最近のその男の
ヰタ・セクスアリス
大堀敏靖
その男は教育が職業である。
教育者というからには教える児童・生徒たちにとっ
て模範的聖人・君子たるべきである。その男も少しは
その自覚があって、香気漂うような威厳のある人格者
たらんとして、日々心がけている部分もある。例えば
細かなことであるが席を立つときはどんなに寸刻であ
ろうと必ず椅子は机の下に入れることにしている。郵
便物が届いた場合は手でいぎたなく破ったりせず面倒
でも必ずはさみを使って開封する、というようなこと
である。挨拶をする、履物をそろえるということも日
々生徒たちに声を枯らして訴えていることで男自ら率
先垂範している。生徒たちの方ではそういう男を変な
ことにこだわる口うるさいおっさんぐらいにしか思っ
ていないのであるが、男は自分を真正の教育者として
自負している。「躾こそ教育！」これが男の最近よく
口に上るフレーズで、「そうだな。尤もだ」と仲間も
言ってくれる。
しかし、四十を越えた男が教育者に徹しきれない部
分があるのは彼が人間であるから致し方のないことで
ある。彼が持て余すものは何故か人よりも旺盛なる
sexual desire である。それが人より旺盛であるか
どうか定かではないが自分は異常かもしれないと思っ
た事実がある。
男子のそれのピークは大抵十代後半である。この頃
の男子というのは女のことしか考えていない。寝ても
覚めても女体を妄想し、床に入れば手は下半身に伸び
る。男はその頃毎日手慰みをしていた。ほとんど日課
になっていた。現今のようにビデオやＤＶＤ作品のな
い頃である。ビニルに封じられた写真本を密かに購入
し、独り部屋に入るとちょうど強姦する男が女の衣服
を剥ぎ取るようにビニルを破り、眩しいもので見るよ
うに頁を一枚一枚めくっていくのに異様な興奮を覚え
るのだった。大体この手の本の構成は誘うような目を
した化粧の濃い女が、一枚一枚衣服をはずしてやがて
裸体となり、淫らな姿態を繰り広げていくうちに男が
現れて、この女を好きなように弄んで、女の身体に体
液をかけて去っていくというものが多かった。男は次
第に女が裸体になっていく過程にもっとも精神を高揚
させて、下半身を摩擦しながら、あまりにもよくでき
た作品には声をもらすこともあった。それどころか、
photographに接吻すらした。物の本によれば、実際に
生身の女を相手にするのも手淫も性欲の処理としては
差はないということであった。卑猥本を見るというこ
とは友人たちもよく話題に上らせていたことであるか
ら、皆同じようなことをするものと思っていたが、
photo に接吻して、声を発したり、一日に七回も手淫
することはありえないということだった。精精週に二
回ほどで、そんなことしたことはないという者までい
た。友人たちは夢精のことを話していたが、男は実は
一度も夢精したことがなかった。それは簡単な理由で
夢精になるほど精嚢の中に精子を溜め込まなかったか
らである。
男が手淫を覚えたのは小学校入学前のことである。
ある日ベッドに座り膝に毛布をかけてその毛布の中で
股間を摩擦しているうちに快感を伴った。股間は固く
突起し、刺激を重ねるとますます快感は昂じるので、
ますます刺激する。どこへ行くとも知れぬ列車は驀走
し、レールも離れるかと思われるところで、納得のい
く極みがあって、列車は停止した。充実した余韻があ
った。これはなんだったのだろう、男は思った。だれ
にも聞けない。よからぬ背徳的なことであることは察
しがついたからである。
やがてこれが男女を問わぬ柔らく白い尻の空想と結
びつき、そして女体へと限定された。学校の女教員、
活発な女の同級生、週刊誌や新聞の芸能人や宣伝のモ
デルの photo などが、男の密かな遊戯の対象となっ
た。やがて男は友人などから知識を得て、突起物を女
体の下部に挿入することによって受精となり、生命が
宿ることを知った。友人に教えられたとおり、男の突
起物からもやがて白濁したものが快感の極みに噴出す
るようになった。文字通り噴水のように飛び散って自
らの顔や衣服にかかることもあった。30センチにも余
る長大な一物を持つ黒色人種は天井まで吹き上げるの
だと何かで読んだことがある。生殖の本能はそれくら
い盛んでないと人類は栄えない。近年流行の「草食系
男子」などは濃度の薄い液体がわずかに滲み出る程度
なのであろう。それでは将来が不安になる。
十代から多いときは一日に七回も噴出させていた男
は自分は異常ではないかと思ったが、かの昭和の文豪
三島由紀夫も「仮面の告白」で同じ一日七回を書いて
いた。尤も三島の対象は聖セバスチャンが裸体で縛り
上げられ、矢を突き刺された異様な絵画であった。文
豪ともなるとやはり違う。三島はそのため階段を駆け
上がると立ち眩みがして、十二指腸炎を患った。あま
りやり過ぎると神経衰弱になると書いてあった本もあ
った。悪い人間にこれを教えられた靖国神社の猿は毎
日やり続けて死んでしまったと聞いたこともある。世
の中には上には上があるが、とにかく男は普通人より
度が過ぎるので慎まねばならぬと思った。
二十代も毎日女のことを考え続け、自慰に励む毎日
を送り、三十代になっても取り憑かれたようにmastur
bationに励んだ。放出したSamen のトータルはド
ラム缶半分くらいにはなるだろう。天文学的な数の精
子があたら無駄に放出され、一匹も生かされなかった。
その中の数万分の一は女体の内部に放出されたが、卵
子にまでは至らなかった。あるいは男の知らないどこ
かで父を知らぬ生命体となって現存しているかもしれ
ない。
四十を越えてさすがに男のsexual desire は一時
衰えるかに見えた。男が三十代に好んでした空想は
harem である。好みの女を四、五人、男の横臥した周
囲に配置して、奉仕せしめる。どの女も愛するに足る
美貌あるいは肉感的魅力を持っている。一人ずつ愛し
ながら気まぐれに目移りして他の女に愛撫を移す。こ
れが無上の興奮をもたらしたものだった。
ところが四十を越えてからいつとはなしに、仕事の
方に頭を満たして快楽も面倒に思うようになった。女
性はこれくらいの頃が盛りなのだが、男性はひたすら
下降していく。三十代は日に三回くらいは立て続けで
も突起できた男の一物が、一度放出してしまうと無常
の風が吹いて、出家でもしたくなる気分になり、ふに
ゃふにゃのちくわになってしまう。女体も魚市場に横
たわるまぐろと変わりなく思え、性交も哀しい人間の
営みに思われるのみで、よだれを垂らしてまで渇望す
ることには思われなくなる。
Viagraを使用して若い女の子（24歳）と遊ぶ友人の
話を聞いた。友人はどう見ても不細工の部類の風貌で
あるのだが、医師である肩書きと財力にモノを言わせ
ている。友人が言うには本当に愛してくれていて、金
なんか要らないという。いつでもケータイで呼び出せ
ば来てくれる。むこうからも「逢いたい」とメールも
来る。それでも金を渡しているのだから、やっぱり向
こうは金、あるいは医者と付き合うという見栄の満足
こちらは体が目当ての割り切った付き合いなのだろう
。そしてこの関係にはViagraが不可欠となっている。
五十を越えた先輩はやはりViagraで外の女と遊び、
とても素では立たなくなった対象の内儀もViagraで折
々愛しているのだと言った。その愛妻ぶりに男は少な
からず感動した。薬を飲んでまで古女房に奉仕する！
男の鏡ではないか。
それで男は自分も真に愛する人を喜ばせるにはViag
raを服用して、しっかりと中心の足を立たせて、体力
の続く限り腰を揺すり、女が歓喜の悲鳴を上げるまで
愛し続けなければならない、それは薬を使ってでもす
るべきことだと思った。
しかし、男はそんな薬を使うまでもなく、また精力
を最近回復しつつある。自分はまだまだいけると思う
ようになった。久しぶりに四人の女のharem を思い浮
かべた。
四人とはまず、歓楽街の女美樹である。年は三十二
源氏名をさくらというが、男は必ず本名を訊きだして
その名を絶頂の際に連呼する。「美樹、美樹、美樹」
という。女の方では別に店の名前のさくらでもいいの
だが自分のことを言ってくれているには変わりないの
だから、それくらい気に入られていることはわかって
悪い気はしないだろう。しかし、男としては他の客と
の差別化のためにもぜひ本名で愛したかった。美樹を
三年間指名し続け、馴染みの客となった。
土の中の野菜が好きだと聞いては、レンコンや甘藷
を高島屋の地下で購入し、運んだ。家の庭で馬鈴薯を
栽培し、持参した。旅行に行っては必ず地酒を買って
美樹様に献上した。メアドを訊き出して度々メールし
た。たいていそっけない返事しか返ってこなかった。
店であまり人気のある方ではない。ナンバーワンの娘
なら、どんな客にも度々気の利いたメールを配信して
客を引き付けておくだろう。甘えることの下手な美樹
は素っ気ないメールしか返さないのであるが、そこに
営業ではない本心が表れていて、男は美樹から離れら
れないでいた。もう一つの美樹から離れられない要因
は、本気で感じてくれることだった。愛撫して声を漏
らして、手を下方に持っていった時に、そこは潤って
いなければならない。声だけでまったく潤いのないco
mpanion もいた。美樹はしとどに濡れていた。仕事を
忘れたかに思えるほど本気でしがみついてきた。
Harem 第二の女は教え子の美穂である。これが空想
でなく、現実となれば、prohibition である。したが
って男はそんなことは決して口外しないのであるが、
他に知られたくなくても美穂には是非男の気持ちを知
ってもらいたいと思っている。年齢差は三十、生徒の
ファイルを見ると男は美穂の父親より二つ年長である
ことを知った。美穂と自分がprohibition を破り、結
婚することになれば、年下の父に頭を下げてお願いに
行くことになる。年下の男を「お父さん」と呼ぶこと
になる。それも悪くはないと思うが、先方が承知しな
いであろう。大事な娘を自分より年長の男に嫁がせ、
早く未亡人にしてしまうことを考えない父はいない。
しかし、美穂はすぐにでも嫁にしたいような落ち着き
と品性と優しさを備えた娘で、男が教場で教鞭を振る
っているときも並み居る生徒の一隅から必ず美穂の熱
い視線を感じて、目を合わすことが度々あった。話し
かけると必ず静かに微笑して男を受け入れてくれた。
美人ではない。肉感的でもない。しかし、最近男は床
に入ると必ず美穂のことを考え、枕を美穂の体に見立
ててつぶれるくらいに抱擁した。
Harem 第三の女はファミレスの店員である。男はフ
ァミレスでよく読書をした。ネット・カフェの方が静
かなのだが、パソコンがあるとついついよからぬサイ
トに接続してしまって読書にならない。多少うるさく
ても人目のあるファミレスの方がよく読めた。その女
は汐香といってデニーズの店員だった。
「いらっしゃいませ。デニーズへようこそ、ってか、
また来たか」
この娘も実はかつての教え子である。
「ヤッくん、私のこと好きなんだ」
男は気安く名前で呼ばれ、本心は見抜かれていた。
小柄で、細身なのだが、姿勢がよく、理想的な整った
乳房、腰は美しくくびれていた。男が店に訪れると頻
繁に水を継ぎにやってきて、短い時間でも細切れに最
近の生活を詳細に語った。
「てかさ、マジうざくネ？」
しゃべり口調はヤンキーだった。頼みもしないブル
ーベリーヨーグルト・パフェなどを運んできた。
教え子汐香は二十五、第一の美樹と同様遊ぶにふさ
わしい女で真剣に交際とか結婚とか考える対象ではな
い。しかし、男が四十数年間好きになった女はたいて
いこの汐香のような派手目の女が多かった。理由はわ
からないが、aggressiveな女に惹かれるような前世か
ら持ち越した宿命があった。
そして第四の女はadult video の女優、日向夕梨亜で
ある。あまり有名ではないが、かなり多くの作品に出
演、主演している。
好みの女優は変遷していく。今現実に愛している女
と似た女を探す。そうするとそっくりではないにして
も、タイプが似た女優は必ず見つかった。日向夕梨亜
は美樹や汐香とタイプが同じだった。
かわいい顔に似ず、相当ハードな内容の作品に出演
していた。相手の男のsamen を平気で飲み込み、涎を
垂らし、放尿もした。電動のドリルの先に一物の模型
をつけたものを前後のholeに同時に挿入され、絶叫し
て失神する作品は見ものだった。男は自分はどちらか
というとＭだと思っているが、女を縛ってこのように
何度もイカセて、苦痛だか悦びだか絶叫させるのもい
いと思った。
以上四名の女、美樹、美穂、汐香、夕梨亜を横たわ
った男の脇に二名ずつ配置する。美樹に左手、美穂に
右手を伸ばし、汐香に左足、夕梨亜に右足を愛撫させ
る。第三の足は汐香と夕梨亜が奪い合いになり、交互
に愛撫することになる。男の顔には美樹と美穂が代わ
る代わる乳房を押し付けて濃厚な接吻を求めてくる。
男の左右の手は美樹と美穂の陰部に伸びている。どの
女も平等に愛することができる。しかし、瞬間瞬間に
は、一人ひとりの女を無上にいとおしいと思い、「美
樹！」と声をあげ、「美穂！」と叫んで、「汐香！」
と甘えて、「夕梨亜！」と求愛する。四人の女を自分
に侍らせ独占しているという満足感が無上の悦楽をも
たらした。そのため男の第三の足はまっすぐに屹立し
若い頃と変わらぬ充実したハリとツヤを奪還したのだ
ろう。こういう空想からしばらく遠ざかっていたため
すっかり減退したと思っていたがそうではなかった。
名刀は鞘に収まっていただけだった。Viagraの力を借
りなくてもまだまだいけると確信した。
※ ※
今だ独身の男はたびたび見合いをした。自分でもこ
のままではいけないことはわかっていた。好みの女が
現れれば結婚しようと思っていた。ところが紹介され
る女は男の空想上のhareｍに加われる女は稀でたまに
美人がいても、性質が納得いかなかった。向こうから
断れることが多かったが、性質の良さそうな女はたい
てい男との結婚を切望した。しかし、どうしてもそう
いう女とのsexualな関係は想像外だったため、色々理
由を作って破談にしていた。その度に結婚を斡旋する
世話焼き婆に呼び出され、厳しく叱責された。
「あんた、何考えとりゃーす。せっかく先方は乗り気
やったに、理由にもならん理由で断ってまって。あん
なええ娘おらんやろ、どこが気に食わんの。あんた。
いつまで我がまま言っとりゃーすつもりや。年考えな
あかんて、年を。ほんなことしとったら、あんた、チ
ンチンも立たんようになってまうがね。まあ、今でも
立たんやろ。ふにゃチンやねぇのかね。先方の娘は泣
いてりゃーしたそうやわ。気にいらんなら、なんでま
っと早う言ってまえなんだってカンカンに怒っとりゃ
ーすわ。あんたはええよ。いやや、の一言で済むんや
で。あての身にもなってみぃ。平身低頭して謝らんな
らんがね。わかっとるのかね。何へらへら笑っとるの。
真剣に聞かんかね」
harem 四人の女のうち、結婚を考えた場合、最も現
実的な年齢は美樹で十三歳の年齢差である。しかし、
商売女で周囲が承知しないだろう。一番結婚するにふ
さわしい女は美穂ですぐにでも嫁にして一緒に暮らし
たいくらいだが、法的に結婚できる年齢に満たない。
汐香は二十の年齢差があるが、一番気を使わなくても
いい気楽な相手である。他には凶暴でも男には優しく
してくれるかもしれない。しかし、ヤンキーなので恋
愛感情が冷めて敵に回したりしたら大変そうである。
夕梨亜を嫁にもらえば夜毎狂おしいsexual partyとな
ってめくるめく快楽の極地を味わえるかもしれないが
なにしろ平面的、しかも一方的にしか会ったことはな
いのであるから、現実的相手としては考えられない。
周囲の反対を押し切っても夜の女美樹と結婚するか
父親を説得し、ムリなら駆け落ちしてでも美穂と三十
の年齢差を越えて結ばれるか、多少の人生波乱は覚悟
で、気の置けない汐香を伴侶としてしまうか。男が本
気になればこれらの女との結婚は不可能ではなかろう
と思われた。しかし、それは「それから」の代助のよ
うに逆流の中に抜き手を切って泳いでいくような困難
が待ち受けている。
とにかく結婚ということであれば、主体を放棄して
世話焼き婆のいいなりになって、勧められた相手とse
xual life は考えずに結婚してしまうという第四の選
択も考えられた。現実といえば、これが一番現実的で
実現の可能性は高いだろう。
しかし、男の人生の主要な部分を占めるvita sexua
lis は永遠に埋没せしめられることとなる。肉体を愛
するか、美穂のように精神を愛するか、そのいずれも
できない結婚は不幸だろう。相手にとっても失礼であ
る。肉体か、精神のどちらか、でき得ればその両方を
相愛する結婚が望ましい。
月日は矢のように無情に過ぎてゆく。あっという間
に五十になってしまう。男は煩悶していた。
※ ※
「豆の保存ですか。それは重要ですぞ。珈琲は生鮮
食品です。豆は七日間、粉は三日、煎れた珈琲は三十
分が消費期限ですぞ。焼きたてのパン、炊きたてのご
飯がおいしいと同様、珈琲も煎りたて、挽きたて、焼
きたてがおいしいのです。魚の刺し身が秒単位で劣化
していくのと同様、珈琲も劣化、酸化していきます。
空気を遮断した密封容器に保存せねばいけませんな」
男は友人から紹介された「癒しの先生」小路雄馬を
訪ねていた。珈琲を飲ませてもらうだけでも行く価値
はあると教えられた。
小路が煎れてくれる珈琲の香が部屋中に満ちてくる。
男は近年味わったことのない、心の落ち着きを感じて
いる。妙に落ち着いて、子供の頃のことを先刻から思
い出したりしている。ここへは初めて来たのだが、以
前来たことがあるような気もした。既視感 dejavu だ
ろうか。
「ここに来た人はたいてい同じことを言います。何か
心に迷いがある人は心の置き所をなくしているのです
な。そこへ私が珈琲を煎れましょうか、と言う。それ
だけで救われたような気持ちになって、心の置き所を
そこに見出すのでしょうな。おそらく」
男は部屋の隅にある黒っぽいものは何かと尋ねる。
「あれは備長炭です。空気を浄化してくれます。香を
少し焚いていますが、今は珈琲の香で掻き消されてい
ます。モーツァルトも流してあります。モーツァルト
を聞くと子どもも落ち着いて健康な子が育つ。ペット
もよく育ちますぞ。クワガタの幼虫にモーツァルトを
聞かせて育てている人もいますな」
男の前に小路が煎れた珈琲が出される。焙煎したば
かりの、挽きたて、煎りたての珈琲である。取れたて
の魚を船の上でさばいて醤油につけて食べるようなも
のである。ただの珈琲とは思えない。純金を溶解させ
て、珈琲茶碗に流し込んだもののように思える。立ち
上る湯気も絵になる気品がある。味は時々飲む近所の
喫茶店の出涸らしコーヒーなどとは比べものにもなら
なかった。純金が芳香を放ちながら舌から喉へと流れ
ていった。まったく癖のない浅煎りで少し酸味のある
まろやかな液体が体内に染み入るように下っていく。
「どうですかな。少しは違いますか」
男は率直に小路の煎れた珈琲を、革命だといって褒め
る。
「それは言いすぎでしょう。ときに、あなたのお悩み
についてお答えせねばなりませんな。心に思う四人の
女人がいて、しかし、そのいずれも結婚は難しいとい
うことでしたな。しかし、あなたはぜひ結婚はしたい
ということですな」
男は珈琲とともに出されたカリントウとナッツをつ
まむ。
「私がとやかく言うことではなくて、最終的にはあな
たが決められることでしょうな。ただ言っておきたい
のは、商売女だからとか、年が違いすぎるとか、そん
なことは問題にしてはいけないということです。倉田
百三の『出家とその弟子』は商売女を妻に迎えたお坊
さんの物語ですぞ。私の友人はある小学校の校長をし
ているが、やはり、元トルコ嬢、いまではソープラン
ド嬢というらしいが、周囲の反対を物ともせず結婚し
子どもにも恵まれて幸せにしています。校長としての
信頼も高い。内儀はたいへんできた人で私も会ったこ
とがありますが、落ち着いた美しい人でした。職業は
関係ありません」
男は珈琲茶碗を右手に持つ。また一口飲む。
「年の差もですぞ。私の知人の大学教授は今年二十五
歳年下の若妻をもらって元気にしてますな。若い奥さ
んなんだが、女は変身が速い。すっかり女房になって
五十歳の旦那の世話を焼いている。芸能人なんかも随
分年をとってから若い人をもらう人がいますな。こな
いだも歌舞伎役者が七十代で十代の芸伎に子どもを生
ませたといっていた。中国ではノーベル物理学賞を受
賞した八十二歳の老先生が二十八歳の教え子と結婚し
ましたぞ。年の差は五十四。さらにアフリカのソマリ
アでは百十二歳の部族の酋長が十七歳の娘と結婚した
らしいですな。年の差九十五。二十や三十の違いはな
んてことはありませんぞ。まったく気にすることはな
い」
男は珈琲茶碗を置く。
「ただし皆男としての魅力を持ち続けていたというの
が共通しています。普通の老いぼれじいさんではさす
がに若い女の子は寄り付かない。女性を愛し、仕事を
愛していれば百歳超えても女性はやってくるでしょう
な」
男は勇気が湧いてくる気がした。小路に四人のうち
誰がいいかと尋ねた。
「さぁ、それはあなたがお決めになることだ。結婚す
るのは一人にしても四人ともいいのならそれでいいで
はありませんか。精神に引かれる美穂さんと結婚して
あとの女性とも気軽に付き合えばよい」
男は驚いた。そんなことしていいのだろうか。
「いいも悪いも人間の内面まで取り締まる法律はあり
えませんから、誰を好きになろうと自由ですぞ。好き
なら好きで結構。嫌いよりは健全で明るいことです。
図太く愛すればよい。徹底的に好きになればいい。な
ぜそれが悪いのです」
考えてみれば一人に絞り込むべきだと自分で制限し
ていた。何も悪くはない。
「後悔のないようにしっかり愛して、仲良くされたら
いい。それはおそらく造物主も望まれることでしょう。
性は神から与えられた快楽ですから、謹んで受けるべ
きです。しっかり働いてしっかり愛してしかる後に受
ける快楽ならば摂理に叶っているはずですぞ」
話が少し宗教染みてきたところで男はその場を辞す
ることにした。心は大変自由になった。好きな女は好
きでいようと思った。快楽はありがたく今後も頂こう
と思った。
男は以上を私（大堀）に語り終えると、「このこと
はあなただけに話したことですから他言しないように」
と言った。私は他言するつもりはないが、男は私がこ
ういう小説まがいのものを書く人間であることを知ら
ないのである。
（了）
月刊ＷＥＢ風 ２０１０年９月号 通巻第１８号
［原稿用紙・２６枚］