モテキ月 六
大堀敏靖
「何？ 会社から」
益子美和が訊く。
「すまん。益子。急用ができてすぐ行かないといけな
い」
「いや。行かせない。どうせウソでしょ。二十年ぶり
に会ったんだよ。仕事なんて後でいいやない」
「そういう訳にはいかん。男には果たさなくてはなら
ん使命がある。義理もある」
「あたしは仕事の途中で大和くんのために抜け出した
んやよ。ねえ、抱いてよ。キスしてよ」
モテキだからこれくらいのことは言われる。もてな
い時にこんなことを言う女がいれば益子ほどのチンチ
クリンの豆タンクでもどれだけ嬉しかっただろう。し
かし、モテキの今は迷惑なだけである。早く解放され
たい。ＮＨＫアナの話がこの切迫した抜き差しならな
い状況から抜け出す突破口になるかもしれないのだ。
「約束する。十月に会おう。その時は心置きなく会え
るだろう。十月まで待ってくれ。携帯に電話してくれ。
九月はどうしてもあかんのや。わかってくれ」
「本当に？ 十月なら会って何でもしてくれるんやね。
名刺頂戴」
美和は短い手を差し出す。名刺を渡す。
「ウソやったら会社まで乗り込むでね。妊娠させて責
任取れって言って騒ぐでね」
「約束は守る。でもたぶん、十月になると益子の気持
ちも変わっとると思う」
「二十年思っていたんやのに、一ヶ月で変わるわけな
いやん」
「今が特別なだけやて。じゃあな」
「あ、送ってくよ」
「いい。タクシーで行くで」
こうして大和は同級生益子美和からの予期せぬ誘惑
から免れることができた。
猛烈な台風が強烈な勢力を保ったまま日本列島の遥
か南海上に不気味に停滞していた。中心付近の気圧は
八九〇ヘクトパスカル、最大風速は七〇メートルとい
う恐るべき台風だった。太平洋上に力強く指紋捺印し
たような等圧線がびっしり混み合っていた。
九月三十日まであと一週間。うまいことすれば、あ
の台風がすべてを精算してきれいに片付けてくれるか
もしれない。鈴木大和は台風の襲来をわくわくしなが
ら心待ちした。それてもらっては困る。あまり甚大な
被害も困るが、電車が止まり、高速道路が封鎖される
くらいの影響は出てほしい。そうすれば、コンサート、
芝居の上演、月見会も中止されるだろう。大和は不義
理をしなくて済む。不謹慎に台風の襲来を祈念した。
翌日、社長室に呼ばれた。バーバリのスーツをおし
ゃれに着こなした、顔は土建屋のおやじそのままの社
長とテーブルを差し挟んで向かい合う。
「鈴木君。先方はえらく君のことが気に入ってね。も
っと早く会いたいそうなんだよ。昨日の電話で一週間
延びたといったけど、そうじゃなくて、一週間早めて
ほしいということでね、つまり明後日会えないかとい
うことなんだよ。どうかね、君の予定は」
そういうことなら、伊能に頼む必要はなくなる。美
人の局アナとお見合いしただけでも自慢になる。
「全然オッケーです。明後日ですね。一日中オッケー
です」
「そうか。それは助かる。よほど気に入っているんだ
ねぇ。すぐにでも会いたいそうだからね。写真に恋を
してしまって、持ち歩いているそうだよ、君の写真」
「あの十年前の履歴書のですか」
「そうだよ」
「ちょっと変わってますけどね、あの頃と」
「ほとんど変わってないよ。あ、外面はね」
そこに秘書が茶を持ってくる。
「橋元奈緒実さんはな、名古屋から放送するニュース
や天気予報にはよく出ている。あ、吉田君、ビデオ撮
ってあったね、ちょっとつけてくれる」
秘書がリモコンを操作するとＮＨＫの地方ニュース
が映し出された。知多半島の花の出荷の話題が取り上
げられている。画面は出荷作業をする農家の若者と老
人で、ナレーションが橋元なのだろう。
正面を向いて話す橋元が映し出される。確かに美人
でしかも男好きのする顔をしている。十人の男が彼女
を見れば、まちがいなく九人は彼女を支持するだろう。
よほどへそまがりかマニアックな男しか背を向けるよ
うなことはない。
「この娘だよ。かわいいねぇ。局アナではもったいな
いな。モデルか、女優でもいけるだろう。賢そうだし」
「そうですね。ＮＨＫはあまり見ないんで初めて見ま
した。なんでＮＨＫなんでしょう。どちらかというと
民法向きの顔だと思いますけど」
「そうだな、確かに。おそらく親父さんが保守的で、
テレビはＮＨＫしか見ないような堅物だからだろう。
アナウンサーなら国営放送しかいかんと言下に言い放
ったんだろう」
「保守的な人ですか」
「ああ、かなり保守的な人だな。それは君も知ってお
いたほうがいい。祝日には必ず自宅の庭に国旗を掲揚
する。毎日の会社の朝礼でも国旗掲揚、社旗掲揚で、
君が代を社員全員が斉唱する。社是は報国が一番に掲
げられている」
「ホーコク？」
「国に報いる報国だな。新人の研修は自衛隊への体験
入隊させる。だからなかなか逞しい青年がそろってい
る」
「僕みたいな脆弱な人間で大丈夫ですか」
「親父さんがな、なぁに、オレが鍛え直すから、とか
おっしゃってた。だから大丈夫なんだろう」
鍛え直す…、花婿修行として自衛隊や禅寺にでも放
り込まれたらたまらない。いや何も婿入りするわけで
はない。三女というから、別所帯で生活することにな
る。ただ、先方としては大事な娘を嫁がせるからには
思想信条のしっかりした人間が条件だったのだろう。
大和という名前からして、愛国的な人間である。伊能
の奥方ほどではないが、祖国日本を愛するには人後に
落ちない自負はある。しかし、自衛隊の訓練に耐えら
れるほどの体力と精神力があるかといえば、ない。運
動不足で、腹に贅肉がついてきているし、ＡＶを毎日
鑑賞して女の肉海に溺れることを空想しているので、
相当精神は弛緩している。営業で鍛えられているとい
っても仕事と私生活は別である。
「鍛え直すって怖いですね。右翼の親分のような凄み
のある人なんですか」
「いや、違う。飄々とした痩せた人だな。冗談をよく
言う。しかも親父ギャグだからおもしろくないが、周
囲は顔を歪めつつも笑うもんだから、調子に乗ってど
んどんすべりまくりのギャグをかましている。あれに
は閉口する」
「例えばどんな…」
「下の者が扁桃腺を腫らしていたら、お前はオレがな
んか言ってもろくに『返答せん』からいかんのだ、と
か、韓国の歌手グループのカラは中味が『カラ』だと
かな」
「それは周囲を疲れさせるでしょう」
「そうなんだ。真面目な商談中にもへんなダジャレを
言い始めるから初めての相手は面食らって、状況がし
ばらく把握できない。相当長い沈黙があって、然る後
に引きつった笑いが部屋中に溢れることになる」
「それは大変そうです。お父さんもお見合いに来られ
るんですか」
「いや、いらっしゃらない」
大和は安心した。ただでさえ父親というと見構える。
父と娘の相手はほとんど敵対関係といっても過言では
ない。娘をやるからには、ちゃんとした男でないと許
さんという目で総点検するはずである。総点検に耐え
られるような人品骨柄をもっている自信はない。
「ま、鈴木君。親父さんと結婚するわけじゃないから、
気にする事はない。不都合があれば、オレが話しをつ
けてやるからいいし、気に入らなければそれもはっき
り言ってくれればいい。社命とか堅苦しく考えないで
くれ。こちらとしても心苦しいから」
「ありがとうございます。こんな名誉なことはありま
せんし、わたしはいい会社といい社長に恵まれたと思
っています。本当に感謝しております」
「ま、うまくいったらの話だな。明後日午前十時、リ
ーガロイヤルホテルの上海飯店でよろしく頼む。秘書
の吉田君が初めだけ紹介する事になっている。あとは
二人で食事するなり、どこかへ出かけるなりしてほし
い」
「承知しましたッ。あっざいますッ」
その夜、凪紗からメールが来た。
《今晩わ。ずっと待ってましたがお返事が来ないので
メールしました。三十日は大丈夫ですか？》
いろいろあったので、忘れていた。武蔵に全て任せ
たので、弟がやってくれると思っていた。そこまで頼
んでいなかった。
《ごめん。３日以内に返事する約束だったね。必ず行
きますから》
《ありがとうございます。京都駅の北口の階段を降り
たところで四時に待ってます。それでいいですか？》
《たぶんいいと思います》
《たぶん？》
自分が行くのでないから確約はできない。武蔵に確
認しなければならない。
《ああ、ちょっと、その日取引先の人と一時に名古屋
で会うことになっているんで、たぶんいいと思うけど
ってこと》
《ムリなら言ってくださいね。わたしの勝手なお願い
ですから》
《行きます。凪紗さんの願いを叶えてあげたいから》
《うれしい。ありがとうございます。でも、台風が心
配です。予期しなかったことです。それになんか、そ
の日来る大和さんが、少し違うような気がするんです》
《少し違う？ どう違うの？》
胸がドキンとした。流石に霊能力のある女は違う。
見破られているのではないか。
《まじめな純粋な大和さんじゃないような気がします。
表面は同じなんですけど》
《よくわからないな。君はまだ僕と一度しか会ったこ
とがないのにそんな微妙な違いがわかるの》
《いいえ。千年知ってますから。あなたのこと。誰よ
りもわかっています》
時々女はわけのわからないことを断定的にいうもの
である。女は現実的であるが、生活に浸りきっていな
い処女は夢の世界に生きているようなところがある。
《僕は僕で、いつもと同じですが、日によって多少気
分にムラがあったりしますけど、基本的に僕です》
《それならいいんですが、そういう大和さんではなく
て、なにか、太陽のような明るすぎる悪意を含んだも
のの予感があったから不安になったんです》
《僕はあなたのロマンティックはよく理解できますか
ら、誠実に応えようと思っているんです。悪意なんて
毛頭ありません。変な下心もありません》
《だったらいいんです。それならば、心配なのはやは
り太陽の申し子である台風だけです。あの大きな渦が
邪魔しようとして南のほうで虎視眈々と構えています》
《台風はどうしようもありませんね。原爆か水爆で吹
き飛ばすことはできるんでしょうけど、そんなことは
僕にはできませんから。それるように祈るしかありま
せん》
さすがに敏感な鋭い女で大和の企みも期待している
台風のこともすべて見抜いている。代理を立てること
も知っていて納得したようなフリをしているだけかも
しれない。
姉に会ったことは知っているのだろうか。
《もう一つ気になることがあります》
またドキンとした。凪紗の姉がどう伝えたか、おそ
らく自分の都合のいいように出任せを言ったのだろう。
大和はいいかげんな下半身の緩い男になってしまって
いるんだろう。
《あ、姉さんのことでしょう。あれは偶然で、たまた
ま身の上相談に飛び込んだ店にお姉さんがいたので、
驚いて逃げ出しただけの話です。誤解のないように》
≪え、何の話ですか？ 姉ですか？ 姉のお店に行っ
たんですか？》
しまった。凪紗は何も知らなかった。薮蛇になって
しまった。
《え、聞いてないの》
《…聞いてますよ。姉はしゃべり好きですから、ある
ことないこと尾ひれ背びれをつけて、誇大に話すとこ
ろがあるんです。だからどこまでが真実かわからない
んですけど、大和さんは凄いことになっていますよ》
一体どんな男に仕立てあげられてるのだろう。自分
が裸になりながら相手にしてもらえなかったからには
恥をかかせられたと恨みに思っているはずである。極
悪人になっていることはまちがいない。
《どんな風に、ですか？》
《喫茶店で頭のおかしい女に目をつけられてストーカ
ーみたいにつきまとわれて困っているという相談に乗
っていたところが、いやらしい目で姉の方を見るので、
嫌な感じがしていたらしいんですが、いきなり抱きつ
いてきて、抵抗も空しく衣服を剥ぎ取られ、無理やり
強姦されたことになっています》
《冗談じゃない。デタラメだ！》
《ああいう姉ですから、私も話半分に聴いてます。で
も、火のない所に煙は立たないってこともいいますか
ら、少なくとも貴方が姉のお店に行かれたのは事実で、
そこで普通ではないコミュニケーションが姉ととられ
たということまでは本当だと思っています。男と女の
ことですから、いろいろあるでしょう》
《はっきり断言しますが、僕は潔白ですよ。迫ってき
たのはお姉さんの方ですから。お祓いするとか言って、
ベッドに寝かせられて、着物を脱いだのは姉さんです
から。抵抗したのは僕ですから》
《わかりました。それは貴方の言い分ですね》
裁判官のようなことを言う。大和は被疑者になって
しまっている。
《僕は姉さんを突き飛ばして店を出てきたんです。お
金も振り込みました》
《お金ですって。じゃ、行くところまで行ったんです
か！》
凪紗は完全に大和を疑っている。疑っているので、
自分の描いたストーリーに話を持っていこうとしてい
る。思い込みの激しい女だから自分の信じたことは少
しぐらいのことでは覆らない。
《信じてください。何もない。お姉さんには突き飛ば
す時肩に触れたくらいで指一本触れてません。お姉さ
んには何の気もありません》
《気があるならますます大変です。男と女が裸になっ
て何もなかったということは私には考えられません。
いいんですよ。一時の迷い、一夜の過ちということで
水に流しても…》
何の証拠もアリバイもない。当事者二人の証言だけ
で判断は凪紗に委ねられる。一方は強姦されたと主張
し、他は断じて何もしていないという。どちらかを信
じれば他を疑うことになる。両者を信じれば、事実に
矛盾が生じる。指一本触れずに強姦するのは不可能で
ある。空想による強姦ならばありうるが、それでは何
もなかったことになる。両者を疑えば強姦しようとし
たが未遂に終わったことが考えられる。その線が一番
有力かもしれない。二人ともウソをついている。と、
凪紗は判断したのかもしれない。
しかし、信じてもらえないのならば仕方がない。こ
ちらには三十日の約束を反故にするという最終手段が
ある。信じてもらえないのなら、ああいいですよ、じ
ゃ、京都行きませんからといえばいい。
《一時の迷いも一夜の過ちもなかったですよ。信じて
ほしい。もし信じてくれないのならもうこれきりにし
ましょうか？》
《あ、それはダメ。ダメです。困りますッ。わかりま
した。もう一度姉に確かめてみます。いい加減な姉で
あることはわたしもわかってますから》
《そうして下さい》
そして三十分後に見知らぬ番号から電話がかかって
きた。
「もしもし。私です。わかりますか。凪紗の姉です。
さっき妹が泣きながら電話かけてきて、騙されてひど
いことになりそうだというんですけど、貴方妹に何し
たんですか。警察に訴えますよ」
「何を言ってるんだ。あなたこそデタラメなこと言っ
て僕に濡れ衣を着せようとしているでしょうが。妹さ
んとは京都で会う約束しただけだし、僕こそあなたに
強姦されそうになって、高額の金まで払わさせられた
被害者ですよ。いい加減にしてくださいよ」
「……えへッ。ごめんなさい。ねぇ、妹よりも私の方
が絶対いいですよ。あんな若い女なんか抱いたってま
ぐろ状態でおもしろくもなんともないんだから。熟れ
ごろの女の方が絶対いいわよ、考え直してよ、ねぇ」
この女は何のために電話してきたのか。露骨に欲望
を剥き出している。
「僕を誘惑してるんですか。驚きますね。あんな店を
構えてアリ地獄のようにじっと身を潜めて罠にかかっ
た若い男のエキスを吸って生きているんでしょう。と
んでもないですよ」
「そんなこと言ってあなたけっこう年上にも興味ある
んでしょう。わたしの店をのぞく人は必ず私にそうい
う下心を抱いてわたしから離れられなくなるんですよ。
あなたもそうよ」
「違います。僕は断じて違います。純粋に相談のため
にのぞいただけで、相談者と変な関係になろうなんて
これっぽっちも考えたことなんかありませんよ。凪紗
さんにぼくは疑われています。強姦なんかされていな
いって言ってくださいよ」
「いいわよ。いいけど、もう一回わたしのお店に来て
くれたら言ってあげる」
徹底的に悪い女だ。どんな手段きっかけを使っても
思いを遂げようとする。女の欲望がいちばん激しい年
齢なのだろう。もうそんな面倒なことはしていられな
い。少しでもシンプルにしようとして、弟と話し合っ
たとき、削除された相手と今更会ってなんかいられな
い。
「行きませんよ。だれが行くか。あなたがそういうこ
と言うのなら妹さんを泣かせることになりますけどい
いんですね。僕は京都に行きませんよ。妹さんはがっ
かりしますよ。それはすべてあなたのせいになります
よ。いいんですね」
「そんなこと言って、貴方ただで済むと思っているの。
ひどい目に遭うわよ」
「もうタダでは済んでませんて。あなたに二万円払い
ましたから。じゃ、失礼します」
「あっ、ちょっと待って。わかったわよ。認めますか
ら、あなたはわたしに何もしませんでした。相談に来
ただけのフツウのお客さんでした。認めるから、また
今度来て。お願い」
どこまでも淫欲の治まらない女である。
「気が向いたらそのうち伺います。それじゃあ」
「あっ、ちょっと待って。お金は返しますから、必ず
来て。約束して」
「ああ、約束しましょう」
これも来月になればうやむやになるだろう。益子美
和と同じである。うやむやにならなければ適当な弟に
任せて、適当にあしらってもらうまでである。
少ししてから疑いの晴れた凪紗から喜びのメールが
届いた。
リーガロイヤルホテルの最上階、展望の利く「上海
飯店」でＮＨＫ局アナの橋元奈緒実とのお見合いの日
になった。
本来なら友人の伊能に行ってもらうはずだった。い
や、本当に本来は大和が行くはずだったから、元来に
戻ったわけである。
シャワーで念入りに顔を洗い、髭剃り、眉、耳掃除、
鼻毛の手入れも入念に行い、クリームを塗り、コロン
で仕上げた。下着もシャツも新調したものを身につけ
た。ネクタイはダンヒルの渋くても目立つものにした。
そんなことをしなくても大和には絶対的な自信があ
った。なにしろ大抵の女は自分に靡いてくるモテキ月
なのだから。会う前から先方は待ちきれず日程を早め
て、写真を肌身離さず持ち歩いているというではない
か。初めから勝ちに行くことがわかっている。
ホテルのロビーに社長秘書の吉田が待っていて、大
和を見つけると手を振った。
「今日はまた一段と決まってますね。なんか妬けちゃ
うな。他の人に紹介するなんて。私ではダメなんです
か」
「何を言ってるんですか。人妻でしょう。旦那さんを
大事にしないと」
「あんなくたびれたオヤジもう何の魅力もないですっ
て。禿げてきてるし、お腹も出てるし、あまり立たな
いし」
「そんなこと言っていいんですか」
「いいでしょ。ねぇ、もしこの話がうまくいかなかっ
たら、わたしと一回遊びましょうよ。いや？」
「いいですよ。来月なら」
「ほんと？ ヤッター」
秘書吉田は口元を引き締め拳を握って後ろに引いた。
「来月は来月の風が吹きますから」
「なにそれ。じゃ、行きましょうか、上へ。もう見え
てるから」
社長秘書とエレベーターに乗る。「上海飯店」のあ
る12のボタンを押すとくるりと吉田は振り向いた。
一歩大和に近づいて手に触れたかと思うと握った。
大和は吉田を見た。吉田の中の女が普段の社長秘書
吉田の殻を破って鎌首をもたげていた。舌をぺろぺろ
と出した。こうなると大和は蛇ににらまれた蛙のよう
に身体が固まった。
吉田は厚化粧で小皺を隠した顔を大和に近づけてき
た。口紅も濃い。こんなのに吸い付かれたら口辺が赤
くなって大変である。大和は顔を背けて、益子美和に
やったように吉田の近づいてくる顔を手で防御した。
吉田の顔はガラスに顔を押し付けた子供のように歪ん
でそれでも懸命に大和の唇を求めてきた。
「止めてください。吉田さん。社長に言いますよ」
そのときエレベーターは到着の合図がなって停止し
た。吉田は居ずまいを直し仕事モードの秘書に戻った。
その落差の大きさが信じられない。
扉の前がいきなり「上海飯店」の入り口で、接客の
男がすでに控えていた。
「いらっしゃいませ。鈴木様。ご案内致します」
吉田に襲われそうになったショックで心が動揺して
いる。まったくモテる男というのはろくなことはない。
人生の浪費といっていいことに散々悩まされることに
なる。傍から見ると羨ましい境遇は実は大変なのだ。
水辺を優雅に泳ぐ水鳥が水面下では見苦しく足をばた
つかせているのと同じである。
動揺を静める間もなく、今度は美人局アナに対面す
る緊張が最高度に高まってきた。蝶ネクタイをして頭
を油で固めた男の背中についていく。吉田がその後に
ついてくる。チャイナドレスを着た女給仕たちが中華
風にこってり装飾された店内を優雅に動いていた。
店の一番奥まったところの個室に通される。屏風の
向こうに女の姿が見えた。大和の入室とともに立ち上
がって迎えてくれることを予想したが、先方は立ちも
せず、うつむいている。
「橋元さん。見えましたよ」
と吉田が声をかけるとようやく局アナは顔を上げて、
愛想笑いを顔に浮かべた。やはり美しい。しかし、元
気がない。
「鈴木大和さんです。わが社のホープで、社長の新任
が一番厚い営業マンで抜群の成績を挙げています」
大和は軽く礼をして、
「鈴木大和です」
と少し上ずって言った。
橋元奈緒実が呆然としているので、吉田が立つよう
に促した。意外と背が高い。吉田より顔一つ分くらい
高い。
「橋元奈緒実さん。ＮＨＫ名古屋局のアナウンサーを
しています。才色兼備の有望な女子アナとして期待が
高まっています。全国に通用するからと東京からも誘
いがかかっている人です」
大和はそのときこの人はかぐや姫なのだと直感した。
こんな美しい人は現実に見たことがなかった。テレビ
でみるより格段とうつくしい。透き通るような肌と吸
い込まれるような瞳をしている。多くの視聴者の視線
に耐えて日々送っていると人間はこのように完璧な美
に近づいていくのだろう。
身が震える感覚に襲われて椅子の背もたれに手を置
いたほどだった。
しかし、テレビで見るような愛想がない。ニュース
原稿を読む時の無機質な顔に近い。
「橋元さんは今日、少しナーバスになってます。鈴木
さん。ケアしながらお話してやってください。それじ
ゃあ、お二人でごゆっくり」
大和は帰ろうとする吉田を入り口まで追いかけて、
お礼に用意した菓子折りを渡した。
「まぁ、ありがとうございます。しっかりやってね。
破談のお見合いを。十月にわたしがお相手をしますか
ら」
そういって厚化粧の吉田はウインクした。
破談などするものか。しかし、あんな美人は果たし
て自分に相応しい相手なのかと不安もある。
通りかかったチャイナドレスの女給に飲み物のオー
ダーを取りにくるように頼んだ。
「あの、飲み物頼みましょうか…」
恐る恐る声をかける。やはり上ずってしまう。
すると顔を上げた橋元の美しい湖のような瞳から雫
が一滴二滴と立て続けに落ちるのを目撃して大和は驚
いた。泣いている。この女人は何が悲しいか泣いてい
るのだ。感動の涙だろうか。大好きな大和に会えてそ
の感激の涙なのか。それとも何か悲しい出来事でもあ
ったのか。
「ど、どうしました。泣いていらっしゃるんですか…」
やはり上ずって尋ねる。
「ごめんなさい。泣いています。こんな席で泣くのは
よくありませんが、我慢できないのです。申し訳あり
ません」
玉をころがすような美しい声をライブで初めて聴い
た。さすが天下の国営放送アナだ。
しかし、そのとき奈緒実はバッグから携帯用ティッ
シュを取り出すとおもむろに洟をかみ始めた。しかも
周囲に響き渡るようなかなり大胆なかみ方だったので、
大和の中でがらがらと崩れていくものがあった。
この人は気を遣っていない。ならばこちらも必要以
上に気を遣うことはない。社長も言っていた。ＮＨＫ
ったって大したことない。電車の中でチンチン出して
捕まる男もいるのだから。
「大丈夫ですか。なぜ泣くのですか。よろしければ僕
にその訳を話してくれませんか。話したくないのなら
いいですが…」
「このような席で泣き出すような失礼を致しましたか
らには、訳を話さないわけにはいきません。いいえ、
話す義務があると思います。どうぞ、話させてくださ
い」
やはりアナウンサーというのは、独特の話し方をす
るように訓練されているのだろう。芝居がかった話し
方でもある。
「ぜひ聞きたいです」
「実は、実は、何を隠そう、本当のことを申しますれ
ば、包み隠さず話すとすれば、私は月の世界の人間な
のです！ ……さぞ驚かれたろうと思います。ショッ
クだったと思います。申し訳なく思っております。こ
んな唐突なことを聴かされたら誰しも驚かれるでしょ
う。それは無理もありません。どうぞ心置きなく驚い
てください」
しかし、重陽の節句以来驚くべきことの連続で、驚
きの神経が麻痺してしまっているから、ちょっとやそ
っとのことでは驚かない。驚きが日常茶飯事となって
しまっている。仮に本当に目の前にいる相手が月の世
界の住人だとしても当然予想できたことで、あ、やっ
ぱり、というしかない。しかし、ここは相手が驚愕し
ていることを期待していることを考えればそのリアク
ションがいるだろう。
「え、なんですって。月の世界の人ですって…」
「そうなんです。しっかり驚いてくださってありがと
うございます。もしも淡々と受け止められたらどうし
ようかと思いました。わたしはもともと月の世界に住
んでいたものなのですが訳あって、地球にやってきま
した」
大和としては、その「訳」とやらをはっきりさせて
もらいたいと思った。何のためにやってきたのか、地
上を混乱に陥れて、しゃあしゃあと帰っていってしま
うかぐや姫は絶対に無責任だと以前から思っていた。
どうせ帰っていってしまうなら、来なければよかった
のだ。そのために多くの人が余計な思いを抱き、悲し
み、天皇の命で多くの武士が富士山に登って手紙や薬
を焼いたりしなればならかった。おじいさん、おばあ
さんは三ヶ月で育てたカップラーメンのような娘を、
それでも手塩にかけて育てたと思っていただろうから、
さぞ寂しい老後となってしまっただろう。
民生党の代表の烏山首相が沖縄の街中にある基地を
必ず移転すると言って、「できたら国外移転、最低で
も県外」と公約したために、県内の海辺に移転がほぼ
決まり了承していた沖縄県民が、「最低でも県外」な
らそれにこしたことはないと俄かに騒ぎ出して基地問
題が収拾できなくなってしまったことに似ている。で
きもしないことを格好つけていうものだから、沖縄は
大混乱である。
かぐや姫も地上を混乱させて不本意ではあったかも
しれないが結局帰っていってしまうとは無責任で、そ
れならば一体何のために来たのかと問いたくなる。そ
れくらい地上の人間と深く関わるならば、嫁ぐつもり
で、地球人として骨を埋める覚悟で来てもらわなけれ
ば困るというものである。
またそれで思い出すのは、鬼が島の鬼を退治した桃
太郎のことである。鬼が島の鬼たちは誰に迷惑をかけ
るでもなく島で平和に暮らしていたのであるが、猿や
雉や犬を引き連れてやってきた桃太郎によって退治さ
れてしまった。鬼というだけで、物語上は何の悪さも
働いていない。名前や国籍だけで悪者と決めつけ、無
きものにしようとするのはヒットラーのユダヤ人虐殺
と同じではないか。桃太郎こそ己の名誉のために侵略
を働き財宝を奪った悪者ではないのか。
こういう日頃の疑問をぜひぶつけてみたいと大和は
考えたのだった。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１３年７月号 通巻第５２号
［原稿用紙３４枚］
