パワー・スポット
大堀敏靖
バスは丹沢の山中の停留場に停まり、佳奈美を下ろ
すと、後は知りませんよとでも言いたげな後部姿を次
第に小さくさせながら、坂を下りていった。すでに夕
暮れである。ひぐらしの哀しげな声も聞こえる。
「丹沢荘」と書かれ、指で方向を示した看板が目に
付いた。ゼロ磁場とも書かれている。とうとうやって
きた。全国でも屈指のパワー・スポット、よく意味は
わからないがゼロ磁場といわれて、地球の内部からの
強力なエネルギーが集まるのだか、噴出するのだかし
ている場所らしい。神社でもお寺でもない。ただの民
宿。
本当は利安と来るはずだった。なんでも自分の思い
通りにしてくれるはずだった利安が急に自己主張なん
かし始めた。それが許せないし信じられなかった。私
を癒してくれるかわいいばかりの愛犬が突然歯を剥い
て唸ったり吼えたりしたような驚きがあった。私は悪
くない。私はいつもの私で、利安はそういう私のわが
ままも優しく包んでくれなくてはいけないのだ。それ
があの男の義務で、生きるスタイルだったはずだ。私
は悪くない。突然変異してしまった利安がよくない。
私は謝らなくてもいいのだ。あの男が謝ってこなけれ
ばならない。
のぞみの車中でも同じことを幾度も思い巡らしてい
た。パワー・スポットにくれば、利安もパワーが高ま
ってもっと仕事もうまくいくし、持病の腰痛もよくな
るに違いないのだ。それを拒絶するなんて全くふざけ
ている。佳奈美からもメールはあれからしていないが、
利安からも来ない。もっとも利安からメールが来たこ
とは数えるほどしかない。佳奈美がリードしてきた。
「お帰りなさい。癒しの宿丹沢荘へようこそ」と玄
関に置かれた大木の木片に大書されていた。フロント
の向こうの事務所で帳簿を繰っていたジャージ姿の宿
の男が佳奈美に気付いた。
「今朝電話で予約した・・」
「ああ、エンヤさんですね。どんな字を書くのかあれ
これ想像していたんですが、円屋か縁矢しか思いうか
ばなかったですね」
「シオタニと書きます」
「ああ、なるほど」
小間使いだろうか、主人だろうか、愛想のよい男だ
った。手続きをして階段を上ってすぐの端の部屋に案
内される。
「食事はすぐできます。お風呂に先に入られますか。
その方がいいかもしれない」
「ええ、そうします」
「じゃ、食事は後で」
「あの、ここはそんなに癒されるんですか」
「癒されますよ。あの有名な広江先生お墨付きの究極
のパワー・スポット、ゼロ磁場ですから。まぁ、お風
呂に入られたらまず実感できるはずです」
広江先生というのは佳奈美もその著作を読んだこと
がある、経営の神様と呼ばれ、非現実的なオカルト現
象にも言及して未来を予言するカリスマ的人物である。
不安な世の中に断定的に未来を予知するようなことを
言われれば人は信じてしまう。その手の怪しげな言質
も多いが企業経営のコンサルタントという現実的な実
績もあげているのは確かであるから、妙な説得力もあ
って圧倒的に「信者」を獲得している。
ゼロ磁場というのは、何もないということではなく、
その逆で巨大なエネルギーがあふれているのだが、陽
極と陰極、Ｎ極とＳ極のような相反するエネルギーが
拮抗している場だという。活断層の近くなどに存在し、
日本列島には随分とそんな場があり、ちょうど線で結
ぶことができるが、その線上に奇しくも神社仏閣、聖
地と呼ばれる場が集中している。科学的に調査しても
確かに地質が他と異なっているらしいが、科学的知識
のなかった古代の人々は直感でゼロ磁場を認識するこ
とができたのだろう。あるいは、その場へいくと不可
思議な現象が多々あることから、信仰を得るにいたっ
たものであろう。丹沢荘もその線上にあり、若い女性
の間で注目を集めている。若い女性というのはこの手
のことには男より敏感なのである。一番鈍感なのが、
四、五十代以上の男性である。テレビや新聞に報じら
れたことしか信じない。
それにしても、この宿はお世辞にも設備が整った、
とは言えなかった。一万九千円も支払って、八畳の和
室は壁も畳も古びている。テレビも十四インチの昭和
を思わせるものだ。隣室からトランプにでも興じる学
生と思しき若者たちの歓声がもろに聞こえてくる。こ
れで癒されなかったら、ぼったくりの詐欺民宿である。
浴衣に替えて浴場に向かう。一階に下りて屋根だけ
の長い廊下を歩く。山中にあるためか陽が落ちると風
が涼しく、心地よい。浴場の入り口にスリッパが一足
あった。先客がいる。ベニヤ板がめくれ、かび臭い狭
い脱衣場で裸になる。湯煙の中で老婆が湯船に浸かっ
ているのが見えた。こちらをじっと見ているので、軽
く会釈して、まっすぐにその向こうのドアを開けて露
天風呂に出た。三畳くらいの大きさの岩風呂である。
足元に何か気配がするので見ると、十五センチくら
いの特大のムカデが佳奈美の白い足の甲に迫っていた。
「あッ」と小さく声を出したが、そのままお湯の中に
入った。爬虫類オタクの弟が、三十センチくらいの南
米産のムカデをペットとして飼っていた。咬むことは
あるが、少し痛む程度で大したことはない。ムカデが
いるということは自然が豊かだという証拠で、都会の
客は自然のこういう側面を想定していないから驚くが、
佳奈美はかなり多くのパワー・スポットをめぐり、ス
ズメバチやマムシにも遭遇してきたので、免疫ができ
ていた。パワーが溢れているところへは、虫や動物た
ちも喜んで集まってくるのだ。
お湯に浸かりながらもムカデからは目を離さなかっ
た。佳奈美の肌を咬むために一緒に湯の中に飛び込み
蛇のように身体をくねらせて近づいてくることはなか
った。しばらくじっとしていたが、やがて方向を転換
して、生垣の中へ姿を消した。
空を見上げると満天の星である。星の数が多い。お
湯はつるつるして肌を滑らかにしている。
内湯には老婆がいるが、ここは佳奈美独りである。
大自然の懐に抱かれて生まれたままの姿になっている。
乳房に手を触れてみる。利安と一緒にくれば今夜、こ
れが烈しく愛撫されるはずだった。空いた手は下腹部
から股間に下りていった。自然に擁かれて自然と交わ
る。頭の中は利安ではなく、小田原からの電車の中で
頻りに佳奈美を見ていた額の禿げ上がった男だった。
あの男はきっと私の身体を欲していたのだろう。私が
タイプだったのだろう。私は利安が好きだけれども、
中年男のねちっこい性行為が嫌いではない。あの薄く
なった額を抱いて乳房を押し付ける。男はいつしかム
カデに変身して、その無数の足を伸ばして佳奈美の身
体の隅々を愛撫し、頭だけ人間に戻るとその禿げ上が
った頭ごと佳奈美の陰部に入り込んできた。佳奈美は
露天湯の中で身体をのけぞらせて声を漏らしていた。
その時内湯から露天に出てくる人の気配がし、佳奈
美は我に返った。見知らぬ老婆といえどもこんなとこ
ろを見られてはまずい。
「すいませんね。独りでお楽しみのところお邪魔して
いいかしら」
老婆は佳奈美の行為を全て見ていたのかもしれない。
「あなた、どこから来ました」
話しかけてくる。私は人との触れあいが目当てで来
ているんじゃない。
「浜松です」
「ああ、うなぎのね。私は埼玉の大宮から来ました」
埼玉についての知識は何も持ち合わせてはいない。
見たところ八十前後と思われるが、年齢の割りにハリ
のる体躯のおばあさんである。笑ったところは少し色
気も残っている。
「よく来られるんですか。ここに」
「いいえ。初めてよ」
「私も」
「あなたも癒しが目的で来られたの」
「ええ、まぁ」
「ここは究極の癒しのスポットでね、私の男友達の鳩
山さんが是非って推奨するのよ」
鳩山？ 総理大臣をやってた鳩山だろうか。だとし
たらこのおばあさん、何者？
「ゼロ磁場って看板にも書いてあったでしょ。すごい
パワーが出てるんですってね。いろんな病気も治るし、
疲れも取れるし、元気が出てくるんですって。気のせ
いか私、ここに着いてからすごくハイテンションで、
連れは今お部屋でテレビ見てるんだけど、私はまたお
風呂は入りたくなっちゃってね。これで二回目よ」
「お連れっていうのは、旦那さんですか」
「違うわよ、私の従妹。旦那は五年前に死んじゃった。
旦那は私が外に出るのを嫌がる人でね。嫉妬深かった
のね、きっと。結婚してから五十年、私は家の中にい
続けたのよ。そして五年前に解放された。今は本当に
自由。全国と世界中を旅して飛び回っているの」
元気な老人が最近多い。お金を持っている。貯金や
年金で不自由しないのだろう。暇も十分にある。この
世の務めを大概果たし、後はお迎えを待つまで金と時
間を自由に使えるなんて幸せかもしれない。でも、絶
対に皺の寄った白髪頭の老人になんかなりたくないと
佳奈美は思う。いずれ長生きすれば自分も老いていく
のは事実かもしれないが、まだ遠い先のことで考えた
くないし、考える必要もない。老人にできない若者の
特権をどこまでも享受したい。それには男が必要であ
る。男の筋肉質の身体と下方の突起物が是非必要だし、
佳奈美だけをどこまでも、いつでも一番に考えてくれ
る優しさが不可欠だった。利安はその候補だが、最近、
変な自己主張を始めて佳奈美の思い通りにならなくな
っていることが気に入らない。これが続くようなら別
の男を探さなくてはならない。
「あなた、何か考えてるわね。ちょっと心に引っ掛か
ることが何かあるんでしょ」
佳奈美は驚いて老婆を見る。
「私ね、人の心が見えちゃうのよ。いつも黙ってるん
だけどテレビを見るように人の心が見える生まれつき
の才能みたいなものがあるの。あなた、男の人のこと
で、ちょっと悩んでるわね。本当はその人と一緒にこ
こに来るはずだったけど来れなくてそれを気にしてる
わね」
「え、どうして」
「気味悪いでしょ。あんまり当たっているから、人は
嫌がるのよ。でも人生相談や占いの時は信用される手
段になるから、いい才能ね。私がアドバイスしてあげ
ようか」
大宮の何者かは定かではないが同宿のよしみでこの
おばあさんにただで人生相談してもらえるのも悪くは
ない。旅の余興と思えばいい。
「あ、是非」
「そう。あなた素直ね。えーっと、あなたはパワー・
スポット巡りをして、自分の癒しばかりを追い求めて
いるわね。ああ、私は思ったことをズバズバ言います
からね。怒らないでね。漫談でも聴いてるつもりで聞
き流せばいいのよ。癒しブームで温泉行ったり、子犬
飼ったり、自然の中に分け入ってマイナスイオン感じ
たり、アロマテラピーやマッサージ、エステ、仕事で
ストレス感じて癒されたい人が溢れているようだけど、
みんな受身なのよ。癒されるの『れる』っていう受身
の助動詞が入っているでしょ。要するに癒されたいっ
ていう人はネガティブなのよ」
そうか、ネガティブだったのか、あちこち飛び回っ
てポヂティブだとばかり思っていた。
「本当に人生と真正面から向き合ってポヂティブに戦
って生きている人は癒しなんて言わないはずよ。生活
そのものが本当の意味の癒しになっているからね。仕
事や生活の中で巨大なパワーがどんどん入ってくるの
よ。仕事にストレスしか感じない人が癒しだとか、ス
トレス社会とか言って被害者ぶってるだけよ」
「そう、ですね」
「ところで、あなた。あなたは、やっぱり癒しに夢中
になり過ぎて、自分勝手になってしまったのじゃない
かしら。相手の男の人を振り回して、癒しのスポット
巡りなんかして、疲れさせていたかも知れないわね、
いくら、優しい男の人でも、『仏の顔も三度』と言っ
て我慢も限界に来ちゃったかもしれないわよ。相手の
彼、名前は何て言うの」
「利安」
「景気のよくない名前ね。利子が安い、今のデフレ・
スパイラルの世の中を象徴するような名前じゃない。
ごめんね、彼氏のことこんな風に言って。でも、私思
ったことそのまま言わないと相談にならないのよ。相
手のこと思いやって遠慮しちゃうとアドバイスも制限
されちゃうから我慢してね。たぶん利安君は草食系で、
セックスはＭで、あなたが、上に乗っかったりして攻
めてたんでしょうね。唾をかけたり、おしっこかけた
りしても悦んでたりしたんでしょうね」
どうしてそこまでわかるのか信じられなかった。人
間は人生経験を積むと大方のことはわかってしまうも
のなのだろうか。確かに利安はＭで、唾液や放尿を要
求してくる。そして佳奈美はじらしながらそれに応え
ている。
「どう楽しもうとそれはあなたたちの自由ですけどね。
でもね、彼氏にも人格というものがあることを忘れち
ゃあいけないわよ。あなたの思い通りになるペットじ
ゃないんだから。快楽だけで人間のつながりは続かな
いものよ。やがて耐えられなくなってね、新天地を求
めたくなるものなのよ。でもそこで、あなたが、快楽
や身体ではない、彼氏の人格に対する思いやりの心に
目覚めれば彼氏はまたあなたのところに戻ってくるで
しょうよ、きっと」
利安を戻さなくとも、別の男を探せばいいと佳奈美
は考えていた。
「別の男だと、また振り出しに戻るってことよ。賽の
河原みたいなものよ」
確かにこの老婆は人の心を見抜いている。恐ろしい
人だと思った。本当に人間なのだろうか。パワー・ス
ポットに現れた地球のパワーの化身ではないのか。
○ ○
机の上に置いた携帯に目をやった。やはりメールは
着ていない。これで二日目になる。利安からメールす
ることはできない。なぜなら佳奈美からメールがくる
のが常態だったからである。利安からメールすること
自体、佳奈美の変心を利安が認めることになり、追わ
れる立場からみじめな追う立場に立たされたことを認
めることになる。それは辛いことだった。「どうした、
佳奈美。なぜメールくれない」と打ちたいところだっ
たが、利安は忍の一字で耐えた。これは相当な精神力
の要る難行だった。待つ、しかし、来ない。しかもい
つまで待たねばならないのか、この苦行はとこしえに
続くように思われることもまた心を限りなく苛んだ。
今週の木曜日にゼミの発表があるが、こんな気持ち
では原稿を書くのもまた苦痛でしかない。江戸時代の
教育よりも佳奈美からのメールのほうが人生上の重大
事なのである。江戸時代は過去完了である。佳奈美の
ことは現在進行形である。机の上に携帯を置いては気
になって仕方がないので、電源を切ってベッドに放っ
た。
しかし、仕事や勉強が有難いのは気にはなりつつも、
没頭すればプライベートの苦悩も忘れさせてくれるこ
とだった。原稿を書き出すと次第に江戸時代に没頭し
ていき、寺子屋や藩校の中に引きずり込まれて、藩士
や寺子たちを保護者のように参観している気持ちにな
れた。佳奈美の存在も薄らいでどうせそのうちまた、
身勝手なメールを寄こすだろうと楽観できた。そして
必要なら自分からメールしても構わないと寛容な気持
ちにもなれた。
そもそも今回佳奈美がメールを送らなくなったのは、
彼女が提案した旅行に利安が「付き合いきれない」と
言ったことが起因している。伊勢神宮や京都の貴船神
社に運転させられて出かけた。デートとして悪くはな
かったが、気になるのは勝手に行く先を決めて、利安
の意志は全く意に介していないと思われるところだっ
た。パワー・スポットだから、利安にとっても目的地
としてはそれ以上のところはないのだと決め付けてい
た。もっとも利安としても他にどこか提案すべき目的
地があったわけではない。ＵＳＪかディズニーランド
くらいのもので、佳奈美と一緒ならばどこでもいいと
考えていた。しかし、結局この女は全てを自分の思い
のままにして、人を利用しているだけではないかと考
えると肉体的な魅力を差し引いてもなお納得できない
ものが残るようになった。本当にこの女が好きなのか
どうかも冷静に点検してみなくてはならない。
大学院生の利安がアルバイトをしている予備校で個
別指導をしていた佳奈美が一方的に利安に迫ってきた。
仕事の帰りに駅で偶々一緒になると食事に誘われ、メ
アドを交換した。それから攻勢をかけられてあっとい
う間に深い関係になった。いや深いのか浅いのかそれ
はわからない。昔でいう深い関係であって、簡単に別
れることになるならば、深くもなんともなかったこと
になる。いとも簡単に身体をゆるしてしまうところに
現代の恋愛の皮相さがあるかしれない。
佳奈美はバイト先の予備校の待遇の悪さをさんざん
批判して、一年以上は続けるという契約であったにも
関わらず、利安と仲良くなると間もなく辞めてしまっ
た。利安と知り合えたことだけが収穫で後は何もいい
ことなんかなかったと言った。そう言われれば利安と
しては悪い気はしないが、客観的に考えた場合、この
女は自分に気に食わぬことがあると周囲の迷惑も考え
ずに放り投げてしまう人間である。利安が気に入られ
ているうちはいいが、もしも彼女の意に背く人間とな
ったならば情け容赦もなく放り投げられてしまうだろ
う。そのように冷静に考えて、まず、こんな女とは結
婚は考えられない、付き合いもほどほどにして遊びと
して割り切った方がよかろう、と理性的な部分では考
えていた。
しかし、感情あるいは肉体の方は、次第に女の情念
や身体にからめとられていき、メスカマキリの虜とな
ったオスのように交尾をしながら食べられていくこと
にも快楽を感じてしまう始末だった。自分の中に妙な
性癖があって、かなりの部分を佳奈美の身体がそれを
満たしてくれた。豊満とはいえないが、佳奈美の肉に
押しつぶされたいと願えば、佳奈美は押しつぶして制
服してくれる女となった。騎馬兵のように上に乗っか
って腰を揺すられたいと願望すれば、上になって攻勢
をかけてくる活発な女となった。口に出して要求しな
いでもしてくれることが他にもあった。情交に関して
だけいえば、願ったり叶ったりの行き届いた女だった。
そもそも男女の関係において純粋な人格のみの付き
合いなんてものはよほどの老齢者でなければできない
ことである。お茶のみ友達ならいいが、若い男女が人
格のみで引き合うなんてことは道徳の教科書や宗教団
体の欺瞞の中だけの話で、現実にはありえない。人格
だけで引き合うというならば同性間でも恋愛は頻繁に
起こるはずだが、一部のホモセクシュアルやレズビア
ンは別にして、同性を寝ても覚めても思い続けて食事
も喉を通らなくなることはない。
男と女の関係はどうしても肉体や情欲が関係してく
る。他の全ては否定してもあの尻だけはどうしても忘
れられない。あの尻のためなら生命を賭けてもよい、
という場合もある。おそらくその尻というものもイリ
ュージョンに過ぎないのであろうが、その尻に顔面を
圧迫されている時だけは至福の悦楽に酔うことができ
る。そして精神の高揚をもたらすものであれば、やは
りそれは追求すべき対象で、その価値も認めなければ
ならない。
利安は考えた。しかし、佳奈美の身体がそんなにい
いと思ったことはない。自分勝手で性格もよくない。
アグレッシブに求めてくれる、攻撃してくれることだ
けである。本当に好きなのかと言われれば、嫌いでは
ないが、そばにいるだけで楽しい、ということはない。
佳奈美と会って分かれたあと、解放されたような気分
になって、ラーメン店に入ったりする。スーパー銭湯
へ行くことがある。ＡＫＢのＤＶＤを見ることもある。
そちらの方がよほどくつろげる。空想の中で佳奈美を
想っている方がよほど楽しいかもしれない。
しかし、そんなことを言いながら今、自分は佳奈美
からのメールを一日千秋の思いで待ち焦がれている。
それに人生がかかっているほどの切迫した思いがある。
これはどうしたことだろうか。ここまで佳奈美の存在
が内面にまで深く食い込んでいるとは知らなかった。
佳奈美は利安にとって、食事や睡眠や用便と同様に日
常欠くべからざる生活の一部となって、今それが欠落
した状態であることは、病的な状態に等しかった。食
事が摂れなくては病気である。睡眠障害では身体に差
し障りがある。用便が足せなくては苦痛になってくる。
佳奈美がいなくては尋常ではないのである。
さすがに耐え切れなくなった利安は予備校のバイト
の帰り、いつもスパゲッティーのカルボナーラを食べ
る、客の少ないイタリアン・レストラン「ラ・タベル
ナ」でオーダーしたあと、「なにしてる かなみ メ
ールください」と打った。
携帯が身体の一部になっている佳奈美はすぐに返信
してくれるはずだった。しかし、カルボナーラが運ば
れてきても、それをやむを得ず食べ始めても、ムリし
て完食しても返信は来なかった。電車に乗っても、部
屋に帰っても、ベッドに入る前に画面を開いてもやは
り返信は来ていなかった。待ち受けの画面は貴船神社
の本殿である。これは佳奈美が撮ってくれた。
何かが変わってしまった。佳奈美の心は蝶のように
蜜を求めて別の花へと移ったのだろうか。いつもの腹
筋運動もせずにベッドに身体を横たえた利安は白い天
井を見ながら考えた。
佳奈美と行ったパワー・スポットは、確かに、ある
パワーを利安に与えてくれたかもしれない。バイト先
の授業のコマ数が増え、昇給があった。金銭に余裕が
できて、銀行に金が溜まるようになった。論文がよく
書ける。欲しい資料が労せずして入手できることがた
びたびあった。持病の腰痛も緩和して体調も頗るよい。
そして、体調と同時に利安の精神に、主体性のよう
なものがもたらされたかもしれない。それまでの利安
は人が言うことはぼ全面的に受け入れてきた。自己主
張することはほとんどなかった。それは度量の大きさ
を示すことだと自負してきた。しかし、佳奈美と幾度
かパワーの溢れる聖地を巡るにおよんで、自分の寛容
は人に慰安を与えはするが、温泉や子犬や百二十円の
缶コーヒーほどの働きしかしておらず、用が済めばト
ラッシュ缶に捨てられる宿命しか待ち受けていないの
ではないか。自分には志や目標といったものがなく、
ただ人任せで、あたかも風になびく吹流しのように流
れ流れて流されて行き着く果ては河口のゴミ溜めにす
ぎないのではないかと訝るようになった。意志を持た
なければならない。「かくすべし」という強いウィル
を持って、その為ならば他との衝突も厭わぬ、他に迷
惑をかけても突き進むほどの強さ、それは東寺の明王
や四天王の形相が示唆を与えてくれた。強くなければ
本当の優しさもないのだと無言のうちに持国天や毘沙
門天は教えてくれた。
そのように思い至った利安は、丹沢の究極の癒しス
ポットへ行くという今回の佳奈美の誘いを拒否したの
だった。それを言ったときの佳奈美の顔の歪みは忘れ
ない。人を不快にして自らの意志を貫くことはかくも
快いものかと思ったものだった。これで自分は河口の
ゴミ溜め行き人生から脱却できる！ 佳奈美には振り
回されず、逆に佳奈美を意のままに従わせる男に変貌
できる！ と思った。
ところが、佳奈美は単独で丹沢に行ってしまった。
メールも来なくなった。余計な主体性を持ったがため
にこんなことになってしまった。これくらいならば、
主体を放棄して、佳奈美の下僕にでもなって従順にお
仕えし、ご主人様に餌を与えられんと尻尾を振る犬で
いたほうがマシだったではないか。
などと考えているうちに利安は眠りに陥って、気が
つくと明け方、携帯が点滅していた。メールが届いて
いた。・・・
○ ○
佳奈美と利安はディズニーシーにある「カフェ・ポ
ルトフィーノ」のメディタレーニアン・ハーバーに面
したパティオ（中庭) で向かい合っていた。
「パワー・スポットじゃないけど、どう、ディズニー
シーは」
「最高。来てよかった。利君の選択に間違いないです」
「本当に？ 佳奈美、変ったね」
「私、丹沢で、不思議なおばあさんに会って、説教さ
れました。これまで利君にはわがままばかり言って、
ごめんね。パワースポットなんかあちこち引きずり回
して、よく付き合ってくれました」
「好きで付き合ってたんだから、こっちは」
「私、わかったんです。私にとってのパワースポット
は、丹沢でも分杭峠でもありません。利君だったんで
す。利君のそばにいれば私はパワーをいっぱいもらう
ことができて、元気になれて生きる喜びも湧いてくる
んです。利君は私とっての聖地だったんです。こんな
私だけど今まで通りお付き合いしてください」
どこのおばあさんかは知らないが、じゃじゃ馬娘を
よくもこのように教育してくれたものだ。それもパワ
ー・スポットのお蔭かもしれない、と利安は考えるの
だった。
（了)
月刊ＷＥＢ風 ２０１１年１月号 通巻第２２号
［原稿用紙３０枚］