モテキ月 七
大堀敏靖
橋元奈緒実はお見合いの席で涙を流し、「実は実は
何を隠そう私は月の世界の住人なんです」と言う。本
来なら驚くべきことであるが、九月に入ってから驚く
べきことの連続で神経が麻痺してしまっているから、
驚けない。それでも一応は驚いたふりをしたが何ゆえ
月の世界の住人がわざわざ地球くんだりまでやってき
て何を目的として滞在し、地球人の生活を引っ掻き回
して無責任に帰っていってしまうのか、大和はぜひ尋
ねたいものだとかねがね思っていた。お見合いの成否
よりもそちらのほうが重要かもしれない。
「あなたが月の世界の住人だということは信じましょ
う。信じますが、一体何のために地球にやってきたん
です。それをぜひお尋ねしたいです」
橋元は涙に濡れた美しい顔を上げて大和を見る。そ
の顔を見ると憐憫の情が起こってくる。
「観光です。長期の観光で、一年かけて優雅に地球一
周する船旅のようなものです」
「観光？観光に来てNHK のアナウンサーなんかやっち
ゃうんですか」
「月の世界の住人は地球を故郷のように思っています
から、ただバスに乗ってガイドさんの後をついて回る
だけのツアーでは飽き足らないのです。ぜひ地球の人
々と深く交わりたい、そう熱望しているのです」
「なるほど」
「平安時代に訪れた香倶谷さんもそうでした。あの人
は今も月の世界で健在ですが、各地で講演会などに招
ばれて地球での体験を語っています。もっと不細工に
メイクして行くべきだったと後悔していらっしゃるよ
うです」
「かぐや姫が健在！いったい何歳なんですか」
「さぁ、月では年齢の取り方も六分の一ですから、そ
れに変なストレスもないんで皆長生きで、超高齢化社
会ですが、お年よりは皆現役でバンバン働いてます」
「そういうあなたは何歳なんですか」
「わたしですか。わたしは地球のここ日本でいえば江
戸時代の後期に生まれました。百八十三歳です、今年
」
「ひぇー！マジですか」
「驚くときは、じぇ、じぇ、じぇッ！というのが月で
流行しています」
「それはNHK の朝ドラの…」
「あれは私の提案なんです。東北地方のは本当はじゃ
、じゃ、じゃ、っていうのです。月ではじぇ、じぇ、
ですから脚本の先生にわたしが言ったら『それ、いた
だき』とかおっしゃってドラマの中で使われてます」
「じぇ、じぇッ！」
いつのまにか橋元は涙も乾いて元気に話しているこ
とに大和は気付いた。
「あれ、橋元さん元気が出てきました？」
「それは貴方とこうして話しているからです。貴方は
わたしの元気の源だからです」
あからさまに言う。
「それは嬉しいですが、疑問なのはどうして僕があな
たから好意をもたれるのかということです」
「それは…」
そこへチャイナ･ ドレスの給仕がジャスミンティー
を運んでくる。ポットから湯飲みに注ぐその注ぎ方が
いかにも優雅で格式の高いホテルらしい。
「どうしますか。食事にしますか」
「いえ、まだ食べられません。本来私は大食いなので
すが、何か胸が一杯で…」
時計を見るとまだ十時二十分である。
「わたしが貴方に魅かれる理由ですが、それはお写真
を拝見して直感しました。そんなことは女には理屈で
はなく、直感です。この人とは青い糸で結ばれている
と直感しました」
「青い？赤じゃなくて」
「間違えました。赤い糸です」
「赤でも青でもいいのですが、『竹取物語』では五人
の貴公子から求婚されてもそれぞれに難題を出して肘
鉄を食らわせていますね。貴方は観光でやってきてＮ
ＨＫのアナウンサーになり、結婚までして地球人と関
わろうとなさっている」
「そうです。月の世界では地球人と結婚することが今
流行っていて、地球の男をゲットした娘は羨ましがら
れてます。地球人とのとハーフも結構いて、芸能人に
なったりしてもてはやされています」
「芸能人！月の世界にも芸能界があるんですか！」
「あります」
「信じられません。こちらから見ると荒涼とした砂と
岩と穴ぼこだらけの不毛地帯にしか見えません。人間
が住んでいるとも思えないし、うさぎが餅を餅を突い
ているとも思えません。でたらめをあなたおっしやっ
てるんでしょう」
「地球人は月の砂漠ばかり見ているからそう思ってる
んです。ウラを知らないのです」
「ウラ、ですか？」
「物事の一面ばかりを見ていては真実は見えてきませ
ん。月の裏側には地球と同じような海と陸地があって、
人間が住むには最適な環境があるのです。地球に人間
がいて、月に生物がいなかったとしたら不思議だと思
いませんか」
「確かに」
「月からは頻繁に地球へ円盤を飛ばして観光に訪れて
いるのに、地球からはアポロがやってきて、砂漠の石
を拾って満足しちゃいましたね。最近また月の探査が
盛んになってきましたけど」
「ほんとですかねぇ。月の裏側の写真も見たことあり
ますけど、やっぱりニキビ面の中学生のような表面に
も増して穴ぼこだらけの不毛地帯でしたよ」
「地球人が月の裏側など見るべきではないのです。見
られたくない一面というのはあるでしょう。月にとっ
てはウラ側なのです。必死に隠そうとして、愛されよ
うとして自転と公転を同じ周期にしているのです。そ
んなものをわざわざ見ようとするのは悪趣味以外の何
者でもありません。それは黄泉の国を訪れたイザナギ
の命みたいなものだし、鶴が機を織るのを目撃してし
まった与兵のようなもので、してはいけないことなん
です。誰ですか、そんな写真を撮ったのは」
「今のロシアのソ連もやってますし、ＮＡＳＡもやっ
てます」
「でもおそらく写真は公開しないでしょう。びっくり
して地球人はパニックに陥るでしょうから。余計なこ
とはしない方がいいんです」
「でも月の人ばかりやってきて地球人は余計なことし
ない方がいいなんて不公平でしょう。月の石だけ持ち
帰って満足しててはいけないとあなたもおっしゃいま
した」
「相互交流は必要でしょうけど、なんといっても月は
地球の衛星、勝負はついているのです。地球は月にと
っては祖国、ふるさとのようなものですから、故郷は
じっとしていてくれたほうがいいんです。実家が、都
会でアパート暮らしをしている一人息子の生活をウラ
まで暴き立てることはないのです。だれでも叩けばホ
コリの一つや二つは出てきます。見せているとこだけ
見て、そうか、そうかと寛容にしていてくれるのが、
実家というものです」
「なるほど」
「鈴木さんは月のキゲンはご存知ですか」
「キゲン？いつまでもつかという期限ですか？」
「いいえ、どのようにできたかという、誕生の起源で
す」
「地球から分離独立したと聞いたことがあります。地
球の衛星ですから」
「少し違います。地球からぽっこりと月が生まれたと
いう説も昔ありました。その他、元々別々に近い位置
に誕生し成り立ったという説や他の所にあった月が地
球の引力に引き寄せられたという三つの説が古典的に
存在しました。しかし、実際は地球が誕生した四十六
億年前に巨大惑星が地球に衝突し、衝撃でその破片が
周囲に飛び散って、それらが次第にまとまって月にな
ったというのが真相です。だから衝突した惑星と地球
との性交によって生まれた子どもといっていいでしょ
う。衝突した惑星は精子、地球は卵子、だから地球は
月にとっては母のような存在なのです。月の住人が母
の元を訪れたくなるのは当然でしょう。だから文明を
地球よりも早く発達させて、地球に円盤を飛ばしてき
たのです」
「なるほど」
「地球人からはふつう見られない裏側には私たちの古
代遺跡や宇宙基地の入り口部分などが注意すれば見ら
れるはずです。しかし、現在の都市は地下にあります
から普段はみられません。アポロが飛んできた時も私
たちの仲間が挨拶に出向いたのですが、警戒されて、
飛行士たちにはNASAから『なかったことにしろ』とい
う指令が出たようです。地球人は大パニックに陥りま
すからね」
「うーむ。なんかすごい話だなぁ。しかし、月の世界
の人がわたしとお見合いして、包み隠さずそんなこと
話してしまっていいんですか」
「いいんです」
「なぜ」
「私は覚悟を決めたのです。観光ビザはもうすぐ期限
が切れます。三年が限度なんです。しかし、地球人と
結婚すれば月の世界とは絶縁されて永久に地球人とみ
なされます。もっともお盆やお正月に里帰りしたり、
同窓会で帰ることもできますが」
「お盆、お正月、同窓会…、そんなものも月にはある
のですか」
「もちろんあります。地球と変わりません」
「しかし、地球人になるとしても、戸籍とか国籍とか
はどうなるんですか」
「そんなことは何でもないことです。改竄するのです。
パソコン操作で何とでもできます。地球人の記憶も操
作できる技術で何とでもなります」
「じゃ今のご家族も記憶が操作されている…」
「家族は月に縁のある人で祖母の母方祖父にあたる人
が月から地球人に転身した人だったのです。父母は地
球人と変わりませんから記憶が操作され私を娘と信じ
ています」
「マジっすか。信じていいんですかね。同じ地球人で
も国際結婚というのはかなり抵抗がありますから、ま
して宇宙人となると、生活習慣、文化などの違いがあ
って仮に結婚したとしても、夫婦生活に支障をきたし
ますね」
「それはまったく心配いりません。わたしは完全に日
本文化、しかもこの地方の文化をマスターしています
し、失礼ですが貴方の家族、生い立ち、家庭環境、友
人関係、趣味、好みの料理、テレビの視聴傾向、血液
型、星座、休日の過ごし方、マスターベーションの回
数、過去の異性関係などすべて情報を得てインプット
しましたから」
「そんなことまでも…。問題なかったんですか」
「オッケーです。フツーでしたから」
「でも、月の世界と絶縁するって、向こうの家族、友
人、知人の付き合いなどは大丈夫なんですか」
「だからその気になれば会えますし、月の円盤だと約
五分もかからずに月に到着できますから、寂しくもな
んともないです。隣近所に嫁ぐようなものなんです」
「ウソでしょう。三十八万四千キロをたったの五分だ
なんて」
「時間と空間を超越する科学技術を極めてしまってま
すから、空間や時間の隔たりなど何でもなくなってし
まったのです。心で交流ができるようにもなったんで
す」
「うーむ。信じていいのかなあ。月まで五分とはなぁ
」
そこで橋元は居ずまいを正し、顔を紅潮させた。
「ですから、お願いです。わたしと、け、結婚してく
ださい」
「え、いきなりプロポーズですか。女性から」
「貴方がなかなかそんなこと言い出さない人というこ
とは情報を得てますから。女からはしたないかもしれ
ませんけれど、お願いです。人助けでもあると思って」
望まれれば断る理由もない。月の住人であろうと火
星の住人であろうとこれくらい美しければ結婚するに
値する。
「わかりました。結婚しましょう」
大和は後先も考えず、返事をしてしまった。無論、
お見合いであるからこういう話を前提に会っているわ
けだから会って三十分で話が成立しても不自然ではな
い。ただ、相手が相手だけに、本当にそんなことが実
現するのかどうか、真実味の薄い気持ちだった。実感
は次第に湧いてくるのかもしれないが、その場は話の
流れでとりあえずそう返事したに過ぎなかった。
「でも、本当に僕なんかでいいんですか。NHK の中に
ももっと有能なあなたにふさわしい人はいっぱいいる
でしょう」
「いません」
「あなたの一時的な思い込みですぐに覚めてしまった
ら、困りますよ」
「覚めません。これは運命です。その後は意志です」
「意志？なんですか、意志って」
「感情が伴わなくなっても意志の力で結婚生活を継続
させていくという意味です。愛は意志ですから」
「なるほど。しかし、意志だけでは続きませんよ」
「信じることです。運命を信じることができれば続き
ます」
「信じられますか。宗教の教祖のように」
「信じます」
きっぱりと言う。固い意志を持っているようである。
あやふやな気持ちではないらしい。月での人間関係を
断ち切ってまで大和と一緒になろうと覚悟を決めてこ
の場に臨んでいるのだから、その思いを汲み取らなけ
ればならない。こんな美人で賢い女なら相手としては
申し分ない。申し分ないどころか、ネコに小判、鳩に
豆鉄砲で、こちらには分不相応の気持ちがどうしても
拭えない。しかし、まぁ、誰でも大きな決断を下す時
は大なり小なりこういう気持ちは味わって不安になっ
たりするのだろう。恋愛や性欲でそういう不安は誤魔
化されて結婚に踏み切ってしまうんだろう。
橋元が月の世界の住人であることはあまり問題では
ないようだ。彼女がそういうのだから、そうなのだろ
う。客観的にみれば、国際結婚やそこらの年の差婚な
んかまったく問題にならないウラトラ、スーパー、バ
イオレンス結婚で実態を知れば大抵の人は驚愕して、
祝福どころではなくなる。ワイドショーや世界のトピ
ックスでも取り上げられるだろう。
「年齢差百五十歳、異星人年上妻と地方の営業マン結
婚」
しかし、表向きは「美人局アナ、一般青年と結婚」
というくらいに収まる。それでハッピーエンドならそ
れでいいではないか。親類縁者にも生まれてきた子ど
もにもひた隠しに隠し続けて、真実はあの世に持って
いけばそれで丸く収まる。もっとも年上妻はいつまで
生きるかわからない化け物なら、やがて怪しまれてバ
レてしまうかもしれない。
「大丈夫です。わたしは地球の住人になれば地球人と
同じように年老いていきますから」
「えっ、いいんですか？寿命が六分の一に縮んでしま
って。月にいればまだ何百年生きられますのに」
「いいんです。時間なんて相対的なものですから」
「また不可解なことを…」
「人間はまた生まれ変わることが実証的に証明されま
したし、一度リセットするだけの話ですから、大した
ことないんです。そんなこと」
「地球では大したことです」
「遅れているだけです」
そんなこと言っても寿命が縮むことが嬉しいはずは
ない。それだけの覚悟をもって、大和と結婚したいと
いうことだろう。ますます受け入れないわけにはいか
ない。こちらもそれ相応の覚悟で結婚しなければなら
ない。
昼になり、二人は中華のランチを静かに食べた。橋
元奈緒実は、大和が結婚を承諾したせいか、すでに恋
人を超えて妻のように振る舞い、回転式テーブルに置
かれた冬瓜やエビやふかひれスープ、小龍包、チャー
ハンなどを小皿や器に分けてくれた。忍など他の女性
と食事しても味わったことのないすでに夫婦生活を送
っているような幸福感を大和は感じた。
大型の台風十号は猛烈な勢力を保ったまま、太平洋
を北上しています。このまま進めばあさって日曜日に
は渥美半島あたりに上陸するおそれがあります。中心
気圧は八百八十ヘクトパスカル、中心付近の最大風速
は毎秒七十五メートル、中心から半径三百キロ以内は
二十五メートル以上の暴風圏、半径千キロ以内は十五
メートル以上の強風域となっています。今後の台風の
進路によっては甚大な被害が出ることが予想されます
。政府は緊急災害対策本部を設置して、この台風に備
えることを閣議決定いたしました。本当にこれは大変
なことです。
それではくわしい台風の勢力や今後の予想進路につ
いて気象予報士の神風さんにお伺いします。神風さん。
…
ニュースでは感情を露骨に表現することで評判の人
気キャスターが顔を曇らせて、戦争でも始まるような
世紀末の表情で台風の接近を知らせていた。それに対
して飄々とした気象予報士がピクニックに出かけるよ
うな軽さで台風の異常な強さを伝えていた。視聴者は
混乱してしまって心配するべきなのか、安心していい
のかわからなくなっていた。
しかし、素人が見ても台風は余程変則的な動きをし
ないかぎり、こちらに向かっている。三十日、あさっ
てあたりにもっともこの地域が影響受けるのはほぼ確
かだろう。名古屋も京都もまちがいなく暴風域に入る。
仲秋の名月どころではなくなる。コンサートや芝居な
んかやってられないだろう。
最初に電話で知らせてきたのは本郷忍だった。
「台風来てるじゃん。リサイタル中止になっちゃった
よゥ。満月の夜にしかやる意味ないから延期じゃなく
て、中止。せっかく大和のために張り切ってたのにね。
ごめんね。期待だけさせて。でもその日会う？」
「大あらしで行けないだろうね。たぶん」
「言えてるね。じゃまたね。いつになるかわからんけ
ど、また連絡するね。元気でね」
あっさりとした電話だった。事務的に近かった。ね
っとりとまとわり付いてくるようなところがなかった。
当人は意識していないかもしれないが、マインド･ コ
ントロールが解けてしまっている。それはおそらく月
がかけた暗示だったのだろう。月に関係した女たちが
その暗示のままに大和に近づいて結びつこうとしたの
だろう。しかし、卵子に精子がたどりつくように結合
できるのは一つしかない。一卵性双生児ということも
あるが。
次に連絡があったのは教え子の飯田美並だった。前
日の朝である。
《台風で講演が中止になりました。劇場の関係で来年
の春くらいまで延期です。ホテルも部屋を予約してま
したがキャンセルしました。なんでそんなことしたの
か自分でもよくわかりません。先生にはお世話になり
ましたが、わたしには彼氏がいますし、お願いですか
らメールとかもうわたしにはしないで下さい。お願い
します》
なんという失礼な言い草であろうか、そもそも招待
状など送ってきたのは美並のほうである。これではこ
ちらがストーカーみたいではないか。
《冗談じゃない。メールするなとはなんだ！そちらが
突然招待状なんか送ってきて関わろうとしたのではな
いか。こんな失礼な言い方があるか！》
と、送ろうとしたが、結局「送信」は押さなかった。
事のからくりはわかっている。すべては月のせいだ。
美並は悪くない。元気にこれからもがんばってほしい。
それから午後、凪紗の腹違いの姉から電話が掛かっ
てきた。
「凪紗が泣いています。よくわかりませんが、負けた
負けたと言っています。わたしには元々勝てるわけが
ないんですから、今さら負けたとか言って泣くことは
ないと思いますが、凪紗に何か言ったんですか。お姉
さんに決めたとか…」
「僕は何も言ってませんよ。なんのことだかさっぱり
わかりません。凪紗さんはそこにいますか」
「隣の部屋にいます」
「ちょっと代ってもらえますか？」
「充電が切れそうですから、そちらから凪紗にかけて
くれます」
相変わらずけち臭いペテン師である。凪紗にかけて
も出ない。仕方なくまた姉にかける。
「もしもし、いいですよ。まだ十分くらいなら残って
ますから、待ってください」
やはり電話代をケチっていたのだ。
ドアを開ける音がして、鈴木さんから電話だとか、
出たくないとかドタバタとしてやりとりがしばらく聞
こえた。
「ごめんなさい。妹は興奮してますから、ダメみたい
です。台風のこともショックだったみたいで、京都へ
はいけないと伝えてほしいそうです」
凪紗の姉は切り際に「私のお店にまた来てください
ね」と営業的に言った。
あれだけ大和に迫っていた女たちが潮が引くように
背を向けて去っていくとさすがに寂しくなってくる。
もしかして、橋元奈緒実もそっけなく月に帰ってしま
うのではないかと不安になった。
「どうしたんですか。わたし一人よりたくさんの女の
子たちにチヤホヤされていたほうがいいんですか」
また見透かしたようなことを言う。
「わかるのか。僕の気持ちが…」
「手に取るように」
「そんな風に見透かされながらこれからずっとあなた
と生活していくのですかね、僕は」
「そうです」
「得体のよく知れない月の住人と」
そこで奈緒実は金属的にきんきんと笑い声を立てた。
それは儀礼的に笑う愛想笑いではなく、全人間性をか
けて笑う魂魄からの笑いのようだった。
「信じてたんですか。それを」
「それって何を」
「私が月からやって来たってことを」
そしてまた笑った。
「私は高校時代演劇をやってました。女優のオーディ
ションも受けて二つ受かったんですよ。アレくらいの
演技は素人の演劇部員にでもできます。貴方は人を疑
うことがない正直な人なんですね。ますます好きにな
りました」
ウソだったのか。しかし、なんでそんなウソをつく
必要があったのだ。ウソだというのがウソかもしれな
い。地球の住人になりきり、一般的な地球人としての
結婚生活を送るために、告白した真相を否定している
のかもしれない。
台風10号は図ったようにその年の仲秋の名月に伊勢
湾から愛知県に上陸して、風と雨の被害を相当にもた
らして日本海へと抜けていった。月にちなんださまざ
まなイベントは中止となり、その中に「月光のリサイ
タル」劇団三季の「現代版竹取物語 ＯＧかぐやの大
冒険」、清水寺成就院の「月見の宴」も含まれていた。
忍、美並、凪紗も台風の大風に吹き飛ばされるか大水
に流されるかするように、大和の前から去っていった。
その他、妖しげな風俗女の凪紗の姉愛染さくらや友人
伊能の淫乱愛国妻優子、回転寿司勤務の同級生益子美
和、社長秘書吉田など一時的に大和に絡み付いてきた
女どもも皆、夢から覚めたように普段の生活の中に戻
っていったのだろう。台風は何もかも吹き飛ばし、水
に流し、大和を元の生活に戻してくれた。
しかし、唯一、強力な台風の威力に吹きさらされて
も残ったものは橋元奈緒実だった。そしてその女とは
これからも長く付き合うことになりそうである。なに
しろ結婚することになりそうだからだ。
( 了)
月刊ＷＥＢ風 ２０１３年９月号 通巻第５４号
［原稿用紙３４枚］
