金と体（３）
大堀敏靖
小路先生は佐藤を調理場で誘って、ターキッシュ・
コーヒーを目前で作ってみせてくれた。
「これはジェズベといって、ここに小麦粉のように細
かく挽いた粉と砂糖を少々いれます」
先生は柄杓のような真鍮の抽出器具にコーヒーの粉
とざらめの砂糖を入れた。
「あ、あなたは佐藤さんでした。はははッ。砂糖はや
っぱりお好きでしょう」
佐藤は苦笑いをする。
「次に水を入れて煮立てます。このように泡が立ちま
すがトルコでは泡は捨てませんぞ。掬ってカップにい
れておきます。煮立って吹き零れそうになったら完成
ですな。さぁ、あちらでどうぞ」
ピスタチオと共に佐藤の前にターキッシュ、つまり
トルコのコーヒーが供される。一口飲むと粉も口の中
に入ってきた。
「ドリップではありえないことでしょうが、粉も飲む
ことになります。しかし、日本のお茶もそうでしょう。
もう少しすればもっと沈殿しますぞ」
濃い味を想像していたが、意外と淡白であっさりし
ている。
「うーん、なかなか、いけるかもしれせん」
「わたしは、ここ三月くらいはそればかりですな。も
ともとは日本茶のようにこういう飲み方だったんです。
ドリップはまだ歴史が浅い」
「コーヒー本来の味をストレートに飲んでいるような
気がします」
「そうでしょう」
小路先生は佐藤の反応に満足しているようである。
「ときにあなたの話は今どれくらい進んだのでしょう
かな。私はこのように暇を持て余している身で一向に
差し支えないのですが、そろそろ日も暮れようとして、
帰りが遅くなるのが心配ですが」
「まだ半分くらいです。僕は一向にかまいません。九
時の新幹線に間に合えばいいですし、間に合わなけれ
ばホテルに泊まればいいんですから」
「まだ、半分。ずいぶんと長いお話ですな」
「申し訳ありません。僕は話べたでうまく要領よく話
せないんで、余計なことまで話して、時間がかかり過
ぎるんでしょう。でも、こんなに人に話をしたのは初
めてで、もっと話したい気持ちが強まっています。不
思議です」
「私は人の話を聴くのが大好きなんですな。特に、愚
痴や悪口が好きなんです。もちろん誰かを称賛する話
も悪くない。飾り立てた話やおべんちゃらはあまり聴
きたくないですが、人が喜ぶなら、どんな話でも聴く
人間なんですな」
「だから、皆ここにやってくるんでしょうね。コーヒ
ーもさることながら、やはり先生の人柄でしょう。ど
んな人間も受け入れて下さる包容力を感じます。どん
なことを言っても否定されることはないという安心感
があります」
「いや、まちがった考えや生き方は否定しますぞ。人
間は誠実に生きるべきだというのがわたしの持論です
から、不誠実な人は叱ります。しかし、誠実に生きよ
うとして、道を外れてしまった人もいてそういう御仁
には心から同情します」
「もしかして、僕が話していることは叱られる生き方
かもしれません」
「今のところそんなことはありません。双子の姉妹と
仲良くなったということで、不誠実でも犯罪でもあり
ませんぞ」
佐藤は少し安心した。
「おいしいコーヒーでした。ごちそうさまでした」
カップの底にはべっとりと濡れた粉が残っている。
「占いをしましょう」
「占い？」
「トルコではコーヒーを飲んだ後占いをするのですぞ」
小路先生はカップの上にソーサーをかぶせ、それを
カップと一緒にひっくりかえした。しばらく待ってま
たひっくり返し、ソーサーをはずした。下に溜まって
いた粉が流れている。この粉の流れ方で占いができる
のだという。
「おお、飲み口のほうに流れていますな。これは直感
を過信せず、結論を急がずじっくりと考えるのがよか
ろうということですぞ」
「直感を過信せず、じっくり考えろ・・。うーん、あ
たっているかもしれないな」
「そうでしょう。こういうのは意外とあたるもんなん
ですな」
花子を風俗マガジンで見つけて、そのカメラ目線に
吸い寄せられて、気になって、何度もその写真に戻り、
電話して指名し、相手をしてもらったのは直感だった。
花子の目線は明らかに佐藤に向かって語りかけていた。
「貴方の傷ついた心を癒し、その心の空洞を埋め、包
み込んでわがままをゆるして、好きなように放出させ
るのは私しかいません。来て」
まさに直感で、それを信じ、しかし、それが当たっ
て、相性が合い、三年もの長期に渡って通い続けた。
そして、店を辞めた花子は双子の姉蝶子を紹介し、蝶
子ともほとんど花子と変わらない、満足のゆく情交が
できた。直感は当たっていた。完全に若菜のことは忘
れ去ることはできている。
だが、占いはその直感を過信するなと警告している。
そして結論を急がずじっくり考えよと言っている。
それにしても結論とは何だろう。じっくりと何を考
えればいいのだろう。
帰りに送っていく車の中でも蝶子はよく話した。美
容院があると、
「あんなガラス張りの丸見えのところでよくやっても
もらえますね。わたしなら絶対いやだけど」
牛丼店があると、
「あそこよく行きます。安いし、おばちゃんがサービ
スしてくれるんですよね」
などと店々にコメントをつけた。そしてよく笑った。
天神様まで送ると、
「またメールしますね。ありがとう」
と車を降りた。花子より愛想がいい。未婚ながら妊
娠して子どもを産めたのはこの愛想の良さ、社交性が
あったからだろう。花子にはそれが欠けている。犬よ
りも猫を愛する男でないと花子を愛し続けることはで
きない。そうすると六十代の二人のじいさんと佐藤は
猫を愛する愛深い人間ということになるが、佐藤には
そんな自覚はない。これから姉の蝶子の方がよくなっ
てしまうかもしれない。
姉を紹介してくれた花子に報告とお礼をすべきだと
思ったが、普通の紹介ではない。男あるいは客を一人、
姉妹とはいえ、取られたことになるのであるから、女
としてあるいは娼婦として慙愧に堪えない思いでいる
かもしれない。そう思って打ちそびれていると、やは
り気になっていたのだろう。花子からメールが来た。
「帰りも姉を送ってもらえましたか？」
花子はストレートに意思表示しない。事務的な内容
にすり替えて探りをいれてくる。
「送りましたよ。お姉さんも美人で、トークも楽しか
った。感謝してます」
「そうですか。ありがとうございます。姉をよろしく
お願いします」
「花子とはもう会うことはできませんか」
「そんなことはないですよ。機会があればまた」
佐藤はそれから、双子姉妹同時に相手をできる日を
夢想した。そして店を介さずできるだけ安価に遊べる
ことをまだ模索していた。愛想のいい、蝶子ならば仲
良くなれば、恋人のようにタダで会ってくれるかもし
れない。
そこで佐藤は蝶子にメールを何度も送って気を引こ
うとした。それは人様に見られたら恥ずかしい、特に
会社に洩れるようなことになれば、社会的地位が危う
くなるような内容だった。
「この間はよかった。花子より優しくて、僕は蝶子に
はまりそうです。好きになっていいですか」
「毎日蝶子のことを考えています。特にお尻が忘れら
れません」
「蝶子のおっぱいに早く帰りたい。蝶子は僕のタイプ
です」
こういうメールに対して、花子なら確実に無視する
のであるが、姉の蝶子は違っていた。幼い弟をあやす
ようにいちいち応じてくれた。
「また会いましょうね。まだ一度しか会っていないの
に、私のこともよくわからないでしょう」
「私の体、気に入ってもらえてうれしいです。これか
らも愛してください」
「私の胸でよければいくらでもどうぞ。末永くお付き
合いくださいね」
蝶子の方では完全にこの客は自分のモノになったと
信じたのである。これはあとで花子から解説してもら
ったことである。蝶子は佐藤のことをいいカモができ
たと思って、トコトン金を吸い取ろうとしたかもしれ
ない。
花子の方からメールが入るようになった。
「今度の月曜日会ってもらえませんか」
まだ一週間も経っていない。ただ会うだけならいい
が、毎回二万円では月八万から十万かかる。
「花子の時も月一回だったから、そんなには会えませ
ん。もっと安くなれば別ですけど」
「いくらくらいなら」
「一万では」
「それはちょっと。ホテル代は私が出しますから、二
万でだめですか」
「考えます」
「わかりました」
花子なら、気に食わない内容だと返事も来なくなる
が、蝶子はどんな内容でも最後まできちんと返答する
礼儀があった。
「恥ずかしい話ですが、部屋代もままならない状態な
んです。会ってもらえませんか」
また二・三日してメールが入る。蝶子は自分ことを
好きになったのかもしれない。蝶子こそ自分のような
男がタイプなのかもしれない。しかし、部屋代も払え
ないほど窮迫している娼婦はどうなんだろう。あまり
客が付かないということである。三十を越えて決して
若くはない。同情を引こうとして部屋代も払えないと
言っているのだろうか。
「ごめんなさい。そんなに頻繁には会ってたらこちら
も金が続きません」
会えないこともなかったが、相手の術中にはまるの
もいやである。
「わかりました。それでは来月」
佐藤は、姉の蝶子だけをそれ以後相手にしていたか
というとそれでは物足りなかった。花子にもメールを
して、姉妹同時に自分のものだということを確認しよ
うとした。実際はどちらも少しも自分のものではなく、
姉妹のカモ、金づるとなっていただけの話かもしれな
い。それをわからない佐藤ではなかったが、金と体の
奥に某かのスピリチュアルが介在することを期待した
のである。
「元気ですか？」
「元気です」
相変わらず素っ気ない返信しか来ない。花子には用
もないのにメールを打つのは無駄であることがなかな
か佐藤はわからない。
「胃は大丈夫ですか」
「ふつうです。姉が仕事が暇みたいですからお願いし
ます」
「え、いいけど花子はダメなんですか」
「体調がイマイチですから。姉が困っているみたいな
んでお願いします」
蝶子のことばかり言う。佐藤は花子に避けられてい
るのかと訝る。
「どうして蝶子のことばかり言うんですか。ぼくは蝶
子を紹介されてなんかハメられた様な気がする」
「どういう意味ですか？ いやなら入らなくて結構で
す！」
それまでの佐藤なら花子を怒らせてしまってはいけ
ないと素っ気ないメールにも我慢を重ねてきたが、今
は蝶子を紹介されて、スペアが用意されている。強気
に出ることができる。
「なんでそんな無愛想なのかな。もういいッ。もう花
子は相手にしない。蝶子だけにする！」
と、それまでの憤りを一挙にぶつけた。
「はぁ？ お姉ちゃんのことハメられているみたいだ
からって言われたからそう言っただけです。どうぞ姉
だけにしてください！」
修羅場を幾度もくぐってきた気の強い女である。客
と喧嘩して塩をうしろから投げつけた花子である。姉
ともけんかして、家中のものを壊し、窓から飛び降り
て恥骨を折った花子である。酒は姉よりも強い。煙草
は一日三箱は平気で吸う。佐藤のようなひ弱なインテ
リに負けるような女ではない。
佐藤のほうでは、とうとう花子にそのようなメール
を打って、溜飲が下がる思いがしたが、これで花子を
失うことになる。せっかく双子姉妹と交互に違いを味
わいながら情交を結べると思った矢先こんなことにな
ってしまった。余計なメールなど打たなければよかっ
た。
佐藤はすぐに蝶子にメールして、事の次第を報告し
ようとしたが、どういうわけか、送信しても撥ね返っ
てきてしまう。幾度やっても、送信不能だった。
怒った花子が姉に、「もうあんな野郎は相手にする
な、着信拒否にしろ」と言ったかもしれない。これま
ではそんなことはなかったのに急に送れなくなったと
いうことはそういうことだろう。
その日はとうとう蝶子に連絡がつかなかった。佐藤
は暗然とした。そして次の故事成語が彼を嘲笑するよ
うに向こうの方から回転しつつ近づいてきた。
「二兎を追うもの一兎をも得ず」
双子を自分の物にしたと思った途端に心の緩みから
二人とも逃すことになってしまった。三年来の付き合
いの花子とはけんかした。蝶子は一回きりだが、連絡
がとれなくなった。オリジナルとコピーのようではあ
るが、二人の女を同時に逸することになってしまった。
これは、若菜と別れたときくらいほどではないにして
も相当な打撃となった。別の商売女を探すといっても、
花子を指名し続けて築いた三年の信頼と実績、そして
体の相性、双子姉妹という稀有なシチュエーションは
そう簡単に他で補えるものではない。
眠れぬ夜を明かした佐藤は、翌朝すぐに花子に詫び
のメールを入れた。
「昨日はごめんなさい。反省しています。花子のため
に畑にじゃがいもを植えました。六月には収穫できま
す」と畑の写メも添えた。当然返信はなかった。
こういう場合、女を失いたくなければ、土下座して
でも泣き喚いてでもプライドも何もかなぐり捨てるこ
とが大事なのだということは若菜から教えてもらって
いた。男の自分に対する本気を女は確認したいのであ
る。
花子や蝶子とて馴染みの客を一人失うことは、収入
減となって痛手であろうから、詫びられれば考えるだ
ろう。
ところが、その夜、姉の蝶子にメールするとどうい
う訳か送信ができて、間もなく返事が返ってきた。
「届いてますよ。私の携帯、ときどきおかしくなって
メールが受けられなくなります。ごめんなさいね」
佐藤の心は一挙に明るくなり、これで少なくとも蝶
子は確保できたと思った。元気が回復した佐藤は、昨
日の花子とのやり取りを蝶子に報告し、どうも花子は
君とは違って無愛想で、返事も返ってこないことが多
いと訴えた。
「妹は確かに今体調が悪いようです。忙しかったり、
眠かったり、返せない時もあると思います」
妹をかばっている。
「それにしても蝶子は優しい。不本意な話になっても
ちゃんと返してくれる。僕は蝶子が好きになりそうだ。
好きになってもいいですか？」
「まだ一回しか会ってないじゃないですか。私のこと
もよく知らないでしょう。もっと回を重ねてからね」
佐藤は調子に乗って蝶子に迫るメールを送ったが、
これが全て花子に筒抜けになっているとは知らなかっ
た。
一週間後、ジャガイモを植えた畑に水をやっている
ところに、携帯の着信があった。登録していない番号
である。間違いだろうと思って出ずにいたが、何度も
かけてくる。仕方なしに出ると低い女の声で、
「佐藤さん？」
という。間違い電話かと思ったが、やがて電話で話
したことはなかった花子だと気がついた。
「はい」
「おい、佐藤、蝶子と会うことにセコく値切ろうとし
ただろ。それにあたしと蝶子と両方にいい顔して、調
子に乗るんじゃねえよ」
元ヤンキーの本性剥き出しのしゃべり方である。
「値切るって、でも結局二万で落ち着いたし・・花子、
怒ってるの」
「怒ってなんかないよ」
「怒ってるよ。そんなしゃべり方して。オレなんか悪
いことした？」
「別に、してないでしょう。でも値切るのは止めろ。
あたしにも蝶子にもいい顔して言い寄るのは止めろ」
「双子だから、なんか混乱して。蝶子とメールしても
花子とメールしてるみたいだし・・」
「あたしと蝶子は違う。人格が違う。関係ないんだよ」
「そうだろうね。わかってるけど、二人ともいいと思
うし」
「蝶子と会う約束してるんだろ。代るから」
何を怒ってるのかわからない。電話してきた理由も
わからない。蝶子になぜ代るのかもわからない。
「もしもし」
まったくトーンが違って穏やかで明るい声に代る。
「なんかよくわからないんだけど、怒ってるね、花子」
「ええ、まぁ、佐藤さんが私にメールでいろいろ言っ
てくださったことが花子にはちょっと・・」
嫉妬か。自分から姉を紹介しておいて、客が姉に靡
くと嫉妬するのか。なんと身勝手な生き物なんだ、女
は。蝶子もメールまで妹に見せてはいけない。妹を警
戒して書きたいことも書けないではないか。
「わかった。花子には僕から謝るよ。じゃあ来週ね」
「はい。よろしくお願いします」
花子に代る。
「花子さん。お姉さんは君に紹介してもらって、とて
も楽しい。メールにごちごちゃ書いたけどあれはちょ
っとふざけ過ぎた。ごめん」
「姉も佐藤さんのことよく知らないから、『好きにな
ってもいい』とか言われると困ってしまって私に相談
したんですよ。佐藤さん私にも同じこと言ったりした
でしょう。なんていい加減な男かと思ったんですよ。
もうそんなことは言わないでくれますか」
「わかった。控える」
「控えるじゃなくて、二度と言うな」
「わかった、言わない」
姉をいじめる不良少女たちに単身立ち向かっていっ
た花子である。姉を妊娠させたヤクザ男に談判に行き、
テーブルを蹴飛ばした花子である。五階から飛び降り
て恥骨を折っただけで助かった花子である。逆らわな
いほうがいい。
「じゃあ、蝶子を頼みます。困ってますから」
「はい。あ、花子にもまた会いたいから」
「機会があったら・・ですね」
わざわざ電話をかけてきたからには、よほど腹に据
えかねることがあったのであろう。やはり、佐藤が安
価に蝶子と遊ぼうとしたことや浮ついたメールを送っ
たこと、そして、過日の「もういい、花子にはメール
しない。蝶子だけにする」が応えたのだろう。姉蝶子
も佐藤に言い寄られたことを自慢気に花子に話したか
もしれない。花子には義侠心もあったかもしれないが、
嫉妬もあったのだろう。
そう思うことは佐藤には快かった。双子の姉妹が佐
藤を巡って三角関係になれば肉体が複雑にもつれるよ
うに精神ももつれ合って佐藤を締め付けるだろうから、
それは多少Ｍ気のある佐藤には快感だった。佐藤はそ
の日双子の姉妹と電話で会話できたことを思うと心の
底からこみ上げてくる快楽的な悦びに微笑を禁じえな
かった。初めて電話してくれた花子にはやはりお礼を
すべきだろうと佐藤は勝手に解釈して、
「今日は電話してくれてありがとう。また会ってくだ
さい」
とメールし、芽を出したジャガイモの写真も添付し
た。
やはり返信はなかった。返信はなくとも花子は受け
止めていることを佐藤はこれまでの経験則で知ってい
た。
ところがそれから二日後、蝶子と会うことになって
いる前日、花子からメールが来て驚いて開けてみると、
「二度とメールしないでください」
とあった。
やはり嫉妬して怒っている。でなければわざわざこ
んなメールを寄こさない。メールして欲しくないなら、
着信拒否にすればいいだけの話である。
「え、なんで。わからない。まだ怒ってる？」
明日蝶子と会うことが気に入らないのだろう。それ
ならばキャンセルすれば、納得するかもしれない。キ
ャンセルすれば、蝶子は怒るだろうから、花子の立場
がなくなり、撤回するかもしれない。
「わかりました。明日の蝶子との約束はキャンセルし
ます」
と再び送った。さすがに花子は慌てるだろう。「そ
れは止めてください。私が蝶子に咎められますから。
メールは今までどおりしてもらっていいです」と言う
ことになるだろう。
ところが、しばらくして来た花子からのメールは、
「ふざけるな。約束は約束だろ！」
という烈しいものだった。それから続いて蝶子から
もメールが来た。
「どういうことですか。私にことわりもなく、キャン
セルするとは」
花子はすぐに蝶子に連絡したのだろう。双子姉妹だ
から繋がっている。佐藤は二人と敵対する構図となっ
てしまった。
状況の打開を図るために、佐藤はまず、花子には、
「どうしてそういう言い方になるのかな。さっぱり訳
がわからないよ」
と送り、一方蝶子には、
「花子がもうメールしないでください、といってくる
ので、君に嫉妬してるんじゃないかと思って会わない
ほうがいいと思っただけで、会います。約束は守りま
す」
と、送った。
花子から返信はなかったが、蝶子から、
「わかりました。約束は守ってくださいね。私と妹は
別ですから」
と返ってきた。
関係ないといいながら、やはり繋がっているのが双
子の姉妹なのである。佐藤は一時慌てたが、これはお
もしろい愉快な関係ができたものだと喜んだ。
それから月に一度蝶子とは会った。八十分二千二百
円のホテルで、湯船に湯を張る間、蝶子のとりとめの
ない話を聞き、適当に相槌を打ちながらぼんやりと巨
大な画面のデジタルテレビを見て、飛び掛って吸い付
きたい衝動を佐藤は抑えていた。ベッドでは花子とほ
とんど変らない。
家庭菜園のジャガイモはなかなか芽が出なかったが、
出てくるとあっと言う間に成長した。肥料が効いて葉
が丸々と太り、生い茂った。やがて可憐な花を咲かせ
た。「もうメールするな」と言った花子には写真を送
れない。送ったところが無視するだけだ。蝶子に送っ
ても首をかしげるだけだろう。土の中のもの、例えば
レンコンや芋類が花子は好きなのである。前にジャガ
イモを持っていったときもたいそう喜んでくれた。こ
れは花子のために育てたジャガイモである。しかし、
絶交状態となっている。
だが、花子とは普通の付き合いではない。金銭の絡
んだ付き合いである。心情はどうあれ、金と結びつけ
ば、多少の不本意は精算されてしまうのが、この世界
である。ジャガイモの収穫を潮に花子に連絡しようと
佐藤は思っていた。
「花子さん、元気ですか。会いませんか」
と、まず、珈琲店でアイスコーヒーを待つ間にメー
ルした。やはり返ってこない。
一週間後、また、
「花子さん、会いたい」
と、ミシェル・ポルナレフの懐かしい「忘れ路のグ
ローリア」を聴きながらメールした。
やはり、返ってこなかった。
が、その日の深夜、返信が届いた。
「おはようございます。私と会ったら姉とあえなくな
るんじゃないですか！ 私と会って何がしたいんです
か？」
「お姉さんとは月一で会います。会ってすることはア
レですがいやですか？」
「やりたいだけですか？ やりたいだけなら姉は困っ
ていますからお願いします」
「やりたいだけじゃなくて花子さんに会いたいんです。
ただじゃ会ってくれないでしょ」
「姉にひけるので遠慮します。すみません」
「意味がわかりません。内緒で会えばいいと思うけど。
お姉さんは仕事でしょう」
「仕事といっても家でほとんど一緒なので・・それに
内緒で会って佐藤さんが口すべらせたらもめるから！
因みに姉と付き合いたいって言ったのに私はいらない
んじゃないですか？」
「男ですから口は固いです。付き合いたいなんて言っ
てませんよ。双子なので訳わからなくなって花子さん
に言うようにおかしなこと言ってしまったようです。
反省してます」
「双子とかは関係ないと思います。人格が違います。
姉のことよろしくお願いします」
「お姉さんに会わなければよかったのかな。会いたい、
花子さんに会いたいです」
しばらく間があった。そして、
「考えさせてください」
その日はそれで終わったが、翌日畳み掛けるように
「会いたい」と送り続けると花子はとうとう承諾した。
そもそも気持ちがあるからメールを返してきたのだろ
うし、金と結びつくならば、多少の不本意は精算され
てしまのである。この世界は。
（続く）
月刊ＷＥＢ風 ２０１１年９月号 通巻第３０号
［原稿用紙３０枚］