金と体（Ⅰ）
大堀敏靖
その先生は親から譲り受けた莫大な資産によって働
く必要はないため、悠々自適に暮らしているという。
財産の管理もなかなか大変な仕事ではあるが、それも
信頼する弁護士やマンション経営を請け負う友人の業
者にまかせてあるため、何の気苦労もない。四十の半
ばを過ぎても独身で、早寝早起き、晴耕雨読、判で押
したような規則正しい毎日を送っているという。
名は小路雄馬という。その先生はだれにでも気安く
会ってくれて必ず極上のコーヒーを煎れて歓待してく
れるという。
「予約が必要じゃないのか」
と、佐藤は友人の鈴木に尋ねた。
「閑な人だからその必要はない。人が来訪するのを待
っていて、話相手にするのを楽しみにしているらしい
「新宿の母みたいに人気があって、行列ができている
んじゃないのか」
「いや、閑人で人気はないだろう。ただ一部には信奉
者のような人たちがいるらしくて、この俺もその一人
かもしれないが、マスコミには取り上げられていない
から、いつも住まいは閑散としていて暇々していらっ
しゃる」
佐藤は是非訪ねていって話をしたいと思った。コー
ヒーを頂くだけでも落ち着いて満足するらしい。
佐藤俊夫三十五歳。子どもの頃は「砂糖と塩」とか
らかわれ、こんな料理番組みたいな安直な名前がいや
で仕方がなかった。教室で名前を呼ばれるたびに「小
サジ少々ー」といって囃すヤツがいて休み時間になる
と殴り合いの喧嘩をした。今はそれを営業トークの中
で前振りとして巧みに使っている。それで笑いをとっ
て先方の気を引くことに成功している。子どもの頃は
父親を怨んだが今では感謝したい名前だと思っている。
佐藤は三年前、彼女と別れた。それは十五も年下の
高校生だった。それくらいの年齢差は彼女の方では一
向に構わないようで、結婚も考えているようだったが、
佐藤のほうでは、そんな小娘は遊びとしてしか考えら
れず、高校もろくに行かず遊び歩いて中年の男を相手
にするような不良娘と結婚などは到底考えられなかっ
た。名は酒井若菜といった。だから二人がいると砂糖
と塩とみりんと若菜で食材と調味料がそろってますま
す料理番組のようなカップルだった。しかし、二人が
付き合っていることは、佐藤の友人、知人は誰も知ら
なかった。一方若菜の方は母親や親友、複数付き合っ
ている別の男たちにも吹聴して回っていた。「砂糖と
塩と若菜」で温野菜のオードブルを作り、ワインと一
緒にみんなに食べて貰うのだと若菜は幸せの構図を思
い描いていたのである。
しかし、一年付き合って別れた。言い出したのは若
菜の方で、佐藤はあまりに唐突で理由がわからなかっ
た。「他に好きな人ができたから」と若菜は言ったが
毎日メールをやりとりし、週に二三回会ってあれほど
べたべたに佐藤のことを愛していてくれると思ってい
ただけに遊びとはいえ、佐藤のほうでも衝撃だった。
それまでも複数の男と遊んでいたのだから、その中の
一人としてでもいいから、続けようと提案しても「も
う会いません」としかメールは返ってこなかった。
今から考えれば、若菜が願望していたのは「結婚」
であるから、佐藤が「結婚しよう」と言えば事態は収
拾し、また付き合うことができたかもしれない。最後
に電話で話したときに若菜が訊いた。
「トっくんは結婚するつもりはあるの」
「あるよ」
「そう。・・しあわせに」
ここで、「俺は若菜が好きだ。お前しかいない。結
婚しよう」と言っていれば、二人は結婚できたかもし
れない。若菜はその一言を待っていたかもしれない。
だが「遊び」としか考えられない佐藤は、若菜が中年
男に飽きただけだろうと考えて、振られたのだからこ
れ以上執着すればストーカーになってしまうから、こ
の割り切れない気持ちは押し殺すしかないと考えた。
それからも若菜からたびたびメールや電話があったが、
別れ話から三ヶ月くらいしてからかかった電話に風呂
に入っていたため出られず、そのままにしておいて二
日後に電話すると番号が変わって掛けられなくなって
いた。それからも非通知の着信は毎月必ずあった。
若菜と別れた心の空洞は相当なもので、笑って済ま
せられるものではなかった。世の中のすべてのものか
ら隔絶されて、現実に生きていながら、すべてが遠い
世界にあるような、テレビの画面や映画のスクリーン
の向こうの世界のように感じられて、その孤独感は到
底癒しがたいものがあった。実はもはや「遊び」は越
えていて、切実に若菜を愛していて、結婚するしかな
かった相手だったのだと思われた。むしろ若菜のほう
が「遊び」だったかもしれない。
しかし、十五も年下の小娘に弄ばれてかなり金も使
って、捨てられたと思うのは佐藤の矜持が許さなかっ
た。その地方では一番の国立大学を出て、やはりその
地方では名の通った自動車メーカーに就職して、責任
ある中堅の役職にある身である。女子高生に振られた
などとは思いたくない。遊びで付き合って、向こうは
真剣になったが、こちらがその気持ちに応えられなか
ったために、向こうから身を引いていっただけなのだ
と、あくまで思い続けようとした。
そして心の空洞を埋めるために国立大学を出たエリ
ートが考えたことは、女によって作られた心の空洞は
女によって埋めるしかない、ということだった。会社
の中にも女性はあまたいた。結婚相手を見つけるため
に就職したとしか思われない女子社員はあまたいたが、
仕事命の佐藤は仕事とプライベートは厳格に分離し、
会社関係の女とは一切付き合わないし、結婚もしない
ことを周囲に宣言していた。財布を拾って届けてやっ
たことから付き合うようになった若菜のような出会い
をしなければならない。合コンというのは一度参加し
て、二度と行かないと決めていた。酒を飲めないから
ばからしいだけである。
そこで考え付いたのは風俗の女である。若菜と付き
合っていたときも、食事代、映画代、ゲーセンの遊び
代、ホテル代、ガソリン代、指輪などのプレゼント代
などトータルすると、毎月五万円近くは優に使ってい
た。若菜と別れたからにはその金が宙に浮く。だから
それをストレートに体を許してくれる風俗の女に注ぎ
込めばいいのである。佐藤が若菜に求めていたものも、
煎じ詰めれば若いぴちぴちした桃色の肉体である。最
終的にそれを得るためにデートのたびに惜しみなく散
財していたのである。面倒な過程は省いて、究極的な
目的だけを提供してくれる風俗の女にこの心の空洞を
埋めてもらうのが一番だろうと佐藤は考えたのである。
佐藤は書店で風俗の案内マガジンを買い求めた。ど
のページにも扇情的な女たちがなまめかしいポーズを
している。どの女でもいい！と初めは思ったが、よく
よく見ていると、化粧で隠された素顔が写真でも見え
てくる。たいていは目が隠されていたり、顔にぼかし
が入ってわからないので、体の肉付きのよさや若菜と
似たヘアスタイルをした娘を探すしかない。しかし、
中には顔をまともに公開している娘もいた。親に知れ
ても平気なのだろう。親も公認で風俗をやっているの
だろう。何度もページを繰っていると目に留まる娘が
いた。何度もそこにもどってまじまじと見てしまう。
おそらく写真を通して訴えるものがあって、その波長
がこちらの波長と合致したのだろう。
「プレイガール」の梅乃という娘に佐藤の目が留ま
った。その梅乃の憂いを帯びたカメラ目線の目は佐藤
に訴えていた。「わたしがあなたを立たせて、包み込
んで、慰める女です」
「プレイガール」に電話して梅乃は出勤かどうか確認
する。指名料も込みで一万六千円である。若菜に費や
した出費で毎月三回通うことができる。梅乃は本日出
勤、「お待ちしております」とフロントの男が言う。
簡単に話は成立して、風俗マガジンの中から佐藤を
捕らえた女に会うことができる。会えるばかりでなく、
個室に招かれて、飲み物など供され、風呂に湯をはる
と女も衣服を脱ぎとって体を簡単に洗ってくれて、ベ
ッドに仰向けになると心地よいスキンシップをとって
くれる。
若菜のときもそうだったが、そういうとき佐藤は烈
しい動悸がした。緊張で体が震える。若菜に訊くとま
ったくそんなことはなくて、ただ楽しいばかりだと言
っていた。場数を踏んでいると慣れてくるのだろうか。
若菜は佐藤以外の男とも週二回くらい会って不純な交
友を結び年間百回くらいの経験を二年以上続けていた
のだから、それは慣れるだろう。佐藤は百回もない。
三十五年間で、素人の相手は若菜だけで、後は風俗の
女だから、精々十数回の体験である。緊張感が抜けき
らない。裸になってしまえばそんなものはどこかへ行
ってしまうことは知っている。
「お待たせしました。それでは梅乃ちゃんご指名の佐
藤様。こちらへどうぞ」
こう呼び出しがかかるときが緊張のピークである。
ソファから立ってカーテンをくぐると係の男の招く先
に、舞台から降りてきた女優が膝間づいている。
「こんにちは。梅乃です。ご指名ありがとうございま
す」
声のトーンがやや低い。顔は写真とはちがっている。
「お手洗いはよろしいですか」
腕組みをして歩いていく。この店のマネージャーの
指導なのであろう。エレベーターの中でいきなり唇に
吸い付いてくる。指名してくれたお客さんにはそれく
らいにせよ、これもマネージャーの指示なのだろう。
比較的廉価な総額でそこまでやってくれることに感激
する。すこし煙草の臭いがした。
部屋に入ると梅乃は上着を取って掛けてくれる。湯
船に湯を落とし始める。
「お飲み物は、コーラ、オレンジジュース、ウーロン
茶ありますが・・」
コーラを頼む。
「写真とはちょっと違うね。でもいいよ、タイプだか
ら」
写真ではもっと清楚な素人っぽい目をしていた。し
かし、実物は気の強そうなヤンキー姐さんである。ま
ぁだいたいこんなものだろう。
「あれは若い頃の写真ですから。煙草吸っていいです
か」
佐藤はベッドに座り、梅乃はテーブルをはさんだ向
こうの床に座って煙草に火を点ける。一日に二箱は吸
うという。佐藤は二十五歳で禁煙した。十年吸ってい
ない。煙草を吸いたい気持ちはよくわかるから別に嫌
だとは思わない。しかし、臭いには敏感になっている。
「お酒も好きですけど、煙草だけは止められません。
煙草のお蔭で生きていけるって感じですね」
生きることを支える何かが在ってくれることはいい
ことである。神は人間を生かすため酒や煙草やギャン
ブルや快楽をお与えになった。ありがたく受けたらい
い。
湯船にお湯が満たされるまでに梅乃は、自分には双
子の姉がいること、姉には小学生の子どもがいるが、
近くのアパートに独りで暮らしており、自分がほぼ母
代わりに育てていること、母親は彼女たちの実の父と
離婚した後、再婚したが義理の父が昨年亡なったこと、
などを煙草を三本吹かしながら語った。
たいていこういう商売の子たちは不遇である。家庭
が込み入っている。女の子で結構美形のルックスを持
っているのだから、いい人を見つけて幸せな家庭を持
つことを目指せばいいではないかと思うが、男は信じ
られないという。恋愛なんかめんどうで、したいとも
思わない。信ずるものは酒と煙草とお金だという。
ぬるい湯に浸かって、裸になった梅乃を見る。小柄
だが美しい体をしている。肉付きもほどほどによい。
自分ではもっと痩せたいらしい。「助平椅子」に座っ
て前を簡単に洗ってもらう。まだ体に触れない。こう
いうのは思い切り引き絞っておくべきである。下半身
にバスタオルを巻きつけられる。
「少し灯かりを落としますね」
梅乃がバスタオルを巻いたままベッドに横たわる。
佐藤はスッポンポンになって梅乃の左に体を寄せる。
これから約三十分間はこの女は貸切で佐藤の自由にな
る。傷つけるのでない限り、どこを触ろうが、舐めよ
うが、ねじろうが、裏向きにしようが、表に返そうが
自由である。
幼ない日に泥遊びをした感覚に似ている。やがて下
の方が次第に湿ってきて、水分の豊富な泥をこねまわ
すような音がしてくる。その感触はやはり人にある郷
愁を感じさせるのだろう。自分の下方から聞こえてく
る瑞々しい規則的な音を梅乃は「いやらしい音」と言
った。
梅乃にとってはビジネスなのであるが、まず本当に
湿って感じてくれたことに佐藤は満足する。さらに佐
藤の目標は指を烈しく振動させ、女を絶頂に至らせる
ことである。
女は決まって「いく」と言う。こういう時に「いく」
と言うのはだれが決めたのか。本能的にその快感の絶
頂を表現する言葉は「いく」が最もふさわしいのだろ
う。どこへ「行く」のか。「逝く」か、それとも「往
く」なのか。おそらく極楽浄土に通ずるような言語を
絶した感覚なのだろう。男にも射精の瞬間の快感はあ
るが、たいていは「うッ」と小さく唸るくらいで「い
く」などとは言わない。言う男は女の真似をしている
のだろう。だからそれは男にはわからない至上の快楽
なのだろう。女には子どもを産む分娩の苦痛がある。
地獄の苦しみなのだろう。男にはこれはわからない。
しかし、聞いた話では腎臓結石の痛さは分娩の痛さに
匹敵するらしいから、男の中にも分娩の苦痛の程を知
るものは多少いるということである。しかし赤ん坊を
産み出すのと石を排出するのは違う。
ともかく分娩の苦痛がある代わり、女には極楽的悦
楽が享受されているのである。
梅乃は佐藤の手から雫が垂れるほど下方を湿らせ、
しかも身を痙攣させながら三回もイッてくれた。こん
な満足な遊び女は珍しかった。写真で判定した佐藤の
目は正しかった。
「気持ちよかった。こんなの久しぶりです。お客さん
の手の動きすごいですね。じゃ、今度はわたしが」
佐藤は本当は自分が上になって女を征服した気分に
なりたいのであるが、どうしたことか懸命に努力して
も肝心の部分が萎えてしまって使い物にならない。仰
向けにさせられ、口でしごかれてようやく棒状になる
程度だった。気に入ったＤＶＤを見ているときは青々
したフィリピンバナナのようになる。肝心の時に萎え
てしまっては仕方がない。もしかして、若菜はこれが
頼りなかったかもしれない。別の男は大根のようなこ
ん棒を若菜めがけて嵌め込んでいたかもしれない。
しかし、この日は違った。梅乃を見ているだけで下
半身は充実して、一応あお向けにはなったが、口に含
まれるのを待たず、東京スカイツリーのようなタワー
が屹立していた。
「すごい。びんびんですね」
佐藤の分身は梅乃に唇や舌で存分に愛され、さらに
充実して張り裂けんばかりになると手早くゴムで覆わ
れ、またがれて今度は下の方の口に咥えられた。梅乃
は若菜に似た髪を振り乱して腰を揺すった。・・・
佐藤は梅乃を気に入って月に一度は通って常連客と
なった。若菜のようにメールをもらって愛を確認した
かった佐藤は自分から携帯の番号とアドレスを書いた
メモを渡した。
すぐにその日の帰り、梅乃はメールしてくれたので、
やりとりができるようになった。男は単純であるから、
営業的なメールであろうと「お待ちしてます」「来て」
などと送られると、愛されたと思い込んで足を運んで
しまうものである。指名してくれて客のほうからアド
レスを渡したのならなおさらで、その気になれば毎週
でも通わせて稼ぎを増やすことを考えるはずなのに、
梅乃はまったくメールをくれない。
仕方なく佐藤から「元気？」などと送ると「はい、
元気です」と返ってくる。「仕事がんばってね」と送
ると「はい、ありがとうございます」と返ってくる。
おもしろくも何ともない。
「佐藤さん、はやく来てくださいよー。あそこ濡らし
て待ってます！」
それくらいことがなぜ送れないのだろうか。「プレ
イガール」のホームページを見ると女の子の紹介欄で
梅乃は何ゆえか後ろから二番目である。先頭の女の子
は店がイチオシのナンバーワンの娘であるところから
すると梅乃は人気ないのだろうか。入店者が女の子の
コメントを寄せている欄がある。人気上位の他の女の
子たちはたくさんのコメントが溢れている中で梅乃は
一つしかない。三年前に入店したその客「ボブサッポ」
は、梅乃はフェラチオがうまくて美人タイプで小柄で
よかったが、お仕事タイプの女の子だったと評してい
る。恋人タイプ、友達タイプ、お仕事タイプ、どっち
もタイプの中から姫のタイプを選択するのであるが、
お仕事タイプというのは、ビジネスとして割り切って
一応の愛想はするが、甘えたり、プライベートまで介
入することはない娘のことなのだろう。
そのメールの返し方は確かに「お仕事タイプ」であ
る。なんという無愛想だろうか。他の女の子は写メー
ル日記を公開しているが、梅乃は犬の写真を載せて、
「お待ちしてまーす」と書いてあるだけである。犬の
写真に喜ぶ男などいるか。犬の写真を見て「是非」と
指名する男などいるはずがない。佐藤は梅乃の顔の写
メを送るように要求したが、「いつか送ります」とい
って拒否された。本当に「お仕事タイプ」で仕事に徹
するならば、もっと愛想よくしなければならない。ど
う見ても人並み以上に美形で、小柄だが体もきれいな
のだから、男に甘えればどれだけでも稼げるはずであ
る。自分がマネージャーならば必ずそのように指導す
るのだが、と佐藤は思った。
すると通い続けて二年目に怖い店長に代ったという
ことで、梅乃に多少の変化があった。「寒い日が続き
ますが、御身体にお気をつけ下さい。お暇なときはい
らしてください。お待ちしております」とメールが入
った。店長に言われたのだろう。ホームページの女の
子欄に毎日写真メールが更新されるようになった。携
帯で、自分で撮った写真だと言っていた。佐藤はそれ
らをいちいち保存し、パソコンで拡大したり、合成し
たりして楽しんだ。印刷もしてファイルに集めた。そ
の写真を机上に並べるだけで十分に下半身は勃然とし
た。
ところが通い始めて三年目、梅乃は佐藤に「店、辞
めようと思っています」と言った。梅乃も三十を越え
て、若い子ばかり指名されるのを控え室で耐えている
のは辛くなった。四十近い人もいるが、「お茶する」
といって、出勤しても一人の客もつかずに「お茶」ば
かり飲んで帰ることもあるという。それは辛いにちが
いない。
「ＡＶに出るのはどう。今はおばさんがブームだから
ね。若い男は癒しを求めておばさんが人気あるから。
梅乃チャンはおばさんじゃないけど」
「そうなんですか。でもわたしなんか使ってもらえる
かな」
「僕が監督なら使うな。教え子をたぶらかす教師とか、
セールスの男を家の中に引きずりこむ有閑マダムの役
なんかでね」
梅乃が店を辞めたらこうして毎月会うことはできな
くなる。それは困ることだと佐藤は思った。しかし、
メールで呼び出して、今よりも安価に続けることがで
きるかもしれない。それならばむしろ歓迎すべきでは
ないかと佐藤は考える。
「でも辞めたらどうするの。何するの」
「昼間ふつうのところで働きます」
「普通のところって」
「工場でもウェイトレスでも」
「収入は減るし、勤まるの」
「わたし、平気ですよ。何でもやります。収入は減る
けど応援するって言ってくれるお客さんいるし」
六十くらいの常連の客で梅乃が病気で入院した時は
お見舞いに来てくれ、折々野菜などを届けてくれる優
しい客がいるのだという。店での人気は下位で客もあ
まりつかないから辞めようとしている梅乃であったが、
そのような熱心な馴染みがいるとは知らなかった。そ
のおじさんは佐藤のライバルといってよい。佐藤も旅
行に行ってはお酒の好きな梅乃のために沖縄の泡盛な
ど地酒をよく買ってきた。
「ぼくもその仲間に加えてもらえないかな。お金払う
からこれからも会ってほしいな」
それは梅乃にとって嬉しい申し出に違いなかった。
「またそれは後で相談」
言った通り梅乃は店を辞めた。
「今日はありがとうございました。ケーキまで頂いて。
今度はいつお会いできるかわかりませんが、仕事決ま
ったら連絡します。またよろしくお願いします」
梅乃からメールが入った。佐藤とこれからも会って
欲しいというメッセージだったので佐藤は喜んだ。六
十のおじさんには若さで勝てる自信がある。そして梅
乃を独占して恋人か愛人にできるかもしれない。店で
会うよりも少額の金で梅乃を時間を気にせず自分のも
のにできる。これはいい方向にことは進んできたと佐
藤は思った。
コーヒーの香りが漂う。
「粉を挽いたときの香りが一番なんですな。どうです。
これです」
「ほんとですね。コーヒーの粉がこんないい香りだと
知りませんでした」
「今煎れて差し上げますからお待ちなさい」
それは今朝焼いたばかりの豆を挽いたものだという。
コーヒーは焼きたて、挽きたて、煎れたてに限るらし
い。なぜかといえば魚の刺し身と同じ生鮮食品で焼い
た豆は一週間、挽いた粉は三日、煎れたコーヒーは三
日が賞味期限だからである。刺し身は秒刻みで酸化、
劣化していく。内陸の人間は実にまずい刺し身を食べ
ていることは、海沿いの市場の海鮮丼を食べてみれば
わかる。ネタが生きているのがわかる。舌に絡みつい
てくるような脂の乗りを感ずる。本モノを知らないと
何も語れないということがよくわかる。素人でコーヒ
ー豆を焼いている人は珍しいだろう。専門店でも自家
焙煎は少ない。
佐藤の見ている前で小路先生は粉にお湯を注いで見
せた。見る見る粉が風船のように膨れ上がってくる。
「うわー。すごい膨れ方ですね」
「そうです。古い粉だとこうはいきません。逆にへこ
んでしまうのですな」
小路先生は「の」の字を書くように巧みにお湯を注
ぐ。前にも増して極上の香りが湯気とともに周囲に満
ちて、落ち着いてくる。佐藤はどこかで同じような体
験をしたことがあると思った。そうだ、文化祭で茶道
部の女の子に茶を立ててもらったときと同じだと思っ
た。茶やコーヒーの香りとともに優しさの気が満ちて、
頭皮に電気が走るようななんとも心地よい気分に満た
される。女の体に吸い付いて得られる快感とは質が違
う。焦燥感はまったくない。そして長く続く。
コーヒー茶碗に注がれた煎れ立てのコーヒーとナッ
ツと黒かりんとうが佐藤の前に供された。
「ありがとうございます。今日初めてうかがってこん
なに歓待されるなんて嬉しいです。来客は結構おあり
になるんでしょう」
「ぼつぼつある程度ですな。わたしは心のせまい人間
なのか人はあまり寄り付かないのでしょうな」
「友人の鈴木は先生の信奉者だと言ってましたよ。こ
んな旨いコーヒーを出されたんじゃ、また来たくなら
ないはずがありません」
「それは嬉しいことです。鈴木さんも月に一度いらっ
しゃいます。あの方も妻子ある身でありながら、会社
の若い子と付き合って結婚を迫られて困っていました
が、どうなりましたかな。あ、これは言ってはいけな
いことでしたかな」
「知ってますよ。自業自得ですから、少し苦しめばい
いんですよ。あんなきれいな優しい奥さんがいながら、
不細工な豆タンクのような気の強い女とつきあってる
んですからね。悪いのはあいつなんですよ」
「そうですか。ところであなたの話はまだ続きがあっ
たのですな。それからどうなりました」
「はい、そうでした。続きを話します。でももう少し
このコーヒーを味わわせてください」
( 続く)
月刊ＷＥＢ風 ２０１１年５月号 通巻第２６号
［原稿用紙２７枚］