同調圧力 １
大堀敏靖
――絶対に打たないでください。
私は妻からそう釘を刺されている。何を打たないで
くださいかと言うと、ワクチンである。妻はネットで
情報を収集することが趣味で新型コロナ・ウィルスが
蔓延し始めたころから熱心に情報を集めて、これは或
る闇組織の陰謀であることを信じるようになった。世
界中にワクチンを打たせれば製薬会社は大儲けである。
そして、組織は世界の八〇億を超える増え過ぎた人口
を減らすために、確信犯的に未来の地球、人類のため
を思ってワクチンをもって人類を減らそうと計画して
いるのだという、いわゆる「陰謀論」を信ずるに至っ
て、その信者となってしまった。
「絶対に打ってはいけません」と強く釘を刺されてい
る。
「絶対に」と強く言うのは私への愛情の表れだと思う
が、一家の収入源がいなくなっては残された自分や子
供たちが困るというエゴも働いているだろうから、喜
んでばかりもいられない。現実的な問題である。
「わかった。雪乃さんがそれほど言うなら打たない」
「絶対ですよ。相当な圧力がかかってくると思います
けど」
しかし、世間一般ではワクチンを打てばウィルスに
対する免疫が出来上がり、新型コロナに罹ることを防
ぐことができるので、むしろ早く打ちたいと懇願して
いる人が多くいる。打てというのも愛情であるし、打
つなというのも愛情であるということになって、反対
側から見れば「絶対打つな」というのは愛情の反対の
意味になる。コロナに罹って苦しめばいいという意味
に取れる。もしかしたら、妻は保険金目当てに私がコ
ロナに罹ることを望んでいるのかもしれない。そう考
えると「絶対打つな」という妻の要求はかなり疑いを
もってとらえなければならない。
「圧力か」
「屈しないでね。世間は間違っていますから」
妻は確信を持っていうが、妻が正しいと言う確証は
どこにもなく、ただネットを検索してたどり着いた言
説を信じているに過ぎない。妻が間違っていれば、ワ
クチンを打たない方が感染の確率が高まって危険なの
である。
「でも会社の仲間は早く打ちたいと言っているし、す
でに二回接種済の上司もいて『君はいつ打つんかね』
と昨日も聞かれたよ」
などと言うと妻は逆上して言うのである。
「間違ってますよ。騙されているんです。信じてはダ
メです。それがワナなんですよ。巧妙に仕組まれた世
界規模のワナだということに気づかないといけないの
に、あなた、そんなこと言っててどうするんです。生
き延びることはできませんよ。子供たちのことも考え
てください」
「そうか」
と言いつつも、世間一般の方が正しいのではないか、
偏った思想に憑りつかれているのは妻の方で、新興宗
教に熱をいれている年配婦人と変わりないのではない
かと考えてしまう。
もし仮に妻が騙されていて、ワクチンを打てば助か
ったものを打たずにいたためにひどい目に遭うことは
ないのか。イヤある。その方がむしろワクチンを打た
ないで生き延びるより確率は高いのではないか。
「そうですよ。この先生の動画を観てください。ワク
チンで如何に製薬会社が儲けて、しかもそのワクチン
がこれまでのワクチンとはまったく性質の異なる危険
極まりないものかがわかりますから」
そう言って、妻は私にスマホを押し付ける。仕方が
ないのでしばらく見ているがほとんど内容がアタマの
中に入ってこない。物事を押し付けられると必然反発
したくなる。
なんの証拠や根拠があって、こんなに確信をもって動
画を作ることができるのか。ウラの組織からの情報を
どうやってこの男は手に入れているのか、手に入る時
点でこの男も怪しげなのではないのか。
ところが妻は、鳥のヒナの刷り込みのように最初にた
またま見たこの先生の動画を親鳥と思い込むように信
じてしまった。目を開かされたような気持ちになって、
安心して、騒いでいる世間を鳥瞰図のように見下ろし、
まるで愚かな罪人たちを裁く、大審問官のような立場
に立ってしまった。
「ワクチンの中には微小なチップが含まれていて、そ
れが体内に入ると思考がコントロールされるようにな
るのよ。気が付かないうちに一定の思考に靡くように
なって、世界支配を目論んでいる地下組織の思い通り
に世界が誘導されることになっているんだって。恐ろ
しい話だわよね。だから絶対ワクチンは打ってはいけ
ないんです」
「もしそれが本当ならば、そんなワクチンは打たない
けど、だれがそれを暴いたのかな。簡単に暴かれてし
まうようなザル組織だったのかな。そんな組織の陰謀
なら、底が浅いと思うけど」
「たぶん、悪辣な組織の陰謀に耐えかねて、正義感に
目覚めた組織内の人間が裏切ってバラしちゃったんで
しょうね」
「裏切り者が出るような、そしてその裏切りを野放し
にしておくような陰謀ならたかが知れていると思うけ
どな」
私は珍しく妻に抗弁した。
「とにかく前世紀にそんなことあるわけないと思われ
ていた、ワクチン接種による人間管理という荒唐無稽
が現実に起こっちゃっているということなのよ。そこ
が恐ろしいことなんです」
「だからそれは、それを信じている人が、この現実を
無理やりにその陰謀論の筋書きに合わせて解釈してい
るだけじゃないのか」
妻の顔はみるみる険しくなってきた。
「何でわかってくれないの。こんなにハッキリした証
拠がそろっているのに、ワクチンをなんで信じられる
の。絶対打ってはいけないのよ」
「でもワクチン担当の大臣は全く心配ないってツイッ
ターで書いていたし、総理大臣も天皇陛下も上皇さま
も打ったんだよ。会社の連中も当たり前のように打っ
てるし、早く打ちたくてしょうがない者もたくさんい
る」
「あああ、もうそんなの関係がないの。だれが打とう
が、関係ないのよ。その人たちはこのワクチンが今ま
での人畜無害のワクチンと同じだと思っているから疑
いもしてないのよ。遺伝子に働きかけるワクチンなん
だから今までと違うのよ」
私はそういう医学的なことは全く分からなかったが、
妻とても分からなさは同じだったと思う。盲人が象を
手で触りながら勝手なことを言い合っているようなも
のだろう。
「世界中の人にワクチンを打って、その中に含まれた
チップによって自分たちの言いなりになる人間ばかり
にして世界を支配しようとする陰謀なのよ。それも知
らずにワクチン、ワクチンて、打たないと助からない
みたいに恐怖心を煽りまくって、ワクチンが頼みの綱
みたいに誘導されているってことがわかってないのよ」
「でも、おまえ、それはみんなネットで得た情報で、
自分が証拠を押さえたわけではないだろう」
「そうよ。全部ネットの情報よ。でも偏った情報でな
くて、複数の情報を総合すると話が合致するんで、信
じるしかなくなるのよ。それに気づいている人もかな
りいるんだけど、大多数の人は付和雷同して、信念も
なく行動してるから、ころっと騙されちゃうのよ」
ころっと騙されているのはもしかして自分かもしれ
ないということを疑ってみることはないのだろうか。
自分は絶対に正しいと信じて間違っているのは世間の
多数だと決めつけている。
陰謀論信者、陰謀論に限らず、〜信者というものは
得てしてそういうもので、自分を疑うというような余
裕はない。恋をした人間も気持ちが過熱して夢中にな
ってしまっているので、他人の助言など一切寄せ付け
ない。相手は他に掛け替えのない、世の中に唯一至上
の存在だと信じて疑わないのである。それが信仰とい
うもので、疑いながら夢中になるとか、冷静に信ずる
というのは矛盾している。妄信、熱狂的信者こそ信仰
者の共通の姿なのである。
地球を再編成して自分たちの都合のよい惑星に改変
しようと企んでいる、世界の金融を操っている闇組織
の者たちは、新種のコロナ・ウィルスを世界的に流行
させて（世界中に広まるということは毒性はそんなに
強くない）、これは極めて危険なウィルスで警戒しな
いといけないことをさんざん煽っておいて、しかる後
にワクチンを供与する。待望、渇仰されるワクチンを
供給することで莫大な利益を得るばかりでなく、かつ、
ワクチンの中に人類を操るための成分を潜ませておい
て、全世界に接種者が行き渡ったことを導いた上に、
従順な人類を統制するプログラムを起動させるという
シナリオになっているようだ。
だから妻は「絶対打つな」というのだが、ワクチン
は既に高齢者、基礎疾患のある人々には優先して打た
れ、それなりの有効性は検証されている。
「新しいワクチンで副反応もいろいろあって心配な部
分も確かにあるだろうけれど、それよりもこの新型コ
ロナウィルスに感染して重症化したり、死んでしまう
よりはマシだということで、ワクチン接種は勧められ
ているんじゃないのか」
「冗談じゃないわよ。若者が感染したって大抵は軽い
風邪くらいか全くの無症状のまま治ってしまうのよ。
若年の死亡者なんて日本ではゼロだし、海外でも十本
の指で数えるくらいしかいないのよ。でもワクチンを
打って命を落とした若者はその十倍はいるのよ。それ
だけでも必要ないってわかるでしょ」
「若者は確かにそうだろう。それはわかった。でも年
配者はちがう。ワクチン接種は必要だよ」
「完全にマスコミの論調に騙されてるわね。少しは自
分の頭で考えたらどうなの」
その言葉には私はカチンときた。
「お前こそおかしなサイトの偏った陰謀論に洗脳され
ていることを疑った方がいいぞ。世間ではそちらの方
がマイナーなんだからな」
「マイナーが間違っているなんて保証はどこにもない
でしょ」
「マジョリティーに従っている方が日本の社会では大
抵は間違いがない」
「だから戦争やって負けるのよ。大多数が間違ってい
たんだから。あの時もマスコミが煽りまくって大多数
を破滅に導いたんじゃないのよ」
話が歴史観の方にそれてしまった。これも私と妻は
かみ合っていない。あの戦争はマスコミが煽ったから
とか、指導部が無能だったとか、それも一因には違い
ないが、世界史の流れの必然で個人の力や少数の努力
ではとても止められるものではなかった。歴史の必然
なんだと私は言いたかったが、私は黙った。感情が高
ぶるだけである。夫婦でこんな議論をしたところがな
んの生産性もない。夫婦は仲良くするに限る。それは
娘たちのためでもある。
私にも妻にも市からワクチン接種券が送られていた。
あとは電話かネットで予約をするだけである。費用は
国が負担してくれる。妻は予約する気など毛頭ない。
私には迷いがある。職場では私と同年の者はすでに二
回のワクチン接種を完了している。「君はまだか」と
課長に言われている。「受けません」とは言えない。
「妻が止めますので」などという言い訳もできない。
「市からまだ接種券が送られてきてませんから」と言
っていたが、とうとう送られて来てしまった。「まだ
来てません」とウソをついても同じ市から出勤してい
る者もいるのでやがてバレてしまう。他の者は何の迷
いもなく予約して接種しているのに、なぜ私だけが迷
わなければならないのか。
それはネットの情報でおかしな陰謀論を信じ込んで
しまった妻がいるからである。妻が「絶対打たないで
ください」と言うからである。「絶対」などという言
葉が付くのは妻には確信があるからで、そう言われた
方はドキッとしてあながち迷信として笑い飛ばして無
視できるものでもなく、どこかに真実が含まれていて、
もしかしたら正解なのかもしれない。妻が「絶対」と
いうのを無視して打ってしまえば、妻は悲しみ、私の
妻に対する信頼は地に墜ちるかもしれない。別に私へ
の信頼など地に墜ちても構わないのだが、妻が「絶対」
と懇願するのは、自分のためでも多分にある。そして
娘たちのためでもある。私がワクチンを接種したこと
によって、身体に異常を来たし、働けなくなったしま
ったら、彼女たちは生活に困る。ネットの陰謀論者た
ちはワクチンの危険をこれでもかと妻に植えつけてし
まったのだろう。だから「絶対」と釘を刺している。
「川辺君。ワクチン打った？」
会社でまた課長に訊かれた。課の中で接種していな
いのは、私ともう一人山本という新人女子だけである。
山本は「注射が怖い」という理由でワクチン接種をた
めらっていた。
「川辺さんもやっぱ、怖いんですか」
エレベータで一緒になった時に山本に訊かれた。
「そういうわけではないけど」
「わたし、針が身体に刺さることを想像しただけで気
が狂いそうになるんです。大袈裟だって言われますけ
ど本当だから仕方ありません」
「わかるよ。注射痛いもんね。身体に針が刺さるなん
て野蛮だもんね」
「これだけ医学が進んだのにどうして注射なんていう
原始的な方法しかないんでしょう。飲み薬か食べ物に
混ぜて服用するとか、何か光線みたいなものを照射し
て接種する方法がないんでしょうか」
「あったらいいね。多分むずかしいんだろうね」
「親からも早くワクチン打てって言われてます。お前
のためだけじゃない。接する人のためにもワクチンを
打ってウィルスに強い体にならないといけないのだっ
て父も言うんですけど、注射の恐怖を思い浮かべると、
人のためというボランティアの精神も吹き飛んでしま
って、逃げ出したくなるのです」
「わかるよ。そんなに怖いなら打たなくていいよ」
「でも会社の空気がありますよね。ワクチン打たない
ヤツは去れ、みたいな」
「そこまでは言わないと思うよ」
「空気ですよ。そういう空気感ありますよ。ウチの職
場には」
「空気なんてハッキリしないものは無視すればいい」
「できません。空気ほど怖い者はないんです。注射と
並んで怖いのが空気です。圧を感じます。ものすごい
圧です」
「ハッキリと音声や文字で言われたのなら、それは仕
方がないけど、目に見えない空気や圧だけでは、従う
必要もないと思うよ」
「川辺さん、私と一緒に戦ってくれます？ワクチン打
たないキャンペーン。戦ってくれます？」
「打つ、打たないは、あくまで個人の判断に委ねられ
ているはずだから、強制されるようなことになったら、
パワハラかモラハラか訴えればいい」
「セクハラも」
「え、セクハラも」
「私しょっちゅう課長にお尻や胸をじっと見られます。
山本の胸はわが社の宝だとか言われますけどそれって
完全にアウトですよね」
「アウトだと思う」
「それらを総合して訴えれば勝てますよね」
「勝てるね」
「じゃ戦いましょう。私、川辺さんには前からなんか
通じるものがあるなぁって、思ってたんです」
胸の大きな女子社員が熱い視線を送って来る。
最近の若い娘は好意をもったり、性欲の対象として
これはと思うと、妻子ある男でも構わずに目的を達成
すべく突進して来る。以前にも女子社員に川辺は迫ら
れたことがあった。全くその気のない相手は適当にあ
しらっていたが、こちらがタイプの娘だと相手をして、
かなりの仲になり、離婚を迫られて困ったことがあっ
た。そういう時は「家庭があるから」とハッキリ言っ
た。
「じゃ、私たちのこと奥さんにバラしますよ」と迫ら
れたが動揺しないフリをした。まさかそんなことはし
ないだろうと思っていたが、会社を休んで、妻のパー
ト先まで乗り込んで、私との関係をとうとうとまくし
たてて、離婚するように妻に迫った。妻も妻で気が強
いので、黙って聞いていたが、いきなり女子社員の横
面を引っぱたき、
「この泥棒猫。金が目当てならいくらでもくれてやる
よ。二度とあたしの前に現われるな」と一喝した。女
子社員は妻の迫力に圧倒されて金も要求せず、スッパ
リと私との付き合いを止めてしまった。
その夜、私は帰宅するなり玄関で妻に襲い掛かられ
た。顔面を殴られ、股間を蹴られ、腕に噛みつかれ、
弁解の仕様もないので半狂乱になった妻にひたすら土
下座して詫び、二度とそんなことはしないと証文を書
かされた。
「今度こんなことをしたら、殺すから」と釘を刺すよ
うな一言を言われた。そう言った妻の顔は私がこれま
での人生の中で観た恐ろしいものの中で一番恐ろしく
かつ凄みがあるものだった。本当に殺されるのだろう
と思った。
しかし、ウラを返せば私はそれだけ妻に愛されてい
るということの証で、どうでもいい旦那だったらそこ
まではしないし、言わないだろう。愛されているので
あればそれに応えなければならない。言うだけのこと
を言うと妻はまったく何事もなかったかのように普段
の妻に戻ってくれたので助かった。そういう点は男性
的でサッパリしている。だが、油断すればまた牙をむ
いて襲い掛かってくるだろう。
だからこの女子社員山本と共闘して会社の圧力と戦
うのはいいのだが、男女の関係に陥って、離婚とか結
婚とか迫られることになるのはなんとしても避けなけ
ればならないと思った。
「こういう場合仲間がいるということはとても心強い
ことなんです。一人では戦いきれません。自分が間違
っているんじゃないかって自問するようになって、周
囲に合わせる方が楽なんでそっちの方に流されてしま
うからです」
山本は説明した。前にもこんな経験があったのかも
しれない。
山本は注射がイヤだからという理由のワクチン接種
拒否である。一方私は、自分としては別に打ってもい
いのだが、妻が強硬に反対するので、豹変してバイオ
レントになる妻には逆らえないという理由でワクチン
接種拒否なのである。ワクチン接種拒否というところ
だけ共通しているので、共闘することになろうとして
いる。
そして山本はどうも私に女としての思いを少なから
ず寄せているようなのである。私としては、顔はまぁ
普通で特に可愛くも美人でもないのだが、胸の圧倒的
な大きさに幻惑されそうである。それは課長はじめ他
の男性社員も皆等しく思っていることのようである。
あのおっぱいを一晩でいいから自由にしてみたい。そ
んな密かな願望が私にもある。しかし、そんな願望を
成就して、もしもそれが妻に露見するようなことにな
れば、撲る、蹴るの暴行を受け、半殺しか全殺しの目
に遭う可能性がある。それは覚悟しなければならない。
快楽の後に地獄が待っている。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０２２年８月号 通巻第１６１号
［原稿用紙２１枚］
