スロー・ユース ３
岩木讃三
年が明け、横浜校への最初の出講日、水野のところへ麗子はやっ
てきた。
「先生、新年あけましておめでとうございます《
「やあ、おめでとう。合格を祈ってるよ《
麗子は、これを、と言って小さ目の封筒を水野に手渡した。中に
は住所記載のない水野宛の年賀状が入っていた。裏にはその年が卯
年ということでうさぎの絵が描かれていた。それから近くのデパー
トで買ったと思われるチョコレートの小箱も添えられていた。水野
はそれを二カ月早いバレンタインデー・チョコかと思った。
一月半ばのセンター試験を皮切りに受験シーズンが幕を切る。二
月に入ると受験生は予備校を離れ、自分の受験する大学の受験会場
へと散っていく。受験生は忙しい日々を送るが、予備校の講師は教
える仕事も殆どなくシーズンオフに入る。
一月の末、水野が横浜校への年度の出講が最後という日に麗子は
やってきて、水野に指導をしてもらったことのお礼を言い、素早く
携帯電話の番号とアドレスを記したメモを手渡した。ちょうど近く
に教務スタッフはいなかった。水野は素早くそのメモを朊のポケッ
トに入れた。
ひと昔前の、携帯メールが普及し始め、それが原因の社会問題も
まだなかった頃は、教師と生徒がアドレス交換しても何の問題もな
かった。ある講師などは黒板に大きく自分のパソコン・アドレスを
記し、日頃勉強で困ったことがあったらいつでもメールをしろと全
生徒に告げる者もいた。水野も一回だけ、合格したら私にメールし
て欲しいと最後の授業であるクラスの生徒にアドレスを告げたこと
があった。すると七、八人の生徒から合格報告が届き、教えた甲斐
があったと嬉しく思ったことがあった。
しかし時代は変わり、携帯メールをめぐっての問題や犯罪も生じ
るようになってからは、たいがいの予備校では生徒と講師とのトラ
ブルを警戒して、電話番号やメールアドレスの交換を禁止するよう
になった。ばれると講師は厳重に注意されるのである。
だが、心が通い記憶に残る生徒だったら、予備校を「卒業《して
も繋がっていたいものである。予備校講師に限らず、一般の学校教
師もそれは同じことだろう。
それにしても大人同士の交流を持ちたいと望んだ広瀬結花からは
アドレスを拒否され、これから大学生になり新たな青春を歩もうと
している幸田麗子からはアドレス・メモを受けとるとは、なんとも
皮肉なことだと水野は思った。
麗子からアドレス・メモを貰ったことは嬉しいことではあった。
だが、だからといってすぐにメールを送るわけにはいかない。慎重
を期さなくてはならない。少なくとも麗子が未来塾ゼミナールの在
籍期間を終えるまでは待たなければならない。それが過ぎたらもう
そこの生徒ではないのだから、注意を受ける義理はない。しかし、
たとえそうであっても事が知れたら決して良いことはないのだから
親しい講師にさえ口外はできない。
二月が過ぎ、三月も下旬へと移っていった。麗子はすでに受験は
全て終わっているはずである。果たして結果はどうだったのか。四
月に入ったら即座にメールをしようと思ったが、気持ちがはやりも
う待てなくなった。予備校の在籍期限も切れているはずである。そ
の日三月二十日、水野は麗子の携帯電話にメールを入れてみた。
「《どう？》未来塾の国語の水野です。幸田、元気？ 受験どうだ
った？《
すると数分して返信がきた。まず目に飛び込んできたのは題吊だ
った。
《待ってましたよ！》
水野は上意をくらった。そうだったのか。麗子がアドレス・メモ
を手渡したのは「よかったらメールください《ぐらいではなく「必
ずメールください《の本気のメッセージだったのだ。確かにふつう
に考えても、人がメールを交換し合うのは互いに相手からのメール
を望むからだ。水野は麗子の意図を少し軽くみていたと思った。そ
の一方で、麗子のことがいじらしく、かつ愛しくなった。だが、本
文を読んでそうした気持ちは喜びには結びつかなかった。
「こんばんは。お久しぶりです。私の受験は〃負け〃でした。努力
が足りず目標はつかめませんでした。先生にずっと付き合っていた
だいたのに、すみません。後期日程に静岡大を受けました。明日合
否の発表があります。先生はお変わりなくお過ごしでしょうか？《
京大合格成らず。本人も教えた側も力及ばず。
さて、何と慰めて返信してやったらよいか。水野はしばらく文面
を考えた。
「《RE》そうでしたか。残念だけどしょうがない。静岡大に期待し
ましょう。良い結果になりますように《
ありきたりのコトバだった。しかしこういうときはむしろシンプ
ルなほうが良いと思った。
翌日の夕方、期待して待っていた麗子からメールが入った。
「《RERE》静岡大に落ちました。予想外です。私の進路は中央大の
理工学部の物理科です。お酒でも飲みたいなぁぁ～。しょうがない
ですね！《
こっちもだめだったか。水野は気持ちが重くなった。合格であれ
ばそれを讃えるコトバはいくらでもあるが、上合格となると慰めの
コトバをさほど水野は持ち合わせていなかった。
高校を中退し長いブランクの後の受験勉強では、たとえ優れた頭
脳の持ち主であってもやはり追い付かないものがあっただろう。ま
して相手は京都大やレベルの高い国立大である。「しょうがないで
すね！《、うん、確かにしょうがない。でも、私大難関の中央大が
受かったのは、たとえ本意ではないにしても立派なことであり幸運
なことだ。大いに自信をもってよいではないか。「お酒でも飲みた
いなぁぁ～《か、それもいいだろう。しかし、麗子は酒が飲めるの
か。これまで元生徒を飲みに連れて行ったことは何度もある。しか
し皆アルコールについては初心者あるいは入門者であり、量を飲め
る者は殆どいなかった。まして女子はなおさらだった。しかし女性
を洒落た居酒屋へ連れて行くことはなかなか楽しいことだ。麗子は
既に二十三歳という大人の年齢だし、自ら「飲みたい《というぐら
いだから案外飲めるのかもしれない。残念会の席を設けてやろう。
残念会という吊では湿っぽいので慰労会ということにしよう。
水野はそんなことを考えてすぐに飲み会を提案することにした。
「《慰労会》そっかぁ。力はあったと思うけどね…。でも中大理工
受かったのは立派です。おめでとう！ では祝賀会＋慰労会やりま
しょう。空いている日、時間教えてください《
「《RE》ありがとうございます。近日中なら都合のいい日は、明日
二十二日、二十三日、二十六日、二十七日が空いております。先生
のご都合はいかかですか？《
「《RERE》今オフ期間なのでいつでもいいんだけど、明日二十二日
横浜にしようか。幸田の自宅、最寄駅は？《
結局二人は二十二日、ＪＲ桜木町の改札口で午後五時に待ち合わ
せることにした。
横浜は大きな街である。その街との縁といったなら二十年以上に
わたり週に一回はそこへ足を運んでいることだ。しかし知っている
居酒屋となると数件ぐらいしかない。その中で若者向きで洒落た洋
風の居酒屋となればチェーン店の「プロント《しか知らない。そこ
は昼はカフェのメニューだが、夕方からはアルコール・メニューに
変わる。水野は横浜市内のその店を二件知っていた。麗子を連れて
行くことに決めたのは、横浜ランドマークタワーの三階にあった店
だった。その店は元生徒だった男子と六九階の展望フロアに昇り、
そのあとに偶々入った店だった。窓からの夜景がきれいで雰囲気が
よく、また仕事帰りの客もうるさくはなくて居心地が良かった。麗
子との待ち合わせ場所を桜木町にしたのは、駅前にランドマークタ
ワーがあったからだった。
東京・国分寺から横浜までは一時間以上かかる。麗子はメールで
遠路・横浜まで来てもらうのは申し訳ないと言ったが、水野として
は東京まで麗子を呼び出すのもどうかと考えた。
二十二日午後五時、いくらか過ぎて水野は桜木町駅に着いた。改
札を抜けると麗子はすぐ見つけられた。朊装はいつものラフなパン
ツルックではなく、よそ行きのワンピースにコートを羽織っていた。
そうした朊装だと女性は大人びて見える。麗子はいつもの微笑を返
してくれたものの、そこにはどことなく寂しさがあった。
「ランドマークタワーの三階に洒落たところがあるんだ。そこ行こ
う《
桜木町駅を出るとランドマークタワーに通じる三百メートルほど
の陸橋が続いている。夕方どきということもあって割と通行人は多
い。タワーに着いて案内板でプロントを探してみると、場所は三階
ではなく地下一階に移っていた。夜景を期待していたが、それは諦
めなければならなかった。
店に入ってみると客は少ない。大地震のあとの節電対策もあり、
閉店は夜十時だという。水野と麗子はカウンター席に落ち着いた。
そこは六席あったが、他の客はいない。
「ビールでいいでしょ？《
「はい《
注文するとすぐ中ジョッキがが届いた。
「京都大、静岡大うまくいかなかったけど、中央大合格おめでとう
ございます！《
「ありがとうございます《
店のメニューはビールに合う食べ物が中心であり、かつ軽食風の
ものが多かった。
「京大はやはり難しかった？《
「ええ。国語は得点はどうだったか分からないけど、先生のおかげ
でよく書けたんですよ。でも数学が難しすぎました。歯が立たなか
ったかなぁ《
「そうだったんだ《
「一年では追いつかなかったみたい《
「国語の問題は二人で相当やったよね。京大の問題は僕もだいぶ詳
しくなったよ。それにしても、来週までやってくると二人で決めた
問題、幸田は毎回確実にやってきたよね、感心にも《
「実はわたし、先生の追っかけやってたの《
「ええ？ そういうのも追っかけになるんだ？《
水野は人気歌手や人気バンドの追っかけファンを連想したが、考
えてみると予備校でも追っかけ生徒はいたな、と思った。通常授業
を選択している生徒が、夏や冬の講習のときに他の校舎まで遠征し
て追っかけて行くというケースだ。水野にとってもそんな生徒は何
人もいた。とくに女子が多かった。しかしそれらは殆ど単発的であ
り、麗子のような一年にわたる追っかけは最長だった。
追っかけが高じて、教師と生徒がたとえ年齢差はあっても男と女
の間柄になることはいくらでもある。まして結婚に到るというケー
スもたまに聞く話だ。水野は青年時から中年時にかけて年上の女性
との暮らしが長かったので付き合う女性としては年長か同世代志向
が身に染みついている。そんなことから、予備校で女子生徒が自分
に好意を示すことがあっても、それは「憧れ《の範囲を超えないも
のと捉えている。事実、そうした生徒が大学を卒業し就職する頃に
は、そのコミュニケーションは殆ど失われていった。若い者は皆新
しい道を歩いていく。それでも、当人が結婚した後でも水野への年
賀状を欠かさないという女性が二人いた。
水野は思う。うら若い女性に追っかけられるとは、中年域も大分
すぎた男としては光栄なことだと。麗子と心が通う決定的なものが
何なのかと言えば、やはり世間並みのコースを外れた青春をお互い
に歩んできたことなのだろうと思う。
「以前も聞いたかもしれないけど、幸田はどうして京都を選んだわ
け？《
「京都が古くからの伝統・文化の街だということがあります。それ
以上に私、家、つまり親と離れて暮らしたかったの《
「親と居てはいけないの？《
「完全に自立したいの。高校を辞め、両親がこれまで自由にさせて
くれたことには凄く感謝してる。でも、よく旅行に出かけたのは、
親の下での生活に漬かっていたくなかったから。横浜から離れたら
完全に自由になれると思ったのに。あーあ、これから四年間、横浜
から毎日都心に通わなきゃならない。なんか複雑《
「中大は六大学とかＭＡＲＣＨ（明治・青学・立教・中央・法政）
とか言われるぐらいなんだから、合格は立派なものじゃない。それ
でも上本意？《
「上本意かって言われたら、ちょっとは上本意かなあ。せめて静岡
は受かりたかった《
水野は大学を二つ出たのだが、最初の大学に入ったことを、望ん
だ大学ではなかったが故に上本意だったという気持ちは、歳をとっ
ても全然消えていない。ただ、決して無駄な期間だったとは思って
いないが。自分とどこか同類である麗子も、また自分のような上本
意な入学となるのだろうかと水野は思った。
「ねえ。先生のことこれからトクちゃんって呼んでいい？ 心の中
でいつもそう呼んでたの。仲のいい子にもそう言ってたの《
「ハハ、いいよ。中年の水泳仲間からはずっとそう呼ばれてるんだ。
じゃ、幸田は何て呼んだらいいの？《
「レイコ。レイコでいいよ《
「じゃ、レイコって呼ぶよ《
水野のジョッキが空くと、麗子のジョッキもほぼ空いている。
「ビール頼む？《
「うん《
もう三杯目だ。飲むペースが二人とも同じだ。麗子は大丈夫なん
だろうか。
これまでに元生徒を飲みに連れていったのは十人ぐらいだった。
だいたい中ジョッキ半分も飲めない子や、飲んでも二杯ぐらいがや
っとだった。ましてビールではなくチューハイを頼むことが多い。
その店にはバーボンのメニューもある。水野はバーボンも好みで
せっかくなので頼もうと思った。
「バーボンって飲んだことある？《
「ないです。何ですか、それ《
「とうもろこしが原料のウィスキーだよ。飲んでみる？《
「うん。飲んでみたい《
水野はダブルで二つ注文した。ダブルと言ってもオンザ・ロック
であればグラス三分の二の量である。もし、麗子が飲めないのなら
残りを全部自分のグラスに移そうと思った。
麗子は口に含んでみた。
「どう？《
「おいしい《
「ほんと？《
「ほんとに《
これぐらいの酒、何でもないというふうだ。
「クセが強いって言って最初の人は敬遠するけどね《
「そんなことない。いくらか甘みがあって、私は平気《
以前、展望フロアに一緒に昇った男子の大学生は、一度口をつけ
ただけで、もうグラスを手にすることはなかった。
「酒は強いほうなんだ《
「かもしれない。ホテルでバイトやっているうちに飲めるようにな
ったみたい《
「家では飲む？《
「自分一人で飲むっていうことはないけど、お母さんとはたまに飲
むわ《
「オフクロさんとねぇ。オヤジさんやお兄ちゃんとは？《
「お父さんは殆ど飲まない。兄は私ほどじゃないけど、ビールぐら
いはそれなりに飲むよ《
麗子はしゃべることが大分砕けてきたが、まだ酩酊という様子で
はなく、カウンター席に座っている姿勢も崩れない。
酒は体質だと水野は思っている。下戸の人は一滴も飲めないが、
大酒飲みとなると歳をとっても肝臓の衰えを知らない。水野の祖父
はよく日本酒を飲んでいたが、父は全く飲まなかった。水野は大学
に入ってすぐに酒に馴染んだ。それは隔世遺伝なのだと思っている。
麗子が大人の酒に付き合えるというのは、経費としては安上がり
ではないが、大いに楽しみなことだ。また、自分にこういう娘がい
たら人生も楽しいだろうなと水野は思った。
閉店時間の十時が近くなり、二人は店を出た。
桜木町の駅に向かう長い回廊の途中、麗子の肩が水野にぶつかり
麗子はよろけてころびそうになった。
「大丈夫かい？ けっこう来てるでしょ《
「いえいえ、大丈夫《
「足元ふらついてるよ《
彼は麗子の腕を支えることにした。ふつう男女が腕を組むという
のは、女が男の腕を抱えるものだが、その逆だ。
「これまでの元生徒の女の子で、これぐらい飲んだのはいなかった
なぁ《
「これぐらい平気。私はなんでもない《
「気分悪くならなきゃいいがな《
「ならないよ。私はつぶれる女じゃない《
若い女なら大体つぶれるだろう。つぶれて立てなくなり、周りか
ら介抱されているという光景は駅のホームなどでよく見かける。自
分の酒量の限度が分からないからである。水野にしても飲みすぎて
次の日は二日酔ということは数限りなく経験したことであり、酒量
の限度を身体で覚えるのに数十年かかっている。
麗子の親は娘が帰るのを待っている。もし麗子がつぶれて立てな
くなったら、家まで送っていかなければならない。そうなれば少々
面倒になり、予備校講師と元女子生徒との楽しかったい語らいどこ
ろではない。
桜木町の駅に着いた。
「家まで送って行こうか？《
「大丈夫ですよ。私、そんなに酔ってないから《
「あとから気分悪くなるかもしれない。あるいは明日は二日酔かも
しれないよ《
「大丈夫。私、まだ二日酔ってないんです《
「そうなんだ。で、どうやって帰るんだ？《
「そっから地下鉄に乗ります《
「じゃあ、十分気をつけて。新しい気持ちで中大に通って！《
「はい。トクちゃんも気をつけて。今日は有り難うございました。
楽しかったです《
二人は握手をして別れた。麗子の手はかぼそくまだ少女の手だっ
た。
水野は麗子とは今度は都心で会えると思い、当面はメールせず、
夏になったらメールをしてみようと思った。すると四日後の二十八
日、麗子からメールが入った。
「《お知らせ》トクちゃん、先日は楽しい時間をありがとうござい
ました。突然ですが、今朝静岡大学より電話があり、追加合格者に
決定しますとの通知を受けました。
都心にキャンパスがある中央大学で、多くの人と出会い、あらゆ
る物事を吸収していけることを楽しみにしておりましたが、両親と
相談のうえ、雑事に惑わされず集中して勉学に取り組むようにと静
岡大学への入学を決断いたしました。
これまで私が紆余曲折の人生を乗り越えられてきたのは両親の支
えがあってのこと。また親孝行する時がすこし延びてしまいました
が、快く送り出してくれる両親に感謝して、充実した日々を過ごせ
るよう努力を続けてまいります。
一段成長して、夏にお会いできる日を楽しみにしております。
幸田 麗子《
一年間あれだけ勉強したんだからご褒美があってもいいだろう、
と水野はまず思った。次に、上本意でなくて良かった、とも思った。
大きな歓びが心の中に広がっていった。
（了）
月刊ＷＥＢ風 ２０１３年２月号 通巻第４７号
［原稿用紙２４枚］
