同調圧力 ２
大堀敏靖
山本がさっそく今日にでも課長に談判に行きましょ
うというので、仕方なく私も同行することにする。他
の社員が出払った午後、だれもいないがらんとした会
議室に山本と私は課長と向かい合って座った。
「どうしたの。二人そろって。あ、そういう関係だっ
たのか。それはヤバイよ。川辺主任は妻子持ちだし、
それはよくないぞ」
「早合点しないでください。課長。そういうことでは
ありません。私たちが共通しているのは他でもないワ
クチンのことです」
「なに、ワクチン。ワクチンがどうしたの。さっさと
打ってスッキリしたらいいじゃないの」
「いや、課長。それが打てないんですよ。僕たち諸般
の事情があって」
「事情ってナニ」
「僕は妻が強硬に反対してます」
「私は注射が苦手です」
課長は声を出して笑う。
「なーるほど。そりゃ立派な理由だ」
「課長。バカにしてますね、私たちのこと」
「してないよ。人それぞれ理由があるから、それでい
いんじゃないの。強制なんて誰もしてないから。打つ
も打たないも個人の自由だからね」
「でも課長は打ったのかと、少なくとも二度僕に確認
しましたね」
「え、そうだったかな。覚えていない」
「確かに聞かれました。早く打てっていうニュアンス
がありました」
「全然覚えてないけど、訊いたような気もする」
「私も課長、三回、早く打てって言われました」
「三回も。そうだったかな」
「私と山本くんはワクチンは打てない人間ですのでそ
の点をご理解願えますか。社員は全員打つべきだとい
うような空気を作らないようにお願いしたいんです」
「そんな空気は作る気ないよ。打つも打たないも個人
の意思だから。それは人権の一つだから尊重しないと
いけないね」
「そうですか。そう言っていただけると救われます」
「でも参考までにもう一度聞きたいんだけどどうして
打てないの」
「ほら。そうやって聞くこと自体がもう圧なんですよ
ね。さきほど言った通りです」
「さきほどなんて言ったっけ」
「そうやって空っとぼけて何回も言わせることがもう
巨大な圧力なんですよ。僕たちにとってみれば」
「えッ。そんなつもりは毛頭ないよ。ただ確かめてみ
たいだけだよ。川辺君は注射が苦手って言ったんだっ
け」
「それは私です。私、子どもの頃のトラウマがあって、
どうしても注射ができないんです」
「どんなトラウマ」
「ほら。そうやって追及するでしょ。それが万力で締
め付けるような圧力になってるんですよ」
「いいです。私、話します。子供ころ掛かりつけだっ
た近所の町医者さんが、それは注射がへたくそで、そ
の痛さには定評があったんです。大人でもその痛さに
耐えかねて診療室から叫び声が聞こえて来て、幼い私
は待合室で震えていたんです」
「大人が叫ぶなんてよっぽどだ」
「そうです。それで私は無理やり診療室に連れて行こ
うとする母の手を振り払って逃げだしたんです。でも
一緒に付き添っていた叔父が若いころ陸上部の短距離
の選手だったもんですから、ダッシュで私を追いかけ
て来てタバコ屋の角のところで私は捕まってしまった
んです。叔父が悪魔の使いか鬼のように思えました。
泣きじゃくる私を叔父は抑えつけて肩に担ぐようにし
てまた診療室に戻したんです」
「マンガみたいだね」
「私は泣き叫びました。バカとかドロボーとか医者や
看護師を罵って、腕をぐるぐる回したりして抵抗しま
した。でも力の強い叔父も協力して大人たちが総がか
りで私を抑えつけて、度の強い眼鏡をかけて鼻の下に
白髪交じりの髯を生やした先生が私を覗き込むように
見て、笑った時に私は医者の腹をキックしました。そ
れは腹ではなくて、急所に命中して先生は飛び跳ねて
痛がりうずくまってしまいました。私は母に頬を引っ
ぱたかれました」
「悲惨だね」
「それでもう注射はいい、と先生は断念されて、お薬
をもらって私は帰りました。注射じゃなくても私はお
薬だけでちゃんと治りました。だから注射は必要ない
と思います。ワクチンも丸薬か錠剤にして水で流し込
めばＯＫにしてくれればいいと思います」
「それはムリだろ」
「飲み薬のワクチンを開発すれば世界中の注射嫌いの
人が救われます。だれか開発してくれませんかね。ノ
ーベル賞まちがいナシです」
「注射嫌いを救ってノーベル賞取れるとは思えん。大
体わかった。山本クンは強烈な注射に対するトラウマ
ってことだね。じゃ、川辺主任はどうなの。奥さんの
反ワクチンってどこから来てるの」
「いわゆる陰謀論ってやつだと思います。世界的な闇
の組織が世界を牛耳るために、コロナのウィールスの
培養に成功してこれを全世界に広め、それを鎮めるた
めのワクチンもセットで開発して、それを世界中の人
々に救世主のような顔して販売してボロ儲けをします。
さらにそのワクチンには闇の組織の指令に従順になる
ようなチップが仕込まれていて人類を闇の組織の思い
通りに操ろうとしているというのです。妻はそれをま
ともに信じています。八〇億も突破して増え続ける人
類の人口を減らすための毒も含まれていると信じてい
るようです。そんなものを打ったら死んでしまうと心
配しているのです。だから絶対打つなと私に言うので
す」
「ほ〜う。そんな説があるんかね。知らなかった」
「一部の人々はネットの中に広まっているそんな情報
をまともに信じて、テレビや新聞情報だけでワクチン
を争って打ちたがっている人々を高いところから、そ
れこそ上から目線の高みの見物で見下ろして、愚かな
大衆とは違う自分たちを選民のように思って、絶対に
一般大衆には与しないのです。真実の情報をもたらし
てくれる情報配信者を教祖のように崇めて彼（彼女）
がもたらす情報だけを干天の慈雨のようにありがたが
って受け取っているんです」
「宗教じゃないか」
「そうです。陰謀論教とでもいいましょうか。わたし
は陰毛ボーボー論、略して陰ボー論と呼んでいます」
二人は笑った。
「陰毛というのはデリケートな部分を保護する目的で
生えているのだと思いますが、陰毛ボーボー論、略し
て陰ボー論はそれを発信している人々が某か大事にし
ているデリケートなものを守るために意図して作られ
ているものだと思うのです」
「珍説だ」
「珍は男性のチンでもありますね。陰毛だけに」
山本は平気でそんなことを言った。男に混じって議
論もできるタイプの人間のようである。
「しかし、火のないところに煙は立たんというから、
怪しげな陰謀論にせよ、そういう煙がたなびいている
ということは火元があって、どこか真実もあるんでは
ないのかな」
「あれッ。課長もそっち系の人なんですか」
「いや、オレはもうワクチン二度打ったし、大多数の
ノーマルな考えに与する人間だから、そんな突飛な考
えに憑りつかれたりすることはないけど、それを信じ
ている人たちにも一理あるかもしれないかなって、ち
ょっと思っただけだよ」
「よかった。課長はワクチンを打たない人に理解を示
してくださるんですね。よかった。私、安心しました。
百人力です」
「ま、個人的にはどっちでもそんなのいいんだけど、
会社を背負った立場からすると、ワクチン打ってもら
った方が安心して仕事もできるから、打てと言うかも
しれないし、言わなくても間接的に無言の圧力をかけ
るかもしれんよ」
「会社人間の立場からすればそれは至極当然のことで
す。本音と建て前を分けて頂いても構いません。本音
の部分で理解していただいているというだけで私ども
は救われるわけですから」
「え、川辺主任。私はちょっとちがうなぁ。本音でも
建て前でも理解して頂かないと。会社には居づらいで
すよ」
「会社は表立ってワクチン接種を強制したりなんかし
ないよ。判断は個人に任せるからね。そこを強制すれ
ば人権問題になる。打たない自由もあるわけで。あく
までお願いベースで、緩い奨励がされるだけだから。
そうですねぇ、課長」
「そうだね。私は中間管理職の立場から上からの指令
を伝達するだけで、発信の大本は社長だから。これ以
上のことは言えないが」
「そうか。そうですよね。じゃ、その大本である社長
に談判に行った方がよさそうですね」
「社長かぁ。ちょっと怖いなぁ」
私がその提案に怖気づいたことを言うと、山本は意
外そうな顔をした。
「え、社長が怖い…、どこが」
社長は気さくな性格で、やり手だが女子社員にはメ
ッポウ人気があり、社長の「お手付き」となってしま
った女子社員も幾人かいるのが公然のシークレットに
なっている。女子社員の中には「お手付き」になるの
を願望している者も幾人かいると聞いている。この山
本もそうなのか。すでに「お手付き」になっているの
か。顔を改めて覗き込むように見た。まだ二十歳そこ
そこでウブなところが残っている。私に気持ちがある
はずであるのに、社長の「お手付き」だとすると私に
嫉妬の感情が起こって来たりする。
「どこって、やっぱ社長だから。見透かされているよ
うなところがあるよ」
「社員の細かいことなんか知らないでしょ。会社全体
のこと、どこへ会社を引っ張っていくか、そういうこ
としか考えてない人ですから、社員の一人一人を見透
かすなんてことはありません」
「でも、オレの誕生日知ってたから」
「へー、目を掛けられてるってことですよね」
「あ、社長は社員の誕生日は全部記憶してるよ。家族
構成とか最終学歴とかインプットするのが得意で趣味
みたいなもんだから」
課長が解説する。
「そんな趣味あるんですか」
「とにかく人を喜ばせることが好きな人だから。誕生
日や自分の事をしっかり覚えててもらって不愉快な人
間はいないからね。しかも上の人が覚えててくれるん
だからそりゃ嬉しいよ。それでそれが趣味になって新
人は必ず履歴書を覗いて顔と名前、それから生年月日
をその日一日何度も反復して覚えてしまうらしいんだ
よ」
「おヒマなのかしら、ウチの社長は」
「社長のそばにいれば分かるがスケジュールは分刻み
で入っていてトイレに行く間もないくらい多忙を極め
てらっしゃる。ただ、移動の時間がケッコウあって、
車の中や新幹線、飛行機の中で、俳句を詠まれたり、
随筆を執筆されたり、社員の名前や生年月日を暗記す
るのに有効利用されているみたいだよ」
「へぇ。できる人は違いますね。私だったら新幹線と
かの中は寝てますけど」
「ふつうそうだ。そこを仕事に生かしちゃうところが
経営者として名を成している人と凡人の違いだと思う」
「人の生年月日覚えようなんて発想自体ないですもん
ね。俳句なんてそんな高尚な趣味ないし、お菓子食べ
るか音楽聞くか寝るか、でしょうね。せいぜい読書く
らいです。有効利用するとしたら」
「それでとにかく、社長は一人一人に気を配っていて
何を考えているかも見抜かれているような気がしてな
らないんだ。そういう意味だよ。怖いっていうのは」
「よくわかんないものは怖いですからね。でも私なん
かにもエレベーターでご一緒した時も気軽に声かけて
くださって、滑りまくりのジョークを飛ばされるんで、
軽い人だなぁと思って好感を持ちました」
「滑りまくりのジョークってどんな」
「屋根が壊れて、や〜ね。とか、オシッコ我慢しない
でトイレ、行っトイレとか。つまんないんだけど私爆
笑してました」
「オヤジギャグだ。昭和の香りの濃厚な」
「平成生まれの私としては昭和のレトロな雰囲気がい
いと思いますから」
「そんなオヤジギャグが最近の若い娘はいいと思うわ
けだ。オヤジは救われるね」
「頑固で威張っている人は嫌いですけど、無邪気に昭
和を引きずっている人はかわいいと思います」
「社長がかわいい」
「はい。なんかかわいい色気があります」
「談判に行くのなら山本君と一緒に行った方がいいね。
川辺主任」
「そう思います」
会社のワクチン接種強要の同調圧力の発信源は少な
くとも課長ではないことが分かった。課長はメッセン
ジャーの役割を果たしているだけで、指令は上から来
ている。やはり社長が大本であろう。
「ママホーム」という住宅建設会社のように、社長が
ワクチン反対論者のために社を挙げてワクチンを打た
ないところもある。これは逆の同調圧力が働いて打ち
たい人間は不本意に会社の圧力に屈していることにな
る。それもつらいだろう。淵源は社長であることがは
っきりしている。コロナは単なる風邪に過ぎず、いた
ずらに騒いでいる。ワクチンを打たせて大儲けを企ん
でいる闇の組織の陰謀であることに多くの人は気づい
ておらず、マスコミや政府の指示に唯々従って、一般
国民は外出をひかえて争ってワクチンを求めている。
わが社だけはそんな風潮に左右されずワクチン接種を
断固拒否して闇の組織に対抗しようと社員に呼び掛け
ている。
「そうなんですか。ママホームの社長さんは先見の明
がありますね。私、転職してママホームに就職しよう
かな。ウチの社長はどうなのかしら。世間の風潮に流
されているだけじゃないのかな」
翌日、山本と私は忙しい社長のわずかな空き時間を
秘書課に問い合わせて聞いて面会を求めることにした。
社長はあっさりと承諾してくれた。社員から面会を求
めてくれたことにいたく喜んでいるという秘書課の女
の子の話だった。
私はやはり社長と面会というのは及び腰であった。
オヤジギャグを飛ばして軽いところがあるにしても会
社のトップとして特に男性社員に対して厳しい要求が
あるのは確かである。女子社員に見せる隙も男性社員
には見せないかもしれない。
社長室に入る前にまず秘書の女の子がいる受付の関
門を通らなければならない。私は山本の後について、
つまり山本を楯として向こうから来る、刀や槍や矢の
攻撃を避けようとした。怖いもの知らずの山本が前を
歩いてくれるのは心強かった。山本は体格もよかった。
かなりの防御になる。交渉は山本が主としてやってく
れるだろう。
社長室に通される。社長はゴルフのパットの練習を
していた。ワイドなガラス窓から都会の街並みが一望
の下に見下ろせた。
「社長。総務部の川辺主任と山本さんが見えました」
「ああ。ありがとう」
秘書にも丁寧に応対している。偉ぶったところはな
い
「十月十八日生まれてんびん座の川辺主任。九月八日
生まれ乙女座の山本さん。まぁ、掛けてください」
正確に生年月日を言われて悪い気はしない。
「すごいですね、社長。よく御存知です」
「趣味だから。顔と名前と生年月日と家族構成をイン
プットしてすぐに引き出せる。これは特技と言っても
いいだろう」
「特技です」
「十一時の新幹線で広島に向かわなければならないん
で、あと七分だな、話を伺いましょう」
「それでは、単刀直入に申し上げます。ワクチン接種
を強要するような空気を社内に作らないようにという
お願いです」
「ワクチン。ああ、私も打たないといけないですが、
忙しさにかまけて先送りになってるなぁ。ゴルフの仲
間からは早く打った方がいいと言われてます」
「そうですか。社長もまだなんですね。でも多くの人
は接種するようですが、私たちは訳あって打てないん
です」
「え、どうしてですか」
山本は臆さず社長に話し込む。
「川辺主任は奥さんに止められているからです。私は
お注射が子どもの頃のトラウマがあって大の苦手で打
てないからです」
「ほう」
「打たないと社員ではないような空気を感じて私たち
は狭いところに追いやられて、陰で悪口を言われてい
るような気がして苦しいのでこうして社長に訴えにや
ってきたのです」
社長はふかふかのソファの背には凭れず浅く掛けて、
身を乗り出して親身になって聞いてくれる。
「そんな空気があるんですか。知らなかった」
「さきほどウチの課の課長に言ったら自分は上から言
われたことを言っているだけで、個人的には何も強制
する気はない。打つも打たないも個人の意思に任すの
が筋だろうとおっしゃいました。社にそんな空気があ
るとすればそれはトップから降りてきたものだろうと
言われるんです。トップといえば部長とか社長ですか
ら、直接社長に談判に伺ったほうがいいだろうと課長
の奨めでやってきたのです」
「トップ。そういう名の洗剤がありましたね」
時間がおしているというのにつまらないジョークを
挟んでいる。二人はリアクションに困って顔を見合わ
せた。
「失礼。確かに私はトップですが、私は何も言ってお
りませんよ。ワクチンを社員は即打つべしなんて指令
は出していません。出すとすれば専務ですが、専務は
ワクチン陰謀論を信じていて、絶対打たないと言って
ますから、それでいて社員に強制していたらダブルス
タンダード人間ということになります」
「政治家なんかも二枚舌の人って多いですよね。皆に
いい顔をしようとするもんだから言っていることが矛
盾してしまって、それでいて平気の人がいますよね。
企業のトップも会社の運営上二枚舌になってしまうこ
ともあるんではないですか」
「ウチの専務に限って言えば絶対にそんなことはない
と断言できます。あの男は武士の家系に育ってウソを
つくことと遅刻は絶対するなと叩き込まれて育ってい
ますから、自らのポリシーを捻じ曲げて物事を進める
ことは断固として固辞します。それで信頼を得てきた
男ですからそれはありません」
「それじゃあ、専務は私たちの理解者ってことなんで
すね」
「そうだと思います。絶対にそうです」
その時秘書が社長に合図を送った。
「すみません。時間です。行かないといけません。と、
言うことですから、会社の幹部がワクチン接種を強要
しているというウワサは事実無根であることが分かっ
てもらえましたか。もしそんなことをする幹部や社員
がいたら、私の名において処分しますから、安心して
ください」
社長や専務は私や山本に圧力をかける源でないこと
が分かった。圧を感じた場合彼らに訴えれば何とかし
てくれるという。
「じゃあ、どこに圧の源泉はあるんだ。社長や専務が
指令したわけではないとすれば、一体だれが源泉なん
だ。ああ、源泉かけ流しの温泉に浸かりたい」
私が思わずつぶやくと、予期せず山本が反応して言
う。
「コロナが明けたら主任、私を源泉かけ流しの鄙びた
温泉に連れてってくれますか」
私には強い妻がいる。そんな冒険をして温泉に出向
いたところがくつろげるはずがないし、第一この女部
下とそんな関係になることを望んでもいない。
「そうだな、近場のスーパー銭湯でも行くか。岩盤浴
もできて一日寛げるし」
見ると山本はフグのように両頬を膨らませていた。
「いいです。私独りでいきますから。私、思うんです
けど、社長や専務が指令を出していなくて社内にワク
チン接種の圧力が働いているとすれば、考えられるの
は、あの年増のお局さまということになりますね。社
長や専務より社員に対する影響力が強いといえば、お
局の西さんしかいないですよ」
「西さんか」
「この間、湯沸かし場で言ってましたからね。ワクチ
ンは社員全員が早急に打って、安心の会社という烙印
を早くもらわなければいけないって。西さんはそうや
って全社員に触れ回ってワクチン接種を徹底させよう
としてると思います。渋っている人間には情け容赦の
ない圧力をかけるでしょう。ワクチン打たずんば人に
非ず、という空気を醸成しまくっているのはきっと西
さんです。西さんしかいません」
西という古参の女社員のことは私も知っていた。今
は秘書課長をしているが、総務にいたこともあって、
私も世話になった。年増で世話焼きタイプの女性なの
で、お局様と陰で言われていたが、私には優しい先輩
で嫌な思いをしたことはなかった。取れてしまったワ
イシャツのボタンを縫い付けてくれたり、余ったご飯
でお茶漬けを作ってくれて残業をしたときは随分助か
った思い出がある。しかし、女性社員にとっては口う
るさい年増女でしかないようで、「お局西」という異
名は定着していた。本人の耳にも入っていたかもしれ
ない。
「この足で、川辺主任、西さんに談判に行きましょう。
もうすぐお昼休みですし」
いつしか私は山本のついて回りの手下のような存在
になっていた。
秘書課を訪れる。入り口近くの若い男性社員に西さ
んを呼んでくれるように頼む。あいにく今電話中だと
いうが「待ちます」と山本が言う。
「大丈夫か、山本くん。手ごわい古狸だぜ。反抗的な
ことをすればどんな仕返しをされるかわからんぞ」
「注射を打つよりマシです」
この部下も反ワクチンで肚が座っていた。
「お待たせ。私に話って何かしら」
西が来客用の小部屋にやって来た。
「あの、単刀直入に言います。私たちはワクチンが打
てない人なんです。社員に圧力をかけるのは止めてく
ださい」
「なんのことかしら。唐突に。いつ私が圧力なんてか
けたかしら」
「私、この間湯沸かし場で西さんが全社員の早急ワク
チン接種を呼びかけているのを聞きました。西さんの
社内への影響力は絶大ですから、それが圧力になって
いると思います。でも、私たちは事情があってワクチ
ンの接種が困難なんです」
「どうして」
「私は注射が嫌いだからです」
「あなたは」
西が私の方を向いて問う。
「僕は、女房が反ワクチン論者で絶対打つなと厳命さ
れてるんで」
西は微笑しながら落ち着いて言った。
「わかりました。皆それぞれ事情がありますもんね。
実は私は以前別の抗生物質を注射した時に気分が悪く
なって、動けなくなったことがありました。だから今
度のワクチンでもアナフィラキシーになる可能性が大
ですし、特に二回目の接種の後は高熱を発して苦しむ
ことが予想されるんで打ちたくないんです。それに」
そこで西は言い淀んだ。二人が注視すると、
「それに、夫が今回のコロナ騒動は世界を陰で操る組
織が企んだ陰謀だということを繰り返し私に説いて聞
かせて、私も川辺さんと同じように絶対ワクチンは打
つなと言われているんです。治療薬があるにも拘わら
ず治験が済んでいないとかの理由であまり使われず、
ワクチンだって治験が必要なはずなのに、外国製のも
のをすぐに取り入れているのはおかしいですよ。日本
は病床数は世界一を誇っているのに医療崩壊なんて言
っているのは、町医者に治療をさせないからで、感染
病のランクを下げればそれができるのに政府がやろう
としない、インフルエンザのようにならないのは明ら
かに人為的な何か力が働いているとしか思えないです
よね」
西は熱弁をふるった。妻とほぼ同じことを言ってい
る。
「そういうわけですから、こんな考えの私が社員にワ
クチン接種の圧力をどうしてかける側に回る必然があ
りますか。あるとすれば、会社人間として立場上だけ
です。本心は今申した通りで、あまり打ちたくないで
すし、夫が許してくれませんから」
私と山本は西が意外なことを言ったのでただ驚いて
いた。専務も同じ考えだということである。そういえ
ば専務と西は怪しい関係にあると言うウワサを以前聞
いたことがある。西が夫というのは実は専務なのかも
しれない。
とにかく、会社の中の圧力を及ぼしそうな四人の人
間は圧力の源泉でないことがわかった。私と山本はと
りあえず安心したが、それでは圧力は一体どこから来
るのかという疑問は残ったままだった。
その後、あれこれと紆余曲折があったのだが、結果
的に、私も山本も、専務も西も社長も皆二回のワクチ
ン接種をした。私の妻も。西と山本は高熱を発して会
社を休んだ。しかし、翌日には元気に出勤して、山本
は「川は渡ってしまえば別になんてことはないですね
ぇ」などと言っていた。
これでよかったのか、会社ではなく国家とか世界レ
ベルで同調圧力が働いていて、その圧に私も妻も専務
も西も山本も抗しきれなかったということになる。し
かし、打ってしまえば、妻もワクチン肯定派になって、
未だに接種を拒んでいる人々を怪しげな新興宗教に憑
りつかれて人生を誤った人々のように蔑んでいる始末
なのである。
（了）
月刊ＷＥＢ風 ２０２３年２月号 通巻第１６７号
［原稿用紙３０枚］
