途中でお腹
がぐーぐー鳴っちゃって、ホントに恥ずかしかった」
「まぁ、智絵さん、だれと映画行ったの」
「え、あー、なんか誘われて、だれだったかしら」
智絵は「しまった」という顔を一瞬して、とぼけて
いた。
翔太はショックだった。智絵を映画に誘った男がい
る。智絵はそれに応じているのだ。どこまでいったの
だろう。映画のあと、その男は智絵を公園に連れて行
って、繁みで抱きついて唇を奪ったりしたのだろうか。
放っておくと智絵は他の男のものになってしまう。焦
燥感に苛まれる。
谷口は黙々とダブルチーズバーガーをかじっていた。
「あのう、すいません。藤田智絵さんですよね」
そこへ、店にいた中学生と思しき女の子二人がおず
おずと翔太たちのテーブルに近づいてきて智絵に話し
かけた。
智絵は驚いて二人を見た。
「はい…。」
中学生二人は顔を見合わせて歓喜し、
「あのう、私たち、藤田さんのファンなんです」
「この間のフェスティバルのオーディションで、藤田
さんのパフォーマンス見て、すっかりファンになりま
した。握手と、サインしてもらっていいですか」
「え、まだ早いと思うけど。地元の小さなユニットだ
し」
と言いながらも、智絵は中学生二人が学生鞄から取
り出してひらいたノートの白いページに自分の名前を
書いていた。握手にも応じていた。
するとそこへ今度は学ランを着た三人の男たちがや
ってきた。
「あの、橘貴和子さんッスね。オレたち、橘さんのフ
ァンなんス。握手してもらっていいッスか？」
今度は橘に来た。
「まあ、嬉しい。皆さま、なんでわたくしのことを」
「オレたち、学園祭で、貴女の演技を見て、やべーっ
て感じになっちゃったんス。橘さんはヤンキー言葉も
行けますよね。ブログもやってますよね。毎回読んで
るッス」
「まあ、ありがとうございます」
橘は立ち上がって、三人の男たちと握手をした。
「あの、一つお願いがあるんスけど、いいッスかね」
「まあ、なんでございましょう」
「ヤンキー言葉でオレたちにカツ入れてもらえないッ
スかね。オレたちこれから部活の大会があって、がん
ばろうと思ってるんスよね。オレたち、ショウゴとコ
ウヘイとタイチっていうんッスけど、名前呼んでお願
いします」
橘は少し困ったように恥ずかしげに笑ってたが、
「わかりました」
と、承知した。
橘はやおら彼らに背を向けた。座っている三人も橘
を注視した。お嬢様からヤンキー女に変身する瞬間で
ある。セミや蝶には関心がなくとも、それらが羽化す
る瞬間に立ち会えば、さすがに神秘を感ずる。幼虫や
サナギの背が割れて、濡れた純粋な成虫が現れる。
しかし、橘の変身は仮面ライダーやウルトラマンの
変身とも違い、内面の変身であるから、少し上方を仰
いだかと思う、ほんの一瞬のことだった。
くるりと向き直った橘は、表情がすでに無秩序、退
廃的、反社会的、暴力的な風情を帯びていた。
「てめえら、ウゼーんだよ。人が飯喰ってんのを邪魔
すんじゃねーよ。礼儀っーつーもんがあんだろうがよ
ッ」
「はいッ」
男たちは目を輝かせて、ヤンキーと化した橘の激励
の言葉を待った。
「だから、ウゼーって言ってんだろーが。励ませとか、
甘ったれてんじゃーねーよ。ドテ焼くぞ、このタコど
も」
「はいッ、すいませんッ」
男たちは、ぶたれるのを待つＭ男のようにさらなる
言葉を待つ。
「おい、てめー、ショウゴとか言ったな。お昼の正午
じゃねーんだよ。夕刻だろうがよ、今は。それとも、
小学五年生の小五か。ランドセル背負ってさっさと帰
れ、クソやろー」
「はいッ」
「おめーは、コウヘイッつーのか。なんだ、その面は。
てめーの面はどう見ても不公平だろ。ざけんな、コラ
ッ」
「へいッ」
「しょうもねぇ。おい、てめ、タイチとか言ったな、
タイチッつーよりてめーはイタチって感じじゃねーか。
笑わせんじゃねーよ。泣かすぞ、ゴォラー」
「あ、ありがとうございますッ」
そこで橘はまた三人の男たちに背を向けた。ヤンキ
ーからお嬢様に戻る瞬間である。座っている三人も注
視した。しかし、これも一瞬だった。
「ごきげんよう。皆さん」
「橘さん。ありがとうございました。オレたちこれで
がんばることができます。最高ッス」
「わたくし、なにかお礼を言われるようなこと致しま
したかしら」
三人は橘に握手を求めて、顔を紅潮させていた。
「あ、やばいよ。時間だ」
智絵が叫んだ。そんなことしているうちに映画の上
映開始時刻にあと一分だった。
四人は残ったものをそれぞれ鞄に入れて向かいのシ
アターへと向かった。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１４年９月号 通巻第６６号
［原稿用紙３４枚］
