モテキ月 五
大堀敏靖
弟の武蔵には喫茶コンパルで出会った凪紗と京都で
会ってもらうように頼んである。軽いお調子者の武蔵
はあっさりと引き受けてくれたが、顔は確かに双子か
と思われるくらい酷似しているにせよ、人格が全く異
なるのであるから、また、感のするどい、霊能力のあ
る凪紗のことであるから、見破られる可能性がある。
まあ、その時は「ごめんなさい」と開き直るしかない
のだが、大和の性格上不誠実なことはしたくない。し
かしそんなこといっても影武者を立てる時点でそもそ
も不誠実なのであるから、その不誠実を誠実で糊塗し
ても土台が不誠実の建造物では仕方がない。それでも、
見破られなければ、その誠意は通じるかもしれない。
しかし、仮に誠意が通じたところで、その後凪紗とど
う付き合うのか、その他の女とどう型をつけるのかと
いうことになると大和にはまったく何の策略、戦略も
なかった。下手をすると六人の女とさらにその周囲の
人間に不誠実を働いて極悪人の烙印が押され、恨まれ
ることになる恐れもある。いや、その可能性はたぶん
に高い。
誠実になろうとして、返って嘘つきの極悪人になっ
てしまってはこれから先の努力はなんのためにするの
かわからない。相談にもならない軽薄な弟であるが、
その道にかけては野暮な大和より長けたところもある
から、何か解決のヒントでも得られないかと思い、通
っている三流大学の近くにアパートを訪ねた。
部屋はおそらくゴミ溜めのような状態だろうから、
久しぶりの兄の来訪を仰ぐにあたり、掃除して清潔に
しておくよう厳命しておいた。しかし、予想したよう
に部屋は乱雑を極め、足の踏み場はおろか、立ち入る
ことすら容易ではなかった。弟のしたことは万年床を
二つに折ることだけだった。万年床が二分の一になっ
た分のスペースができたがそこにも女の裸の写真やせ
んべいのようになったティッシュがあった。
「まあ、兄さん、座ってくれよ。汚いとこだけど」
「本当に汚い」
「お茶でも煎れようか」
「お茶が出るのか」
「お茶くらいだせるよ。コーヒーだって、ココアもあ
るし」
「どうせカビの生えたようなお茶葉で、埃のかぶった
ような急須と湯のみやろう。いいから、自販機で缶コ
ーヒーでも買ってきてほしい」
「違うって。オレはお茶にはけっこううるさくて、友
達にも武蔵の煎れる茶は旨いって定評があるんや」
「本当か。信じられん。こんな汚い部屋に住む人間が
旨い茶を煎れるなんて信じられん」
「まあ、飲んでから判断してよ。お茶屋さんの娘と前
に付き合ってね。教えてもらったんや。その娘とは別
れたけど」
「別れた…」
大和としてはその別れ方を知ってみたいと思う。
この汚い部屋には不釣り合いな宇治の玉露をいろい
ろ講釈しながら武蔵は煎れてくれた。
たしかに品のある香りと味わいがあった。しかし、
それはもともと茶葉が上等だからであって、武蔵の煎
れ方が関わっているとは思えない。
「武蔵。お前に聞きたい。さっきお茶屋の娘と別れた
と言ったが、経緯を話してくれんか」
「いいよ。合コンで知り合った娘で、向こうが積極的
でメールなんかちょくちょくくれるもんだから、まあ
まあの顔とスタイルやったで、付き合ったんやね」
「この部屋にも来たか」
「来たよ」
「行くところまで行ったか」
「行ったね」
「ならどうして分かれた」
「それは兄さん、秋になると紅葉が赤くなり、虫が鳴
くのと同じやて」
「自然ということか」
「男の付き合いでもいつまででも続くとは限らん。い
っとき仲良くなっても離れていく友達はおるね。それ
と同じやて」
「苦しかったか」
「何が」
「分かれるときは泣いたりしたか」
「だれが」
「武蔵が」
「電話で今でも話せるし、会おうと思えばいつでも会
えるのになんで泣かなあかんの。昨日もカラオケで歌
ったでね、いっしょに」
「マジで」
「兄さんね、堅すぎる。十年違うとやっぱジェネレー
ション・ギャップがあるね。昭和と平成の違いかね」
「カラオケ行っただけか」
「食事して、ま、お互い行こうかという話になって、
ホテル行ったけどね」
「マジで」
「お互い新しい彼女と彼氏がおるでね。割り切った関
係で、旧交を温めて、じゃ、またってことでいいんじ
ゃないの」
「それじゃ、おまえ、新しい彼氏、彼女に済まないっ
て思わんのか」
「だれが」
「武蔵とお茶屋の娘が」
「うーん、どうかねぇ、思うかな。でも黙っていれば
いいんじゃないの」
今時の若いモンはこんなタコかイカかクラゲのよう
に海中に漂って成り行き任せにふらふら生きているの
か。自分もそう年寄りではないが、筋とか意思とか生
き方の骨格は持っているつもりでいる。盛りの憑いた
犬猫と同じような貞操観念のないことで、人間といえ
るのか、そもそも結婚した時の相手が気の毒ではない
のか。相手からしてが、配偶者に純潔など求めていな
ければそれまでであるが、別れても会えばまたまぐわ
うとは考えられない発想である。
「それが普通か」
「フツーやと思うよ。オレのダチなんかもそうやでね。
気が向いたら近くにいる相手とやるっていう感じで、
そりゃ彼女が知ったら怒るかもしれんけど、彼女にし
たって、元カレと遊んだりするでね」
今時の十代、二十代の人間が全部が全部そういうわ
けでもあるまい。昔とて下半身のルーズないいかげん
な人間はいた。本能に忠実になって、限りなくアニマ
ルに近づいているだけの話で、価値の多様化した今の
時代では当然なのだろう。
「武蔵。俺の状況はこの間電話で話した通りや。五人
から六人の女に今、俺は言い寄られている。同じ日に
逢うことを迫られている。こういうときお前ならどう
する」
「似たような三角関係はあったね。六人っていうのは
異常な話やと思うけど」
「そのときどうした、お前は」
「二股かけたね」
「巧く行ったか」
「三股くらいまでなら何とかやれる自信はある」
「三股…」
「怪しまれても絶対認めんことやね。現場を押さえら
れても、知らん、こいつが勝手にやってきて、迫って
きただけや。迷惑しとる。あっち行けって言い張るべ
きやね」
「一緒におる女が怒るやろう」
「後で謝ればいい」
「後で謝る…」
「女にとって一番つらいことは、浮気しとったとか、
別に好きな女がおると認められることやでね。絶対認
めんことやね。認めて謝るやつは結局愛が足りんのや
ね」
「お前の言うことはいちいち説得力がある。メモして
おきたくなる」
「六股っていうのは、毎週一日休んであとは日替わり
で一人ずつと相手するっていうことやで、身体が相当
タフで絶倫やないともたんね。マムシのエキスとか、
スッポンドリンクとかバイアグラいるかもしれんね。
オレなら薬なしでも行けると思うけど」
「そういう問題ではない。九月三十日、仲秋の名月に
四つの約束が集中してしまった。それをどうすかや」
「だから、オレが京都のデートを引き受けて、お見合
いは友達の人で、後は掛け持ちでいいんやないの」
「その日はそれで何とかなるかもしれん。しかし、そ
の後のことを考えれば、そんなことしたために返って
収拾のつかない混乱になることが予想されるんや」
「そりゃ、そうやろうね。オレとか友達の人がうまく
やってさらにお付き合いを深めたいなんて言い出した
らアウトやね。ま、オレは兄さんに成りすまして付き
合い続けて、ころあいを見計らって、バイバイすると
思うけどね」
「う〜む。どうしようか。いっそ全部ご破算にするか」
「それも手やね。二兎追うもの一兎をも得ずやでね。
六兎やとどうなんやろ」
「惜しい気もする」
と、大和は腕組みした。武蔵は顎を撫でながら、
「で、ほんなら兄さんは本命はどの娘やの」
と突っ込む。
「う〜む。それが難しい。本命がおれば他はさっぱり
と切って悩まん」
「じゃ、消去法でいこか。まず、友達の奥さん、その
淫乱で愛国者の人はありえんね。人妻やで」
「なかなかいい人やと思うが、友達の所有物を盗るの
は犯罪やでな。消去される」
「それから凪紗さんの姉の風俗っぽい霊能士もありえ
んやろ」
「ああいう熟れた年増も魅力的だと思うがかかわりは
薄い。消去」
「オレが思うにＮＨＫアナも現実味が薄くて、会った
こともないで、パスやないの」
「あかん。社命やでな。社長からの直々の話やで、今
後の仕事を考えてもこれは粗末にはできん。かなり本
命に近い」
「そうか。なら、凪紗さんやろ。一回会ったきりで、
霊感から言い寄ってきたかもしれんけど、単なる思い
込みに思えるし、歴史がないでね。おじゃんにしたっ
て、差し障りはゼロに近いやろ」
「いや、おそらくこの娘が一番厄介やと思う。この一
連のモテ現象の始まりはこの娘やったし、深い部分で、
タマを握られとるようなところがあるでな。この娘を
粗略に扱うと取り返しのつかん祟りのようなものがあ
ると思う。かぐや姫の亡霊に孫子の代まで呪われるか
もしれん」
「アホな」
「アホで済めばいいが。アホで済んでほしい」
「それなら、教え子の飯田さんはパスやろ。教え子に
手をつけちゃいかんし、付き合った歴史もない」
「俺な、実は教えとった時、この娘が好きやったんや。
好きで好きで、最後の指導が終わった日は泣きながら
帰ったくらいや。それくらい思い入れがある。で、突
然手紙が来て芝居を見に来てくれと言われたときは正
直嬉しかった。消去できん」
「しゃーないな。じゃ、本郷さん。兄さんを一旦捨て
た身勝手な女や。これパスでええやろ」
「いや、そうはいかん。お前が言うようにな、この女
には歴史がある。一年間まがりなりにも付き合った。
それなりに楽しい思い出もある。それは他の女にはな
いもんやで。歴史の重みがある」
「一年ばかで歴史も何も大袈裟やと思うけどな。そう
すると、四人は消去不可能で残るってことやね。結局
そうなって、ほとんど解決策に進歩もあらへんわけや」
「四人と絞れただけでもええ。あと武蔵のふしだらな
いい加減な女との付き合い方は感心せんがかなり参考
になった」
「凪紗さんはオレに任せてほしいけど、いい娘ならオ
レのもんにしてまうでね。それは今のうちに断ってお
くけど」
「それは仕方ない。泣かせるようなことはせんといて
欲しい」
「オレは女を泣かせたことなんかいっぺんもないでね。
いつも笑われとるだけやで」
「それならいい」
大和は汚い武蔵の部屋を後にした。
弟と会ってあまり解決にもならなかったが、もう少
し気楽に考えればいいというヒントはもらった。女の
方では人生を賭けた真剣勝負かもしれないが、それな
らそれで、勝負には勝ち負けがあるのだから、うまく
いかなかったら負けたと思って次の勝負に挑んでもら
えばいいだけの話だ。真剣勝負でなく、遊び感覚で迫
ってくるのならこちらも遊び感覚で適当に逃げたり追
っかけたりして退屈しないように遊べばいいだけの話
だ。そこをどうも真面目に取りすぎて、不義理をする
ことを最高の悪徳と考えて、自分を狭いところへ追い
込み、動きがとれなくなっていた。考えてみればコン
サートも芝居も十五夜も一度きりのことではなくて、
これからも機会はある。
大和は久しぶりにさばさばとした軽い気持ちになっ
て、鮨が食べたくなり、駅までの途中にあった回転寿
司に入った。
紙のお手拭で手を拭いて、粉末のお茶の素にお湯を
注ぐと、すぐに前を回っている鮨を食べたくなった。
なるべく時間の経過していないつやつやしたものを待
って選ぶ。イカをまず口に入れたい。しかし干からび
たものしかまわってこないのでタッチパネルでウニ、
ボタンえび、スルメイカ、あおさ汁を注文した。
待っている間に携帯を取り出して、今日のブログの訪
問者数を確認する。16人。ここのところどうも冴えな
い。もっと過激なことやエロチックなこと、グルメ関
係のことを書けばある程度訪問者はある。百人を越え
るような内容を書かなければならない。
まもなく注文の品が届くことがパネルで知らされ、
奥の厨房のほうから、新幹線が走ってくる。大和の席
の前で鮨皿を三つ載せた新幹線が止まる。皿を取る。
ボタンを押すと新幹線はバックで引き下がっていく。
あおさ汁はバイトの店員が運んできた。その店員がプ
ラスチックの椀を置いてもしばらく去らないので、不
審に思って大和は店員の顔を見る。
「あっ」
「あっ、やっばり大和くん」
中学時代の同級生、益子美和だった。小柄な体型は
変わっていないが、かなりおばさんっぽく肉が付いて
いる。化粧が水商売っぽくよく見ないと中学時代の顔
は出てこない。
「久しぶりやね。二十年ぶりくらい」
「そうやね。僕は同窓会も行ってないで」
「変わらんね、大和くん。今何しとるの」
「車関係のね、営業」
「へぇー、結婚は」
「まだ。益子は」
「わたし？、×イチ、子持ち」
「あ、そうなんや。そりゃ大変やね」
「大変でもないよ。親の世話になっとるもん。返って
楽」
「でもここでバイトして生活費にしとるんやろ」
「子供も世話かからんくなったし、親がうるさいでね、
やっとるだけ」
「へぇー、いい小遣い稼ぎになるね」
「ねぇ、大和くん。わたしね、本当は風俗やっとった
の。止めたけど、今もお客さんと会ったりしとるの。
大和くんもどう」
また、来たと思った。これも一連のモテキ月現象な
のだろう。これまでの人生にこんな話を持ちかけられ
ることは一度としてなかった。同級生に電車の中で会
ったことはあるが軽く会釈されるだけだった。なんで、
会ってすぐこんな話を持ちかけられることになるのか。
どこからか力が働いているに違いない。今、武蔵と会
って余計な相手は整理したばかりである。
「え、何の話？」
意味がつかめない振りをする。
「わたしね、中学のころ大和くんのこと好きやったん
やよ。卒業式に手紙渡そうと思ったけど、大和くん全
然隙がなかったんやもん。あきらめるしかなかった」
「ウソやろ」
「ほんとやて。わたしから映画誘ったことあったやろ。
覚えとる？」
まったく覚えていない。記憶力はいいほうだと思っ
ているが、異性から映画に誘われたような名誉な記憶
は忘れるはずがない。
「大和くんはのっちが好きやったでしょう。わたしの
ことなんか気にもしてなかったでね」
確かに当時、竹田彩乃という勉強もできるし、生徒
会でも部活でも活躍する才色兼備の女の子に大半の男
子は夢中だった。豆タンクのような益子美和は眼中に
なかった。
「それで、映画に行ったのかな」
「行かないよ。返事もしてくれなかったもん。泣いて
たよ、わたし」
知らないところで女を泣かせ、傷つけていた。今日
こうして会わなければ永遠にその事実は闇に埋もれた
ままだった。
「せっかくの誘いをシカトするとはなんとひどい男や。
申し訳ない。当時の自分に代わって謝るわ」
油を売っている益子美和はそのとき店長らしき人に
呼ばれた。
「ごめん。また後で来るで」
同級生が働いている。しかも自分に思いを寄せてい
た。そんなことを考えると注文したイカやウニ、エビ
を味わうどころではなくなってしまった。
すぐに益子美和はまたやってきた。
「これ、わたしからサービスね」
美和は本マグロの中トロを二貫持って来てくれた。
「え、いいの。こんなの」
「大丈夫。店長はわたしの思いのままやで。もうすぐ
この店わたしのもんになるかもしれんで」
「どういうことや」
「ここのオーナーの弱み握っとるんやよ」
「益子、悪女か？」
「その気になればの話やて。そんなことせーへん。ね
え、今度会わん。もっと話がしたい」
わかっている。三十日に会いたいというのだろう。
この同級生が言っているのではない。取り付いた平安
時代の霊が言っているのだ。
「う〜ん。会ってもいいけど三十日以外なら」
「え、どうして。三十日にって言おうと思ったのに」
「先約が入っとる。それも四つも」
「四つも。大和くん、そんなモテるの」
「う〜ん、なんかね。よくわからんのやけど」
「じゃ、それどうせだから五つにして、選択の中に入
れてよ」
「ムリムリムリムリムリ、絶対ムリ」
「ひどい。大和くん、また私のことシカトしようとし
とる」
「あかんて、ほんとにあかんのやて。別の日やったら
付き合うけど、その日だけは勘弁してよ」
益子美和はほっぺたを膨らませた。おばさんになり
かけているがかわいいと大和は思った。
「じゃ、今日付き合って。これから」
「これから？ また急な」
「言ったでしょう、三十日以外ならいいって。うそつ
きになるよ」
こういうときの女は恐ろしい。有無を言わせぬ迫力
がある。大和は考えた。特にこれから予定があるわけ
でもない。はるか昔に無意識に不義理をしてしまった
相手なら罪滅ぼしをしなければならない。
「わかった。付き合う。何時に終わるの」
「すぐ。五分待っとって、着替えてくるで」
付き合っても絶対に身体を許してはいけないと大和
は自分に言い聞かせた。裏口から出てきた益子美和は
ころころした豆タンクのおばさんで顔だけ水商売っぽ
く派手だった。
美和の運転する車に大和は乗せられた。どこに連れ
ていくつもりだろう。今鮨を食べたばかりで、食事に
連れて行かれてるのもおかしい。酒でも飲もうという
つもりか。しかし、大和は酒はまったく飲めない。
車が近づいたのは、畑の中に建つ王宮を模したグロ
テスクなホテルだった。
「ちょっと待てよ。いきなりかよぉ。だめだって」
「二十年前の貸しがあるんやよ。ええやない。お互い
独身なんやし」
「だめやって」
ビニールシートを垂らして中が見えなくなった薄暗
い駐車場にコンパクトサイズのエコカーが停まった。
大和は走って逃げようかと考えた。しかし、豆タンク
美和は追いかけてくるだろう。断固拒否すれば何とか
なると思い部屋まで入る。
ダブルベッドとソファ、テレビのあるかび臭い部屋
で、すぐに美和は浴室に入って、湯を落とし始めた。
ソファに座ると美和は熱くこちらを見た。顔が近づい
てくる。肩に手が回ってくる。
「いかん。いかんて。あの日なんや」
「あの日。男にそんなもんないでしょう」
「いやある。オレにはあるんや。今日はダメ」
「何言っとるの。怖いの。中学生やないんやよ」
「あかん。絶対にあかんのや。天地神明に誓っていか
ん」
「心配せんでもええよ。大和くんは寝とるだけでええ
んやよ。わたしが気持ちよくしたるで」
美和の顔がまた近づいてきた。確かに仕事していた
だけあって色っぽい。頭の中がとろけそうになってく
る。
「大和くん。好きやよ」
吐息がかかる。どうせ月に翻弄されているんなら、
この女に決めてしまって月のたくらみを全て台無しに
してもいいではないかと一瞬思った。誰に操を立てる
義務も今のところない。美和の唇が大和の唇にかすか
に触れたときだった。何故だか社長に紹介されたＮＨ
Ｋアナのことが頭をよぎった。貞操を守るとすればま
だ会ったことのないその女ではないか。
「ごめんッ。だめなんやッ」
大和は美和をどんと後ろへ突き飛ばした。美和はひ
っくりかえって、一回転し、床におちてまたごろんと
一回転して、スカートがめくれてパンツが見えた。
「痛ッ、なにするのー」
その転がり方が滑稽だったため、大和は少し笑って
しまった。
「痛いー。暴力やないのー。ＤＶやないのー」
美和が泣き出した。しかし、結婚したわけでもなく、
今日二十年ぶりに再会したばかりで、ドメスティッ・
バイオレンスというのは当らない。恒常的に暴力を揮
っているわけではない。拒絶して突き飛ばしただけで
ある。
「すまん。大丈夫か」
「痛いー。骨が折れたー。血が出とるー」
しかし、見たところ出血も骨折もなかった。美和は
はいつくばってベッドに行くと倒れて泣き伏した。逃
げるなら今がチャンスだと大和は思った。たまたま再
会しただけの豆タンクにこれ以上義理はない。気づか
れないように抜き足差し足で入り口まで行き、靴を履
いているところで背後に気配を感じ、振り向くと美和
が飛びかかろうとするところだった。すんでのところ
でよけたがスーツの裾をつかまれた。美和は裾をつか
んだまま座り込んだ。動けない。
「離せ。離しやがれ。破れる」
「逃げるな。大和。わたしとエッチしろー」
「いやや。したねえ。離せ」
大和は次第に近づいてくる美和の顔に手をあてて防
いだ。美和の顔は大和の手にもまれて人形焼の饅頭の
ように見えた。
「離せ。豆タンク。子持ち×イチ」
「離すもんか。取り付いてやるー。わたしのモンにし
てやるー。大和の精子を吸い尽くしてやるー」
ドタバタを聞きつけて店の従業員が駆けつけ外から
ノックする。
「どうしました。大丈夫ですかッ」
「すいませーん。ＤＶですッ。警察呼んでくださーい」
美和が叫んだ。
「何を言うんや。違いまーす。ＤＶではありません。
痴女です。痴女が僕を襲ってくるんです」
「とにかく開けてください。他のお客さんにも迷惑で
すから」
ロックをはずすと若い従業員がドアを開けた。
「どうしたんです。喧嘩ですか。痴話喧嘩なら静かに
やるか他でやって下さい。ここはカップルが仲良くす
るところですからね」
「すいません。プレイの一つなんです。こうやって騒
がないと俺たち燃え上がらないんです。なぁ美和」
「そ、そうです。喧嘩しながらエッチに入っていくの
がいつものパターンで、騒がしくしてすみません」
「そうですか。わかりました。できるだけベッドの上
で聞こえないようにプレイしてください。うちの壁は
頑丈にできていますから、ベッドの声はもれないはず
ですから」
従業員が去って二人はソファに落ち着く。美和はバ
ッグから煙草を取り出してテーブルにおいてあったラ
イターで火を付けた。
「おまえタバコ吸うのか」
「おまえ？ 馴れ馴れしい呼び方せんといてよ」
「益子。タバコ吸うのか」
「悪い？ タバコでも吸わんとやっとれんでね」
「ストレス溜まっとるんや」
「そら溜まるわ。親からはぎゃーぎゃー言われるし、
子供はできが悪くて反抗するし、どこにわたしの場所
があるっていうの。タバコ吸うときだけやない」
「酒は」
「最近飲んでない。飲んでもあんまりおもしろないで
ね。愚痴になってまって、人にからみついて、嫌われ
てまうで」
「悪酔いか」
「ねえ、久しぶりに会ったんやで、いいやないの。こ
こまで来て何もせんと帰るなんてバカらしいやんか。
お互い大人で独身なんやから。何もやましくもないし。
一時だけでも慰め合えばええやんか」
「慰め合うって、俺は慰められるような境遇やないぞ」
「じゃ、尚更。わたしを慰めてよ」
大和は腕組みして考えた。これは人助けかもしれな
い。こちらが無理やり強姦するのではない。頼むから
抱いてくれと懇願されている。それに応えず背を向け
てしまっては木石と同じである。惻隠の情というもの
がある。止むに止まれぬ大和魂というものもある。こ
こは益子美和の要望に応えて、床をともにするべきで
はないか。しかし、いやいや、これから相手をせねば
ならぬ複数の女性に対して、同級生とはいいながら行
きずりの女に身を任せてしまっては倫理的に許されな
いものがある気もする。…
これは難しい決断が迫られている。禅門の公案にな
りそうな葛藤である。
そのとき、大和の携帯電話がテーブルの上でぶるぶ
る震えて動いた。
「あ、電話や」
それは会社の社長からだった。ＮＨＫアナとのお見
合いのことを言っている。九月三十日は都合が悪くな
ったので、一週間先に延ばしてほしいと先方が言って
きたそうである。
「あ、そうですか。全然いいっすよ。むしろその方が
いいくらいです」
「そうか。そりゃよかった。先方はえらい乗り気でね。
日本人らしい君の名前と風貌がたいそう気に入ってい
るようだよ。じゃ、一週間延ばしということで頼んだ
よ」
「わっかりましたぁ。あっざいまーす。失礼しまーす
ッ」
事態に変化が出てきた。ここから風穴があいて、閉
塞状況から抜け出せるかもしれないと大和は思った。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１３年５月号 通巻第５０号
［原稿用紙３１枚］
