オーディション（４）
大堀敏靖
放課後、体育館の裏に藤田智絵に呼び出された翔太
は一緒にいた演劇部のマドンナ橘貴和子が翔太と付き
合いたい気持ちがあることを智絵から伝えられ、困惑
したのだった。
「はっきりしろよ。このクソやろう。オレと付き合う
のか、それとも智絵と仲良くしてぇのか」
智絵が目で合図してきた。
「この場は丸く治めるためにもキワの気持ちにしたが
って。お願い」
そう言っているようである。しかし、そんなこと了
解したら、この背の高い、整った顔はしているが、乱
暴な口を利く女と付き合わなければならないことにな
る。逆らいでもすれば恫喝される。別れようなんて言
い出したら半殺しにされそうである。この場はきっぱ
りと自分の気持ちを伝えた方がいいかもしれない。
しかし、どうして自分はこんな目に遭わなければな
らないのかわからない。困惑し続けていると、そこへ、
黒い塊が校舎の方からやってくるのが見えた。授業に
もろくに出ていないワルの男たち五人だった。煙草で
も吸いにやってきたのだろう。
「おっ、智絵ちゃんじゃねえッスか。橘さんまでいる」
「そして、あれっ、のど自慢に出る翔太クンまで一緒
ッスね」
「スターがおそろいで何やってんスか」
また、ややこしいことになったと思った。しかし、
助け舟かもしれない。ドサクサに紛れて逃げ出せるか
もしれない。
「三人でユニット組んで、ＣＤでも売り出す相談っス
か」
「それともお笑いデビューかな。お嬢様とミニ樽とボ
クちんで、コントなんかやったら大受けッスね」
「てか、最後にきゃりーぽみゅぽみゅの『つけげつけ
るん』で締めたら、チョーやベーんじゃね？」
ワルたちは大いに盛り上がった。
智絵はからかわれて不快な顔をしていた。橘は無表
情だった。しかし、おもむろにワル男たちに向かって
言ったのである。
「おめーら、なんか用か」
さすがにお嬢様の口から出た思いもよらない言葉に
ワルたちは怯んだようだった。
「別に用というか、ここはオレたちのお昼休みの憩い
の場だからよ、なぁ」
「そうだよ。オレたちがいたら悪いっていうのかよ」
「るッせぇんだよ。今大事な話してたとこなんだよッ。
邪魔すんじゃねぇよッ」
どういうわけかワルたちはチビが多く、皆、橘より
背が低かった。女子とはいえ、自分より高身長の人間
に上からすごまれると恐怖心があるらしい。
「おお怖ぇ。この人、なんだよ。女番町みてぇじゃん」
「じいさんが国会議員だからってよ、チョーシこいて
んじゃねぇぞ」
「るっせぇんだよ。関係ねぇだろ、このクソガキ」
まったく怯まず、台詞もかまない橘にワルたちは恐
れを抱いたようだった。
翔太は今だと思った。逃げるなら今がチャンスだ。
翔太はワルたちを突き抜けてダッシュした。
「あっ」
「何だ、あいつ」
「翔太くんッ、逃げるのッ」
智絵の声が背後に聞こえた。こういう場合は逃げる
が勝ちである。あんなところに留まっていたってろく
なことはない。
思い切り逃げてトイレに隠れるしかない。翔太は校
舎の、体育館の反対側の一番端にある三階のトイレに
駆け込んでロックした。全力で駆けて息が切れた。便
器に座る。だれも追いかけてきた様子はない。外が静
まったところでそっと出ていけばいいと思った。
ゲームをやったり、ユーチューブを見ながら、長い
ことトイレに留まって外の様子をうかがっていた。ど
ういうわけか、水川きよしの「きよしのズンドコ節」
を鼻歌で口ずさみながらノー天気にやってきて、やた
ら長い小便をし、身体をふるわせてからチャックを閉
めて、痰をはいて出て行った男が一人いただけだった。
携帯の時計を見ると六時を過ぎている。吹奏楽部の練
習の音が小さく聞こえた。少し前に谷口からメールが
入った。
《どこにいる？ 藤田が探してるぞ》
返信はしなかった。トイレはすっかり暗くなってい
た。体育館裏にいた連中は皆帰っただろうと翔太は思
った。明日は何食わぬ顔で登校して、責められたら謝
ればいい。謝って涙でも見せれば大抵許してもらえる
ものだと翔太はこれまでの人生から経験上、学んでい
た。
ところがそっとトイレから出てきた廊下に背を向け
て窓の外を見ていた女子が振り向くと智絵だった。翔
太は驚愕した。
「あッ」
「翔太君。やっと出てきたね」
「あわわ」
「なんでわかったか、って聞きたいんでしょ。女の勘
よ。翔太君の気持ちになればどういう行動をとるかシ
ミュレーションできるよ。逃げる。そしてトイレに隠
れる。ちょっとのぞいて一つだけ閉まっていたドアが
あったのはここだけだったから」
男子トイレをのぞくぐらいのことは女子ならできる。
高速道路のサービスエリアで婦人用のトイレに行列が
できて混んでいると老婆たちは平気で男子トイレに侵
入してきて用を足している。
「呼んでも絶対出てこないと思ったから待ってたんだ
よ」
「た、橘さんは…」
「キワ？ キワは帰った。塾に行くからって」
そこで智絵はまっすぐに翔太の目を見た。中庭の外
灯が智絵の瞳に反射して光っていた。その目は少し潤
んでいた。
「なぜ、逃げたのって聞かないよ。気持ちわかるから。
キワはずっと翔太君のこと遠くから見ていたらしいよ。
翔太君みたいな男の子がタイプで、好きなお笑い芸人
の誰かに似ているらしいんだよ。でも、いい加減な気
持ちじゃなくて、けっこう思いつめていたみたいだか
ら。映画一緒に行ってあげて」
そんなこといいながら智絵は本当は自分のことが好
きなのだろうと翔太は思った。そう解釈したかった。
僕は智絵さんが好きなんだと言いたかった。
「あわわ」
「あわわ、じゃわかんないよ。じゃ、三人で行こうか。
不良の子たちが言ってたみたいに私たち、ユニット組
んだらいいかもしれないから」
それならいいかも知れないと思った。橘と二人きり
では息が詰って、業を煮やした橘に首を締められそう
な気がした。
「わたしもＡＨＯの練習があったりしてあまり時間と
れないけど何とかするから、レイトショーで行こうよ。
ね、いい？」
翔太は頷いた。
「よし、じゃあ、決まり。それからおじさんにお礼に
行くからよろしく」
翔太はまた頷いた。
翔太はここで思い切って告白しようと思った。こん
なチャンスはないだろう。
「ち、ちえさん…」
しかし、智絵はなぜか、唇に手をあてて、
「じゃあね」
と、手を小さく振って階段を降りて行ってしまった。
翔太は取り残された。なぜ、言わせてくれないのだ。
告白したかったのになぜ聞いてくれないんだ。翔太は
また悩まなければならなかった。…
翔太はその日にあった出来事を全部叔父ムッちゃん
に報告した。
「そうか。あの子がねぇ。翔太の意中の彼女だったの
か。わかるよ。僕も気に入ったもの。やはり血筋なん
だろうな。同じ子が気に入るんだから。あ、変な気持
ちじゃないからね。心配しなくてもいいよ。そうか、
藤田智絵が好きなのか。あれはおもろしい子だよ。ス
ター性がある。アイドルの要素を満たしているからね。
明るくて、はきはきしていて、どこか天然ぽくて、支
えたくなる。手の届きそうなところにいる子って感じ
だからね」
叔父はそこで、長い髪を掻き揚げて、コーヒーカッ
プを手に取って一口飲んだ。
「是非ムッちゃんにお礼が言いたいらしいよ」
「それは嬉しいな。僕は自分の好みを主張しただけで、
別に彼女を庇おうとか便宜を図ろうとかしたわけじゃ
ないんだけどね。律儀だね」
翔太はそれも自分に少しでも近づきたい智絵が起こ
すアクションだと考えたかった。
「それにしても翔太もなかなかモテるじゃないか。そ
の演劇部のマドンナは翔太のことが好きなわけだろ」
「なんか勘違いしているんだと思うけど、意味わかん
ないよ。あんなヤンキーの口を利く子はちょっと引い
ちゃうから」
「でもあの橘代議士の孫だろ。親父さんは第八銀行の
頭取だし。がんばれよ、翔太」
「だめだよ。殺されるよ。不良のヤツらもビビッてた
から」
「そうか、県の右翼を束ねてる祖父さんの血を引いて
るんだろうね」
のど自慢の予選は一週間後に迫っていた。かなり声
の出るようになった翔太は、水川の「ズンドコ節」の
カラオケに合わせて何度も歌を歌わされ、細かい部分
のチェックを叔父から受けた。自分でも驚くほどに声
が伸びて張りが出てきた。叔父はやはり音楽の才能が
あり、特に人の音楽的能力を引き出す抜きん出た才能
を持っているのではないかと思った。
「いいよ。どんどんよくなるね。そうそう肩の力を抜
いてね。倍音を使ってね」
倍音とは、普通の音高の二倍、三倍の周波数の音の
ことで、「天使の声」のように、聞こえるはずのない
声が聞こえてきたりするその音のことをいう。肩の力
を抜いて臍の下あたりに意識を集中する腹式呼吸でこ
の倍音が出てくる。才能のある歌手、あるいは訓練を
積んだ歌手、例えば、エンヤやマライア・キャリー、
映画「タイタニック」のテーマ曲を歌ったセリーヌ・
ディオンはこの倍音を自由に駆使して、世界の人々の
心を魅了している。癒しやカリスマ性をもたらす効果
があるという。
叔父宗康の説明だからどこか非現実的でオカルト染
みたところがあるが、音には何か不思議な要素があっ
て、古代の卑弥呼なども倍音を使った声や神楽などで
人々を引き付け、ひれ伏さしたのだろう。
「単なる歌の上手さにもう一つ加わらないと、人の心
を引き付けられない。それは個性に通ずるものだろう
けど、僕は神だと思っている。神様と通ずることがで
きた人が世界的にブレイクするんだよ」
「ムッちゃん。僕は世界的にブレイクしようなんて考
えていないよ。『素人のど自慢』の予選に通過して本
選に出られればと思ってるだけで」
「目標はね、大きいほうがいい。大は小を兼ねるとい
うから。世界を目指していれば失敗しても日本にはイ
ンパクトのある歌を歌える」
「日本も目指してないよ。とにかく出場して、藤田智
絵にテレビを通じて告ることなんだから」
「それは翔太の目標。僕はね、それだけでは満足しな
い。世界だよ。世界に通用するエンターテイナーだよ」
「それだったら自分で出ればいいんじゃん」
「いや、僕は黒幕に徹する。プロデュースする方がお
もしろい。要するに猿回しの猿使いだね」
「じゃ、僕は猿なの？」
「その例えで言えば、そうだ」
「ひどいよ」
「しかし、猿も人気者になれば、プロデューサーを食
ってしまうこともある。人間を振り回す猿もいる。そ
こまでいけばいい」
「世界に通用する猿か…」
もしかしたら自分には歌の才能があるのではないか
と思い始めている翔太は青年特有の自己万能観で、「
日本」いや「世界」を目指すべきかもしれないと考え
るのだった。
それから二日後にＡＨＯのレッスンや打ち合わせが
終わった智絵が翔太の家にやってきた。インターホン
が鳴って、玄関に迎えいれた智絵はいつもの同級生で
はなく、毛糸の帽子にウインドブレーカーの「アイド
ル」だった。
「あ、あわわ、どう…も」
やはり口が利けない。父がなにかとうるさいので、
応接ルームではなく、叔父のピアノある地下室に入っ
てもらう。母がお茶を運んでくる。
「いつも翔太がお世話になっています」
智絵がステージで聴衆に頭を下げるように礼をする
「藤田さんは地元アイドルなんですってね。ホントに
きれいで、かわいいわ。翔太のお嫁さんにほしいくら
い」
智絵ははにかんで微笑した。「翔太の嫁さん」と言
われて嬉しいのか、「きれいで、かわいい」がうれし
いのか、返答に窮して苦笑しているだけなのか、翔太
は判じかねた。余計なことを言う母に後で文句を言お
うと思った。
「藤田智絵です。翔太君の同級生です。今はクラスち
がいますけど。今日は、翔太君の叔父さんにこの間の
オーディションのお礼をいいたくてお邪魔しました」
ハキハキと挨拶をする。滑舌がいい。ボイストレー
ニングで鍛えられているからだろう。しかし、翔太も
同じことをやっている。いくら緊張するからといって
も、「あわわ」だけでは情けない。
「なんですかね。この子も『素人のど自慢』なんかに
出るとか言い出して、私はびっくりして一体どうして
そんな大胆なこと考えるのか私には理解できないんで
すよ。勉強のほうをもっと大胆にやってくれたらいい
と思ってるんでけど、ときどき突飛なことをするとこ
ろがあって、母親としても理解に苦しむところがある
んですよ。変な思想にでも取り付かれて、世界を革命
するとか言って、警察にマークされるようになったら
大変だと思っているんですけどね。学校ではどうなん
ですか、この子。やっぱり変人扱いされてますか」
また余計なことを言っている。お茶を出したらさっ
さと引っ込んでほしいと翔太は思う。
「いいえ。翔太君はクラスの人気者で、皆から好かれ
ています、翔太君を悪く言う子は一人もいません。癒
し系だと思いますが、何か内に秘めた意志のようなも
のを感じて、でもそれが嫌味にはならなくて、人がい
いので、みんな翔太君のことが大好きなんです」
「翔太君のことが大好きなんです」と言った。しかし、
その「大好き」は恋愛感情なのか、猫や犬を愛するよ
うに玩具のような存在だけなのかどちらなんだろう。
「大キライ」と言われるよりはいいが、どういう「大
好き」なのか、智絵に恋している翔太には悩みの種と
なってしまう一言だった。
「ありがとうございます。息子のことをそんな風に言
ってくださって、うれしいわ。翔太のお嫁さんになっ
てくれたら、いいのにね。まだ早いかしら。こんな話
智絵は今度は明るく微笑して、
「まだ高校生ですから。まだずっと先のことですから
と言った。これは拒絶なのか。母が間接的にプロー
ポーズしたのを智絵はやんわりと拒絶したのではない
か。やはり悩まねばならない。一体この娘は自分のこ
とをどう思っているのだ。家まで押しかけてきて、思
わせ振りをして、そして挙句が拒絶か。なんて残酷な
女なんだ。翔太の内向きな心は堂々巡りをし、せっか
く家まで来ていてくれるのに少しも嬉しくなかった。
そこへ、叔父が入ってきた。
「あ、尾瀬先生。突然お邪魔してすみません。先日は
どうもありがとうございました。わたし、どうしても
先生にお礼が言いたくて」
「お礼を言いたいのは僕の方ですよ。素晴らしいパフ
ォーマンス見せてくれました。驚きましたよ。しかも
甥の同級生だと知ってもっと驚きました」
「ありがとうございます。私は本当は女優になりたい
んです。演劇もずっとやってますから。でもとりあえ
ずは歌と踊りでアイドルを目指したいと思っています
私、全国レベルで通用しますか」
「通用しますとも。太鼓判を押しますよ。あなたには
スター性というものがあります。天性のものでしょう
ね。人を引き付ける魅力があります。それは言葉では
表現できないのですが、僕はそれは神に通ずるものだ
と思ってます」
また、訳のわからないことを言い始めた。神とか仏
とか、アイドルを目指す智絵には通じないだろう。
「神、ですか。私もそう思うときがよくあります。演
劇をやっていても、神が降りてきて私に乗り移ってい
るんではないかと思うときが時々あります。アイドル
もたぶん、守護霊に守られて、助けられて、あるいは
丸ごと身体を預けてしまって、歌ったり踊ったりして
いるのではないかと思います。そういう子が圧倒的な
人気があるんだと思います。単なる努力とか運とか超
えたものが確かにあると思います」
叔父は長い髪を後ろに掻き揚げた。いつもと異なり
音楽プロデューサーのような風貌になっている。父に
殴られ膝を抱えて泣く情けない男ではなかった。不倫
をして反省して帰って来たさえない男でもなかった。
「あなたは若いのにエライですね。ちゃんとわかって
いますね。天才の仕事というのは神に通ずる仕事です。
神という無限の泉から滾々と湧き出でる清らかな水の
ように表現をするのです。汲めば汲むほど溢れてくる
泉です。表現する人は表現すればするほど元気になり、
ますます輝いてきます。それが本当の芸術というもの
です。小手先のテクニックでヒット曲を飛ばすことも
できます。リフレインを多様すれば人の耳にこびりつ
いてそれが酒や麻薬のようになってしまって、また聴
きたくなるということはあります。しかし、すぐに飽
きられてしまいます。本当の芸術は飽きられません。
幾度触れても触れるたびに新たな発見があります。ど
こか懐かしい気がして心が落ち着きます。そういう芸
術はやはり神に通ずるものでしょうね。人々は敏感に
察知して、本物を見逃しません」
「おっしゃるとおりだと思います。でも、アイドルは
なんか元気できゃぴきゃぴ飛び回っていれば人気が出
るようなところがあって、アイドルの子たちは玉石混
交だと思います。でも、私、アイドルって好きなんで
す。現実はいろいろ大変なんですけど、夢があって、
夢を皆に供給して、その夢が生きていく上での力にな
ることもあると思います。アイドルなんかいなくても
世の中は動いていきますけど、アイドルがいれば世の
中は明るく、楽しく、おもしろくなって、きっと見て
いる人の力になることもあると思います。だから私は
そういうアイドルになって、でもいつまでもアイドル
やっているわけにはいきませんから実力のある女優を
目指していろんなタイプの役をこなして幅のある演技
をして、きらきらだけではない、奥の深い感動を人々
に与えることができたらいいと思っているのです」
聞いていた母が小さく拍手した。
「偉いわねぇ。しっかりしているわ。きっと素晴らし
い女優さんになれるわ。翔太の嫁にと思ったけど、翔
太が独り占めするには惜しすぎる人よねぇ。絶対なっ
てください。あなたのような人が女優にならないとい
けないのよ。きっと大女優になれますよ。私、応援す
るから」
「ありがとうございます」
「僕も応援していますよ。ＡＨＯもきちんとやって、
全国に進むといいでしょう。ＡＨＯでやっていても注
目のご当地アイドルということで、メディアに紹介さ
れるでしょう。僕からも知り合いに耳打ちしときます
から。かわいい子がいるってね」
「ありがとうございます」
ここで翔太も何か一言健気な智絵を励ます台詞を述
べるべきだった。しかし、黙ってお茶の置かれたテー
ブル・クロスのムッちゃんが煙草で焦がした部分を見
つめるだけで、心の中は、智絵が自分から遠い存在に
なってしまいそうなこと、さきほどの「大好き」の意
味が恋愛感情ではないかもしれないという不安で、目
の前に愛する智絵がいながら、なんら恋愛にプラスに
作用するアクションを起こすことはできなかったので
ある。
そういう翔太の気持ちを察してか、ムッちゃんが言
ってくれた。
「藤田さん。翔太もね、今度『素人のど自慢』の予選
に出るんですよ。気持ちは藤田さんと同じで、こいつ
もアイドル目指しているんですよ」
「私ものど自慢、出ようかって思ったんです。ＡＨＯ
に通ってなかったら私も出たと思います。翔太君、が
んばってね」
「今、特訓中なんです。身内を褒めるのもなんですが、
結構いい素質があって、磨けば輝く宝石かもしれませ
ん。だいぶん声が出るようになりました。倍音が出て、
聴衆にアピールする声が出るようになってきたんです
よ」
「あ、倍音ですか。知ってます。私も出したいと思っ
ています」
「よかったら、僕が指導しましょうか。倍音の開発に
はちょっと自信があるのです。一推しのあなたを指導
できたら僕は幸せです」
――おいおい叔父さん、高校生をまたクドいてんじ
ゃないよ。と翔太は内心思った。こういうことを臆面
もなくいう人間は女にモテるのだろう。翔太には真似
のできないことである。
「ホントですかぁ。嬉しい。私、ここに通って練習し
ていいんですかぁ」
「僕はかまわないよ。翔太はどうなの」
「別にいいけど…」
「じゃ、決まりだね。翔太と一緒にレッスンをしよう。
尤も翔太は来週予選だけど」
「ちょっと、宗康さん。翔太は受験生ですから勉強し
なきゃいけないんですよ。それに藤田さんだって、地
元アイドルだけど受験生なんだから、そんなことばか
りしてられないわよね」
母が智絵の方を見る。
「私、ある私立大学が推薦で決まりそうですから、勉
強はもういいんです」
「まあ。もうお決まり？ どちらの」
「北山大学です。ミッション系の」
「まあ、あのお嬢様の多い。学部はどちら」
「文学部です。演劇学科です」
「まあ、着々と自分の夢に向かって進んでらっしゃる
のね。偉い。ますます気にいっちやった。翔太の嫁、
ああ、日本のアイドルですものね。いいわぁ」
翔太は不本意だった。智絵に会えることはいいこと
には違いないが、智絵の目的は翔太ではなく、叔父の
レッスンだとすれば、おもしろくない。先生に対して
は特別な気持ちを持ってしまうだろう。叔父は前科が
あるから、知恵をプライベートに口説いておかしな関
係になってしまうことは容易く考えられることである。
智絵の叔父を見る目は度を越えたもので、何を要求さ
れてもすべてイエス、身も心も捧げますというような
風情だった。しかし、翔太の口からこの場で智絵には
来て欲しくないなどとは言えなかった。
「お願い致します。お月謝はきちんとお支払い致しま
す。どれくらいでしょうか」
「いや、要らないって。僕の方から言い出したことだ
から。フリーパスでここに来てもらって僕のペースで
やらせてもらうから要らないよ。僕は明るい君に会い
たいだけだから」
――おいおい叔父さん。またそんな殺し文句言って、
完全に智絵をその気にさせているじゃないか。わかっ
ているのかよ。
翔太はそう思った。
「いえ、きちんと教えて頂きたいですから、お礼はき
ちんとさせて頂きたいんです。週二時間なら二時間、
何時から何時まで、きちんとレッスンして頂きたいん
です」
しっかりしている。智絵に浮ついたところはない。
問題は叔父の方だろう。
「わかった。じゃあ、月五千円でいいです」
「そんな安過ぎます。それくらいのレッスンしかして
もらえないのですか。五万くらいが普通だと思います」
叔父は確かに驚いていた。定職のない叔父にしてみ
れば五万の収入は願ってもないことだろう。
「じゃ、三枚でいいです。そんな立派なレッスンにな
るかどうかもわかりませんから」
「五万のレッスンをお願いします。私、本気なんです。
本気でアイドルになって、テレビにも出たいんです。
お願いしますッ」
智絵が芸能に賭ける思いは火のように熱いことがわ
かった。叔父も母も翔太もほとんど圧倒された。
翔太は思った。智絵に比べ自分はなんといい加減な
気持ちで「素人のど自慢」に出ようとしているのだろ
う。その目的は今目の前にいる女の子にテレビを通じ
て「好きです」と告白することである。しかし、そん
なまどろっこしい、靴をはいたまま足の裏を掻くよう
なことして一体何の意味があるのだろう。そんなこと
をして智絵は喜ぶのだろうか。自己満足に過ぎないで
はないか。智絵の芸能への熱誠をぶつけられて翔太は
そう考えざるを得なかった。それまでは自分は意味の
あることをしようとしていると思っていたのだった。
「翔太。お前はすごい同級生を持ってるな。今日のよ
うに驚いた日はなかった。身が正される思いがする。
人間というのは真面目に誠実に一生懸命生きなければ
ならないことを思い知らされたよ。僕はなんていい加
減だったんだろうと思い知らされたよ」
「私もそうよ。主婦の地位に安住して、ワイドショー
見て、近所の仲間とお茶して、旅行して、温泉なんか
浸かって、ショッピングして日ごろのウサ晴らして、
こんなことではいけないと思ったわ。私に何かできる
ことあるかしら。今更芸能界デビューはムリよね」
「そんなことありませんよ、義姉さん。イギリスのス
ーザンボイルのような例がありますから。４７歳でオ
ペラ歌手デビューしてますよ。世界を驚かせて、一夜
にしてスターですからね。どうみてもそこいらのオバ
サンです。」
翔太も知っていた。不細工なオバサンが信じられな
いような美声を張り上げて聴衆の度肝を抜いている映
像を見たことがある。会場は不細工なオバサンのオー
ディションへの登場で最初は冷笑だったが、歌声を聞
いた途端、驚きと衝撃が走り、それが次第に感動に変
わり、賞賛になっていった。その劇的な変化は印象的
だった。
おどおどした高校生がマイクを持って歌いだした途
端、天まで届くような透き通る声が響き渡り、会場を
驚かせ、感動と賞賛の嵐が吹きまくる。そんな情景を
翔太は夢想してみた。
しかし、「ありえない」というのが現段階から考え
られる結論だった。叔父ムッちゃんは翔太に何を期待
しているのかは知らない。しかし、本人は歌手デビュ
ーなど考えも及ばない。どんな困難も排して突き進む
ような自信や情熱が根本から欠落している。ただテレ
ビに出て好きな女の子に告白する。そこまでのシミュ
レーションしか持ち合わせていない。智絵は、ＡＨＯ
などほんの通過点で、そこでブレイクして、全国進出
を果たし、グループのセンターとして圧倒的な人気を
獲得し、グループを卒業した後は、女優としてスクリ
ーンデビューし、ゆくゆくはハリウッドスターと共演
する事などを夢見ているのだろう。そこまで青写真を
描くことができている。イメージできるだけでもすご
いと翔太は思った。
毎週三万円で叔父宗康の歌唱指導を受けることを約
束して智絵は帰っていった。
「翔太。大した女の子に恋したもんだな。あの子は本
気だよ。本気で芸能人になろうしている。着実に一歩
を踏み出しているからあれは確実に近い将来スターダ
ムにのし上がってくる玉だよ。僕にはよくわかる」
「僕はどうすればいいの。のど自慢なんか出て告った
って、手の届かないところへ行ってしまうんだったら
意味ないよ」
「そんなことは関係ない。ここまで来たら、初志貫徹
しかない。とにかく熱い思いをぶつけるのが青春って
もんだからさ。状況や相手の気持ちなんかどうでもい
いんだよ。それはあちらさんに任せておけば。こちら
は火の玉になってぶつかっていくだけ。逃げるのも受
け止めるのも向こう次第さ」
立ちはだかる壁を突き崩して前に進むべく若者はた
だ自分を信じて壁に突進していけばよい。激突する衝
撃はあるだろう。しかし、空手で板を割るように、壁
を突き破ってしまうと衝撃は感じないのかもしれない。
考えるのはもう止めようと思った。何も考えずに歌
うことだけをイメージして全存在を賭けて歌うだけに
しようと思った。
予選は五日後に迫っていた。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１４年７月号 通巻第６４号
［原稿用紙３２枚］
