ゆるキャラ
大堀敏靖
豪田琢磨は今年大学を卒業して教職に就いたばかり
の新任教師である。恩師である大森から「子供の能力
は無限で、皆天才をもって生まれてきているのだから、
放っておいても子供はよくなるしかない」と教えられ
た。
名古屋駅の新幹線ホームまで見送りにきてくれた恩
師大森は目に涙を溜めながら、
「君は僕の希望だから。君とこれから教える生徒たち
とで人間の無限力を証明してほしい」と手を握ってく
れた。琢磨はこの先生と巡り合っていなかったならば
今の自分はないと思う。目的も気力も生きる意志もな
かった琢磨を信頼しきって導いてくれたのは大森だっ
た。
琢磨は「自分は死にたくないから生きているだけ」
という哲学を持っていた。生まれてきたのは自分の意
志ではない。気がついたら両親の下に生活していた。
養われて育った。その恩はあるだろう。しかし、子供
を産めば親としては育てるのは当然である。育てる意
志がなければ産んではいけない。産んだからには自分
の子供であればそれ相応に愛着もあり、本能的にも育
てるのは当然である。しかし、産まれた子どもとして
は受け身であるのだから、自分の意志というものを持
つに至ると不快なことを強制されるのは我慢できなく
なる。勉強しろとか、ちゃんとしろとか、いろいろ干
渉されるのが不愉快に思われ、自由にさせてくれと言
いたくなる。親としては将来を危ぶみ、心配して、も
っと勉強しろとか、部屋を片付けろとか言うかもしれ
ないが、多分に親のエゴ、世間体とか、自分の見栄と
かがあることに子供の方でも次第に気付いてくる。そ
うなるともう溜まらなくなって、反抗するしかない。
しかし、琢磨の場合は表立って反抗するということは
なくて、静かに精神的に、勝手に産んでおいて、好き
にさせてくれない親を恨み、ひどい成績をとって、Ｐ
ＴＡの役員をする親の顔に泥を塗って、恥をかかせる
ことで仕返しをしていた。
琢磨には家庭教師がつけられた。Ｎ大の学生がやっ
てきた。これが頭がいいかもしれないが、マヌケのよ
うな面持ちで、痩せて黒縁眼鏡をかけ、ズボンをへそ
の上まであげて野暮ったいことこの上のない男だった。
「君は勉強というものが人間に課せられた重荷とでも
思っているかもしれないけど、そうじゃなくて、逆に
重荷を軽くしてくれる味方だと思ったら、勉強にも身
が入るはずだよ」などといって、盛んにずり落ちそう
になる眼鏡を神経質に手の甲で上げ、時折洟をすすっ
た。そして「君はなにか強い秘められた意志を持って
いるね。それもかなり崇高な意志だね。ぼくの直感だ
けど」などと言って、少し琢磨を喜ばせるようなこと
をいって、英語のリーダーを読ませた。
頭はいいかもしれない。勉強はよくできるのだろう。
しかし、こんな野暮ったい男には決して女は寄り付か
ないだろうと琢磨は思った。それで何回か指導を受け
て打ち解けてくると「先生には彼女がいるの」と聞い
た。
「今はいない」
と大森は応えた。これからもいないだろうと思った。
それで、つい、
「僕の女友達に頭のいい男と付き合いたいといってい
る子がいるから紹介しようか」
と言った。実はそんな女友達はいなかったが、美和
という以前付き合っていた女が頭に浮かんだ。
「えッ。いや、いいよ」
とＮ大生は言っていたが、実は心の中では女を欲し
ていたのだろう。Ｎ大生ならばその看板だけで女が寄
ってこないはずはないとプライドを持っていたのだろ
う。指導のたびにしつこく言っていると、
「どんな子なの、写真あるの」
と次第に乗ってきた。男好きのする女で、既に処女
を失っていることは誰の目にも明らかだった。恐らく
近い将来風俗勤めをするのではないかと思われた。す
でに「中村のゆきさん」という伝説の風俗スカウト女
に声をかけられていた。美和の少し露出した写真を見
せると、思ったとおりＮ大生大森は眼鏡の奥の目を輝
かせた。
「美人だ。本当に僕と付き合いたいと思ってるの」
「思ってるよ。いつ会えるかって、毎日催促のメール
が入ってくるもん。今度の日曜なんかどう、先生」
琢磨はデタラメなウソを並べて成り行きを楽しもう
と思っていた。美和にはとことん色気を出してもらっ
て、大森をメロメロにさせてホテルに誘って欲しいと
頼んだ。
「何かの復讐？」
「いや違う。どちらというと善意のボランティアだと
思う」
家庭教師大森だって望んでいる。おそらく童貞の先
生に女を知ってもらい、世界を広めていただくことは
やはり善意だろう。成り行きを楽しむというのは、少
々趣味的な要素もあるが、そんなことをいったら、世
間の世話焼き仲人婆、結婚相談所などは金をとって、
サディスティックに成り行きを楽しんでいることにな
る。何も結婚を斡旋するのではない。大森先生に女を
知っていただいて、童貞を克服してもらうことが目的
である。教えられる立場の生徒がそんなことをするの
は出すぎた真似だといわれるかもしれないが、恩返し
ということもある。お世話になる先生に喜んで貰える
ことを提供することが悪いわけはない。
大森は日曜日に約束の場に行くと言ってくれた。美
和は車の免許とトヨタのセルシオをを持っていた。ど
うしてそのような高級車を乗り回せるのかよくわから
ない。美和の車でドライブして、食事をして、美和の
誘惑でホテルに行くという段取りになっている。そう
いうことにはこの女は慣れていた。大森には食事代や
ガソリン代は持つべきですよ、と言った。もしホテル
に行くことになればホテル代も支払うように勧めた。
大森はそれは男として当然だと言った。
大森と美和は郊外にあるジェットコースターで有名
な遊園地に出かけた。美和は乗り物が大好きで、その
遊園地の看板呼び物ビッグ・サイクロンに乗ろうと誘
ったが、絶対ダメだといって大森は応じなかった。彼
は十八の時にパンパンに凍った雪の階段ですべって右
上腕骨骨折という重症を負ってから、高所恐怖症にな
っていた。高いところに行くと足がすくみ、ジェット
コースターなどに乗ろうものならオシッコをちびるぐ
らいに止まらず、だらもりの放尿をして、大便、よだ
れ、鼻汁など、ありとあらゆる水分や汚物を放出して、
発狂するかもしれず、、周囲に迷惑をかけることにな
るからと説明して固辞した。
「大丈夫ですよ。わたしが手を握っててあげますから」
スピードと上下の激しい動きのスリルがたまらなく
好きな美和は、慣れれば誰もそれを楽しむことができ
ると思って、強引に大森を誘った。
「ダメです。絶対にダメです。これだけは承知するこ
とはできません」
「じゃ、乗ってくれたらキスしてあげますから」
「ダメです。キスはしてもらいたいですけど、ダメで
す。できません」
「じゃ、乗ってくれたらホテルに行きましょ」
「え、ホテル・・」
大森にもある助平な心がこの「ホテル」という言葉
に反応した。
「これに乗れば、貴女とホテルへ行けるんですか」
「そうです。悪い話じゃないでしょ。スリルを楽しん
で、そしてそのあとそんな楽しみがあるのなら」
「美和さんはそんなに簡単なんですか。誰にでもそう
なんですか」
「そんなことないですよ。貴方が素直ないい人だと思
ったから、そんな気持ちになったんです」
「でも、僕はこれに乗ったらどうなるかわからないで
すよ。みっともないことになるかもしれないですけど、
いいんですか」
「いいですよ。人間はみっともなくしないと生きてい
けないものですから」
そんな哲学的な言葉に大森は少し安心して、美和に
手を握られてなら乗ってもいいかという気持ちになっ
てきた。
スカイダイビングやバンジージャンプほどではない。
切腹する侍や刑場の死刑囚、飛行機に乗り込む特攻兵
士に比べれば、お笑い種のような話である。美和のよ
うにむしろ楽しむべきものなのだろう。しかもその向
こうには、快楽の花園が待ち受けている。そう考えを
巡らせて、大森は渋々美和に従うことにした。美和は
喜んだ。
表情を硬くし、順番を待つ間、美和は大森の手を握
っていた。大森はこれから展開する人生未体験ゾーン
のことを思い、手を握られていることも意識にないほ
どだった。大森の一番の恐怖は車両が最終段階で三回
転することだった。瞬時であるが三回、車両が逆さま
になる。車の勢いが万有引力の法則を凌駕して、頭か
ら落下することは物理学的計算上ないのだろうが、し
かし、その回転ということが、大森の過去の体験には
ないことであるから、想像の域を超越している。一体
どう思考して予測していいのか皆目検討もつかない。
「それは逆上がりのときと同じです。あれがすばやく
繰り返されるんですね。慣れるとそれがたまらなくて、
子宮にびーんと響くような快感なんです」
逆上がり。実は大森は小学生時代とうとう逆上がり
ができないまま過ぎてしまっていた。
放課後残されて、熱心な女性教諭に指導を受けたが、
仲間の三人は皆努力の甲斐あって回転に成功し、達成
感を味わったのであるが、大森だけは最後まで尻が上
がらず、見苦しく泣き始めた。女性教諭は厳しく叱責
したが、大森は幼児のように泣きじゃくり、この難事
から逃れることを求めた。「また明日」と約束させら
れたが、それから一週間学校を欠席して、とうとう逆
上がりはできぬまま過ぎてしまっていた。だから、逆
上がりに例えられてもわからないのだ。
順番が近づくほどに大森の心臓は太鼓のように鼓動
して、美和の手を振り払って逃げようという衝動に駆
られた。しかし、それを察知したのか美和は一層強く
大森の手を握り、「大丈夫、大丈夫」と囁いた。顔は
引きつり、何を話しかけられても返事ができなかった。
車両がやってきて、乗り終えた乗客たちが、口々に興
奮した感想を述べながら降りてきた。大森は彼らが無
上に羨ましく思った。戦争から復員した兵士のように
思った。自分はこれから出征である。命の保障はない。
いや、事故の起こる確率など〇パーセントに近いから、
しっかり保障されているのだが、万が一ということも
ある。危険にさらされるのは事実で、その怖さが真に
迫っているから受けているアトラクションである。昔
は子供だましのような怖くもなんともないゆるい乗り
物がほとんどだったが、近年は刺激が徹底している。
半端のスリルではない。子供どころか大人も怖がらせ、
小便をちびるくらいは当然としてパンツまで売ってい
る。人間には怖いもの見たさという欲望は確かにある。
皆が騒ぐ体験を一度は自分も味わってみたいと思う。
しかし、心臓疾患のある人や幼児は遠慮するように注
意書きがしてある。そこに高所恐怖症は書かれていな
かったが、自分で耐え切らないと判断すれば乗らない
ほうがいいのでないか。乗って発狂したらどうするの
か。廃人になってしまったら自己責任といわれても仕
方がない。大森は左様なことを思考し続け、とうとう
車両に乗り込む寸前になって、
「やっぱり止めます」
と言い出した。
「え、ここまで来て」
「どう考えてもダメです。僕は病気なんだから」
「大丈夫ですって、これに乗ればそんな精神的なもの
はいっぺんに吹き飛んでしまいますよ」
「耐えられません。気が狂いますから」
「そんなことないですよ、さ、乗りましょ」
「いやです」
「どうされますか。止めますか」
係員が尋ねてくる。
「あ、大丈夫です。乗りますから」
美和には大森をホテルまで連れて行くという使命が
あるから、簡単には妥協できない。
「乗りましょ」
「いやです」
「乗ってください」
「いやだ」
「乗って」
「だめ」
「乗りなさい」
「いやだ」
「乗るの」
「いやだ」
とうとう美和は声を押し殺して、
「乗れっつーてんだろうが、乗れ。がたがた言って世
話焼かせんじゃねぇよ」
ヤンキーの本性をむき出しにして、大森を押して座
らせた。
大森は驚いて何も言えなくなった。般若の面のよう
になった美和はジェットコースターよりも恐ろしいと
思い、大森はおびえて彼女を見た。小学校時代の、泣
いている大森を叱責した女教諭を思い出していた。し
かし、美和はすぐにまた元の顔に戻って、
「ごめんなさい、無理に乗せて。貴方とこのスリルを
どうしても共有したいと思ったんです。許してくださ
い」
美和はまた大森の手を握って「大丈夫ですよ、私が
一緒ですから」と腕を擦った。大森はジェットコース
ターと怒った般若のような美和の恐ろしさ、そして腕
を撫でられる優しさとで頭が混乱して、もはや主体を
放棄して、美和とこの複雑な行程を進もうとする車両
に五体を預けるより他なかった。たとえ落下しても美
和がその肉感的な体で痩せた大森を防御してくれるか
もしれないし、あの世に行くことになってしまっても、
この女とともに肉に包まれて行くならば耐えられるか
もしれない。
車両は四十五度くらいの勾配でカタカタカタとゆっ
くり上っていく。その先に肺腑をえぐるような落下が
ある。大森は固く目を閉じて前の座席の背もたれに付
いた握り棒を固く握り締めた。これくらい強く握れば、
小学校のとき逆上がりができたかもしれない。目を閉
じて全身を硬くして、足を踏ん張っていれば、この難
事は耐えられる。時間の経過を辛抱強く待てばよい。
特攻隊ではないんだ。敵艦に突っ込んで機体もろとも
粉砕されてしまうわけではない。
「この緊張感がたまらないんですよね。さあ、頂点で
すよ」
車両は一瞬止まったように思われた。故障かもしれ
ない。「助かった」と思った次の瞬間、ガラガラガラ
っと凄まじい音と暴風の中に投げ込まれ、肉体から魂
が遊離するような感覚の中で訳がわからくなり、「き
ゃーきゃー」という美和の声を聞いたのを最後に大森
の意識はそこで途切れた。突然映像を失ったテレビ画
像のようになって、気がついたときは、終点に着てい
た。覗きこむ美和の美しい顔があったがそれがだれな
のかしばらくわからなかった。
「大丈夫ですか」
大森はそこがこの世なのかあの世なのか、一体自分
はどこで何をしていたところのなのか、思い出すのに
三十秒以上かかった。そして股間が濡れているのに気
付いた。半径七センチくらいの濡れた円が股間にくっ
きりと滲んでいた。
「あっ」
「すいません。おしっこが洩れたみたいです」
「大丈夫、大丈夫、さあ、立てますか」
どこまでも美和は優しかった。美和も少し洩らした
のだと言って二人でパンツを購入して、大森はトイレ
で下着のパンツと小便の滲んだハーフパンツを手で洗
い、履き替えた。
遊園地を出て車に乗り込むと、
「怖かったんですね、本当に。ごめんなさい」
そういうと美和は大森の眼鏡をはずし、唇に吸い付
いてきた。
「かわいい人、ゆるい人・・」
大森は遊園地近くにある「ヴィーナスの囁き」とい
うラブ・ホテルに連れていかれた。大森の意思という
のはほとんど無視され、ジェット・コースターに付き
合ってくれたのだからその返礼に身体を許すというの
が、美和の大義名分だったが、別に大森はこのまま別
れて帰宅しても不足はなかった。こんな美人と遊園地
でデートできただけでも満足である。こんな美人の身
体も自分の好きにできればそれはいいことだろうが、
童貞でその手のホテルに入ったこともない大森はこれ
もビッグサイクロン同様どちらかというと遠慮したか
った。ジェットコースターは全行程を外観できるが、
ラブホテルは、ベッドと風呂があることくらいはわか
るが、そこで何をどうしてよいかの段取りが皆目わか
らない。女の身体もよくわからない。自分の身体も裸
の女を前にしてどうなるのかよくわからない。前が固
くなることはわかるが、その先それをどうすればよい
か、学校の理科で習った知識では覚束なかった。お互
いに滑らかな液体を分泌してスムーズに事は運ぶのだ
ろうが、経験がない者には、大学受験よりも難しいこ
とに思われた。
「あの、僕、別に今日じゃなくても・・・」
「わたしは約束は守りますよ。あんな怖い思いをして
おしっこまでもらして耐えてくれたんですから、それ
に見合ったお礼をしないと私の気が済みませんから」
「僕は、いい経験をしたと思ってますから、その見返
りをほしいなんて少しも思ってませんから・・」
「それは貴方の考えで、わたしはお礼をしたいんです
から、黙っててください」
それ以上言うとまたヤンキー口調と般若の面に豹変
すると恐れた。黙って従う外ない。車を降りて、美和
の後についていった。誰もいないフロントで碁盤の目
ような部屋の表示が光っている。部屋の写真の下に値
段の数字が記されていた。美和はすぐに部屋を選んで
慣れた手つきでボタンを押した。部屋番号を記した紙
が出てくる。
「いい部屋が空いてました」
エレベータに乗り込む。紫色の淡い照明で美和がひ
ときわ妖艶に見える。美和にはここはホームグラウン
ドなのだろう。しかし、大森にとってはアウェイで、
緊張して、顔がこわばり、心臓が早鐘のように鼓動し
ていた。しかし、肝心なところは固くならずに萎えて
いくばかりだった。
部屋に入るとすぐにまた美和が大森の首に腕を回し、
唇に吸い付いてきた。舌も入れてくる。小型の爬虫類
が大森の口の中に浸入してくるようだった。
「今日はありがとうございました。怖かったでしょう。
お礼をしますから」
美和は背中を向けるとさっさと衣服を脱ぎ始めた。
下着もはずしてしまうと浴室に入っていった。大森も
これは裸にならなければならないと思い、シャツを脱
いだ。
どれだけ大森が無様な思いをしたか、三回ほど美和
は般若の面になり、ヤンキー口調で大森やその下半身
を罵った。極度の緊張のため、大森の下半身はこすっ
ても叩いても硬くならなかった。それでもようやく男
らしくなったのは、美和に尻を向けられ、尿を顔面に
受けたときだった。その機を逃さず、美和は大森に跨
って、彼女の使命を果たすことに成功した。大森はや
はりジェットコースターの時と同様、しばらく廃人の
ようになって動かなくなった。美和に頬をぶたれ、よ
うやく正気に返った。目から涙がこぼれおちていた。
まるで処女が強姦されたようだった。
それは、確かに強姦に近いものがあった。無理やり
に世間慣れ、床慣れしたヤンキー娘に世間知らずの秀
才童貞大森は強姦されたのだった。
「先生、デートどうだった？」
琢磨は美和からすべて報告を受けて知っていたがあ
えて尋ねた。恐らく大森は屈辱で、そんなことを教え
子に知られたら家庭教師といえども立場がなくなると
考えているだろう、美和を恐らく憎んでいるだろうと
思った。
「いやー、いい経験をしたなー。ありがとう。君には
お礼を言わなければならない。あんな世界があるなん
て人生は本当に深いものなんだね」
「なに、それ。マジで」
まったく意外な返答だった。頭のいい人間はわから
ない。ポヂティブシンキングというやつだろうか。
「君にぜひ頼みがあるんだけどね。僕は一目ぼれって
いうのか、もう美和さんを好きになってしまって、あ
れからあの人のこと考えばかりいて、夜も寝られない
んだ。ぜひまた会いたい。交際したいと思うんだけど、
伝えてくれないかな。メアド教えてくれてもいい。僕
から連絡したいから」
「え、好きになったの？」
「そうだよ」
「でも、かなりヤンキーだよ。煙草吸うし、男も百人
以上は知ってるはずだよ、いいの」
「いい」
「酒も飲むよ。酔うと車のフロントボディに乗って躍
ったりするよ」
「明るくていいと思う」
「気が強いよ。男と喧嘩して股ぐら蹴って泣かせたり
するよ」
「頼もしくていい。僕にはそれくらいの人がいい」
「まぁ、料理はうまくて、言うことを聞いていれば優
しいけどね」
「僕は言うことをきくから、どこまでもついていくか
ら、ねぇ、頼む。美和さんと付き合えるように便宜を
はかってくれないかな」
「いいけど、先生、かなり変わってるね」
「それは昔から言われ続けてきた」
「あんな女がいいんだね」
「君だってよかったんだろう」
「ほんの一時ね。でも、とてもついていけねぇ」
大森は一途に頼み込んでくる。承知しないではいら
れないような強いものを感じて、これは二人には縁と
いうものがあって宇宙の法則によって結ばれることに
なっているから、人を動かさずにはおかないのだろう
と琢磨は直感的に感じて承知した。
しかし、美和は頼まれて遊び半分でインテリ男をか
らかっただけで、大森の真剣な思いなど迷惑するだろ
うと思った。
「あのさ、この間の先生さ、美和のことすっかり気に
入っちゃって、ぜひ付き合って欲しいって言ってるん
だけど、美和はどう」
「マジで。バカじゃないの。自分のことわかってるの
か。あの面で、あのダサい格好で、あんな男百年経っ
ても結婚できねーよ。ふざけるなっつーの。冗談じゃ
ねぇよ」
取り付く島もなかった。しかし、それは無理もない。
しかし、なんと伝えようか。一途な大森は傷つくだろ
う。純情な先生は自殺するかもしれない。しかし、ウ
ソを付くわけにもいかない。美和は嫌がっているんだ
から、婉曲的にでも伝えるしかない。
「先生、美和はね、先生はとてもいい人で私のような
ヤンキーにはもったいない人だと言ってたよ。気持ち
は嬉しいんだけど、今はそんな気にはなれないって言
ってた。でも、またいつかお会いしたいと言ってたよ」
琢磨は懸命に言葉を繕ってやんわりと言ったのだが、
大森はきょとんとしている。
「え、君は何を言ってるの。今日、美和さんから電話
があって、また今度の日曜日に会うことになってるん
だよ。どうやら、僕の気持ちが通じてオーケーだった
みたいだね」
「何、それ？ なんで番号わかったの？」
「僕の番号はメモ渡してたから。君には本当に感謝し
ている。いい人を紹介してくれたね。僕はたぶん美和
さんと結婚することになると思う。僕の直感はたいて
い当たるからね。美和さんを見たときに脳の中でバリ
バリとショートするような音がしたんだけど、決定的
な出会いをしたとき必ずそうなるんだね。僕がＮ大の
門をくぐったときもそうだった。僕は必ずこの大学に
進学することになると直感したんだね」
美和は大森を受け入れたならなんであんなことをオ
レに言ったんだと琢磨はいぶかしく思った。
「どういうことなんだよ、美和。大森先生と今度会う
約束したそうじゃないか。断るんじゃなかったのか」
「え、何？ 約束なんかしてないよ。電話で話もして
ないって。あんなキモ男とあたしが付き合うと思う？
白昼夢でも見てんじゃねーの。ムカツク」
「大森先生は確かに美和と約束したと言って喜んでた
けどね」
「なんかおかしいと思ったけどさ、完全にイカれてる
よ、あのフニャチン男、マジやべーよ」
どちらかがウソをついている。二人とも本当のこと
を言っているならば矛盾するし、二人ともウソをつい
ていてもやはり辻褄が合わない。情けなさそうでプラ
イドは高い大森がウソをついているのだろうと琢磨は
推察して、
「先生、ウソをついてんだろ。美和は約束なんかして
ないって言ってたぞ。振られたなら正直に認めた方が
いいんじゃないのか」
「何言ってるんだよ。僕は美和さんと今度の日曜日に
二回目のデートをすることになってるんだよ。美和さ
んは駆け引きや騙しあいの世界でいろいろやってきた
けど、僕のような飾らないそのままのピュアな世界も
あることを知って、本当に救われたと言って泣きなが
ら電話で話したんだ。私も貴方のような世界に住みた
い、こんな私でよければつきあってくれませんか、と
言ったんだよ」
大森のその目はウソをついている人間の目ではなか
った。そこまでウソを突き通しても何も得るものはな
い。プライドを保つといっても、ここまでさらけ出し
ておいてプライドも何もない。この人はゆるい人だ。
力を抜いて生きている。
「じゃあ、ウソをついているのは美和か」
琢磨は今度は美和を突き詰めた。
「悪い、悪い。なんかさ、あたし、格好がつかないじ
ゃん。あんな男に引かれたなんて。知られたくなかっ
たから。しばらくセンセーと付き合ってみるから。琢
磨も応援して」
美和は認めた。
大森先生は私生活ではバカにしたくなるような面も
あったが、真面目なことは一貫していた。初恋の相手
となった美和を絶対的に信頼して、結婚を迫ろうとし
ている。遊び心というものはなさそうだ。美和はそう
いう大森という存在がカルチャー・ショックで、ピュ
アに真っ直ぐ迫ってくる大森に新たな人生の方向性を
見出したようだった。
家庭教師としての大森は厳しいというわけではなか
ったが、やはり、一本筋が通っていて、大森の指示ど
おりにやっていると成績はみるみる向上していった。
琢磨の父母は成績を伸ばした大森を絶対的に信頼して
いた。まったくできなかった倅が途端に成績を伸ばし
たため魔術でも見る思いがして、大森をマジシャンか
新興宗教の教祖のように崇めたて、新築する家の場所
とか、投機の相談までしていた。
「さぁ僕は素人ですから・・」
といいながらも陰陽道など持ち出して大森は語り出
すのでますます両親は大森を信頼して、大森の言うと
おりに、新築の家のことを進めたりしていた。
琢磨も彼を信頼する面もあったが、美和との間を取
り持ったという自信から大森には何でも遠慮なく言う
ことができた。
「先生、今日はなんか乗らないよ。勉強したくない」
「そうか。じゃ、キャッチボールしようか」
「あ、いいね」
キャッチボールを提案する割には下手くそで、グロ
ーブからは頻繁に球がこぼれた。バッティングセンタ
ーに行ったこともあったが、大森のバットには九十キ
ロの緩い球がかろうじてチップするくらいで、あとは
空振りばかりしていた。ジャストミートしてバカスカ
バットに当てていた琢磨は爽快な気分になったが、大
森はさぞストレスを溜めていると思いきや、
「いやー、楽しいな。いい運動になるね」
などと言っていた。
一体この人に生活力というものはあるのかないのか
よくわからない。無人島に放り出されてサバイバルで
生きていくとしたら、真っ先にヘタれる人だろう。し
かし、現代人でサバイバルに耐えられる人はそういる
ものではない。文明の中で皆脆弱になってしまってい
る。しかし、魚をとって食べたり、動物を捕らえて肉
を食べたり、慣れていないだけで空腹になってくれば、
果敢に食料を求めて行動するだろう。大森も頭を使っ
てなんとか生存を確保する人かもしれない。柳のよう
にフレキシブルに困難には対応して、順応し、結構自
分の意志を貫いてしまうタイプの人かもしれない。水
のように、方円どんな器にも従いながら、一点に集中
すれば鉄を切り裂き、岩を穿ち、津波のように街を根
こそぎ流すほどの破壊力を持つ。そういう人なのかも
しれない。一見弱そうで小学生にもバカにされるよう
な無意志、無目的の優柔不断の人に見えながら、内に
鋼鉄の意志をもって、人に警戒感を持たせずに果敢に
生きていく人だとすれば、大森は尊敬に値する人では
ないか。世間ではかかる人を「ゆるい」人という。戯
画化してぬいぐるみにすれば女性や子供に愛されるマ
スコットキャラクターになるような人である。滋賀県
彦根市の「ひこにゃん」、熊本の「くまモン」、福岡
の「モモマルくん」、これらは見ていて全く害はなく、
警戒感も必要なく、叩いたり、後ろから蹴ってもびっ
くりするだけで許してくれそうである。
ディズニーランドのミッキーマウスはいつも笑顔で
いるが、修学旅行の中学生に集団で暴行を受け、池に
突き落とされた。それでもミッキーの顔は笑顔のまま
で、池の中に倒れていた。さすがに夢の国ディズニー
ランドもこれには腹を立て、その中学校の入園を以降
禁じた。マスコットキャラクターに入っているのはバ
イトの学生が多いが、悪童たちの度重なる悪戯につい
にぶち切れてしまったバイトは後ろから蹴った子供を
追いかけて首根っこを捕まえて揺すっているところが
ユーチューブに投稿されていた。
ゆるい人は愛らしいが、凛としたところに欠けるた
め、このようにバカにされ、いたぶられ、いじられる
ことがある。
おそらく大森はそれがわかっているために、美和の
ような現実的に逞しい女を必要とするのであろう。美
和は、やさしい如来や菩薩の周囲をガードする四天王
のように大森を守って、そのゆるさを守る役割がある
のであろう。
それならば、美和が守ろうとする大森のゆるさの価
値とは何か。単なる憐憫や母性本能からだけではない。
「琢磨君。人間はね、皆すばらしい宝をもってこの世
に生まれてきているんだ。人間の能力というのは無限
でね、出せば出すだけどんどん泉のように湧き出てく
るんだよ。例外は一人もなくて、天才と凡人に分かれ
ることはないんだけど、天才と言うのは人一倍努力を
する人でね、努力をするとまたどんどん才能が磨かれ
るからますます天才を発揮することになる。凡人はあ
まり努力をしないから、宝を蔵の中にしまっておくよ
うなものでね。もったいないことをして、自分は才能
がないと信じてしまっているだけなんだ。琢磨君、君
は素晴らしく成績が伸びたね。それは君の中に眠って
いた才能がほんの少しだけ動き出したからだよ。まだ
まだ全開なんてものじゃない。ま、一％未満だと思う
けど少し試運転をやり始めたくらいだからね。これか
ら君はますます努力をして、それが人々の反応を呼び
出すとますます勢いづいて、人々から喜ばれ、感謝さ
れ、人を救うようにもなると全開でフル回転するよう
になる。そうなっても、そうだね、三％くらいかな、
才能が働き出したといえる。とにかく無限だから、天
才でもまだまだ力の全てを出し切っていない。神様か
ら与えられた能力のほんのわずかしか使い切ってはい
ない。琢磨君、君はこれから、自分の進むべき道の方
向性を模索することになると思うけど、君は僕に美和
を紹介してくれたり、何かと世話を焼いてくれたから、
何か愛他的な方面の職業、例えば、弁護士だとか、医
者だとか、教育者だとか向いているのではないかと思
う。もっとも人に親切にすることは、人間の基本だか
らどんな職業にも求められるけどね。人間は人を相手
にしないと生きていけないのだから、いつも必要なこ
とは優しさや思いやりで、これさえあればどんな世界
でも人とうまく交わってやっていけるからね。君は恵
まれた個性を既に現わしているといえる。だけどもね、
それで安心しないで、自分をもっともっと掘り下げて、
本当の自分を突き詰めて開発してもらいたいと思うん
だね。天才は努力する、天才ほど努力する、この言葉
を覚えておいてほしい。天才はなんか何もしないで、
何かをし出すと俄然神がかり的な仕事をする人のよう
に思われているけど、そうじゃなくて、誰にでも天上
界から降りてくる天啓のような閃きは時々受けている
んだ。湯上りのときとか、夕方散歩している時なんか
にふといいアイディアが浮かぶことは誰にでもあるん
だね。天才といわれる人はそれを閃きのままで終わら
せないで大変な努力をして表現して、神業のような素
晴らしい作品や技を目に見える、音に聴こえる形で示
してくれる人たちなんだ。それはすごい努力をしてい
る。絶対に完全な形でこれを表現しないではおかない
ぞという執念を燃やしているからね。だからそういう
努力をして表現する可能性の高い人には天が選んで、
立て続けに啓示を送り続けるから、次々に素晴らしい
作品を生み出すことになるんだね。僕はベートーヴェ
ンの中期傑作の森といわれるころの作品群を聴いてい
ると本当に次々に神がかり的に作品が天下ってきたこ
とが実感できるね。しかもこのころベートーヴェンは
耳が聞こえなくなっていたのだからね。神業としか思
えないよ。
琢磨君、僕は君の紹介してくれた美和さんと結婚し、
ますます研究に力を注いでノーベル賞を獲得したいと
思っている。君も君にふさわしい人と道を見つけて世
の中に貢献する仕事に天才を発揮してもらいたい。君
は僕の希望でもあるからね」
大森のゆるさの奥にある本質、美和が守ろうとする
価値は以上のような言質に示されている。
こういう演説をたびたび聞かされた剛田琢磨は教師
となって、わが師大森の教えを自分に触れた全ての人
々に普遍化し、人々の才能が能う限り高いパーセンテ
ージで開花するように祈り導くのが自分の仕事と決め
たのだった。
大森は、研究者として、琢磨だけにとっては教育者
として、素晴らしい人なのだ。実生活ではダサい。先
生の本質を知らない人からはバカにされる。威厳なん
てものはない。ゆるキャラと同じで女性や幼い子供た
ちからは愛され、人の心を和ませるが、中学生くらい
の悪童には悪戯され、いじられ、後ろから蹴られたり
する。それでもミッキーマウスのように笑顔のままで、
宮沢賢治のように「イツモ静カニ笑ツテヰル」先生を
美和のようなリアリスティックに生きる女が大日如来
を守護する四天王のように堅固にガードしている。
高校生以上の男子はこれを無視するだろうが、なか
には琢磨のように大森の本質を知って信仰するくらい
に崇め奉る人々も出てくる。
世間一般にはゆるい人、ゆるキャラのような人と思
われる大森とはそういう人である。
剛田琢磨はその弟子として今年教職に就いたわけで
ある。
（了)
月刊ＷＥＢ風 ２０１２年７月号 通巻第４０号
［原稿用紙３２枚］
