ピアス
岩木讃三
朝夕の通勤電車は少しでも空いている車両に乗る。ところがその
日の帰宅時、マリは、大幅な遅れによって生じた超満員電車に否応
なく詰め込まれてしまった。身動きのできないようなギュー詰め状
態を耐え、自宅の最寄駅に辿り着きやっと息の詰まる状態から解放
された。やれやれという思いで改札を抜けると、顔の感覚がどこと
なく軽く感じられ物足らない。左耳に手を当ててみると、無い。右
は着いているのだが、左のイヤリングは取れて無くなっている。乗
客に揉まれているうちに取れてしまったのだ。そのイヤリングは前
の年の誕生日にアツシがプレゼントしてくれたものであり、マリに
とってもお気に入りだった。どうしようか。マリはしばらく恨めし
そうに改札の向こうを見つめていたが、どうしようもない。泣きた
いような気持ちで自宅マンションへと歩を進めた。
「取れちゃったの、一つ《
「何が？《
「あなたが誕生プレゼントにくれたイヤリング《
「ええ《
「満員電車だとだめね。これで三回目だわ。悔しいわ。今度のはせ
っかくあなたに買ってもらったのに《
「残念だけど、しょうがないよね《
「あの菱形のデザイン、すごく気に入っていたのに。同じもの、一
つだけで売ってないかしら《
「それは無いんじゃないかな。いいのがあったらまた買ってあげる
よ《
イヤリングは着けるのも取るのも簡単であり、取るときはすっと
引けばよい。ピアスのようにわざわざ耳に穴を空け、そこを通して
固定することをしなくてもよい。しかし着脱が簡単なぶん紛失もし
やすい。マリは三度目の紛失をきっかけにイヤリングの永久使用に
は限界があると思うようになった。それ以降、イヤリングをつけて
外出することは控えるようになった。対照的に電車の中などでピア
スをしている女性を見かけると、その耳元に自然に眼がいくように
なった。粒状のものやリング状のものなど、形状の殆どはイヤリン
グよりは小さく控えめである。だが、その分かわいらしく、また奥
ゆかしくも感じられる。デパートの装身具売り場に行くと必ずピア
スのコーナーに足を運んだ。陳列されている数多くのピアスに見入
っていると、徐々にその魅力に引き込まれて行った。
耳の穴を通して裏側できちっと止めるのだから、人に揉まれて取
れることは決してない。しかし、ピアスをするには先ず耳に穴、つ
まり表から裏へ貫通するごく細い通り道を作らなければならない。
ちょっと怖い。それから、両親から戴いた身体に傷をつけるという
ことの道徳的な後ろめたさもある。だが、そうではあってもマリの
心はピアスをしてみようという気持ちに傾いて行った。
「ねえ、わたしピアスにしようと思うの《
「ええ？ どうかなぁ。両親からもらった身体は傷つけるものじゃ
ないという古い考え方があるよね《
「知ってるわ。その考え方ってどこから来たのかしら《
「儒教でしょう。身体髪膚これを親に受く……とか何とかという言
葉があるよ《
これは正しくは〈身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざる
は孝の始めなり〉である。
「そうなの？ でもね。ピアスだったら電車の中でも取れないわ。
デパートでいろいろ見てみたの。するとピアスはピアスで素敵なの
がたくさんあるわ《
アツシは聞いていて内心賛成しがたかった。それは道徳的な考え
に基づくわけではないにしても、身を飾るために身の一部をあえて
傷つけるということがどこか痛々しい感じがするからである。だが
そんなこと以上に懐かしい記憶にまつわる理由が彼にはあった。
マリと初めて会ったとき、マリの言葉遣いや身のこなしの上品さ
にアツシは心惹かれた。地方出身の彼は、彼女のそれらを、洗練さ
れた都会の女性の雰囲気として受けとめた。出会って間もない頃、
二人は初夏の都内を散策し、静かな喫茶店で語り合った。そのとき
のマリはオレンジ色のワンピースに身を包み、耳には純白でコイン
状のイヤリングをしていた。それはショットカットのヘアとワンピ
ースのオレンジに程よくマッチしていた。話がはずみ時間が経ち、
するとマリは付けていたイヤリングを両耳から外し、一旦テーブル
に置いたあと、指先で弄びながら話を続けた。その光景はアツシに
とって大人の女を思わせるものがあった。それ以来、外でイヤリン
グをしている女性を見ると、ピアスをしている女性よりも女性らし
いと思うようになった。
マリがイヤリングからピアスに換えるなら、自分の思い出が一つ
消えていくようにアツシは思った。でも、マリがそう思うなら何も
反対することでもないと思った。
「じゃあ、ピアスにしてみたら《
「そお？ ありがとう、受け入れてくれて。まず耳に穴を空けなき
ゃね《
しばらく経ってマリは適当な病院を探し始め、仕事の帰りに寄れ
る所ということで会社近くの美容皮膚科を選んだ。
穴空けはあっけなかった。ピアスガンという器具が使われ耳朶に
一瞬にして穴が空いた。痛くて血が流れるんじゃないかと上安があ
ったが、痛くもなく血も流れなかった。貫通した穴には医療用のピ
アスが通される。これを約一カ月間、穴の内部が皮膚化するまで付
け通すのである。病院からは、このピアスを一日一、二回の割合で
軸を回し、周囲を消毒するようにと言われた。
「どお？ このピアス《
マリの両方の耳朶にはシルバーの粒が張りついている。
「悪くはないね。いいんじゃない。でも、ピアスっていきなり出来
るんだ《
「ううん。これは仮のピアス。ひと月したら本当のピアスが付けら
れるの。楽しみだわ《
マリは医者に言われた通り毎日ピアスの軸を回し外側の消毒を繰
り返した。予定通り一カ月経って皮膚化は完了した。
いよいよ本物のピアスを通すことになった。既に四組が用意され
ており、マリ自身が三組買い、アツシが一組プレゼントした。
アツシが夜遅く帰宅すると、先に帰っていたマリは微かな輝きを
放つ小粒の水晶のピアスを耳にしていた。
「なかなかいいね《
「これはあなたから貰ったものよ《
「穴空けはうまくいったわけね《
「だと思うんだけど…《
「というのは？《
「なかなか通せなかったわ。それぞれ十分ぐらいかかったわ。穴が
まだすごく細いんだと思うの《
「ひと月もかけたのに？《
「耳朶が馴染んでくれないのかしらね《
マリは数日間、朝、ピアスをつけるのに手間取った。鏡を見なが
ら耳朶の点の入り口から軸を入れる。だが、出口がなかなか見つか
らないのである。すっと通ったとしても、それは偶然のことのよう
に思えた。
休日の朝、食卓の椅子に座ってマリはやはり苦戦している。
「ねえ、毎日やっててもなかなか入らないわ《
「そんな難しいものなの？《
「簡単なことだと思うんだけどね。あなたやってみてくれる？《
「僕が？ ちょっと恐い気がするけど《
アツシはマリの横にピタリと寄り添った。右の耳朶を見てみると
穴の入り口はまさに〃点〃である。まず、左手の親指と人指し指で
耳朶を軽くつまむ。マリの耳に触ったことは何度もあるが、こうし
て耳朶をつまむということは一度もなかった。その感触は自分が自
分の耳朶をつまむ感触とはかなり違う。予想外に柔らかくか弱く、
初めてマリの身体に触れたときのような官能を覚えた。
ピアスの軸を静かにやさしく差し込む。最初はどこが通り道か分
からない。薄い肉の中をゆっくりと何度か角度を変えて突き充てる。
と、微妙に先の当たらない空間があり、そこを捉えてぐっと突き刺
すと即座に突き抜けた。十秒もかからない。
「通った！《
「え？《
マリは耳朶の裏を指で触ってみた。
「ほんとだ。あなた上手いわね《
今度は左の耳朶である。こちらもさほど時間かからず軸は突き抜
けた。
「本人じゃなくて、ヒトがやると入れやすいのかしら《
「案外そうなのかもね《
その後マリは、自分でやっても徐々に上手くなっていった。
アツシの指にはマリの耳朶の感触がいつまでも残った。
毎日でも付け続けなければピアスの穴は塞がってしまう。マリは
就寝のとき以外はいつもピアスを付けていた。その数は増え続け十
組以上にもなっていった。
ある日、仕事をしていてピアスが鬱陶しく感じられた。どうも身
体が熱っぽい。気分も良くない。ピアスは取り外して化粧バックに
締まった。
自宅へ辿り着くと熱も気分の悪さも自覚症状となり、ソファーに
倒れ込んだ。食事の用意がある。自分は何も食べたくはないが、ア
ツシの分は作っておかなければならない。何とか作り終えて、もう
ベッドに横になることにした。
アツシが帰ってきた。
「あれ？ どうしたの？《
「風邪みたい《
「そう……。あれ？ 無理して夕飯作ったの？《
「食べて《
「夕飯ぐらい自分で何とかなるのに《
「私は今日はこれで休むわ《
「薬あるはずだから、それ飲んで寝たら《
「うん《
マリはすぐに眠りに落ちた。
朝、目覚めると頭が重く、喉も痛く、ひどい悪寒がする。まった
く起き上がれない。
「どう？ 大丈夫？《
「大丈夫じゃない。……仕事休むわ《
「じゃ、僕が会社に伝えておこうか《
「悪いけど、お願い《
「おかゆ作っておいたよ。少しでも食べた方がいいよ《
「ありがと。あとで食べるわ《
アツシはマリを残し仕事に出かけて行った。
マリは再び眠りに落ちて行った。夕方までに二度目が覚めたが、
他はよくこれほど眠れるものだと思うほどにずっと眠り通した。
アツシの「ただいま《の声で目が覚めた。
「なんだ。おかゆ食べなかったんだ《
「まだ食欲ないの《
「果物と飲み物買ってきたから、それならどう？《
「お茶があったら、それ飲ませて《
「あるよ《
マリは二日目はいくらか良くなったように感じられた。しかし、
熱を計ってみたら四十一度もある。アツシに病院に連れて行こうか
と言われたが、このまま横になっている方がいいと思い、仕事はま
た休むことにした。こんなひどい風邪は記憶にない。
ぼーっとした頭で仕事のことを考える。本当は休んでなどいられ
ない時期なのに。仕事の責任があったにもかかわらず、それが果た
せなかった自分があまりにも情けなかった。
夜、バラの花束を抱えてアツシが帰ってきた。マリは眠ってはい
なかったがベッドに横になっていた。
「どう？ 少しは良くなった？《
「ちょっとは良くなったみたい《
「君の好きな黄色いバラ買ってきた《
「え？ どうして？《
「今日は君の誕生日じゃない。バラと新しいピアスも買ってきた。
誕生祝いは風邪治ってから改めてだね《
そう言えばそうだった。自分の誕生日を忘れていた。
マリは三日目も頭がふらふらし寒気が引かないので仕事を休むこ
とにした。有給休暇の三日間をこれで使ったことになる。
ベッドに横になりながら、ふとピアスは付け通していないと耳朶
の穴が塞がってしまうことを思い出した。もう三日間付けていない。
前夜、アツシがプレゼントしてくれたピアスを改めて見てみると、
素材はガーネット（ざくろ石）だった。ざくろの粒ほどの真紅とも
濃いピンクともいえる半透明の二つの塊を見ていると、心の落ち着
くものを感じた。付けてみると耳朶の通り道は全然塞がってなどい
なかった。心がいくらか楽しくなってきた。すると、仕事の重圧が
徐々に吹っ切れてきた。責任を感じていてのは自分の一人相撲であ
って、そんなことに囚われる必要は全然なかった。情けない自分も
それはそれで良い。自分は自由であり、自由に構えていけばよいの
である。
四日目、日曜の朝、アツシが目が覚めると隣のベッドにマリがい
ない。キッチンを除くと普段着姿のマリがいた。
「良くなったの？《
「ええ、すっかり良くなったわ。朝食、もうすぐ出来るわ《
二人で一緒に朝食を摂るのは四日ぶりである。
「あなたのくれたピアスのおかげで良くなったわ《
そう言ってマリは自分の耳朶のガーネットを指した。
「へぇー、どうして？《
「ガーネットは魔除けの石なの。それから私の誕生石でもあるの。
知ってた？《
「いやぁ、全然知らなかった《
アツシがこれまでにマリに贈ったピアスは三組であり、色は三色
だった。どれかと同じ色ではつまらないだろうし、赤系統のものを
マリ自身も持っていなかったから、今度はそれがいいだろうと思い
それを選んだ。また、赤やピンクも十分マリには似合うと思った。
理由はそれだけで、ガーネットという吊前さえ知らなかった。
「じゃあ、今日は誕生祝いと快気祝いをしようよ《
「そうね。でもまず久しぶりに外の空気を吸いたいわ。朝の散歩に
行きましょう《
外は冬の日ながら、穏やかな日差しが降り注いでいた。
（了）
月刊ＷＥＢ風 ２０１０年８月号 通巻第１７号
［原稿用紙１７枚］
