そっち系 ２
大堀敏靖
翌日の昼。圭介は無性にカップ・ラーメンが食べた
くなり、コンビニに出かけた。なるべく大きなビッグ
サイズのカップ麺を買おうと考えていた。一時ミニサ
イズが出たことがあったが、最近は巨大化している。
欧米の波が日本にも押し寄せて、食品の分量はどんど
ん増える傾向にあるのだろう。通常サイズの倍くらい
のが出ている。「キング」と書いてある。「バケツプ
リン」というのがあるから、そのうち「バケツ」とい
うのが売り出されるだろう。注ぐお湯の量も半端では
ない。窓際を通ってカップ麺コーナーへ行こうとする
ところで、ＢＡＫの女の子たちが表紙を飾っている雑
誌が目に付いた。
写っている中に昨日イタリアンレストランで遭遇し
た二人を認めると圭介の心は異様に高揚した。この二
人と握手をした。サインももらった。ツーショットの
写真も撮った。その子たちはこうやってグラビアを飾
るアイドルなのである。圭介はそのアイドルと空気を
共有し、言葉まで交わすことができた。それが世界、
いや日本を征服したくらいの偉業に思われた。あの数
分間は少なくとも圭介は天下のＢＡＫを自分のものに
していた。これは友人、知人に威張れることである。
手にした雑誌を繰っていくと巻頭のグラビアはＢＡ
Ｋの子たちの写真ばかりで、昨日の二人も小さく載っ
ていた。二人は仲がよく、一緒によく食事に行くと書
いてあった。「イタリアンのＡが特にお気に入りだか
ら遭えるかもしれないぞ」と書いてあった。ファンは
こんな記事をみたら殺到するだろう。しかし、昨日の
店はイタリアンでもＡではなくＣだった。Ａを繁盛さ
せるねらいと巧みにファンの目をごまかす意図が働い
ているのだろう。
その時ふいに背中を突かれた。このコンビニでは立
ち読みは許されているはずである。
しかし、振り向くとそれはまたしても小太りの青島だ
った。
どうしてこのおっさんとこうも偶々会うことになっ
てしまったのだろう。もしかしたら偶然ではなく、追
いかけられているのかもしれない。始終このおっさん
は圭介を見張っていて、偶然を装って近づいてくるの
かもしれない。だとするとストーカーで、しかも男色
傾向のあるストーカーで、まったくそんな趣味のない
圭介には気持ち悪くて仕方がない。
「そんな、リングの貞子に遭ったような顔しないでく
ださいよ。よく会いますね」
「驚きました。めったに外で知り合いと会うことなん
てありませんから」
「何読んでいるんですか。ああ、ＢＡＫですか。甘粕
さんも嵌ってますか。誰押しですか」
「いえ、特にいないんですが、昨日たまたま、これ、
ここに写っているこの子たちに会ったんです」
「あ、柏原もえと吉田理沙ですか。羨ましいな。」
「握手して、サインと写真も」
圭介は携帯を取り出して見せた。横で立ち読みをし
ていた男も雑誌から目を離して圭介の方を見た。誰も
が羨む僥倖を自分が得たことを確認できて、圭介は幸
せだった。
「僕もラーメン屋さんでメンバー三人の子たちがトン
ボ眼鏡かけて野球帽被って来たのを見たことあります
よ。別にめずらしいとも思わなかったので、気づいて
もそのまま店を出てきてしまいましたが、こんなにＢ
ＡＫがブレイクするとは思ってなかったので残念な気
がします。甘粕先生食事しましたか」
「いえ、まだです」
これから巨大なカップ麺を買うところだと言えなか
った。先日塩分は控えているのでラーメンは食べない
と言って青島の誘いを断っていた。
「ランチ食べませんか。そこのファミレスで。僕がお
ごります」
今日こそは付き合ってもらいたいという強い意思を
感じた。断る理由が見つからない。
「いいですよ。行きましょうか」
青島は食べ物を与えられたホームレスのような嬉し
そうな顔をした。これが石田美緒だったら、と一瞬思
った。
ファミレスはこれからランチのお客で混む前で、ま
だ席は空いていた。コーヒー付きランチを注文する。
Ｔシャツにステテコ風パンツをはいた青島は座ると
でっぷりと腹が出ていた。こんな醜悪な体型にはなり
たくないと圭介は思う。
「甘粕先生。民自党の前田優子知ってますか」
突然政治の話を青島は振ってきた。
「知ってます。合掌して質問する人でしょう」
「そうです。ああいう見え透いたパフォーマンスする
人間って嫌ですね。偽善者だと思いませんか。敵対し
ている政敵同士なら罵りあえばいいんです。拝んだっ
てウソくさいだけでしょう」
「どうして急にそんな話になるんですか」
「僕は政府与党の国民生活党を支持してますから。民
自党に政権を戻したら、戦争をする国へ一直線ですよ。
戦争だけは絶対にしてはいけないんです」
なんで政治を語り始めるのだろう。政治オタクか。
昨日も石田美緒は政治家になりたいといって、青島が
いま話題にしている前田優子を尊敬していると言った。
青島は嫌いだという。政治はあまり関心ないが、大学
時代にたまたま取った経済のゼミの先生が熱血的な愛
国者で天皇絶対主義者だった。当時野党第一党だった
「社会日本党」を痛烈に批判していたことを思い出す。
現政権「国民中心党」ははその流れを汲む。「民族自
由党」があまりにもだらしがないものだから、国民が
愛想を尽かし、一度「国民中心党」にやらせてみたら
いいということで、反民自党の票を集めて政権を獲得
した棚ぼた内閣だった。しかし、これがひどい政権運
営で、素人集団であることが露呈し、内政、外交、経
済、安全保障全ての面で情勢は悪化して、日本が坂を
滑り降りていくように、国力が弱まっていく様が国民
の目にも明らかになってしまっている。
恩師の言葉「政治は理想と現実のバランス」は至言
だと思うが、「国民中心党」は国民の目先の利益ばか
り言って票を集め、強引に理想ばかりを実行しようと
して破綻しようとしている。流石にこんな政党を支持
するわけにはいかない。
「戦争はいけないですけど、今の政府でこのままやっ
ていたら、日本は潰れますよ」
「あれ、甘粕さん、そっち系？ もしかして右？ 保
守系？ 民自党支持者？」
「支持政党なんてはっきり言ってないですけど、国民
中心党だけは支持できません」
「ええーッ、悲しいなぁ。甘粕さんとは気持ちを共有
できると思ったのになぁ」
「青島先生は国民中心党を支持するわけですか。あの
爬虫類のような顔をした犬崎党首からが頼りなくてウ
ソくさいじゃないですか」
「そんなこと言わないでください。あの人は叔父です
から」
「ええッ」
驚いた。総理大臣の親戚が目の前にいる。
「ガチ、ですか」
「職場では誰にも言ってません。なんか威張っている
みたいでしょうから。総理大臣の甥だとわかると対応
も変わるかもしれませんけど、僕はそういうの嫌です
から。言わなかったんですけど、甘粕さんだけには言
いたい気がしました。少し、すっきりしました。しっ
かり驚いた顔してくれましたし」
「そりゃ驚くでしょう。誰だって。マジッスか」
「でも総理大臣の親戚でも何のおこぼれ、トリクルダ
ウンはありません。困って頼っていけば叔父さんなん
で、少しは力になってくれるでしょうけど、僕はそう
いうの嫌いですから。絶対に相談になんかいきません。
ただ、叔父は優しいおもしろい人なんで僕は好きです。
総理大臣になって、マスコミにも散々叩かれ、勝手な
国民は爬虫類だとか、ノータリンだとか、負け犬内閣
だとか言ってますけど叔父がかわいそうです」
「すいません。そうとは知らずひどいこと言いました。
撤回します」
「いや、撤回しなくていいですよ。あんなにたくさん
票を獲得して政権の座に着いたのに、国民は厳しいし、
マスコミも定見がないっていうか」
「確かに、現政権になって『独身手当て』がもらえる
ようになって僕は助かっています。こんな手当てがも
らえると独身者がますます増えてよくないと思ってい
ましたが、三十五を越えて独身というのは、心細くな
る年齢ですから、手当てをもらえてありがたいのは確
かです。犬崎首相は政治家には珍しい、細やかな神経
を持った人だと思います。婚活に有効に使って早く相
手を見つけようと思っています」
それはウソだった。ほとんどＤＶＤ購入に使ってい
た。
「そうですよね。いろいろ批判はありましたが、独身
者はあれでどれだけ救われているかわかりませんよ。
独身者の気持ちは独身者でないとわからないはずです。
叔父も五十八歳まで独身でしたから」
「子供までできてすごいですね」
「本当は別のところにちゃんと子供はいて、もう四十
近い立派なのがいるんですがね」
「本当ですか。オフレコですか。それ」
「トップシークレットです。しかし、どの政治家も女
性はあちこちにいて盛んな人が多いですから、真面目
なのは協産党の人だけですからね」
「そうなんですか。女性議員はどうなんです。前田優
子なんかは」
「だからウソくさいんですよ。合掌なんかして質問す
る議員は。会議場はお寺の講堂ではないですからね。
なんで合掌なんかしなければならないんですか。プロ
レスラーがリングの上で合掌なんかしたらおかしいで
しょう。それと同じです」
「でも、少林寺拳法や大抵の武道は試合の前後で礼を
しますよね。タイのキックボクサーは合掌するんじゃ
ないですか」
「あれは国民的慣習でしょう。とにかく会議場で合掌
するなんてことは場違いなことで、他は誰もやらない
ことなんです。心にもないことをやって結局は政府を
痛めつけて立場を苦しくしている急先鋒なんですから、
偽善者なんですよ」
「かっこいいって言っている若い人たちもかなりいて、
ユーチューブでもアップされています。叔父さんもコ
テンパンにやられているって、感じですね」
「言葉の上で勝ったの負けたの言ったって、実際の政
治の上でちゃんとやらないと話にならないんですよ。
野党っていうのは、基本的に政府批判ですから、威勢
がいいんですよ。ところが自分が実際に政権を担う立
場に立てば、そう簡単にはいかないことがわかるんで
す」
「それが骨身に染みてわかったのが国民中心党ですか」
「いや、前田優子の話です」
「塾のスタッフの石田さんなんかも前田優子のファン
で憧れて政治家を目指すなんて言ってますよ」
石田の名を聞くと青島は露骨にいやな顔をした。
「なんですかねぇ、あの人は。表面と中味がまったく
異質な妖怪のような人ですね。あの人なら前田優子支
持でも十分頷けますよ。妖怪は妖怪に引きつけられる
んでしょうから」
「妖怪、ですか」
「妖怪です。かわいい顔しているかと思ったら、トン
でもないですよ。内面はかわいさのカケラもない。女
の子は天然で、アメリカの首都はロシアだとか、黒船
に乗っていたのは徳川家康だとか、吉良邸に討ち入り
したのは新撰組だとか信じているほうがかわいいに決
まっているんです。それを何ですかね。経済問題や日
本の安全保障について語り出したりするんですから、
興ザメですよ」
「話したことあるんですか」
「ありますよ。専任とアルバイトの関係ですから。見
かけがちょっとかわいらしかったんで、『だんな様』
と言ってくれるんではないかと思ってお茶に誘ったこ
とが以前ありました。しかし、あんな女は煮ても焼い
ても喰えませんね。深海から出てきたダイオーイカよ
り始末が悪い。どうしようもないでしょう。政治やっ
てればいいんですよ」
少なくとも圭介は煮ても焼いても喰えない女だとは
思わなかった。政治家を志していることは驚いた。ふ
いに帰ってしまったことは確かに驚いた。しかし、ど
こかかわいらしいところがある。なんとかしてあげた
いような弱い部分も圭介には見せてくれたように思う。
「甘粕先生は、石田さん推しなんですか。別にいいで
すけど、前田優子を尊敬するような女ですからね。甘
い気持ちで近づいちゃいけませんよ。それは僕から警
告しておきます」
「いや、僕は別に、石田さんに何の感情も持ってませ
んよ」
いや、それはウソだった。昨日、食事に誘われて、
政治家志望を告げられ、知らぬ間に帰ってしまうとい
う奇異な行動に驚かされてから、急激に石田に傾いて
しまっていることは確かだった。このままでは美緒に
対して恋愛状態に陥るのは時間の問題だった。
寝ても覚めても相手のことを想う。本当に彼女は自
分のことが好きなのだろうかと疑う。あの言葉の意味
は何だったのだろうかと考える。一点を見つめて、「
おい」と人に声をかけられてしまう、そういう恋愛状
態になるのは時間の問題だった。
それにしても、どうしようもない中年のくだびれた
おじさんだと思っていた青島が総理大臣の甥だとはこ
れも驚きには違いなかった。驚かされることが最近多
い。それも妙に政治がらみのことで驚かされ、政治に
は何の興味もない圭介には意外なことだった。
帰りにコンビニに寄り、巨大なカップラーメン「キ
ング」を買った。夜、それにお湯を大量に注いで、三
分待ってからすすって食べた。汁まで全部飲んで満足
した。
二週に一度しかローテーションの関係で会えない美
緒だった。圭介は次いつ会えるか考え、こちらから電
話かメールして積極的にしようかとも考えていたが、
とてもそんな勇気は湧かなかった。政治家を志す女は
スケジュールが立て込んでいて、自分の組んだスケジ
ュールの中に他人が入り込んでくることを嫌うのでは
ないかと思った。実際、以前交際したバリバリのキャ
リアガールは、電話すると露骨に迷惑そうな対応をし
たので二度と自分からは電話しなかった。
しかし、政治家は心の内はともかくだれにでも愛想
よく声をかけ、笑顔で応対しようとする人種である。
それはＢＡＫの女の子たちも同様である。「選挙」の
得票を絶えず意識している。無愛想な対応をするよう
ではその場で政治家として失格である。よほど大物に
なれば、素っ気ない対応もあるが、政治家の卵が大柄
な口を利いてはいけない。それに美緒とは話すと柔ら
かい空気があるのを感じている。言葉も滑らかに出て
くる。これは人間の出す波動が共鳴している証拠で、
それを測定する機械があれば数字で示すことができる
だろうが、たしかに美緒とは波長が合って、音叉が共
鳴して鳴り響くようなところがあった。
そういう相手は大事にしなければならない。政治家
であろうが、ファッションコーディネーターであろう
が、そんなことは関係ない。馬の合う人間は互いに引
き合い深い関係を持つことになる。自然の摂理に忠実
になるべきだろう。
電話はやはり相当抵抗があったので、メールをした。
《こんにちは。このあいだはすいませんでした。また
お話したいですね。都合がいいときメールください》
すぐに返信が来た。
《メールありがとうございます。感謝！ いつでもい
いですよ。スケジュール空っぽにして待ってます！》
全面的に圭介を受け入れてくれている返信である。
何の抵抗もない。こういう女とは結婚する事になるの
だろうと圭介は確信したくなった。赤い糸でつながっ
た運命の男女はお互いに引き合って、結びつかなくて
はすまない状況に立ち至る。困難、抵抗、妨害があっ
てもそれを撥ね退けてふたりは結ばれることになる。
性交に及び子供を産むことになる。これは世の中の摂
理である。圭介はそう思うとむらむらと性欲が湧いて、
下半身が疼いて固くなってきた。美緒を思いながら右
手で慰撫した。近いうちに美緒とはこの空想が現実に
なるだろうと圭介は思った。
終電近い酔った客の多い電車の車両に揺られながら
、圭介は天井から吊るされた広告を呆然と眺めていた
。
「民自党女代議士 永田町に流れるミョーな噂」
週刊誌はもう嗅ぎつけている。美緒の言ったことは
荒唐無稽な作り事ではない。こんなことが実際世の中
にあるのかといいたいが、思えば青島氏の警告は本当
だった。
「煮ても焼いても喰えない女」
確かにその通りだった。これまでの人生で体験して
きて人間存在の範疇を突き破る存在だった。次元が違
っている。「サザエさん」や「ドラえもん」で形成し
てきた日常性を根底から覆された気がする。これも人
生の多様性で感受しなければならないものなのだろう。
しかし、向こうがこちらの介入を拒絶したようである。
いや、こちらから遠慮したというほうが適切かもしれ
ない。とても馴染めない異質な世界だった。
美緒とは何度か会った。お茶を飲み、映画に行き、
美術館へ足を運んだ。ディズニーランドへも行った。
夜の港も見た。人気のない地下鉄入り口の踊り場で抱
きしめたこともあった。接吻までには至らなかった。
知れば知るほど謎めいた部分があって、それが嫉妬
に変わっていった。別の男の存在がどうも匂う。当初
は「スケジュール空っぽにして待ってます」なとど返
信が返ってきたが、それからは約束しようとても「人
と会う約束があります」とか「その日は先約があって」
などと難色を示されることが多くなった。「人と会う」
のその「人」というのは、男の可能性は二分の一はあ
る。「その人って誰だよ」と普通の男なら突っ込んで
訊くはずである。しかし、変にプライドの高い、そし
て臆病な圭介は訊けなかった。「あ、そう」と何でも
ないように装って後でくよくよ思い悩んでいた。
「人」は想像の世界で、青年実業家や同じく政治家
志望の好青年、イケメンの大学のサークル仲間など様
々に像を結んで圭介を苛んだ。その青年と美緒がホテ
ルでベッドを共にしているような空想は一番辛かった。
美緒と付き合いだすと、どういうわけか、アダルトシ
ョップへは足が向かなくなった。心は美緒でいつも満
たされ、他の女の介在する余地はなかった。
美緒と約束を取り付け、並んで街を歩く。客観的に
見れば、幸福なカップルに見えただろう。しかし、圭
介の内面は不安や嫉妬で地獄だった。少し人目を気に
しながらショップに出入りしている時のほうがどれだ
け気楽で幸せかわからなかった。
そんな悶々とした思いの日々に耐えられなくなった
圭介は、思い切って今日、美緒に迫ったのだった。
「ノアドール」という駅前にある地下の喫茶店で、圭
介は美緒に迫った。
「僕たちは付き合っているよね。そうだね」
「どうしたんですか。急に」
「応えてほしい。付き合っているよね」
「ええ…」
「だったら、隠し事はしないほうがいいよね。なにも」
「そうですね」
「僕に隠し事は何もない。僕は、ぼ、僕は美緒さんが
好きだ」
「ありがとうございます」
「美緒さんはどうなの」
「わたしも、甘粕さんのことを好きです」
「でも、他にもだれか好きな人がいるんじゃない」
ああ、とうとうこんなことを訊いてしまったと、圭
介は心の中で思う。
「どうしてそんなこと訊くんですか」
「はっきりさせたいから」
美緒は圭介の目をじっと見る。
「疑ってるんですか」
「疑っていない。確認したいだけで」
美緒は視線をはずし、その視線を宙に浮かせて考え
ているようだった。
「話したほうがいいのか、わからないんですけど」
やはり何かある。二股かけて、どちらにしようか迷
っている相手がいる。
「信じてもらえないと思いますけど、絶対人に話すつ
もりはなかったんですけど、甘粕さんにはウソはつけ
ないと思いますから、話しますね。実は…」
小説よりも奇異な美緒の話をここに概略記すことに
する。
美緒は尊敬する民自党代議士前田優子に「あなたは
なら政治家になれます」と言われてから寝ても覚めて
も前田のことを思い続け、前田がユーチューブに流し
ている国政報告のビデオレターは欠かさずチェックし
ていた。国会中継で前田が質問するときは録画して幾
度も再生し、その服装やしぐさ、目線、与党を攻撃す
るときの言い回しなどほれぼれしながら見ていた。宝
ジェンヌに憧れる少女と同様だった。
「わたしは前田優子さんになりたい」
真剣にそう考えた。前田のブログには必ずコメント
を寄せ、「お会いしたいです」と必ず最後に付け加え
ていた。
するとあるとき「あなたの写真を添付して送ってく
ださい」と前田から美緒に直々にメールがきた。舞い
上がった美緒はさっそく一番かわいく、かつ理知的に
写った写真を送信した。
「○月△日、議員会館に遊びにいらっしゃい。お話し
ましょう」と返ってきた。
手の舞い足の踏むところを知らなかった。夢見心地
でその日を待ち、出かけていった。
その日は予定がないからと前田は美緒一人を相手に
してくれた。携帯の電源も切って余計者の介入を遮断
してくれた。時の経つのも忘れて、いや時間を止めた
いくらいに夢のような時は過ぎて行った。前田は行き
付けの料亭から「お弁当」を届けさせ、食べたことも
ないようなリッチなお重に驚いた。門限を気にしてい
たが前田は直接、父親に電話して議員会館に泊まって
もらうが心配はないとかけあってくれた。政治嫌いの
父親も前田のことは政治家として評価していたから、
直接電話をもらって驚くばかりで、「よろしくお願い
します、ご迷惑をかけて申し訳ありません」と恐縮し
て詫びるばかりだった。
シャワーを奨められ、浴びているところに前田も裸
になって入ってきたので、美緒は驚愕した。
この辺りから日常の秩序から逸れて奇異な世界に迷
い込んでいったようだった。意味がわからなかった。
前田は四十に近いとはいえ、美しい身体をしていた。
胸も臀部も驚くほど立派に自己主張していた。驚いて
声をあげそうになった美緒に前田は人差し指を口にあ
てて近づいてきた。
高校の先輩、尊敬する代議士に優しくされるのだか
ら文句の言いようもない。美緒はこの日初めて女の悦
びを知った。男性経験は幾度かあった。しかし、少し
もいいと思ったことがなかった。こんなつまらぬこと
のために男と付き合うなら、犬と遊んでいたほうがま
しだと思ったくらいだった。しかし、前田は巧みな言
葉と愛撫で、美緒を絶頂にまでいざなってくれた。自
分でも信じられないことだったが、女の秘部から多量
の泉水が吹き出して恥ずかしかった。
シャワー室とベッドで愛され続け、明け方になって
ようやく解放された。前田は濃いコーヒーを煎れてく
れた。議員宿舎の窓から都会の夜明けを見た。自分で
自分が信じられなかった。自分は何なのだろうと思っ
た。
そうして、前田代議士との逢瀬は度々重なり、次第
に美緒も女の悦びのために前田を求め始めている自分
に気づき戸惑った。女の、同性の人と自分は何をして
いるのだろう。こんなことがあっていいのだろうか。
しかも相手は十八も年長の有名な国会議員。エレベー
ターで他の議員に会うと美緒は前田から親戚の子、秘
書候補と紹介されていた。女の欲望の相手だなどとは
誰も疑わないだろう。
前田は美緒の知性や意志の強さを評価して自分の後
継者として、一人前の政治家に育ててくれることを約
束してくれた。その代わりに女盛りの女の欲望の対象
となることは許してほしいといったが、美緒も女の悦
びを覚え始めて詫びられるのは違う気がした。前田は
物心両面で神のような存在になっていた。
しかし、一方で懸命にブレーキをかけようとする自
分もいた。このようなアブノーマルな関係が普通にな
れば、自分の人生は壊れてしまうという危機感があっ
た。祖父が都議会議員、父は教師という家に育ち、母
も茶道の指南として町内や学校で教える立場にあった。
家の中には規範というものが自ずと出来上がっていた。
人間は昔からの伝統に則り、規範に沿って生きていか
なければならないという暗黙の秩序があった。
祖父と父との対立が厳格な家庭の中にわずかなひず
みの空間を作り出し、そこに美緒が常識を超えた安息
の場所を見出したのかもしれなかった。
軌道修正を試みた美緒は自分がノーマルであること
を確認するために、適当な、といっては圭介には悪い
が、恰好の相手を見出した。自分の思い通りになりそ
うな男とつきあうことで、バランスを取ろうとした。
政治家を志す美緒は絶対に前田からは離れたくない。
たとえ、性的関係で前田から飽きられるようなことが
あっても、政治家としての修行として前田にはついて
いかなければならない。それと、前田に開発された同
性にも感じてしまう自分があった。これは自分の意志
ではなんとも統御しきれない抗し難い津波のような力
がある。しかし、ささやかな抵抗が圭介と会うことだ
った。圭介がもっと強引に美緒を引っ張って、前田と
のアブノーマルな関係を清算できたらいいと望んでい
たかもしれない。しかし、それよりも前田に教えられ
た女の悦びの方が遥かに強く、それには屈服するしか
ない無力感も感じていた。
このようなウソ偽らざる正直な気持ちを聞かされた
圭介は、驚いて頭が混乱した。どうしていいかわから
ない。嫉妬心もあるが相手は名の知れ渡った国会議員、
しかも女性。対抗できるとはとても思われない。美緒
とのことをバラすぞと脅迫しても逆に殺し屋でも雇わ
れてコンクリートで固められ東京湾に沈められてしま
うかもしれない。触らぬ神に祟りなしだ。
何もなかったことにして、美緒への思いは押し殺し
て、口笛を吹いて、青島氏と一緒にアダルト・ショッ
プへ出かけて、アキバ系のＤＶＤを物色していたほう
が気楽でいい。あるいは、入り組んだ目的であるが、
圭介を必要としていてくれることは確かだから、情勢
の変化、好転を期待して、こちらからはあまり積極的
にしないで付き合い続けていればいいかもしれない。
ノーマルなカテゴリーには収まりきらない女、そっち
系の女として割り切ってつかず離れず、付き合ってい
くしかないのかもしれない。
圭介は電車の天井から吊るされた広告のその週刊誌
を買って是非読んでみたいと思った。
（了）
月刊ＷＥＢ風 ２０２３年９月号 通巻第１７４号
［原稿用紙３５枚］
