モテキ月 四
大堀敏靖
友人伊能忠道のマンションに上がりこみ、風呂に入
ると外から「ご一緒させていただいていいですか」と
伊能の妻優子の声がした。旦那伊能は沖縄に出張して
いる。旦那も承知で、いや旦那から頼まれてこうして
やってきた。妻の夜の要求があまりに激しいから、妻
の淫乱を疑って、男なら誰でもいいのか確かめてほし
いということである。早速来たか、と鈴木大和は思っ
た。
「失礼します」
と妻優子は前をタオルで隠して入ってきた。湯船に
浸かって背を入り口に向けていた大和は少し振り返っ
た。湯煙でよくは見えなかったが、肉感的な、男なら
誰もがそそられるような体型をしている。友達の妻と
はいえ、お互い裸になって、湯船にでも浸かったら何
もしないわけにもいかない。何もしないことのほうが
失礼に当たる。
「お背中流しましょうか」
「あ、いえ、いいんですか…」
「それとも湯船に一緒につかってもいいですか」
「え、一緒に？…」
大和が返答に窮しているうちに優子は肉付きのよい
お尻をこちらに向けて湯船に入ってきた。ゆったりと
した大きな浴槽で二人が入っても余裕がある。少し湯
が溢れた。
「あの、伊能は…」
「はい」
「伊能は、沖縄でしたか、今…」
「はい、沖縄です。取材で石垣島まで行くと言ってま
した」
大和はやはり肉付きのよい優子の白い肩や背中を見
ている。
「石垣って尖閣に近いですね」
「近いです。って言っても百五十キロくらい離れてま
すが。中国船があの辺りに出没して漁民たちが漁がで
きなくなって困っているという話です。それを取材に
行ったようです」
「漁民たちには切実な問題なんでしょうね」
大和にとっては今こうして人妻と同じ湯船に浸かっ
ていることが一番切実な問題で、下半身も疼いてき始
め、どうしたものかと会話も浮ついてしまう。
「そうです」
と言って、優子がこちらに向き直ったので大和は驚
いた。
湯船の中に波乱が起きて、豊満な乳房もあらわに見
えて湯に沈んでもそちらに目が行った。
「ワイドショーで毎日やってますけど。わたし、本当
に中国はひどいと思います。昭和四四年に国連の調査
があって海底資源が眠っていることがわかると急に中
国や台湾が領有権を主張し出して、自分たちの領土だ
と言い始めたんですね。日本は明治時代にどこの国の
領土でもないことを確認して、日本の島だと宣言した
んです。それから中国の地図でも日本の領土だと認め
ておきながら、資源があるとわかると突然自分たちの
ものだと言い出すなんてほんとに勝手で腹が立ってき
ますよ。わたし、領土のことでこんなに腹が立つのは
自分でも不思議なんですけど、祖父の影響で日の丸万
歳の考え方ですから、日本人の血が騒ぐんでしょうね」
優子がこんな領土問題を熱く語り出すものだから、
元々保守思想の大和も裸であることを意識しつつも同
意した。
「その通りです。ドイツの学者が言ってますけどね、
ほんのちょっとでも領土を譲ってしまうような国はや
がて全部とられてしまうということですよ」
「そうですね。尖閣なんて自分たちの生活とは関係な
いですけど、別に中国が欲しいならあげたらいいじゃ
んなどと暴言を吐く人がいます。竹島も同様です。自
分の体で人にあげていい部分なんてありますか。腎臓
を子どもに移植する人もいますが、身を削ってでも子
どもを生かしたいという親心ですよね。足の小指一本
でも切り取られるのには抵抗があるはずです。国を思
えば、父祖たちの開拓した小さな島一つでも他国に易
々と収奪されるようなことは耐えられるはずがありま
せん。尖閣を許してしまったら、つぎは沖縄がとられ
ちゃいますよ」
下半身の疼きは治まり、頭が愛国的に働き始める。
「そうですね。そうですよ。中国は侵略しようとして
いますね。今正に侵略が現在進行形で行われているん
ですね。中国船が大船団となってやってきて上陸した
ら海上保安庁だけで防げないですよね」
「防げませんね」
「領海領土侵犯者としてたちどころに撃ち殺しても国
際法上は問題ないですが、交戦権も否定する優しい憲
法に拘束された日本人はそんなことできるわけがない。
上陸した漁民たちが海上保安庁に拘束されたら中国の
武装警察がやってきて、海保の職員たちと戦闘になっ
て島を占領されてしまうかもしれません」
「もしこれが逆の立場なら中国はたちどころに日本人
を殺したりするんでしょうね」
「しますね。核をもっていますから。軍事力も増強し
てますから。ＧＤＰも日本を追い抜いてしまいました
から。自信満々で何でもやっちゃって、すべて日本人
が挑発するから悪いということにしちゃうんでしょう
ね」
もはや優子が裸であることも女であることも忘れて
全身の血が頭に上って尖閣問題に集中した。下半身は
存在感をなくしている。
「あ、ごめんなさい。こんな話に熱中して、背中流し
ますから」
そうして、背中を流している間も風呂から上がって
冷えたビールを注がれ、食事をする間も尖閣問題から、
竹島、北方領土、自衛隊、憲法と話が広がりながらま
すます熱を帯びて、卑猥な要素が入る隙は全くありそ
うもなかった。
大和はこれでいいと思った。そうすれば伊能には「
君の内儀は淫乱には非ず」と報告できる。さらに言え
ば「君を一途に愛する健気な奥さん」と報告できる。
優子とは愛国で不思議なくらい意気投合し、明け方
の五時過ぎまで延々と語ってしまった。
「わたしこんなに国のことを人と熱く語ったのは初め
てです。どうしたんでしょう。なんか不思議」
「僕もまさか奥さんとこんな話をするとは思ってもみ
ませんでした」
そこで優子は初めて女の目をして、
「寝ますか」
言ったので、大和は一瞬とまどった。
「あ、もう帰ります。電車も動いてますから」
「え、それじゃ、何しに来ていただいたのかわかりま
せん」
「十分です。これで伊能も喜びます」
「わたしは本当は好き者の女で情欲が強いのを確かめ
にいらしたのですよね。それを確認していただかない
と」
「そんなこと確認してどうなるんです。伊能が喜ぶは
ずないじゃないですか。僕は独身ですけど、今大事な
時で無闇に女性と情交をかわすことはできないのです。
緊張がしいられているのです」
「緊張？」
「そうです。月なんです。月にはめられてしまって、
四人の女性に迫られているのです」
「鈴木さんはモテんですね」
「いや、そんなんじゃなくて、災難といっても過言で
はありません。あなたも実はその一人のようです。心
当たりはありますか」
「話の内容がよくわかりません。わたしは主人が、鈴
木さんを泊まらせるからお前のいい様に接待しろと仰
せつかっただけです」
「じゃ、なぜ確認するとか知っていたんです」
「主人の日記を読んだからです。主人は私を淫乱と疑
っており、男なら誰でも相手にしたがり欲望を満たす
のじゃないかと疑っているのです」
まず伊能が日記をつけているというのが驚きであっ
たが、読まれるようなところに置いておくのもガード
が甘い。夫婦間の切実な問題となる。下手すれば離婚
の危機ともなる。しかし、わざと読ませるようなとこ
ろに放置したという見方もできる。
「で、どうなんです。実際のところは、一応僕は任務
を帯びてますから、知りたいところなんですが…」
「私は自分では普通だと思ってますが、友達に聞いて
みるとやはりすこし度が過ぎているようです。夜にな
ると急に体が疼き出して、主人を見ると体がもういう
ことをきかなくなって暴走してとどまるところを知ら
ないということになってしまうようです。でも夫婦で
すから何も悪いことはないはずですし…。でも今夜は
不思議でした。まったく体は大人しくなって国のこと
をこんなに夢中になって話したのですから、不思議で
す」
「やはり伊能を愛しているということですね」
「それは確かに」
「他の男なら誰でもいいとかないですよね」
「ないと思います。でももし、今夜尖閣などの話がで
きなかったら、どうなっていたかはちょっとわかりま
せん」
「伊能にはいい報告ができます。理想的な奥さんに愛
されてあいつは幸せです」
「そんな…。でも鈴木さん、わたしも月の罠の一人っ
てどういうことですか」
「話せば長くなりますが、急に女性にモテるようにな
って、迫られるものですから、あなたも月が準備した
傭兵ではないかと思ったのです」
「月があなたに何をしようとしているんですか」
「具体的にいえばかぐや姫のモデルになった平安時代
の女官に魅入られたということです。それが必ず思い
をとげようと用意周到にネットを張り巡らせて、女性
を私に近づけさせて、その女性に憑依しようしている
らしいのです」
「わたしも憑依されるかもしれない一人だと…」
「たぶんそうでしょう。でも今日は仲秋の名月ではな
いですから、回避されたようです。本当は九月三十日
にここに来ることになっていたのです。ご主人出張で
しょう。その時来ていれば確実に僕と奥さんはおかし
なことになっていたはずです。よかったです」
徹夜で天下国家を人妻と議論して頭は興奮したまま
だった。早起きの老人が犬をつれて散歩する早朝の住
宅街を歩き、駅前の自販機で缶コーヒーのボスを買っ
て飲んだ。幸いその日は休日だった。部屋に帰ったら
眠れる。
部活の朝練で早い高校生や日雇い労働者風の男、荷
を抱えたおばさんなどが乗る始発電車に揺られて呆然
としていると、そこへ携帯の振動を感じた。見ると凪
紗からのメールだった。
《おはようございます。大和さん、まだ寝てるでしょ
うね。お返事を待ってましたけどなかなかいただけな
いので不安になってメールしました。なんか大和さん
の周りには他の女の人がいっぱい群がっているような
夢を見ました。大和さんは女の人には縁がなくて（ご
めんなさい！）孤独を耐えるような素敵な背中をして
いらしたので、わたし、安心して成就院のお相手にと
思ったのです。好きな人が他にいらっしゃるのですか？
隠さずに教えて下さい》
やはり感の鋭い女である。全てを見抜いている。ど
うしよう。隠さずに現状をぶちまけてしまおうか。ど
のみち、どこかに齟齬は生じて破綻をきたすことは目
に見えている。凪紗には弟の武蔵を影武者として遣わ
すことに決めているが、あの軽薄な弟が首尾よく役目
を果たすとは到底思われない。霊感の鋭い凪紗にたち
どころに見破られ化けの皮をはがされてしまうだろう。
《おはよう。たまたま起きてました。徹夜で仕事して
ました。僕は他に好きな人というのは今のところいま
せんし、誰とも付き合ってなんかいません。安心して
ください》
《よかった。でも複数の女性から言い寄られていると
いうことはありませんか。誘惑の罠にはめられそうな
状況というのはありませんか？》
やはり見抜いている。もしかして一昨日の愛染さく
ら、つまり凪紗の腹違いの姉がすべてを妹に暴露して
しまってのではないか。それはあり得る。しかし、そ
うだとすればわざわざこちらから言う手間が省けてむ
しろ歓迎すべきことである。誰を選ぶかの選択はしな
ければならないが。
《どうしてそんなこと聞くの？ 僕はそんなにモテる
男ではないですよ》
《だってあんなにリアルな夢を見たし、姉が…》
やはり愛染は話したのか、口の軽い女め。
《姉？ 姉さんがどうしたの？》
《霊感の強い姉が日本風の名前の男には気をつけたほ
うがいいってわざわざ電話してきました》
《日本風の男って僕のこと？》
《大和さんですから、そうですよね》
《どう気をつけろと言われたの》
《その男は月の罠に嵌っていて多くの女性から言い寄
られているから、本気になって好きになってしまった
らいけないって言ってました》
そこまで知っているということは、姉愛染の妖しげ
な風俗系人生相談の店に大和が訪ねて裸になって交わ
りそうになったことも姉はばらしてしまったんだろう。
プライドの高い姉は自分が拒絶されたなんてことは認
めたくないから、除霊は見事に成功して、つまり大和
とまぐわいを完了したとウソを話したかもしれない。
それならそれで大和をあきらめてくれることになれば
一つ問題が片付いてシンプルになるので歓迎すべきこ
とだ。
《何のことだかよくわかりませんね。月の罠って何？
月にこだわっているのは凪紗さんだから、あなた自体
が罠ってこと？》
《大和さん、姉の店に行きましたね。姉とどういうこ
とになったんですか？》
素直に認めてもいいが、こういう場合はしらばっく
れることが公式である。
《だから何のことだかわからないって。凪紗さんに姉
さんがいるなんて初めて聞いたことだし、店をやって
いるとか、その店がどこにあるかなんて知るわけない
のにどうやって訪ねるわけ？》
《調べたんじゃないですか？》
《なんで調べる必要があるの？ 姉さんいるなんて知
らないのにどうして姉の所在を調べようなんて情熱が
生まれるわけ？》
《それは、月の罠だからでしょ。月に導かれてわかっ
てしまったんでしょう》
《それって被害妄想？》
《違います。姉が言ったことですから。本当に知らな
いんですか。姉のことも》
《知るわけないって。あなたともこの間会ったばかり
でよく知らないのに姉さんのことまでどうして知って
いるわけ？》
《それもそうですね。じゃ、さくら姉ちゃんはなんで
あんなこと言ったのかなぁ》
《別人じゃないですか》
《でも日本風の名前で、大和って言ったらそうだって
言ったし、わたしがコンパルでバイトしていることも
その人は知っていたし、今度京都で会う約束をしたこ
ともその人から聞いたって言ってましたよ》
どうしよう。真実を告げようか。どこにも疚しいこ
とはないし、たとえこちらに非があって責められたと
して、愛想を尽かれてもかえって助かるくらいで何の
デメリットもない。
《ごめん。本当のことを言うとお姉さんの店に行きま
した。たまたま入った店がお姉さんの店でびっくりし
ました。でも何も変なことはありません。むしろお姉
さんが変で、除霊と称して裸になって迫られましたが
拒否しました》
《姉は、あれからぼーっとしていることが多くて溜息
ついてばかりいます。どうもあなたに恋をしてしまっ
たようで、わたしから見ても不憫なくらいなんですが、
わたしもあなたのことを思っていますから、姉はライ
バルなんです。姉にあなたを譲りたくはありません。
わたしはあなたと約束しているからいいんですが、姉
にとってあなたは一期一会の行きずりのお客さんで会
う術もないですから、かわいそうです。でも住所や携
帯の番号知ってるみたいですから、きっとアプローチ
があると思います》
驚くべきことを聞いてしまった。姉も大和を愛して
しまったらしい。話がシンプルになるどころかさらに
ややこしくなってしまった。
《姉はもう三十五の年増ですから、大和さんの相手に
なんかなるはずないので安心ですが、もしかして、年
上好みだったりしますか？ 美人タイプだし、オッパ
イやお尻はわたしより大きいので一途に迫っていった
ら大和さんもふらふらしてしまうかもしれませんね。
でも絶対姉には譲りません。大和さんはわたしと結ば
れる（キャッ！）ことになっているんです。それは月
が約束してくれますから。それより気になるのは、他
にもライバルが複数いると聞いたことです。一体何人
の人から迫られているんですか》
《五人、あ、いや六人かな》
《え、そんなに！…》
凪紗、その姉愛染さくら、本郷忍、飯田美並、ＮＨ
Ｋアナ、ついでに伊能の内儀も入れれば六人である。
《幸せですね。そんなにモテて》
《冗談じゃない。少しも幸せとは思いません。以前の
シンプルな生活に戻りたい気持ちでいっぱいです》
《いい方法があります。それは他の人は皆断ってわた
しひとりに絞ることです。それがもっともシンプルな
シンプルライフへの道です》
それはそうだろう。そんなことはわかっている。一
人に絞ればシンプルになれる。しかし、誰に絞るかが
わからない。判断がつかないのが問題なのだ。
《できるならそうしたいです》
《できなくてもそうしてください。わたしが必ずあな
たを月の世界に連れて行って幸せにしますから》
《月の世界？ 連れて行かれるんですか、僕は》
《比喩です。月に導かれて幸せになれると言うことで
す》
《本当に幸せになれるんですか。『竹取物語』は決し
てハッピーエンドではないですね。かぐや姫はただ、
人の心を翻弄して悲しませて月の世界へ帰っていった
だけで、単なるお騒がせ女じゃないですか。人の人生
を狂わせて一体何しに月の世界からやってきたのか、
意味ないどころか災いを撒いて去っていくのですから、
地震や津波と一緒ですよね。責任取れよ。どの道月に
帰るなら最初から来るな、と言いたいところです。あ
なたもその類の人ではないのですか》
《ひどい、そんな言い方。みんな幸せになろうとして
一所懸命生きているんです。結果として不幸になるこ
とがあっても不幸になろうとか、人を不幸にしようと
か道連れにして地獄に落ちようとかそんなこと考える
人はいません。いたとしても一部の変質者です。わた
しは変質者ではありません。幸せになりたいだけの乙
女です。大和さんとなら幸せになれる構図をリアルに
描くことができるんです。だから声をかけました。成
就院にお誘いしました。かぐや姫だって、おじいさん
おばあさん、帝や皇子たちを弄んでやろうなどと計画
的に地上におりてきたのではないと思います。何かの
手違いで竹の中に入り込んでしまっただけで彼女なり
に懸命に生きただけです。ただその美貌が災いしたの
です。ブスならば、誰も悲しめずに月の世界へ帰るこ
とができたでしょう。ところでわたしはブスですか？》
《ブスではありません。かわいいと思います。だから
僕もメアドなんか渡したのです》
《嬉しいです。とにかくわたしは大和さんと幸せにな
りたいだけの乙女でウラなんか何もありませんから信
じてください。姉はウラもある人間ですが、今度ばか
りは理性で制御できない恋愛にいい歳して嵌りこんで
しまったようです。邪険にしないでください。でも決
して姉に気を許さないでください。年増の女は肉欲が
盛んですから、欲望を満たすために手練手管を駆使し
て迫ってくるでしょうけどどう考えても幸せにはなれ
るはずないですから拒否し続けてください。でも優し
く。わたしと京都へは必ず行ってもらいます》
《わかりました。考えます》
徹夜の頭で思考があやふやになってきた。ますます
事態は複雑に入り組んで訳がわからない。こういうと
きは眠るに限る。眠いのであるが、無性に牛丼が食べ
たくなったので電車を降りると駅前の「すき家」で生
卵を割った牛丼とみそ汁をかき込んだ。そして部屋に
たどりつくと上着だけ脱いでベッドに倒れこんで寝た。
正午前に目が覚めた。テレビをつけると天気予報の
気象予報士が台風が近づいていることを告げている。
台風は猛烈に発達して八百八十ヘクトパスカルまで気
圧を下げ、超大型だという。観測史上最大クラスだと
いっている。それが太平洋の南鳥島辺りにあって、進
路予想図を見ると太平洋高気圧のへりを通って一週間
後くらいに大和の住む地方に直撃しそうな予想となっ
ている。もしも月末に台風が来ればかぐや姫の策謀も
すべてがおじゃんになって解決するかもしれないと大
和は考える。大和を救ってくれるラッキーな台風、そ
れは神風ともいえるだろう。
続いてお昼のニュースの時間になり、中国の漁船が
尖閣諸島沖で日本の海上保安庁の巡視船に体当たりし
てきたと騒がしく報道している。船長を拘束したと言
っている。
しかし、今の中国よりの民生党政権では強く出られ
ないだろう、大和は考えた。船長を逮捕したところが
中国から圧力をかけられたら、へなへなとなって釈放
してしまうにちがいない。それよりはましな自生党の
ときも結局強制送還ということで、領土侵犯した者た
ちを送り返してしまった。帰ればそういう者たちは本
国では英雄扱いされる。どうして日本はこうも中国に
弱いのだろうか。戦争で迷惑をかけてすいませんと言
う気持ちがあるのと、それにつけこんで中国が戦略的
に被害者面をしてくるからだろう。中国、韓国は歴史
的に日本を見下している。自分たちが世界の中心でそ
の周囲の化外の地の日本などは野蛮な下等な民族とい
う間違った思い込みがある。彼等の方が民度が低く、
遅れていることは行ってみればすぐわかる。粗雑な民
族性でアジアの恥だとさえ思える。
しかし、粗雑な彼らは軍事力、殊に核兵器を持つこ
とこそが国際政治においては一番優先すべきことなん
だと粗雑な頭で結論づけて、ひたすら軍事力の増強、
核保有国への道を突き進んできた。それでみかけは発
言権の強い、超大国になることができた。核を持たな
い日本はアメリカの後ろ盾があるからなんとか保って
いるが、日本だけではまともに中国と渡り合うことは
できない。核の恫喝を加えられたらどんな主張も引っ
込めるしか仕方がない。暴力団を前にした非武装善良
市民という構図である。あるいは狼に睨まれた子羊も
同然である。
政府は中国に対して大使館を通じて厳しく抗議する
といっているが、そんなものは屁とも思わないだろう。
実際にお尻をまくって屁をかました方がインパクトが
あるくらいだ。
そんなことは百に一つもないだろうが、中国と戦争
になれば、やはりコンサートや演劇やお月見やお見合
いどころでなくなるのでかぐや姫の謀略は頓挫するだ
ろう。そうすると中国にもう少し激しく動いて貰った
方がいいかもしれない。「中国様様」ということにな
る。
今朝まで一緒にいた伊能の妻優子はこのニュースを
知ってどう思っているだろうかなどと考えているとこ
ろへ、出張先の伊能からメールが入った。
《どうだった？ 優子は》
これは自信をもっていい報告ができる。
《喜んでくれたまえ。奥さんは淫乱じゃなかった。オ
レとは昨夜何もなかった。朝まで討論をして憲法問題
など語り合った》
《そうか。優子は愛国者だからな。そういう話になる
と人が変わる》
あまり喜んでいない。
《嬉しくないのか。奥さんはお前を愛しているぞ》
《日本と男の身体を愛しているだけだろう》
《いじけたこと言うな。贅沢っていうものだぞ》
《オレは鈴木と優子が関係をもってもいいと思ってい
た。そうすれば嫉妬も少し働いて優子に対する情欲も
高まるかもしれないと期待したんだ。しかし、今の話
を聞いてますます引いてしまった。オレはそういうこ
とを期待していたんだ。でも、ありがとう。また考え
る》
人の心は複雑なものだと大和はつくづくと思った。
休日の午後。これと言って趣味のない大和はもちろ
ん、トランペットも弓道もやらない。ぼーとして畳一
畳分位もある３Ｄ80インチのテレビを見る。これは会
社の新年会のビンゴゲームで当たった賞品で訳ありの
少し傷がついたものだが見る分にはまったく支障はな
い。定価六十万くらいはする。部屋に来たころは見る
のが楽しみで帰宅の足も速まったが人間は慣れる。今
でもハイビジョンや３Ｄには目を瞠るが元来あまりテ
レビを見るほうではない。ニュースと天気予報、歴史
ドラマ、あとは気に入った深夜のバラエティーを見る
くらいのものである。
テレビを見ながら「カップヌードルＫＩＮＧ」とい
う従来の倍はあると思われるカップにお湯を注いで食
べる。大きさは年々エスカレートしていくので、ネッ
トで販売されている「バケツプリン」や映画館のポッ
プコーンのように「カップヌードルＢＡＫＥＴＳＵ」
という商品もそのうち出るんだろう。その量に満足し
たあとは近所のコーヒー店で焼いてもらったばかりの
中南米産のコーヒー豆をガリガリと挽いてドリップで
煎れる。休日の至福のときは粉にお湯を注いで円墳の
ような形に膨らみ湯気とともに香りが広がるこの一瞬
である。
マグカップに満々と満ちたコーヒーをすすりながら
ピスタチオを割って口に入れる。
ぼーっとテレビを見ていると、地方のバラェティー
番組でカレーハウス「Ｓｏｃｏ一番屋」で早食い競争
をやっている。巨大な皿に盛ったご飯にカレーをかけ
てだれが一番早く完食するかという、アフリカの飢餓
に苦しむ人々がみれば怒り出すような番組をやってい
る。大食いもそうだが、こういうのは一時問題となっ
て自粛することになったと思うがまたやっている。巨
漢の男が大食いするのは理解できるが、痩せた若い女
の子がいくらでも食べている。身体の構造が違ってい
るんだろう。世界には自転車を食べてしまうヤツや、
ゴム製品なら何でも食べてしまうという変わった人間
がいるのだから、痩せの大食いもいるのだろう。
男女入り混じって六人の若者に一人おばさんも混じ
って競っていた。時折コップの水を飲みながら黙々と
スプーンですくっては口に運んでいる。水で流し込む
ようにして食べている娘もいる。平気な顔をして、口
辺にカレーをつけたまま食べ続けている。みるみる皿
の大量のカレーライスは減っていった。そして、おば
さんが苦しそうに顔を歪めてリタイアしそうになって
いるときにラッパが鳴って「完食！」と言われて立ち
上がったのは一番やせたかわいい二十歳前後の女の子
だった。
「すごいですねぇ。ダントツの一番です。演劇研究生
の飯田さんです。やりましたー」
空になったカレー皿を持って「イェーッ」とピース
サインをしている。
「飯田美並さん。おめでとうございます。やりました
ねぇ、どうですか」
「ありがとうございます。こんなの朝飯前っていうか、
お茶の子さいさいなんですけど、嬉しいです」
「古い言葉を知ってますね。お茶の子さいさい。この
喜びを誰に伝えたいですか」
「はい。お世話になった家庭教師の鈴木先生に伝えた
いです。センセー。見てますかー。美並やったよー。
今度三十日来てねー」
マグカップを手に持ったまま大和は固まってしまっ
て見ていた。確かによく見れば教え子の美並だった。
かなり派手な化粧をしているのでわからなかった。髪
も染めている。まさかテレビの早食い競争に出ている
とも思わないから「センセー」と言ったときに初めて
気付いた。
「ほぅ。憧れの先生ですか？ 三十日というのは何か
デートの約束でもあるの？」
「そうです。わたしが主演する『現代版竹取物語 Ｏ
Ｌかぐやの大冒険』に先生に見に来てもらってそのあ
と食事してホテルに行くんです」
「えーっ、ホテル。それはまずいんじゃないですか。
禁断の恋ってやつですか」
「禁断でも何でも構わないんです。わたしたち結婚し
ますから」
「えーっ、そうなんですか。まぁ、精々楽しんでくだ
さい。おめでとうございます。賞金十万円とカレーハ
ウス『Ｓｏｃｏ一番屋』の一年分のお食事券です。ど
うぞ」
「ありがとうございます。センセー、一緒に来ようね。
イェーッ」
そこでカレーハウス「Ｓｏｃｏ一番屋」のコマーシ
ャルに切り替わった。番組は終わったようである。大
和はリモコンを操作して電源を切った。
冗談ではない。公共の電波を使って飯田美並は大和
と結婚するのだなどと公言している。親や友人、知人
も見ているだろう。鈴木とはだれかと問い詰められる
だろう。親は知っているはずである。確認の電話がか
かってくるかもしれない。家の娘に何してくれたんだ
と怒ってくるかもしれない。これもすべて月の仕組ん
だ用意周到な罠の一貫なのだろう。そうとしか考えら
れない。たまたまつけたテレビでこんなものを見せ付
けられるのも月の仕業としか考えられない。一体どう
しろというのか。だれとお月見をしろというのか、ま
すます判断がつかなくなっていた。
(つづく)
月刊ＷＥＢ風 ２０１３年３月号 通巻第４８号
［原稿用紙３３枚］
