そっち系 １
大堀敏靖
甘粕圭介はまた深夜のブックショップに立ち寄った。
こんなところを人に見られたら何と言い訳するのだ
ろう。家庭教師と塾のバイトの掛け持ちをしている。
実家に住んでいるのだから、そんなことをしなくても
生活はしていける。しかし、三十も半ばを越えて何も
しないわけにはいかない。父は大学教授、母は専業主
婦をしている。定職に就かず、結婚もしない、いい歳
の息子に両親は何も干渉しなくなった。「主体性」は、
甘粕家の唯一の家訓で、それぞれが自由に生活するこ
とをモットーとし、お互いに干渉しない。それがいい
のか悪いのか、圭介には判別がつかなくなっているが、
とにかく「主体性」をもって、生きていかなければい
けないとは考えている。
一応はフリーライターを目指しているが、自由に生
活しながら、さらさらっと文章を書いて生活していけ
ればいいと思うだけで、真剣に目指しているわけでは
ない。切迫感はない。三度の食事、空調の利いた快適
な部屋、掃除も洗濯も税金の支払いも保険の積み立て
も何も考える必要はない。同年代の者たちは子育てに
追われている。大体小学生くらいの子がいる。結婚の
早かった同級生は高校生くらいの子供がいる。お金も
かかる。しかし、圭介はそういう浮世の心遣いは一切
不要で、一時はパチンコにのめりこみ、心の空洞を一
個四円の玉に託して、埋めていた。ビギナーズ・ ラッ
クで五百円の投資で三十万円当ててしまったのがまず
かった。自分にはギャンブルの才能があると勘違いし、
開店の十時から閉店の十時まで台の前に座って、玉の
流れを追っている毎日が半年続いた。
「こんなことしていていいのか」
両親ならぬ良心からの囁きが頻繁に聞こえてきた。
パチンコは結局儲かるものではなく損をするようにで
きていると悟って止めた。損失総額は百五十万くらい
だったが、
主体性をもって生きる息子のいい勉強になっただろう
ということで、父は金を出してくれた。
「若いころはいろいろやって、いろいろのめり込んで、
そこから何かをつかむといい」
物分かりのよ過ぎる父には不満もあったが、「主体
性」をモットーとしているのだから仕方がない。
そして、今はパソコンの助平なサイトでたどりつい
た究極のエロチックな世界に圭介はのめり込んでいた。
現実の女では満足できない。演出され、作られた世界
の中で、過激に欲情をそそる欲望の真っ盛りの肉付き
のよい女体にのめり込んでいた。
「そんなことしていていいのか」
という良心からの囁きも最近は聞こえなくなった。
つまり、良心もゴーサインを出している自我没却なの
だろう。ここを深く掘り進めば何か本質的なものに辿
り着けるのだ。
店に入ると「アダルト・コーナー」の暖簾をくぐり
抜け、まっすぐに「熟女」のエリアに進む。扇情的な
パッケージが棚に並び、満開の牡丹の庭のように思え
て、心が躍る。「フェチックス」というメーカーのＤ
ＶＤが好みで、その中でも東町監督の作品がよかった。
どろどろした情欲の世界がドラマ仕立てで妙にリアル
に表現されている。登場する人物はいずれも情欲の虜
になって、ほとんどそのことしか考えていないような
主に中年の男女たちだった。たまに老人や若い女も登
場した。
今日の目的は、肉付きのよい旅館の女将が女にモテ
ない童貞の男を餌食にするという内容の作品だった。
ネットで新作をチェックしていた。ところが新作コー
ナーを見渡してもない。レジのバイト風の店員に尋ね
る。
「すいません。これなんですけどね、ありますか」
メモ書きした作品の番号を見せる。
茶髪に耳ピアスの店員は気安く応じて、パソコンで
調べてくれる。
「えーっと、『ロリコン道徳本日休業』っスかね」
「いや、ちがいます。そんなタイトルじゃなくて、中
年の太った…」
「あ、そっち系っスか」
この店員は圭介をロリコン趣味のオタクと思ったの
だろう。仕事柄、子供たちを相手にしているのでそん
な顔つきになってしまっているのかもしれない。
しかし、それはよくない。「変態の先生」などと思
われてしまってはよくない。だが、所詮バイトだから、
そんなこと気にしなくてもいいのだ。それに、圭介は
決してロリコンではない。かわいいと思う生徒はいて
も本気で恋愛感情を抱いたことはない。同じバイト仲
間には、担当することになった高校生に一目ぼれして
しまって、寝ても覚めても生徒のことが眼前にちらつ
いて大学の勉強も手につかなくなり、仕方がないので、
教えていた別の女子生徒を介して気持ちを伝え、相手
の生徒の方もそんなに一途に愛してもらってまんざら
でもないのでとうとう結婚してしまった者もいた。そ
ういうのは運命的な出会いというのだろう。赤い糸で
つながっていれば、どうしてもくっつかなくてはなら
ない。
どうしてもこの女と結婚したいという女などに圭介
は巡り合ったことがない。結婚など考えさせてくれる
ような女を好きになったことはない。ない、と思った
が、いや、そうでもないかと、今一人の女が脳裏を掠
めた。やはりバイト仲間の石田美緒は、二週間に一度、
ほんの五分間だけ会う度に圭介の心の中に涼やかな爽
やかな、甘美な風を吹かせてくれる。必ず顔を合わせ
ると微笑を圭介に投げかけてくる。教室に向かうエレ
ベーターの中で一緒なったことがあった。
「甘粕先生は子供好きですか」
石田が急に振り向いて圭介に訊いた。圭介が急な問
いかけに返答に窮していると、
「私、中学生キライです。どうしたらあんな子たちを
好きになれるのか教えてください」
「そんなに嫌いなんですか」
「嫌いです。大人と付き合っているほうがどれだけマ
シかわかりません」
「困りましたね。それは」
「相談に乗ってください。私、教職とって教師になら
なくてはいけませんから」
そこでエレベーターの扉が開き、石田美緒は微笑を
残してその階の教室に消えた。
「あ、ありました。これっスね。あ、人気商品なんで、
在庫切れてますね。問屋に聞いてみますからちょっと
待ってもらえますかねぇ」
茶髪、ピアスの店員は「お疲れ様っス」と店長と思
われる人間と連絡を取ったあと、何かを確認して今度
は問屋に問い合わせているようだった。
「え、マジっスか。わかりました。はい、そうっスか。
ええ、わかりました。ＯＫでッス。あざっス」
「すいません。一週間かかるそうなんですけど、いい
っスかねぇ」
「そんなに。でも、いいです。待ちます」
「じゃ、入荷したらお電話します。連絡先を書いても
らえますかねぇ」
圭介が携帯の番号を書いて店員に差し出したときだ
った。「甘粕さん」と呼ばれて背中を突かれた。全身
が引きつるほど驚いた。振り向くと太った男が背の高
い圭介を見上げるようにしている。
「甘粕さん。こんなところで会いましたね」
それは圭介がバイトをする塾の専任講師をしている
青島だった。こんなところで会うということは、お互
いこんなことにうつつを抜かしているということであ
る。それはお互い様で相手を責めるわけにはいかない。
同罪ということになる。しかし、青島はたまたま、ち
ょっと覗いてみただけかもしれない。圭介は注文して
いるところまで見られてしまった。店員と話して本格
的に関わっていることになる。
青島はそういう圭介の心を見抜いたのか、
「僕は、常連ですよ。甘粕さんを見るのは初めてです
けど、よく来られるんですか」
と言ってくれた。
「時々、来ます」
「何注文したんですか。いいのあったら紹介してくだ
さいよ」
「いや、ごくノーマルなヤツです」
「やっぱロリコン系ですか。職業柄そうなっちゃいま
すよね。でも、実物に手を出して問題を起こすより、
バーチャルな世界で満足している方が健全ですよね」
「健全？ ですか」
そういう取り方もあるかと納得する。実物を相手に
しないほうが健全。圭介は逆だと思っていた。生身の
人間を相手にするのが健全だと思っていた。しかし、
ロリコンでは生身を相手にする時点で犯罪になってし
まう。
「あっちに僕のお気に入りのコーナーがありますから、
一緒に見ませんか。今日はね、女房が子供と実家に帰
って独りなんですよ。独身気分で羽を伸ばしてルンル
ンってとこですから、甘粕先生、付き合ってください
よ」
小太りの青島について寄りついたことのないコーナ
ーに入っていく。「アキバ系」とコーナー表示してあ
る。こういう自分の趣味や好みを知られることは、日
記を読まれるくらいに抵抗があることである。しかし、
青島は圭介を同類と見なしたのだろうか、平気に自分
の趣味を暴露している。
メイド服を着た少女たちのパッケージが並んでいる。
圭介は少女にはどうしても欲情が掻きたてられない。
穢れのない少女というのは一番覚めてしまう。そんな
聖少女に欲望をもってはいけないだろう。穢れのない
人間には穢れのない心で対するのが礼儀にかなってい
る。助平なオヤジは穢れない少女の中に眠っている淫
靡な芽を育てることに喜びを見出すのであるが、圭介
にはわからない。それよりも、淫乱を露呈して、欲望
を き出しにして、男を漁るような女のほうが、てっ
とり早くていいと思っている。要するに受け身の考え
方でマゾヒズムなのである。
「この娘なんかどうですか。こんな子に『お帰りなさ
い。だんな様』なんて迎えられたらたまらんと思いま
せんか。甘粕先生」
写真の女の子は確かに整った顔をして扇情的ではあ
るが、圭介の琴線に触れない。
「青島さん。その『先生』というのは止めてもらえま
せんか。こんなところで」
「失礼。アマさんと呼びますか。それともアマちゃん」
「ＮＨＫの朝ドラみたいですから、甘粕くんでいいで
す」
「わかりました、甘粕先生、でなくて、甘粕くん、や
っぱ甘粕さん」
こういう趣味は自分にはないと圭介は思っていたが、
要するに妄想の世界に入り込んで、仮想現実の世界で
好きなように欲望を充足させている。制作者はそれぞ
れのニーズに応えて作品を作っているが、制作者本人
の欲望を最大に満足させる映像を追求することがすな
わち、マニアたちの欲望を満足させることにつながっ
ているのだろう。そうすると、こういう作品でも制作
することは、世の人々の需要を満たすことであるから、
済民にはなっている。世の中の役には立っていること
になる。不道徳として一切を禁じてしまったら、欲望
はそのはけ口を失い、屈折して、形を変えて噴出する
かもしれない。江戸時代から浮世絵に卑猥な春画とい
うものはあった。時代が進み、動画になったが、基本
システムは変わっていない。より現実に近づいた欲情
満足の媒体となっているというだけの話である。空想
を逞しくする努力が軽減されているだけの話である。
「アキバ系」コーナーにも圭介が手にとって確かめた
くなる作品があることを知る。巨漢の女二人が小男を
弄んで、体液を搾り取る。胸や臀部で圧迫され、窒息
寸前で解放されることを繰り返す。小男は苦しんでい
る反面喜んでいる。実際この小男の立場になったら、
何もよくないかもしれない。女のいいようにされて、
体液を搾り取られて、屈辱しか残らないかもしれない。
しかし、一度はそんな目に遭っても悪くない。知らな
い世界が見えるのかもしれない。
「あれ、甘粕さん、そっち系ですか。もしかしてドＭ
ですか」
確かにマゾヒスティックではある。しかし、ドＭと
いうほどではない。
「いや、ただ、イタブラレたいという願望は確かにあ
ります。愛されたいということです」
「わかります。僕もメイドさんに愛されたいですから」
「青島さんは奥さんがいるからいいじゃないですか。
メイドさんの恰好させて充足できるでしょう」
「ダメです。一度女房にメイド服を着させたことがあ
ります。しかし、あのキツい性格ではまるで雰囲気が
出ませんでした。そのうちに泣き出して、せっかく購
入した衣装を喚きながらハサミで切り裂いて実家に帰
ってしまいました」
「マジですか」
「で、僕は迎えに行って、今後二度とそんなことしま
せんって、誓約書まで書かされたんです。あれはダメ
です」
「苦労されてますね」
「だから僕はそこで学習したんです。こういうのを楽
しむのはバーチャルな世界に限るって。現実にこんな
ことを求めたって結果は所詮そんなもんです。遊びと
割り切ればまた楽しめるんです」
「なるほど。説得力あります」
「女房もバーチャルな世界の趣味の追求は黙認してく
れています。棚に隠してあるＤＶＤに気づいているん
でしょうけど、何も言いません」
「お子さんはどうです」
「子どもたちもたぶん気づいてるんでしょう。いろい
ろ探索することが好きですから。それで知らないフリ
しているのかもしれません。親にも人としての欲望が
あることは学んでいるのでしょう」
「割り切ってますね。悟ってるとも言えますね」
「でもね。こんなことは誰にでも言えることではあり
ません。甘粕くん。いや、甘粕さん。あなただから言
えるのです。何か共有できるものをあなたは持ってい
るようだから。もっと語りたいですね。そこのファミ
レスに行きませんか」
特に深夜に何の用もないが、圭介は、家に食事が用
意されているという理由で断った。
「じゃ、今度また話しましょうよ。いつがいいですか」
こんな小太りのロリコン趣味の男と話したくはない。
「土曜の夜なら空いてます」
「あ、授業後のね。女房がいないとき僕の家にもぜひ
来てくださいよ」
ろくに職場では話したことない青島がなぜこんなに
自分にからみついてくるのかよくわからない。
「ええ、いつか、ぜひ」
もしかして、青島はあっち系、つまり男色系のオカ
マなのではないか。爽やかとは正反対の気持ちの悪さ
が残る。小太りのあんな男に迫られたら敵わない。
翌日、バイト先の予備校でのことである。
自分にはいつのことだかわからない結婚という二文
字を考えた時、脳裏をかすめた女、石田美緒がどうい
うわけか、圭介に相談したいと食事を誘ってきた。目
は切れ長で一重まぶたであるが、微笑が美しく、どこ
かしら育ちの良さが感じられる石田美緒ならば、青島
氏とは異なり、食事も付き合いたくなる。青島とも当
然その日は顔を合わせた。
「あ、甘粕先生、昨日はどうも」
まさか、アダルト・ショップで偶然際会したとは言
い出さないだろう。
「今晩、授業後どうですか。いい店を知ってますから。
お酒飲めますよね」
「あ、ダメなんです。一滴も飲めません。アルコール
ダメなんです」
青島は口を尖らせて、残念そうだった。
「じゃ、ラーメン行きましょう。ラーメンはどうです」
「ラーメンは大好きです。でも、今は控えています。
塩分の取りすぎはよくないと健康診断で言われました
ので」
それはウソだった。健康診断など受けていない。母
親からよく言われていることを言っただけだ。
「じゃ、コーヒー飲みましょう。どうです」
「すいません。今日、先約があります」
そこで青島はようやくあきらめて、仕事机に戻って
いった。どうして圭介とこうも懇意にしたがるのかわ
からない。アダルト・ショップにいたというだけの一
面で人がわかるのだろうか。弱みを握ったということ
で、揺すろうとしているのかもしれない。しかし、そ
れならばこちらも同じ証拠を提示して脅迫することが
できる。
人生にはこういう不明なことがままある。必ずそう
なる理由はあるのであろうが、当事者には偶然とか運
命と割り切られて進展している。
石田美緒がたまにしか顔を合わせない圭介を食事に
誘うのもわからない。誤解や変な買いかぶり、思い込
みがあってのことだろう。あるいは、男も女も同時に
誘い込むような特殊なフェロモンを放出する時期に差
掛かったのかもしれない。おそらくばかばかしい理由
によるものだろう。
午後十時を回った、ほとんど他に客のいない静かな
イタリアンレストランで圭介は石田美緒とテーブルを
挟んで向かい合った。
座った正面、つまり美緒の頭上にアールヌーボー風
の装飾を施した皿のような時計が壁に掛けられていた。
十時十五分を差して秒針が動いていた。
圭介はパスタとコーヒーを頼んだが、美緒はダージ
リンティーだけ注文した。
「あれ、食事するんじゃないですか。お茶だけですか」
「はい。私、夜九時以降は食べないことにしてます」
「ダイエットですか。スリムな体型してるようですが」
「単なる習慣です。夜、ものを食べると心が乱れます
から」
妙なことを言う女だと圭介は思った。
「人間はなぜものを食べなければならないのでしょう
か。なぜ呼吸だけで生活できるように人間は設計され
なかったのでしょうか。そうすれば排泄などという汚
いことはしないで済んだのです」
哲学を勉強している人だろうかと、圭介は思った。
こういう浮世離れした話は嫌いではない。
「食事をしなければ、排泄もないんでしょうけど、人
生の楽しみは半減しますよ。毎日三度の食事を楽しみ
にして生活している人も人類の大半でしょうから。貴
女のように食事に淡白な人はそういるものではありま
せん。人間は生きるために食事してますが、食べるた
めに生きている人のほうが多いと思いますから」
「やはり貴方は私の思ったとおりの人ですね」
「どういうことですか」
「貴方とはこういう話ができると思っていました」
圭介も空気が柔らかいのを感じていた。精神的な波
動が共鳴して空気が和んでいるのを感じる。この女と
は結婚する事になるかもしれない、と思った。
「私と結婚する事になることになるかもしれない、と
今思われましたか」
また、「妙」を通り越えて、ミステリアスなことを
言った。
「なんですか。それは。読心術とかいうヤツですか。
たしかにそれに近いことは今考えてましたが」
「え、本当ですか。私は自分の気持ち言っただけです」
と、いうことはこの女は圭介と結婚したいと考えて
いることになる。
「まだほとんど初対面といってもいいのに、こんな会
話するなんて変ですね。変ですけど何か意味あるんで
すか」
「結婚する相手というのは、もともと一つの身体だっ
たものが分かれていただけで、必然的にくっつくよう
になっていると言われます。お互いに呼び合って、運
命的につながれていて結ばれるようになっているので
す。赤い糸でつながっているんですね」
この女は自分たちがそういう運命だということを言
いたいのだろうか。
そこへ注文したパスタや飲み物が運ばれてきた。石
田美緒は暫く黙った。
その時若い二人の女性客の来店があった。離れた席
に座った。
「でも離婚する夫婦が三組に一組もいるらしいじゃな
いですか。あれは何ですか」
「間違った人を運命の人と勘違いしたのでしょう。皮
相な肉体的魅力に幻惑されて、勘違いして結びついて
精神的な繋がりがなかったカップルなんでしょう」
「それにしても割合的に多すぎるし、昔より増えてい
るのは妙じゃないですか。勘違いが横行し過ぎてます」
「昔より人間が軽薄になって、精神よりも肉体のほう
に比重を置く人がふえたのでしょうね。神より動物に
近づいている人のほうが多くなったということですね」
圭介は店員にタバスコを頼んだ。味がわからなくな
るまでタバスコを掛けないと気がすまない。香辛料は
体にいいという神話を持っている。掛ければ掛けるほ
ど健康になれる。
「ところで相談があるということでしたが、やっぱり
教職のことですか」
「はい、そうなんですけど、そんなことはどうだって
いいんです。教師になるつもりなんてないですから」
「え、教職を取っていながら、塾でバイトしていなが
ら、教師になるつもりないとは、奇異な話です」
「そうです。それは私の妥協から来ているのですが、
必ず打ち勝って見せます。父は都内の公立中学の校長
をしているのです。それで私にも教職に就くようにい
うのですけど、私は教師になるような真っ直ぐな人間
ではないのです。屈折して、捻じ曲がって、斜に構え
て、道徳に反するようなことに興味を持ってしまう人
間なんです。こんな女に教師なんて務まると思います
か」
「人間だれしも、完璧に道徳に叶ったような人間など
いません。最近特に、学校教師の問題行動が頻繁にワ
イドショーネタになったりしてるじゃないですか。あ
れが本性なんです。普通は抑えてるんですが抑えられ
ない人もいるんですね。普通そういうのを世間ではバ
カといいますが…」
「私はそのバカですから抑えられませんし、度が過ぎ
るんです。子どもに対しもムカついたら虐待してしま
うタイプです」
「今もしてるんですか」
「してません。ネコ被ってますから」
「それでいいんです。ネコ被り続けて、演技して、か
のように表面を取り繕って生きていけばいいじゃない
ですか」
「いやです。そんなの。耐えられません」
「そんなこといいながら、立派に我慢して務めてしま
うタイプですよ、貴女は」
「そうかもしれません。でも教師だけはいやなんです。
子供相手だけは絶対にいやです。子供嫌いですから」
「子供が嫌いな人が先生になっちゃいけませんね。魚
の嫌いな人が魚屋やるようなものだし、犬の嫌いな人
間がトリマーになるようなものでしょう。嫌いな男と
結婚するのも同様です。やっちゃいけないことです」
「そうです。だから私は教師に不適格なんです。やっ
ちゃいけないことをやろうとしていますから間違って
るんです。無理やりに私を教師にさせようとする父が
いけないんです。その父に同意してしまう、自己主張
しない、依存的な気質の母もまちがっているんです」
圭介は愉快な気分になってパスタをフォークにから
めて頬張る。
美緒はダージリンティーを一口飲む。
「で、教師にならないとすれば貴女は何をやりたいん
ですか」
すると予想だにしなかった応えが返ってきた。
「政治家です」
この女の子の口から政治などという言葉が出てくる
とは思わなかった。歌舞伎役者をめざしています、と
いうくらい驚いた。
「えっ、そっち系？」
「はい。私がそんなこというとたいていの人は目を丸
くして、まるで中国人に誠実な人がいたみたいな、韓
国人が責任ある行動を取ったような顔してびっくりし
ます。そんなにおかしいですか」
「およそ政治とは次元の異なったアトモスフィーを感
じてましたから」
「もっとふてぶてしい、図々しい顔してないといけま
せんか」
「少なくとも線は太くなくてはいけませんでしょう。
僕はもっとおしゃれな仕事、フッァション関係か、フ
ラワーアレンジメントとか、ブライダルコーディネー
ターとか、そんなんだと思いました。政治、ですか。
またどうしてです」
「実は祖父が都議会議員をやってました。その血だと
思います。それに民自党の前田優子さん。憧れの女性
なんです。私はあんなきりっとした、そしてたおやか
な女性になりたいと思っています。大和撫子って、あ
んな人のことを指すのじゃありませんか」
民自党の前田優子。先日もたまたま参議院の予算委
員会で、防衛関連の質問をしているのを見た。野党の
政治家は質問の時間を与えられるとテレビに映ること
を意識して、自分こそ正義の使者のように政府与党の
不正を暴きたてようとする。女性議員も小学生を叱る
女教師のように閣僚を吊るし上げたりする。ところが
この前田議員は、質問席に立つとまず合掌する。居並
ぶ敵対勢力の閣僚たちを拝んでいる。それがわざとら
しいパフォーマンスではなく、尼僧が御仏に手を合わ
せるように、至極自然に見える。拝まれた閣僚たちは
美しい野党議員に好意すら持ってしまうのだろう。実
際、「政治信条を越えて尊敬しています」と暴露する
与党議員もいる。「嫁さんにしたい」と言った古参議
員もいた。
しかし、表向きのたおやかさとは裏腹に防衛問題の
急所を突いて、総理大臣にもたじたじの答弁をさせて
いた。テレビの視聴者にも完全に閣僚が論破されてい
ることは明らかで、懸命な母親が反抗期の息子を諌め
ているような風情があった。下手なドラマよりも見応
えがあるので、ユーチューブにも複数アップされてい
た。
「前田優子さんは凄い人です。あの人は外務大臣や首
相にでもなってもらいたい人です。貴女が憧れるのも
わかります」
「私が通った聖女高校の先輩なんです。一度学校に講
演にいらしたんですが、私は握手をしてもらって、『
私も政治家になります』って言ったら、私の眼をじっ
と見て『あなたならなれます』って言ってくださった
んです。それで私は絶対政治家になると決めたんです。
まず前田さんの秘書になって、それから都議会に立候
補して、ゆくゆくは国政選挙にも出るつもりです」
驚きだった。政治家を本気で志す人間に初めて遭遇
した。およそ百八十度、圭介とは反対側を向いた人間
ということになる。
「そうですか。そこまで思いつめているのなら、そう
すべきでしょう。それしかないと僕は思います」
「でも、壁があるんです。父という壁が。祖父と父は
仲が悪かったんです。祖父と父は正反対の性格で、祖
父の晩年はほとんど父と口も利きませんでした。父は
父で、政治家という仕事を蛇のように嫌ってます。政
治などは交通整理をする下っ端の警官と同じで偉そう
な顔して、女を外に作って、金で人を動かそうとする、
最低の人種だと言っていました。祖父は父のことを世
間知らずで、何もわかっちゃいないとあきれていまし
た。そういう下で育った私は価値観の混乱があります
が、祖父の方が偉いと思っています。でも父は、私が
政治家の道に進むのを絶対に阻止しようとしているの
です」
「それは確かに壁でしょうけど、親子ですから、乗り
越えらると思います。お父さんを説得させるだけの気
持ちを持てばいいのです。みんなに応援されて順風満
帆に進むよりもそういう壁を乗り越えて意志を貫くほ
うが、本物でしょう。試されていると思ったほうがい
いですよ。お父さんという壁を乗り越えられれば本物
でしょう。壁の前に立ちすくんでしまうようでは、そ
れまでのことなのです」
「そうですね。甘粕先生…」
美緒はあらぬ方に目が留まったようで、入り口のほ
うをじっと見ている。そして声を潜めて言った。
「あそこにいる二人、あれ、テレビに出ているグルー
プの子じゃないですか。きっとそうですよ」
石田美緒は先ほど入店してきた二人の若い女性たち
のことを言っているようだった。振り向いて見ると、
向こうもこちらを気にして見ていた。
「あ、あれはＢＡＫの、確かに、…柏原もえと吉田理
沙だ」
圭介は思わず小さく叫んでしまった。
「よく知ってますね。ファンなんですか」
「ファンと言うほどでもないですが、嫌いではないで
す」
嫌いではないどころか、圭介は毎晩、アダルトの映
像を見た後はＢＡＫのＰＶをユーチューブでみるのが
習慣になっていた。メンバーの名前も覚えていた。毎
年行われる「総選挙」で上位の選抜メンバーに選ばれ
る二人だった。
日常に突如現れた非日常に圭介は興奮した。こんな
チャンスはめったにあるものではない。握手してサイ
ンをもらい、携帯のカメラにツーショットで写るとい
うのがこういう場合の定石である。
「芸能人もプライベートな時間がありますから、普通
にしてあげないといけませんよね」
美緒はそう言う。しかし、このまま何もしないわけ
には絶対いかない。せめて握手だけでもしてもらいた
い。彼女たちと握手するのは普通ＣＤやＤＶＤを買う
と付いてくる「握手券」が必要だし、人気のメンバー
は長い列に並んで、ほんの数秒、握手をして会話を交
わせるだけである。
「石田さん、僕、ちょっと行ってきます。こんなチャ
ンスは人生でも二度とないですから」
「えっ、甘粕先生…」
美緒に構わず圭介は席を立ってＢＡＫの二人に近づ
いていった。二人は告白を受ける前の女の子のように
覚悟を決めて、黙って向き合っていた。
「あの、ＢＡＫの柏原さんと吉田さんですよね」
「あ、はい」
野球帽をとって柏原が応える。
「僕ファンなんです。誰推しということでなく、ＢＡ
Ｋの雰囲気というか、全体が」
「あ、ありがとうございます」
「あの、握手してもらえますか」
「いいですよ。いいよね、リサちん」
吉田理沙が頷く。圭介はまず柏原もえが差し出して
くれた手を握る。プライベートのＢＡＫメンバーの手
を握っている。柏原は左手も添えて、じっと潤んだよ
うな瞳を圭介に向けてくれた。彼女たちはファンとの
握手には慣れている。政治家が得票を一票でも増やし
たい気持ちと同じで、自分贔屓のファンを一人でも獲
得したい。その瞬間、圭介は柏原に完全に恋をしたよ
うな感覚になった。「この子はいい」と率直に思った。
「プライベートな時間なのにすいません。がんばって
ください」
そして次に柏原よりも年下と思われる吉田理沙に手
を伸ばした。この子は瞬間、花が咲いたような微笑を
して圭介を見た。そして握手が終わる瞬間、ぎゅっと
握力を強めたようにして手を離した。圭介はこの子は
自分に好意を寄せているのではないかと思った。「天
使だ。オレはこの子が好きだ」と心の中でつぶやいた。
「あの、ダメならばいいですけどサインしてもらえま
すか。この汚い手帳ですけど」
圭介はたまたま持っていた手帳を開いてボールペン
と一緒に差し出した。
「いいよね、リサちん」
吉田理沙は「うん」と頷いた。
柏原は筆記体のローマ字で名前を書いて帽子を被っ
た自分の顔とハートマークをすばやく書いた。慣れて
いるのだろう。吉田理沙は漢字の楷書で名前を書き、
「りさちん」と平仮名で書いて今日の日付も書いた。
「ありがとうございます。これは一生の宝にします。
ついでにお願いですが、写真いいですか。ケータイで
すけど」
「いいよね、リサちん」
吉田理沙は頷いた。
「二人のツーショット、いいですか」
二人はピースサインをかわいくして笑顔を向けてく
れた。カシャッ。圭介は二人と一緒に収まりたくて、
美緒に頼もうとしたがトイレに立ったのか席にいない。
通りすがりの店員を捕まえて、二人に囲まれた写真を
撮らせる。
「ありがとうございます。こんな幸せはありません。
友達に威張れます。みんなにうらやましがられます」
すっかり舞い上がって有頂天になって、二人に手を
振られながら、圭介は席に戻った。
しかし、美緒はまだトイレから戻っていなかった。
長い。ふつうよほど親しくならないかぎり、男と食事
に来て大便をする女はいない。腹が下っていればまた
別の話である。体調がよくないのだろうか。
時折、離れた所で食事をして話しているＢＡＫの二
人を気にしながら待った。しかし、戻ってこない。そ
の時、圭介は紅茶のソーサーの横に五百円硬貨が置か
れているのに気づいた。
石田美緒は自分をほったらかして、たまたま居合わ
せたＢＡＫに有頂天になっている圭介に愛想を尽かし
て帰ってしまったようである。政治家を目指すような
女だから、プライドは高いのだろう。ＢＡＫは世に知
られているにせよ、何百人といるメンバーの二人にし
か過ぎないのに自分をほったらかして、握手だ、サイ
ンだ、ツーショットだと夢中になっている圭介が絶対
に許せなかったのだろう。その気持ちはわかる。おそ
らく自分が美緒の立場なら、辛抱強く待つだろうが、
独占欲が激しい嫉妬深い人間ならば相手が別の方を向
くことが許せない。しかし、圭介にしてみれば、それ
は愛されている証拠であるから許さなければならない。
多少は恋愛の経験のある圭介はそう考えた。
携帯の番号は聞いている。ＢＡＫの子たちに会釈し
て店を出ると、すぐに電話した。
しかし、ショパンの夜想曲の呼び出し音が聞こえる
ばかりで出ない。怒っているのだろう。三回目によう
やく出た。
「はい…」
テンションが低い。
「ごめんなさい。怒ってる？ ＢＡＫの子たちに夢中
になってバカみたいにはしゃいでしまいました。失礼
だったと思います」
「いえ、いいんですよ。怒ってません。門限が近づい
ていたんで黙って出てきた私こそすみませんでした」
「え、門限？ そうでしたか。それは知りませんでし
た」
「でも、甘粕先生って、アイドルオタクっぽい、そっ
ち系の人だったんですね。意外でした」
そっち系、それは彼岸を意味する。自分とは思想・
信条、イデオロギーの異なる人間に対して向けられる、
驚きと軽蔑と批判と攻撃の要素も少し入った言葉だろ
う。しかし、あんなところを見せといて今更いい訳も
できない。美緒がいながら、ＢＡＫの方に夢中になっ
てしまった。しかし、それは抑えがたい衝動で、あの
場で何もせず我慢していたら、一生後悔する事になっ
たかもしれない。迷うことなく、石田美緒の気持ちよ
り、ＢＡＫの方を優先してしまったのだから、仕方が
ない。自業自得の自己責任というものである。結果は
甘受しなければならない。
「クラッシックを聞き、静かに、そして熱く政治を語
るような男だと思っていましたか、僕のことを」
「いえ、とにかく私のことを全面的に受け入れてくれ
る人だと思ったので、今晩付き合っていただきました。
お話はとても充実してましたから。私がＢＡＫの子た
ちに気づかなければよかったのです」
いや、気づいてくれたからあのような僥倖にめぐり
合うことができた。美緒には感謝している。しかし、
そんなことは言えない。頭の中にはまだＢＡＫの余韻
が残って、雲の上を歩いているような気がするが、理
性的に考えれば、ＢＡＫの女の子たちは自分の手の届
くような対象ではない。彼岸、つまりあっち側の人種
で、たとえ会いにいけるアイドルで、握手して言葉を
交わすことができたとしても、彼岸の人間である。彼
女たちが卒業して一般人になればこっち側に戻ってき
たということで、プライベートに近づける可能性は高
まるというだけの話である。
もっとも力のある男ならば、あっち側にいる人間も
強引にこっち側に手繰り寄せて自分のモノにしてしま
うだろう。定職ももたず、フリーター生活の圭介にそ
んな魅力も財力もないのであるから、身近な人を大事
にするしかないのだ。
「いい歳をしてアイドルに夢中になって、握手やサイ
ンやツーショットなどしていた僕がいけなかったので
す。美緒さん、また、食事にいってくれませんか」
思わず積極的なことを言ってしまった。
「ええ。喜んで。私のほうこそお願いいたします。政
治家を志すような変な女ですけど…」
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０２３年７月号 通巻第１７２号
［原稿用紙３５枚］
