デンケン
大堀敏靖
早稲田に在学中、第二外国語にドイツ語を選択した
遠藤は坂崎という芸術も教える先生から特にこの「デ
ンケン」ということを教えられた。ドイツ語で「考え
る」ということである。「君たちはデンケンしていな
い。薄っぺらに生きている。そんな人間とはオレは口
を利きたくない」
遠藤はこの坂崎という芸術も教えるがドイツ語も教
える先生がどうも共産党支持であることから、思想的
には賛同できないと思っていたが、たびたびこの先生
の口から三島由紀夫の名が上った。共産党支持ながら
芸術を教える坂崎にとって美を追求した三島の作品は
看過しえないものだったらしい。
「三島は生涯三万枚の原稿を書いた。オレもそれをめ
ざしている」
三島はコミュニストを敵と定めて盾の会を初めとす
る国家主義的な行動をとり、昭和四十五年十一月に市
ヶ谷で自決した。「思想はよくないが三島は・・」と
よく坂崎は言っていた。遠藤は「思想はよくないが坂
崎先生は、デンケンということを教えてくれた」と回
想する。
考える。―――遠藤宗治はまじめな性格で、顔にも
背中にも刺青のように「真面目」という烙印が押され
ている。一時はそういう自分に嫌悪を催し、故意に「
不真面目」を装ったこともあったが、人はそういう遠
藤を夜、月が太陽のようにギラギラ輝き出したような
当惑した表情をするので、真面目な遠藤は人を不愉快
にするような行いは慎まなければならないとデンケン
して、真面目に復した。周囲はそれを歓迎しているよ
うであるので、遠藤はデンケンして、自分は真面目で
あるべきで、それが自分の生きるスタイルであって、
人類に貢献する手段でもあろうから、とにかく真面目
に徹しようと思った。そして坂崎の教えのように深く
物事を考え抜いてますます重厚な人間になろうと思っ
た。
遠藤がドイツ語を選択したのもドイツ語が曲がり角
も直角に曲がらないでは済まされないような真面目な
国民の使う真面目な言語だと思ったからである。フラ
ンス語は空気が抜けるような不良の言語に思え、イタ
リア語はやたら明るい、ふざけた言語に思えた。ロシ
ア語もいいと思ったが共産主義のソ連人が使う言語は
ダメだと思った。遠藤はベートーヴェンが好きで、ベ
ートーヴェンの使っていた言語という親しみもあった。
第九をドイツ語で歌いたいという夢があったが、これ
は学生になった一年目にあっさり実現してしまった。
「♪フロイデ シェーネル ゲッテル フンケン・・
・・ツェルト イーベル シュテルネン ムス エル
ヴォーネン♪」今でも遠藤は歌える。
まじめな遠藤が最近考えることは二つある。その一
つは、一年前から親しくしている女性、名前は田中美
穂というが、その美穂が「憲法第九条はすばらしい理
想だ」ということである。遠藤は三島由紀夫の考え方
に影響されて憲法九条では国は守れないし、九条の精
神こそ戦後の日本をだらしなくしてきた元凶だと考え
ている。他のことは大抵遠藤の意見に賛同し、従って
くれる美穂であるが、この一点だけは太陽が東から昇
って西に沈むような自明の前提として譲ろうとしなか
った。
「戦争はよくありません。宗クンだって戦争を肯定は
しないでしょう。戦争を禁じた九条は日本の誇りで、
世界の理想ですから」
いつも食事をする駅近くのファミレス「デニーズ」
で議論になることがある。
「戦争はよくないけど、日本だけ戦争しないと言った
って・・」
「人も世界も理想をめざして進んでいくんです。戦争
のない世の中はきっとやってきます。人間の力で人間
のする戦争を止めることはきっとできるはずです」
愛する女性美穂が確信をもって純粋な目をして訴え
るので、遠藤は頭がくらくらして、もしかしたらその
通りかもしれないと思ってしまう。しかし、
「いやいや、戦争のないことは理想で尊いけれども、
北朝鮮や中国やロシアのことを考えるととても、平和
を愛する諸国民とは言えないよ。何をするかわからな
いというのが、それらの国だよ。だからきちんと備え
をしないといけないと思うね」
「そういう考え方だといつまでたっても平和な世界に
ならないのじゃないかしら。どこかの国がきちんと理
想を掲げて多少の犠牲が出てもその理想を訴え続けれ
ば必ずそれに賛同してくれる国や人々が現れるはずで
す。日本はこういう憲法を持ったからにはこの理想を
貫く人類的使命を帯びているのじゃないかしら」
気立ての優しい美穂が言うことはあまりまちがいと
いうことはない。もしかしたら、自分の考えの方が粗
雑で誰かの受け売りで思慮の不足したものなのではな
いかと遠藤はデンケンしてしまう。三島の自決は個人
的なもので、彼一流のパフォーマンスに過ぎなかった
のではないか。そんな小説家の言動に思想の核を見出
して信奉している自分はもしかしたら間違っているの
ではないか。確かに軍備を整えて戦えるように万全に
備えれば他国の侵略は防げるかもしれない。しかし、
それは一国が救われるだけの話で、世界から戦争紛争
がなくなることにはつながらない。軍備を増やせば相
手方は脅威を抱いてさらにそれ以上の軍事力を持とう
とする。それがどんどんエスカレートして、福祉を犠
牲にして軍備ばかり膨れ上がる軍国主義の国ばかりに
なってそれが世界平和といえるのだろうか、などと考
えてしまう。しかし、
「いやいや。美穂の理想はいいと思うよ。でもね、理
想というものはいっぺんには実現しない。段階という
ものがあるんだよ。例えば暮らしの中で犯罪のない世
の中、災害のない生活というのは理想だけれども、実
際には強盗、殺人、窃盗など犯罪は毎日のように起こ
っているし、地震や津波、豪雨の災害も毎年のように
あるね。それだから備えをしないといけない。夜寝る
時や留守には家には施錠する。防犯のライトやブザー
を設置する。それから災害や事故、病気に備えて保険
に入るね。そうすると安心できる。そういう備えが必
要だということでそれが防衛力、軍事力なんじゃない
かな」
「そうですね。宗クンさすがです。でも戦争というの
は災害や病気とはちがいます。人間が欲を出して起こ
すことですから。そしてよく相手のことを知らない誤
解からも起こります。だからどちらかというと犯罪に
近いですけれど、個人が起こすことではありません。
国の政府が宣言して行うのが戦争です。そして政権を
担うのはどこの国も頭のいい人のはずです。これだけ
情報の発達した世界となったのですから、誤解という
のも昔よりは少なくなったでしょうし、戦争をしてい
いことなんかあまりないことは、わかっているはずで
す。自分の国だけではなく、世界や人類の立場に立て
ば、そんな愚かなことはしてはいけないとそろそろ悟
らなければいけないのじゃないかしら。何も知らない
罪のない人々が犠牲になり、傷つくようなことが正義
のはずはありませんから」
遠藤は腕組みをして考えてしまう。これが好きでも
ない相手なら感情を剥き出しにしてでも、相手が黙る
まで攻撃して論破しただろうが、相手は愛する美穂で
ある。こんなことで喧嘩したり、考え方の相違で別れ
るようなことは考えられない。しかし、美穂に全面的
に賛同してしまうことは自分のこれまで培ってきた思
想、生き方、考え方トータルを清算することになる。
女のために変節したとなっては友人にも笑われる。自
らの半生を否定することにもなる。遠藤は紙のおしぼ
りで改めて手をふいて、グラスの水を一口飲む。
「前から聞きたいと思っていたのだけれど、美穂はど
うしてそういう考え方をするようになったのかな。誰
の影響なの？」
「おじさんです。私のおじは変った人で未だに結婚も
せず、悠々自適に生活している人ですけど、よく勉強
していて話がすごくおもしろいのです。おじは平和主
義者ですから、人類がやがてもっと賢くなれば戦争の
ない世の中が来るはずで、憲法の精神が実現する世の
中になるかもしれないと言っています。私はそれは正
しいと思いました」
「おじさん・・ああ、前にも話していたね。おじさん
は天皇制についてはどう思ってるの」
「皇室を敬っているようです。部屋には皇室一家の写
真が掲げられていてそれが毎年更新されています。私
はそれをみるのが楽しみです」
遠藤は理解できない。皇室を敬うような人間は大抵
愛国主義者であるから、国の守りを重視して、戦って
でも守らなければならないものを明確に把握している
から反戦主義にはならないはずである。
「おじが言うには天皇はいつも国民の幸せと世界平和
を心から祈っているそうです。それは純粋な気持ちを
持っていて、他の国の為政者とは次元が違うそうです。
ローマ法王の祈りに近いそうです。それが歴代続いて
いる皇室の伝統でこれさえ守れば日本は大丈夫なのだ
とおじは言っていました。だから、私は今の平和憲法
は皇室の考え方に合致していると思います」
天皇陛下は確かに他国の大統領や主席とは違い、純
粋な気持ちで国の安寧、世界の平和を祈ってらっしゃ
る。政敵がいるわけではない。その地位が脅かされる
わけではない。再選をめざして画策する必要もない。
パフォーマンスをする必要もない。極めて平静な心で
全体を見渡すことができるお立場である。明治天皇は
「四方の海みなはらからと思う世になどなみかぜの立
ちさわぐらむ」という歌を日露戦争前にお詠みになり
昭和天皇は大東亜戦争開戦が避けられない状況の中で
またこの歌を政治家たちに示された。戦争をすること
は皇室の本意ではない。しかし、無防備でみすみす他
国に侵略され、蹂躙されることを中心者として許容さ
れるはずもない。それは昭和天皇が、今の憲法の下で
軍隊を持たなくなったときに「それでは国の守りはど
うするのか」とご下問になったことでも確かである。
「陛下が今の憲法を率直にどう思われているのかそれ
はわからないね」
「昭和天皇が亡くなって皇位を引き継ぐ時、天皇はそ
の決意の言葉の中で、憲法を遵守する、とはっきり言
ったそうですから、やっぱり今の憲法は尊重している
のじゃないかしら」
「陛下」ではなく、「天皇」という言い方は気にな
ったが美穂と彼女に影響を及ぼしているおじさんが皇
室に対しては敬意を払っていることにひとまずは安心
した。これが反戦・反天皇であったら、今後の付き合
いは困難を極める。思想信条が異なる夫婦、例えば唯
物論者とキリスト者とか、極左と極右のカップル、理
系と文系の夫婦などは世界を見渡せばいくらでもある
のだろう。しかし、恋愛が覚めてから、事あるごとに
意見が分れていては家庭は円満にはいかない。子ども
の教育上もよくないだろう。どちらかが折れて意見を
統一した方がいい。そういう場合、遠藤は自分が折れ
るということは今のところ考えられなかった。自分は
正しいと思っているからである。折れるのは女性であ
る美穂の方である。こういう考え方は男女共同参画社
会やジェンダー・フリーを熱心に推進する女性活動家
が聞けば抗議の対象なる。
それはともかく、今の憲法をどうとらえるか、絶対
まちがっていると確信していた遠藤であったが、美穂
があれほど肯定することは一考に価するかもしれない
と思った。無碍に否定してしまうにはあまりにも日本
人の中に深く定着し過ぎ、かつ根深い何かを含んでい
るかも知れないと思った。デンケンに値する問題かも
しれない。
いま一つの遠藤が考えることは、実に他愛もないこ
とで、実生活とは遊離した人から笑われるような問題
なのであるが、彼にとってはあながち他愛もないとは
言っていられない深刻味を最近帯びてきた。真面目に
考えれば考えるほど訳がわからなくなって普通人なら
ばやがて放擲するところを真面目であるがゆえに遠藤
は考え続けている。
遠藤はしばしば空を飛ぶ夢を見た。手を真っ直ぐに
上方に伸ばし、身体に巧みに力を入れると足が地上を
離れる。さらに力を入れて手を真っ直ぐに伸ばし続け
ることによって身体はみるみる上昇していく。電柱の
高さを越え、家々の甍が見える。さらに山よりも高く
上り、神社の森、川の蛇行など航空写真と同じ風景が
眼下に展開する。高所恐怖症である彼は突然飛翔する
能力が失せてしまったら落下するしかないだろうと考
えると恐ろしいのであるが、それ以上に自由に空中に
飛翔する快感が優っている。
ところがその日の夢は空中に浮かんだ途端に背中に
違和感を覚えて少し振り返ると紅白歌合戦の某歌手の
ように羽が広がっていることに気づいた。鳥、いやそ
れは蝶の羽であった。羽が生えたことを確認した途端
に全身が蝶になり、触覚が生え、口には蜜を吸うスト
ローが丸かっていた。スケールもぐっと小さくなって
本物の蝶になっていた。蝶の仕事は蜜を吸い、雄と交
尾をして卵を産むことである。遠藤は雌の設定になっ
ていた。お花畑を探してせわしなく羽を動かしている
と、はたして、菜の花畑に行き着いた。そこには食料
が豊富にありそうである。そして伴侶とすべき相手も
見つかりそうである。先客のいない菜の花の一つに羽
を休めていると、そこにスマートな雄が飛んできた。
なかなかのイケメンだった。それが美穂だということ
はすぐにわかった。
「美穂だろう。僕にはわかる。雌雄逆転しているけれ
ど」
「宗クン。私、恥ずかしいです。雄なって私から積極
的に恥ずかしいことをしなければならないのですから」
「恥ずかしいことではないよ。子孫繁栄のために神様
が仕組まれたことだから。恥ずかしいなんて思うのは
人間だけで蝶になった僕たちは自然なんだ」
美穂は積極的に遠藤を食事に誘い二匹の蝶は仲睦ま
じげに後になり先になり、時折美穂が遠藤に向かって
交尾をするような性急な仕草をした。
たっぷりと蜜を味わった二匹の蝶はやがて幸せの中
で交尾した。美穂は一直線に、烈しく遠藤に迫り、遠
藤をとらえて離さなかった。遠藤の体内には美穂から
の体液が送り込まれ、数十個の卵はめでたく受精した。
イケメン蝶の美穂は遠藤がキャベツの葉の裏に産卵す
るのを優しく見守った。しかし、このとき人間という
恐るべき天敵が彼らの背後に迫っているのを漠然と予
兆するところで遠藤は目を覚ました。
あまりに生々しい夢で、とても夢とは思われなかっ
たので目覚めてすぐに彼は肩甲骨に手を触れて確認し
たくらいである。当然某歌手が紅白歌合戦で纏うよう
な羽は消滅していた。夢幻と消えて、雄の蝶になった
美穂も自分が苦しみながら産んだ卵も見当たらなかっ
た。夢を見ていたに過ぎなかった。通常ならば「あぁ、
ばかばかしい夢を見たものだ」で終わって、現実の生
活に回帰するのであるが、この日の遠藤は見た夢のあ
まりの生々しさにそれができなかった。そして次のよ
うにデンケンするのであった。
「自分は蝶になった夢を見て今目覚めたのであるが、
はたして遠藤宗治という人間が眠っている時に蝶にな
った夢を見たのが本当なのだろうか。いや、もしかし
たら、雌の蝶が今人間となった夢を見ているのが実際
ではないのだろうか。それを、ばかなことだ、とどう
して否定できようか、いやできない。自分は本当は蝶
なのかもしれない。蝶がはたしてこのような人間的思
考をするものだろうか。考えることは人間に与えられ
た特権ではないのか。しかし、蝶とて脳みそはあるだ
ろう。万有引力に抗してひらひらと舞うという人間に
は到底真似のできない能力があるくらいだから、頭の
中で思考するくらいは結構やっているのじゃないか。
夢も見るだろう。そして人間より長く見るのかもしれ
ない。そういうことは蝶に訊いてみないとわからない。
しかし、それは蝶と会話できない人間には能わぬこと
である。であるから、わからないことは否定し去る訳
にはいかない。ということは自分が本当は蝶である可
能性はあるということである」
ドイツ語教師坂崎の忠実な教え子である遠藤宗治は
より重厚な人間たらんと欲してこのような常軌を逸し
た思索を真面目にした結果、自分の正体は蝶なのかも
知れないと本気で疑い出したのであった。
一応の常識を持っている遠藤はこのような内面を人
に語ることはさすがに憚られた。一笑に付されるのが
落ちである。こんなことはサンタクロースの存在を確
信している小学生の低学年くらいにしか受け入れられ
ない。しかし、遠藤は、美穂は違うと思った。美穂な
らわかってくれるはずである。いつもの駅近くのファ
ミレス「デニーズ」に向かい合わせたときこれを話し
た。するとどうであろう、美穂は聞きながらはらはら
と落涙するのだった。
「え、どうして、何か悪いこと言ったかな・・」
「ちがいます」美穂はバッグから取り出したハンカチ
で頬をつたう涙をぬぐい目元を押さえながら言う。
「昨夜、私は宗クンとまったく同じ夢を見たのです。
私も背中から羽が生えて、自由に空を飛べる雄の蝶に
なっていました。そして本当にかわいい雌の蝶に恋を
して、蜜を共に吸って、結婚したのです。やっぱりあ
れは宗クンだったのですね。私もはじめからそれを信
じていました。夢の中で私はいつもと違って積極的に
していました。男性ですからね。すこし嫌がる宗クン
に、はしたないことを強引にするので自分でもびっく
りしていました。こんなことってあるのかしら。まっ
たく同じ夢を見て、シチュエイションまで符合するな
んて。でも私と宗クンのつながりがこんなに深いと思
うと嬉しくて私、泣いてしまいました」
遠藤は驚いたが、もしも蝶である自分が人間になっ
た夢を見ているとするなら、夢の世界ならなんでもあ
りなのだから、これくらいの偶然や神秘はむしろ当然
だといえる。美穂は自分を人間だと思っているだろう
が、この夢の中に存在する美穂という客体は果たして
実在なのだろうか。美穂も蝶なのだとすれば、主体と
してやはり人間になった夢を見て、今ここに遠藤の夢
と重なって現れていることになる。・・何が何だかよ
くわからない。
しかし、ここで考えることを放棄してしまっては、
坂崎の教えに反することになる。どこまでもデンケン
を継続しなければならない。
「僕は自分が蝶なのか人間なのかよくわからないのだ
けれども、いずれにしても美穂と一緒にいられるとい
うことはよかったと思う。雌でも雄でも僕はかまわな
い。今は人間としてこうして向かい合っているけれど
も、蝶として性を逆転させて会っているときも楽しい
ということは分ったから」
「ええ。私も少しはしたなくて恥ずかしいけれどもか
まいません」
日本国憲法の精神は果たして恒久普遍の真理を含ん
だ素晴らしいものなのか、それともアメリカがただ日
本の永久武装解除を願って押し付けただけのものなの
か。そして人間である自分が夢の中で蝶になっただけ
なのか、それとも蝶が人間なった夢を見ているのが本
当なのか。
この二つの二律背反的公案は人間存在の根本に関わ
る命題で熟慮に値する、と少なくとも遠藤は考えた。
そして美穂も同意してくれるだろう。しかし、前者に
関して美穂は自分の意見が正しいと頑張っているので、
葛藤はない。
遠藤は腕組みした。休日の今日は徹底的に考えてみ
ようと思った。岡潔という数学者は小林秀雄に「眠く
なるまで考えなければいけない」と言ったそうである。
それくらい考え抜くと真理に到達できるのだろう。人
間は深くなるのだろう。
一時間ほど経過して、遠藤はふと窓外に目をやると、
広い庭の池に鷺が降り立ったのを認めた。鶴に似てい
るが、身体は小さくて鶴ほど品格のある鳥ではない。
魚やオタマジャクシをくわえながら飛んで不器用なの
でよく取りこぼす。路上に魚やオタマジャクシが散乱
しているものだから、怪奇現象と騒がれたこともある。
近年増えすぎて糞公害もある。思索に疲れた遠藤は、
鷺に鯉の稚魚を食べられては困ると思い、追っ払って
やろうと庭に出た。竹箒を手にした。ところが至近距
離まで近づいても鷺は逃げない。立ったまま眠ってい
るのかとも思ったがそうでもないようで、一点を凝視
している。さらに近づいて見ると、鷺は一匹の蛙を捕
獲しようとして佇立しているのだった。だから遠藤が
近づいても気がつかないのだ。そして、鷺の食べよう
とする蛙を見ると、この蛙も暢気なヤツなのか逃げよ
うとしない。しかし、よくよく見ればこの蛙も視線の
先には小さな甲虫がいてそれを窺っているため、自分
が狙われていることに気がつかないのだった。
このとき、遠藤宗治は「鷺、蛙、甲虫、みんな自分が
今害されようとしていることに気がつかず、それぞ
れ他のものを害することばかりを考えている。自分は
また、鷺を追っ払おうとして竹箒を振り上げているが、
自分より上位のものがあって、自分を狙って害しよう
とする存在に気がついてはいない」と考えたとき、天
空に巨大な目を感じた。上方を仰ぐと果たして、こち
らを窺う巨大な目はまばたきをし、眼球もぎょろりと
動かしたように感じた。遠藤は戦慄して、竹箒を放り
出して家の中に逃げ込んだ。
いつまで経っても震えが止まらないので、遠藤は全
てをわかってくれるであろう美穂に携帯で電話した。
「美穂、僕は蝶なんだろうか。人間が僕を捕獲しよう
としているかもしれない。美穂も危ないかもしれない。
世界平和はいつやってくるんだろうか。弱いものが強
いものに狙われて殺されるような世の中はいつなくな
るんだろう、美穂」
「宗クン。落ち着いて。だいじょうぶです。今すぐ行
きますから」
駅を挟んで反対側に住む美穂はすぐに軽自動車に乗
ってやってきた。そのころには遠藤は落ち着きを取り
戻していた。
「ごめん。考えすぎて神経質になっていたのかもしれ
ない」
「いいですよ。私がいますから。安心して」
美穂はこのとき初めて遠藤宗治の手を優しく両手で
握った。そして遠藤は人の温もりというものを初めて
感じたように思った。
「宗クン、あなたは賢いのです。そんな風に考えるこ
とができるのはとても賢いのですよ」
庭の池の鷺はもういなくなっていた。窓外にはただ
いつもの風景が広がっているばかりであった。
（了）
（『今昔物語集』「荘子、見畜類所行走逃語」による）
月刊ＷＥＢ風 ２０１０年１１月号 通巻第２０号
［原稿用紙２５枚］