らあめん男 ３７
大堀敏靖
弦はかつての同僚上司小室に言われたことを考えて
いた。
――こんな狭い店舗に三人もバイト雇ってどうする。
サッパリと断ってしまえばいい。ラーメン屋なんか星
の数ほどある。そんなことに義理を立てる必要はない。
前言を撤回しようと、それは店の都合で仕方がない。
こちらが思うほど先方はウッェトではない。サバサバ
して次の手を考えるだろう。…
まったくもってその通りだと弦は思った。建坪一五
坪ほどで厨房が三分の一を占め、カウンター五席、四
人掛けのテーブルが辛うじて二つぎりぎり入る。カウ
ンターとテーブル席の間は一人が動けるスペースはあ
るが、二人が物を持ってすれ違うのは確かにムリがあ
る。接触してお客さんの頭からラーメンをかぶせてし
まうことにもなりかねない。バイトは一人で十分であ
る。いなくても作ったラーメンをテーブルに運ぶくら
いの仕事は弦にでもできる。
三人雇ってシフトを組んで週二回くらい来てもらう
ことは出来るが、三人とも十万くらいの稼ぎは欲しい
ようなことを言っていた。生活のための稼ぎが必要な
いのは自閉症の似鳥悠斗( はると) くらいである。し
かし、当人はともかく母親がここしかダメだという強
い信念を持っている。給金はなくてもいいからそれで
も働かせてくれと言われそうである。
元ソープランド嬢の三森はどうか。三森は穢れた過
去をラーメンで浄めたいと言っていた。ラーメンで過
去が浄化できるのか疑問であるが、もう二度と夜の世
界では働きたくないらしく、好きなラーメンを作って
食べさせる、こじんまりとした店で働きたい、六占星
術で占ったところが、自宅からの方角がこの店はドン
ピシャだったという。
採用を知らせたときは電話の向こうでも飛び上がっ
て喜んでいることがわかるような喜び方をしていた。
やはり取り消します、なんて連絡したらその落胆は相
当なものだろう。人にそんな思いをさせて平気でいら
れるほど弦は肝が太くない。そんなことをするくらい
ならば我慢してでも、店にムリがあっても採用したい。
それではロシア女を不採用にしてしまうか。サンク
トペテルブルク出身のインテリ・ロシア女に採用取り
消しの連絡をしたらどうなるか。おそらく黙って受け
入れることはないだろう。必ず文句を言いに来る。バ
イトで生活費を稼ぐに留まらず、弦と結婚するとまで
意思表明をしてしまう女である。妄念であるが、執念
となって弦に迫ってくることだろう。
そこには美和という強い護衛兵が立ちはだかって弦
を守護してくれるはずであるが、煮え切らないことを
言っていてはその美和も弦を攻撃する側に身を転じて、
玄界灘の荒海育ちの重機女と、峻烈な寒冷に育まれた
ロシア産シロクマ女が共謀して弦に襲い掛かって来る
かも知れなかった。考えるだに恐ろしいことである。
弦は激しく首を振った。想像だけで滅入ってしまう。
「武士に二言はない」と言う。弦は武士ではない。ど
ちらかというと文人肌の町人である。「町人に二言は
ある」と言い得る。それならば前言に縛られることな
しにしれっと撤回してしまってもいいのではないか。
「採用すると言ったではないか」と迫られれば、「状
況が変わった」という理由で、「ご理解願いたい」と
懇願する。「状況」という理由を盾に自分も被害者な
のだと同情を誘おうとする。武士の風上にも置けない
卑劣極まる態度であるが、武人に非ざる文人肌の町人
はそのようにして生きていくしかない。
最近の男はよく泣くという。付き合っていた女の方
から別れ話がもたらされると身も世もなく泣き崩れる。
そうすると女の方は情にほだされるのか、この男を完
全に征服したという勝利感や所有欲の満足を得るのか、
許して別れ話を撤回する。武人にあらざる文人肌の弦
もそうすべきかもしれない。
しかし、昭和の気質も持っている弦は「男」という
ものを祖父からいつも言われて育った。
「男子はかくあるべし」「男子はかくあるべからず」
とサンザン言われて育ったため、女子の前で身も世も
なく泣き崩れるようなミットモナイことをするのには
罪悪感を伴う。人前で裸になったり、排泄をするくら
いの抵抗感がある。そんなことをするくらいなら、な
んと言われようとそんな女はこちらから三行半を突き
付ける。ふざけるな、男を舐めるな、という。そうし
て高楊枝を咥える。
だから、文人肌の町人気質の弦ではあるが、祖父に
叩き込まれた武人的気質もわずかながら残っていて前
言をひっくり返すようなことに抵抗感が多分にあって、
卑怯な真似はしたくないのである。
しかし、事は店の経営の問題でプライベートな艶話
ではない。「泣いて馬謖を切る」という場面も確かに
ある。小室も「泣いて職場を切る」と言っていた。バ
イト採用は一人に絞ってしまうか、とりあえずはだれ
も雇わないことにしたほうがスッキリすると弦は考え
た。しかし、それを伝えることが箱根の山を越えるく
らいの難儀に思われた。こういう時は頼りになる伴侶、
美和に相談するしかない。
「え、まだそげんこと言ってるとですか。採用やって
言ってたやなかですか」
「そうなんだけど、小室さんがこんなちっぽけな店舗
にバイトが三人も必要はないって言われるんで僕もや
はりそうかもしれないって自信がなくなってきたんだ
よね」
美和はそこで少し顔をしかめて、呆れたようなリア
クションをした。しかし、美和は弦を咎めるようなこ
とはけっして言わない。
「迷いは誰にでもあるとですよ。絶対これしかいけん
いうような、最初から決まった答っていうのはなかや
思いますからユッくんの気の済むまで迷ってください」
「いや、もう迷ってる段階でないから、最終的な判断
を美和さんにつけてもらおうと思ったんだよ」
「あたしが、ですか。あたしの一番始めの考えはバイ
トでなく、ウチが店を手伝うということやったとです
から、それでよかと思いますけど、琴乃を放っておく
こともできんので、バイトさんが一人くらいはいてく
れた方がよかかなとは思います。でもユッくんのお母
さんに頼めば琴乃のお守りくらいはしてくださると思
いますから、バイトは必要なかかもしれんとですね」
「そうか。おふくろか。家でヒマヒマしているし、車
も運転できるから来てくれるよな。孫の世話なら喜ん
で引き受けてくれるだろう。琴乃の顔が見たくて仕方
がないみたいだからな」
「あたしもお母さんなら安心です」
「よし、じゃこれで決まりだッ」
弦は小さく叫んだ。バイトは要らない。こんな結論
になるくらいなら最初から募集なんかしなければよか
ったのだ。
しかし、それが決まったとして採用の電話までして
喜ばせた三人に撤回を伝えるのはやはり日本アルプス
を踏破するくらいの難事業に思われた。美和に頼もう
か。美和ならば引き受けてくれるだろう。しかし、そ
れは卑怯に思われる。逃げている。しかし、尻尾を巻
いて逃げる人間を励ますのに「三十六計逃げるに如か
ず」という中国の古言がある。
「美和さん」
頼もうとして呼びかけた。いつも弦の呼びかけには
全身で応えてくれる。やはり振り向いてくれた。
「あの、バイトのね、候補の三人に…」
「これから琴乃を予防接種に連れていきますから、雨
が降り出しそうなんで洗濯物を頼めますか。降り出し
たらで、よかですから」
「いや、あの…」
「すいませんが、お願いしますね」
「ああ…」
拒絶されたのかどうかわからないが、弦はそれ以上
言えなかった。
自分で伝えるしかない。どんな醜悪が展開しても、
罵られても罵倒されても文句を言いに押しかけられて
刃傷沙汰になったとしても自分で伝えるしかないと弦
は覚悟を決めた。
「卑怯者でもいい。逃げてもいい。店のためなんだか
ら」
自分言い聞かせた。
まず一番伝えやすいと思われたのは元ソープランド
嬢三森だった。他の二者と比べれば迫ってくるものが
少ないように思われる。ラーメン店で身を浄めたいと
いう願望があるが他にもラーメン店などあまたある。
占いの方角がドンピシャだったというが、方角ならそ
の延長線上に別のラーメン店もあろう。三森から断り
の電話を入れようと思った。
三回のコールで三森は出た。
「はいッ」
何かきつい応答だった。
「なんですかッ」
「あの、ですね、…今、いいですか」
そうすると、「だれや、オトコか」と問いただす声
が離れたところから聞こえた。
「関係ないっショ、アンタには。もう帰れッつーの」
何か痴話げんかの真っ最中に電話をしてしまったよ
うだった。風俗で働いていた三森に男がいてもおかし
くはない。その男と言い争いをしているところに電話
をしてしまったようである。
「あ、お取込み中のようなんでまたかけ直します…」
「もしもし、いいですよ。うるさいヤツがいますけど、
問題ないんで。あ、もう止めろっていってんだろーが、
クズ男が。帰れッ」
「だれや」とか「どこのオトコや」「いつからや」な
どという声が聞こえてくる。嫉妬深い男なのだろう。
その男が電話をしている三森に抱きついたり、太もも
にしがみついたりしているのだろう。
「ウゼーんだよ、おめぇ。やめろ。酒くせーし」
「あの、三森さん。またかけ直しますから…」
「ナンですか？お仕事のことですよね。あ、放せ、バ
カヤロー」
ドーンと何かが何かにぶつかる音がした。三森がま
とわりついてくる男を突き飛ばして男は家具にでも頭
でもぶつけたのだろう。
「イテーッ。イテテテー」
苦悶する男の声が聞こえる。とても話をする状況で
はない。
「三森さん。またかけ直しますから…」
応答がない。
「やめろ。放せッ。ハゲッ」
「トシコ。トシコォ」
スマホは手から離れたようである。つながったまま
で声は聞こえてくるので弦はしばらく聴いていた。
「放せ。放せったらッ。ダメだって。アタシが欲しい
んなら金もってこいッつーの」
「トシコ、オレのトシコォ」
ドタバタ音がする。
「このハゲ。ハゲのくせに、こんなことばかり上手く
なるんじゃネーよ。あ、あぁ、やめろっ、ダメだから。
あぁーん」
弦は馬鹿らしくなって通話を切った。
幸先がよくない。こんなことでは後の二者も思いや
られる。
あの自閉症の息子の母親が簡単に承知するとは思え
ない。絶対的な信を置く金神（こんじん）様のお告げ
と言っていた。どういう根拠でその金神様は弦の店に
白羽の矢を立てたのかわからない。もう少しまともな
バイト候補を差し向けてくれればよいものをまったく
コミュ能力ゼロのアブノーマル青年を送り込んでくる、
その金神様自体からして、アブノーマルな神様ではな
いのか。
日本には八百万の神々がいて、中にはどこが神様か
というような変態的な神さまもおわしますのである。
おそらく似鳥の母親が信仰する金神様というのは、変
態的な神の範疇に入るのだろう。それは、ズンコの言
うように、変態的な神に惹きつけられた人間を引き寄
せるのは「あんた自身だよ」ということで、自分が蒔
いた種の収穫物を自ら刈り取らねばならないというこ
とになるのだろう。
弦はしばらく頭を抱え込んだが、今がその収穫の時
で致し方がないと思い直した。これをなさねば次のス
テージに進むことはできないのである。
「はいッ、もしもし。似鳥でございますが…」
明るい母親の声が聞こえてきた。何でも言えそうな
雰囲気である。弦は少し元気が出た。
「今、少し、よろしいですか」
「どうぞ、どうぞ。ヒマヒマしておりまして、ラーメ
ン屋の店長さんから電話でも掛かってこないかなーな
んて思っていたところでございましたから」
ウソつけ、と弦は思ったが、調子のいいことを言う
くらい今は気分がいいのだろう。チャンスである。
「実はですね。先日、バイト採用の件でお電話しまし
たけど…」
「あッりがとーうございますぅ。家族全員大喜びで、
主人のおばあちゃんも大喜びで悠斗（はると）のため
に大きなお祝いのケーキを買って来てくださって、そ
の日は家族と親類縁者で懐石料理なんか参りましたん
でございますよ。統立教会の先生もモロ手を挙げて喜
んでくださいまして、今度信者さんの前で信仰体験の
スピーチを私がすることになりました。あんな息子で
すけどやればできるという証拠、エビデンスって言う
んですか、それがハッキリと表れたというんで、教会
の機関誌にも写真付きで紹介されることになったんで
ございますの。本当にお優しい店長さんのお陰でござ
いますぅ」
「あの、お母さん、それについてですね…」
「いつから伺ったらよろしんでしたっけ。開店は来週
の土曜日でしたよね、たしか」
「はぁ、そうなんですが…」
「開店のお祝いのお花を用意させていただきたいと主
人とも話しておりましたんでございますよ」
「はい…」
とても採用取り消しとは言えない。
「あ、いやでございます。また私ばかりペラペラしゃ
べってしまいましたわね。黙ります。すみません。主
人にもお前はしゃべり過ぎだと昨晩も注意されたばか
りでございました。ご用件はなんでございましょうか」
採用は見送ることにしました、などとはいえる空気
ではない。店のためだ、とにかく言え、言ってしまえ、
というかくあるべし、ゾルレンからの声が聞こえてき
たが、一方、空気を読め、ということは、営業で叩き
上げられた社会規範であった。空気に抵抗して、突飛
なことを言えば、いくら正しいことであっても、その
透明な圧力によってすぐに潰されることになる。正し
ければ好いってものではない。長いものには一旦は巻
かれておいて、機を見て反転攻勢を掛ければいいと教
わった。
「そんなに喜んでもらえてこちらとしても嬉しいです。
開店前に三日間研修を行いたいと思いますのでその連
絡でお電話しましたッ」
研修は必要だと考えていたが、三日間とか具体的に
何も決まってもいないに拘らず、出まかせのことを言
ってしまった。
「ちょっとお待ちくださいませ。今メモを取りますか
ら」
今からでも実は採用取り消しです、と言ってしまお
うかという衝動に駆られる。
「お待たせいたましたー」
やはり言えない。
「明後日、水曜日の午後四時から三時間行います。も
ちろんこれもバイト代に計上させていただきます」
「あッりがとーございますぅ。悠斗はあれから毎日三
時間くらい皿洗いの練習に余念がないんでございます
よ。お蔭で宅のお皿やお茶碗はどれもピッカピッカで
ございますぅ」
やはり言えない。これは慈善事業としてでも雇わな
ければならない。多様化が叫ばれる世の中において自
閉症の青年をバイトに雇うことによって社会貢献をす
るラーメン屋となることができる。これは必要なこと
なのだと弦は自分に言い聞かせた。
その後もしゃべりまくる似鳥の母親だったが、適当
に生返事をして、母親がまたしゃべり過ぎたと自分で
気づいたところで切り上げた。
ここまで二件とも所期の目的を達成していない。失
敗している。こちらに断固とした気持ちがないために
結局流されてしまうことになるのだと反省した。流さ
れっぱなしではなく、杭につかまって抵抗し、岸に這
い上がらねばならない。
三軒目の電話を、意を決してコールする。ますます
手強くなる。サンクトペテルブルクの大学で学んだ優
秀な、そして気の強いロシア女である。弦と結婚した
いなどと臆面もなく言う外国人である。一旦引き受け
て採用すると言ったものをひっくり返して採用取り消
しなどと言い出したら、どんな反応が返ってくるか。
頭のいい女を敵に回すと怖い。何をするかわかったも
のではない。しかし、店のためである。
一回、二回、三回とコールしているが出ない。まだ
寝ているか、シャワーでも浴びているのだろう。留守
番電話に接続された。弦はまたかけ直すために切ろう
としたが、待てよ、直接話すよりも留守番電話なら言
えるかも知れない。時間差で聞いて、怒りをリアルタ
イムでぶつけられるのを回避はできる。そうだ、留守
電に録音しておこう。
ピー「あ、もしもし、麺屋『弦』の今藤です。あの、
実はバイトの件なんですけど、実は申し訳ないんです
けど事情が変わりまして、今回の採用は見送らさせて
いただくことになりました。またの機会によろしくお
願いします。お客様としてお来しをお待ちしておりま
す。失礼しまーす」
留守録が終了して電話を切り、「やった！」と弦は
小さく叫んだ。ようやく言うことができた。しかも一
番手強い相手に対してである。留守電だから反応は分
からないが、ロシア人は意外と淡白でサバサバして受
け入れてくれるかもしれない。
そうか。留守電という手があったのか、他の二者も
留守電という手で出られそうもない時間帯を見計らっ
て、片づけてしまおう。弦の心は希望が見えてかなり
明るくなった。
「留守電かぁ」と繰り返している時に着信があった。
最初に掛けた元風俗女からである。
「すいません。先ほどは取込み中だったもので、失礼
しました。来客があったものですから」
その来客と何をやってたと言いたかった。やること
を終えて、スッポンポンのまま電話をしているかもし
れない。
「どんなご用件でしたか」
留守電がいいと思っていたところだが、聞かれたの
なら今言ってしまおうと思った。
「あの、実はですね。ちょっと状況が変わりまして、
バイトの件はとりあえず保留ということでしばらくは
お待ちいただくわけにはいきませんかねぇ」
留守電で言ったばかりなのですらすらと言葉は出て
きた。言えるには言えたのだが、恐ろしいのはその後
のリアクションである。
「え、何ですか。状況が変わったってどういうことで
すか」
当然の質問である。
「バイトは当分入ってもらわないことにしたんです。
なんとかボク一人か、少し忙しい時にヨメに手伝って
もらうことにしましたから、バイトは当分雇わないこ
とにしたんです。三森さんがどうこうってことではな
く、こちらの事情なんです」
三森はしばらく黙っていたが、
「困ります。あたし、生活のためにも、精神を浄める
ためにも弦（ゲン）さんで働かないとダメなんです」
心を浄めるとか殊勝なことを言っておきながら、男
を部屋に招き入れて何をやっているのだ。言行不一致
ではないかと突っ込みたかった。
「私はこれまでの穢れた生活から、ラーメン一筋の清
らかな生活に入りたいと思ってます。ですから、お願
いです」
「ラーメン店など星の数ほどありますから、他店でも
いいのではないですか」
「ダメなんです。六占星術占いでもタロット占いでも、
コックリさんでも出たんです」
「コックリさん…」
「それに私のおばあちゃんも北西の方角のヒモのよう
な名前のソバ屋に勤めろと私の顔を見るたびにシツコ
ク言うんです」
「弦」というのは確かにヒモみたいである。
「これはもう偶然とかタマタマとか言う話じゃなくて
運命を感じるんです。時給思い切り安くても構いませ
ん。一所懸命働きますから、店に役立つようになった
ら、そのとき時給をアップしてもらえばいいんです」
「北西の方角といってもずっと続いてますから、『ラ
ーメン絲』とか『麺屋ストリングス』とかヒモっぽい
ラーメン店が他にあるんじゃないですか」
「ありません。私、地図上に定規で線を引いて私のア
パートから北西の方角をたどっていったんですけど、
弦（ゲン）さん以外はヒモの製造会社がカスったくら
いで、あとは海に突っ込んでいきましたからないんで
す。海を越えて海外かもしれませんけど、半島や大陸
へ行ってまで働きたくありませんから」
そりゃそうだろう。バイトで海外まで行く日本人は
そういまい。それにしても祖母が顔を見るたびに北西
方向のヒモのような屋号のソバ屋で働けとは、信じら
れない話である。そんなことを孫に言う老人がいるの
か。ラーメン屋でバイトでもしたらどうだ、くらいは
言うだろうが、方角や屋号まで特定するとはオカルト
染みている。適当にデッチ上げた話だろう。
「そこまでウチで働きたいというお気持ちは嬉しいの
ですが、とにかく今の時点ではバイトがいなくても回
ってく小規模な店ですから、当分は必要ないという結
論に達したのです。また必要になった時に、最優先で
働いていただきたいと思います」
「なら、なんで募集なんかかけたんですか。身内でな
んとかやっていけるならば、急募なんてタウン誌に広
告をのっける必要はなかったんじゃないですか」
「なかったんです。私の狂った思い込みで、オープン
には絶対バイトが必要だと確信していたんです」
「それが何でオープン前に気が変わっちゃったんです
か？面接までして、採用通知の電話までされて何で掌
をひっくり返しちゃうんですか？私が元風俗だからで
すか？」
僻んだことを三森は言った。
「それは全然関係ありません。僕はむしろ色気のある
人がいることは客を引き寄せるには好都合だと考えて
いますから」
「じゃ何でですか？他のバイト候補の方も皆採用見送
りなんですか」
そうです、と言いかけたが、先ほどの電話で自閉症
の似鳥の母親には断り切れずに研修の約束までしてし
まった。弦は言葉につまった。
「…ホボホボ、断わってます…」
「ホボホボって、例外が少しあるってことですか」
「いや、100 ％、です」
似鳥に研修を約束したのであるが、研修状況で採用
不可能と判断し、断わる手も残っている。そうすれば
ウソを付いたことにはならない。
「店長さんね、あなたウソをつけないタイプの人でし
ょ。私、前の職業柄いろんな男性をみてきましたから
わかるんです。一番よくわかるのはオ○○コですけど、
パッと一目見ただけで、その人のタイプがわかって、
まぁ、ホボホボ、的中しています。ウソついてますね、
店長さん。他の人で採用を決めた人がいるでしょ」
「いや、採用決定者はいません。これは天地神明に誓
って」
「とにかく、私困るんです。ラーメン店で、いや、ゲ
ンさんで働かないと困るんです。お願いですから採用
してください。ホント、まじめに働きますから。三か
月は時給五百円でけっこうです。いや、ナシでもいい
です。なんなら仕事後、アフターのお供をさせていた
だいても結構です。熟練の技を駆使してサービスしま
すから」
三森までそんなことを言い出した。もっとも三森が
一番そういうことを言いだす可能性は高かったのだが、
他の候補者の方が異常なのである。
ここまで言われて無下に採用取り消しを言い続ける
わけにはいかないと弦は思った。一度募集をかけてし
まった自分の責任として、引き受けるのも男だと思っ
た。「男らしさ」という昭和に叩き込まれた価値観が
弦の中には生きている。
「わかりました。明後日水曜日の午後四時から三時間
研修を行いますから来てください。その分もバイト代
に計上しますから」
「え、ホントですか。うれしいッ。命かけて働きます。
商売女の、業界で鍛えられた根性をお見せします。あ
りがとうございますッ」
三者のうち二者が所期の目的を達成できず、採用取
り消しを納得させることができなかった。残りの一者、
留守電に入れたロシア人が簡単に納得してくれるとは
到底思えない。パーチンが執拗にウクライナを攻撃し
続けるようにロシア女は弦に対して、空爆、ミサイル
攻撃、ロケット砲などあらゆる手段を駆使して迫って
来るはずである。核の使用もちらつかせて留守電の報
復攻撃をして来ることが予想された。そんなことなら、
こちらから撤回の撤回を申し出て報復攻撃を回避した
方がよい。
前二者には研修のことを伝えた。ロシア女バイト候
補の安藤亜里沙＝アンドレーエフ・アリサにもこちら
から伝えるべきだろう。彼女だけ採用取り消しとして
しまうのは不公平というものである。そんなことをす
れば、弦のラーメン店というより日本の体面に関わっ
て来る。「日本人はそんなアンフェーなのか」とアリ
サは迫って来るだろう。
ロシアン・マフィアを雇って、客が来ないように嫌
がらせするかもしれない。家族を誘拐するかもしれな
い。弦にテロ攻撃を仕掛けてくるかもしれない。考え
るだに恐ろしいことである。頭のいい女だから敵に回
すと怖いのである。何をするかわかったものではない。
ロシアの大地に育まれた、底の知れない不気味さにか
かっては、日本のしがないラーメン店などモノの数に
も入らない。
すぐにまた弦はアンドレーエフ・アリサに電話した。
七回ほどのコールでまた留守電になった。撤回の撤回
をまた留守電に入れてはややこしくなるので、誤解さ
れないように直接話した方がいいと考えて弦は、今度
は留守電に何も入れずに切った。
結果的にそれがまずかった。
ロシア女は留守電を聞いて逆上し、すぐに電話を掛
けてきたのである。
「オイ。ナンだヨ、この留守電は。フザケンジャねー
よ。なんでバイト取り消しナノ。説明シナサイ」
「あ、アンドレーエフさんですね。すいません。また
連絡をさっき入れたんですけど出られなかったんで、
留守電に入れようとして、でもやっぱり…」
「ウルサイッ。言い訳スルナ。一度言ったことをヒッ
クリ返すのはニッポンのサムライじゃナイヨ。ロシア
人を舐めるんじゃネーヨ」
「ちょっと聞いてください。あれは取り消します」
「だからサ、一度言ったことを取り消しにするのは、
ニッポンのサムライのすることじゃないと歴史の本に
も、カンコ―ガイドにも書いてあったヨ。ニッポン人
のカザカミにもおけねーヤツだヨ、アンタは」
「違うんですよ」
「ナニが違うノ。約束をまもらないヤツはロシアでも
嫌われるヨ」
「約束は守ります！」
「採用を取り消しにするコトがナンデ約束を守るコト
になるんだヨ」
「採用は取り消しません」
「ハァ？留守電には採用ヤメルって言ってたジャナイ
カ？」
「だからそれは撤回します。採用します」
「テッカイってナンダ。大きいってコトか」
「それはデッカイ…」
「アンタ言ってるコト全然わかんないヨ。通訳サンが
要るヨ。翻訳機で翻訳シナサイヨ！」
「やってもいいけどスマホで話しているから同時に使
えないんで来てください」
「ソウカ、ソンナラ行くヨ。アタシの知り合いでカラ
ダの強い男がいるから、そいつと一緒にいくからナ。
そいつはアタシの言うコトはナンデモ聞いてちょっと
イカレタ奴だから、ナニすっかわからねーヨ。アンタ、
覚悟しろヨ。ロシア人の怖さ見せてやるカラ」
アンドレーエフ・アリサは電話を切った。その屈強
なロシア男と乗り込んでくるつもりなのだろう。冬で
もランニングシャツの、腕にタトゥーを彫り、髪の毛
は短めのボディガードのようなロシア男なのだろう。
アリサから、わたしの足を舐めろとか、オシッコを受
けろとか、そんな不当な命令を下されても喜んで従っ
てしまう下僕のような男なのだろう。
しかし、採用するつもりなのだから何が来ようと構
わないと弦は思った。
いきなり撲ったりはしないだろう。いや、するかも
しれない。アリサはまだ不採用になったと思って怒っ
ているから、「とにかくマズ撲れ」とロシアン・マッ
チョに命令しているかもしれない。そうなったら撲ら
れ損である。事実と異なることに腹を立てて、憎しみ
から弦が撲られては溜ったものではない。とにかくあ
のパーチンの、他国を侵略してくる国の人間が相手な
のである。何をするかわからない。その中でも「イカ
レタ奴」ということなので、通常の人間の思考の範疇
を越えているだろうから、予測がつかない挙に出るだ
ろう。人を殺すくらいは序の口で、殺した人間の人肉
を平気で喰ってしまうような野蛮で獣的な男かもしれ
ない。
あらかじめ警察に連絡しておいた方がいいかもしれ
ない。いや、交番のお巡りさんでは頼りない。地元の
ヤクザ、消防、海保いや自衛隊に協力を求めた方がい
いかもしれない。などと弦は考えを巡らせるのだった。
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０２４年１月号 通巻第１７８号
［原稿用紙３０枚］
