らあめん男 ２６
大堀敏靖
「あなたは月と語ったこと、ありますぅ？」
弦はこんな浮世離れした質問をぶつけてくる人間が
嫌いではない。高校時代の古谷佳純で免疫ができてい
る。女は少女時代の一時期乙女のような夢見心地の精
神状況に満たされることがある。やがてその反動で超
リアリストになることは見えているが。
「僕は月と語るような特殊能力を持ち合わせてません
から」
「ふ〜ん。普通の返答かぁ。…よかった」
「よかった」の意味がよくわからない。
「お相手できないということですがそれがよかった、
なんですか」
「私がこんな突飛な質問をして自然に応えてくれるよ
うな人は大抵シタゴコロがある人ですから」
元より「デブ丸」ラーメン店の主人の愛人など弦に
は興味はないし、下心もない。他人の女に欲情など起
きない人間である。他人の女を横取りしてまで欲望を
かなえたいような野心家ではない。ラーメン店を経営
していこうと思ったら、他店のテリトリーも横取りす
るくらいの野心が必要かもしれないが、元来が平和主
義者の弦は棲み分けをして共存共栄するのが理想だと
思っている。尊敬する「天神軒」の山田次郎会長は、
ただ、無心においしいラーメンを作ってお客さんに喜
んでもらうことだけを考えている人だが、それは弦の
理想だから競争に打ち勝つとか、他店を圧倒するとか
潰しにかかるとかそんな発想は毛頭ない。
ラーメンがおいしいか美味しくないかは客が判断す
ることであって、詐欺をして舌を騙すとか丸め込むと
か操作の仕様もない。経営戦略というものはあるのだ
ろうが、旨いラーメン屋にはおのずと客は集まるはず
である。「桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す」
である。旨くない店からは客は遠ざかるのは自然の理
というもので、そこを戦略で一時捻じ曲げても後が続
かない。基本は旨いラーメンを作ることに尽きる。
したがって女性にしても出来上がっている関係のと
ころにねじ込もうとは思わない。人の所有物はよく見
えるときもあるが、女性は人相応の相手がつくもので
あるから、無理やり横取りしてもあとが続かない。他
人のものだと知った段階で興は覚めてしまう。弦はそ
ういう人間だった。
「下心はないけど、月と会話をするような人が僕は嫌
いじゃないですよ。僕にはできないけど」
「あなたは優しい人です。いい人です。きっと。ここ
のお店の主人もいい人ですけど」
「あなたに都合のいい人がいい人とは限らないと思い
ますが、僕も自分を悪い人間とは思ってません。どち
らかというといい人間の部類に属するんじゃないと思
っています」
「八十億の人類はいい人と悪い人と、それからどちら
でもあり、どちらでもない人に分かれると思います」
「そりゃそうでしょう。どちらでもあり、どちらでも
ないグレーゾーンの人が圧倒的大多数で、ウルトラ善
人、ウルトラ極悪人なんて数えるほどしかいないと思
います」
「あなたはウルトラまではいかないにしても善人です
ね」
人のことを断定的に規定する。どうしてそんな自信
があるのだろう。もっとも善人といわれて悪い気はし
ない。
「ありがとうございます。善人になりたいと思います」
「私のような者を相手にしてくれる時点でいい人に決
まってます。月と話すなんて言ったら頭がおかしい思
われますもんね」
「ふつう、そうかもしれません。月というのは地球と、
火星くらいの大きさの小惑星が衝突した時に飛び散っ
た岩石がまとまってできたものです。岩石のかたまり
と話せるわけがないと、ふつう、考えます。僕も考え
ます」
「そんなこと言ったら人間だって動物だって肉の塊で
すよ。そこに命が吹き込まれているから会話ができま
す。月だって岩石の塊だけどそこに星の命がふきこま
れたとしたら会話だってできるんじゃないですか」
「星のいのち…」
「地球という星だってどう考えてもこの星は命があっ
て生きています。それは認めますよね」
「地球に命がある。確かにこの上に命がいっぱい生息
していることは確かです。それから、スペースシャト
ルなどから客観的に見た映像ではモノクロの宇宙の中
にそこだけカラフルなビー玉が浮かんでいるのをみる
と生きてるなぁと実感できます」
「命の星地球は誰もが認めますが、他の天体は生物が
住めるような環境にないから命はないし、したがって
その星自体も生きてないだろうと思う人が多いと思い
ます。でも人間が地球から見える部分なんて限られて
いて何もわかっていないんです」
どうしてこの娘はこんなに断定的にものを言えるの
か弦には分からなかった。変な自信がある。根拠のな
い自信があるのだろう。若者にありがちな。
「あなたは何でそんなに確信をもって天体の命を語れ
るんですか」
「月に聞いたからです。月が教えてくれました。私は
夜空にぽっかり浮んで満ちたり欠けたりする月が孤独
に見えたものですから、私も一緒よ、って語りかけ続
けたらある日ある時返事をしてくれたんです」
そんな馬鹿なことはないだろうと弦は思った。こん
な乙女チックな話にいつまでも付き合っているほど自
分はヒマ人ではない。明日は仕事もある。
「馬鹿なこと言ってると思ったでしょ。今」
今日三度目だった。内面をズバリと言い当てられた。
こうなると相手の透視能力というよりも自分を疑って
みなければならない。「顔に書いてある」という表現
をよく聞くがまさに弦は内面が顔面に、テレビの字幕
やテロップみたいに流れる体の人間なのではないか。
こうも内面が見透かされるということはきっとそうに
違いない。
「ちょっと聞いていいですか」
「どうぞ」
「図星なんですけど、どうして僕の気持ちがそんなに
わかるんですか。そうやって話し相手にズバッと言い
当てられるのが今日だけでも三度目なんです。どうし
てわかるんですか」
少女は花が咲いたように笑顔になって応えた。
「だって顔にそうやって書いてあるんですもの」
「それは比喩ですね。メタファーというヤツですね」
「いいえ。例えでもなんでもなくて」
「ちょっと意味がよくわからないです」
「顔に書いてあるんです。バカなこといってるなぁっ
て書いてあります」
弦は頬辺りに手を当てて撫でてみる。
「ここら辺ですか」
「顔全体に」
「文字で書いてあるってわけじゃないでしょう」
「遺伝子の有機配列ってあるでしょう。ＡＴＣＧの配
列で情報が書き込まれてあるっていうの、高校で習い
ましたね」
高校時代は勉強がまるでできなかった弦なのでよく
わからなかったが、ＤＮＡの二重らせん構造というの
はなぜか記憶に残っていた。しかしそれが何なのかは
わからなかった。
「わたしは勉強はまるでできなかったんですが、生物
のその部分だけはなぜか興味をそそられて一生懸命聞
いてました。身体についての遺伝情報が千ページの本
の千冊分くらい、極小の染色体だかなんかの中にびっ
ちり書き込まれているときいてなんだかロマンチック
な気持ちになったんです」
弦と似た高校時代をこの娘は送ったことがわかった。
精神構造が似ているのだろう。精神構造が似ているた
め類は類を呼んで引きつけられこうして月光の下で浮
世離れした会話を交わすことに至っている。
「それと似ています。情報は情報なんですけど、翻訳
や解読が必要な情報です」
「それを聞いて安心しました。顔に文字が書いてある
かと思いました」
ラーメン店主の愛人は笑って艶っぽい目をして弦を
見つめた。
「おもしろい人。もっと話していたいな」
それは弦も同じ気持ちだった。もう少しこの娘と話
していれば浮世のウサも晴れるような気がした。世の
中には生活に追われて余裕のない人間と生活は誰かに
保証されて悠然と生きる人間に大別できると思うが、
この愛人はまさに後者だった。
弦は仕事があり、生活に追われているといえば追わ
れていると言えるのだが、ラーメン店を開業したいな
どと発心する時点で通常の生活感から逸脱しているこ
とは明らかだった。生活を優先するものならばもっと
堅実な職業について安定を求めるはずである。ラーメ
ン店を開業したいなどと考える男は出家する武士と同
じように浮世に背を向けて自分の思い通りに世の中を
渡りたいと考える男かもしれない。しかし、現実はそ
う甘いものではない。武士が出家するのも甘いもので
はない。戦に駆り出されて討ち死にするような心配は
なくなるかもしれないが修行の厳しさがある。早寝早
起きを強いられ、怠惰な生活は送っていられない。ラ
ーメン店を開業にしても厳しい現実がある。会社勤め
や公務員の方がよほど気楽で余暇を楽しめる呑気さが
ある。自由を求めて大海に小舟で乗り出すようなもの
で、しけ、嵐、大波に翻弄され、生活自体が何の保証
もない危うい状況に置かれるのである。
単なるロマンチストでは成功するはずもなく、超リ
アリストになってはじめて何とかやっていけるくらい
の厳しい世界なのだろう。毎年約三千軒のラーメン店
がオープンしているが、毎年同じく約三千軒のラーメ
ン店が廃業に追い込まれている。勝ち残り、生き残る
方が難しい。大量のウミガメの卵が孵って波打ち際ま
でたどりついてもその後他の生物たちの餌食になって
しまうのが大半で親のように成長して同じ砂浜に戻っ
て来るウミガメの方がごく稀なのである。ロマンチッ
クだけではやっていけない。単なるラーメン好きでは
一年ともたない。生活がかかってそこで生きていくし
かないという括った肚がないと少しのことに挫折して
しまうだろう。大波もしけも津波もモノともせず歯を
食いしばって耐えていくだけの覚悟がないとラーメン
店経営という仕事はやっていけない。
しかし、そんなことはラーメン店に限ったことでは
なく、個人経営というのは、束縛がない半面、現実の
厳しさという洗礼を必ず受けなければならないだろう。
ラーメンという安直で、廉価で、庶民と密着したフー
ドである分、余計リアルな現実は手痛く感じられるの
だろう。
「また伺いますからゆっくりお話ししましょう」
「行っちゃうの。つまんない。そんなつまらない月並
みなこと言わないで」
「月並み…」
「月の夜だけに…」
「いやいや。スマホがあってよかった。もしなかった
らどうしようかと気が気でなかったですから」
「そのスマホには私の気持ちが注入されてます。忘れ
てしまってタダで返してもらえると思ったら大間違い
です」
「何か仕掛けでも」
「私からの渾身のフェロモンと媚薬が注入してありま
すから、あなたは私の虜になります」
「よく意味がわかりません。なんでここのマスターの
相手であるあなたが、僕の忘れたスマホにフェロモン
だの媚薬だのを注入するのか、意味がわかりません」
「月がそうさせるんです。私もよくわかんないけど」
「月がそうさせる…。ますます意味がわかりません。
主体性ってものがないんですか」
「主体性。何ですか、それ？そんなものが人間の運命
にとって意味があるんですか」
「普通にあるでしょ。僕たちは主体性をもって人生を
切り拓いていくんですから。主体性を放棄してしまっ
ては、運命に翻弄されるしかありません」
「だれがそんなことを決めたんですか。一体どこのだ
れが。月は教えてくれました。心を月の光に振り向け
ればすべてがうまく行くって。人間の小賢しい主体性
とかいうものが一体月の力よりもどんな効果があると
いうんですか」
「月の力とか月の光に心を振り向けるとかそんな宗教
みたいなことに人生の軸をおくことこそ非科学的で愚
昧なことだと僕は思うんですが、あなたがそれを主張
するならばそれはそれでいいと思います。僕は意味が
わからないですが」
「そうやってあなたは、僕は僕、君は君って、相手の
考えを尊重するようなことを言って、その実、相対主
義の海の中に沈み込んでしまっていていいんですか」
「はぁ？相対主義の海に沈む？ますます意味がわかり
ません。あなたの考えは尊重します。しかし、それに
同意しなければ相対主義の海に沈むという強迫的な絶
対主義の押し付けはまちがっていると思います。月が
どうのというロマンチシズムに浸るのは個人の自由で
すが、他人まで強要するのは間違ってます」
「そうかもしれない。でも恋は強要よ。強要しなけれ
ば恋愛は成り立たないわ」
「恋愛は強引なところがあっていいと思います。子孫
を残していくためにはエゴも働きます。脅迫、強姦も
結局ありなんでしょう。しかし、ぼくはあなたに恋愛
しているわけではないし、あなたも僕にそんな感情を
もっているわけではない。ここのマスターにこそその
強引な気持ちは押し付けるべきものでしょう」
「パパはやっぱりパパだから。年齢的にムリがあって
あんまりアヤの相手してくれないから」
体の相手を弦に求めて、この娘はこんなことをいっ
ているのだろうか。だとしたら節操のない淫乱女とい
うことになる。こんな女の欲望の対象になってしまっ
たのではたまらない。月とかなんとか言って結局それ
だけの話だったのか。
「いいえ、違います」
「何が」
「月が言ってくれたんです。今夜スマホを忘れて取り
に来る人と語りなさい。その人はあなたをわかってく
れますって」
「そんなバカな。三十八万四千キロも離れた宇宙空間
に浮ぶ月が、自分が周遊する惑星とはいえ、そのうち
の小さな島国の小さな町の極フツーの人間のそんなこ
まごまとした出来事など予言できるわけがありません
よ。そんなことしていたら月は忙しくてしょうがない。
あらゆる人種のあらゆる国家のあらゆる人々のあらゆ
る内面を見抜いて予言なんかできるものじゃありませ
ん」
「あなたは無知なんです。今はスーパーコンピュータ
の時代で膨大な情報の処理はお任せくださいというコ
ンピュータが機能してくれてるんです」
「それはわかりますが何で月がコンピュータなんです
か」
「月の裏側には高度な文明社会があって、宇宙全体の
情報処理を請け負っているという話です」
こんな荒唐無稽な会話にこれ以上付き合っていられ
ないという気持ちが弦には強く働いていた。自分はス
マホを忘れて取りに来ただけである。
「わかりました。またゆっくりお聞きしたいと思いま
す。僕は明日仕事なんでもう帰らないといけません」
すると少女アヤは月光に瞳を輝かせ、涙で潤ってい
るようなまなざしをこちらに向けて言ったのである。
「帰らないで」
こんなセリフは気まぐれな少女の口からはいくらで
も飛び出してきて深い根拠など何もないことくらい弦
も経験上知っていた。
「帰ります」
「お願いだから帰らないで。もう少しアヤの相手して
ください」
客観的に見れば月光の下で懇願されて美少女と会話
を交わせるのであるから、美少女趣味の男にとっては
垂涎のシチュエーションで、お金に換算すれば一万円
くらいの価値はあるだろう。
「話し相手ならここのマスターに懇願してください」
「だからパパは年齢的にムリなんです」
「肉体的にはきつくとも話し相手なら大丈夫でしょう」
「話しが古すぎて意味がわからないことが多いんです」
「ジェネレーション・ギャップ、ってやつか」
「そう」
「でも僕も三十代とはいえ、どちらかというと古いタ
イプの、時代の最後尾をついていくような人間なんで
話が合わないですよ」
「それはいいんです。私もそうですから」
「じゃあここのマスターもいいでしょう」
「パパはパパ。頼りになる人で、恋人とは言えないん
です」
「そんなこと聞いたらマスターは怒りますよ。理想の
タイプの女性だといってその僥倖を喜んでましたから」
「エロおやじには言わせとけばいいの」
今どきの若い娘は一体何を考えているのか分からな
いと弦は思った。しかしこんなことはどうでもいいこ
とである。そんなことより弦はラーメンのことを考え
たいのだ。が、ラーメンを食べに来る客にもいろんな
人種がいてそれを理解するのもラーメン店経営には必
要かもしれないと思った。
「わかりました。じゃあラインを交換しましょう。僕
のこのＱＲコードを読み取ってください」
「ヤッター、っていうか、実はもう読み取ってます」
「え」
「ごめんなさい。勝手なことして」
そこまでされたのなら当然美和とのラインのやり取
りも見られているに違いない。美和からまたラインが
入ったかもしれない。
「ごめんなさい。九州の女性から何回かラインが入っ
てましたが、ウザいんで二度と送って来るな！って返
しときました。それからブロックかけときましたから」
「えッ」
「その後電話が直接かかってきましたけど、すぐに切
ってそれにもブロックかけときました。相当怒ってい
ると思います」
「なんてことしてくれたんだ。それはヤバイよ」
「月がそれくらいはしてもいいって言ってましたから」
「そんなこと月が言うかよ。自分の内心の声でしょう
が。ああ、知らないぞ。敵に回したら怖い女だからな。
何を仕返しされるかわからない。責任取ってくれるの
かッ」
「責任取って私があなたの女になります」
「何を言ってるんだ。論理が破綻している。きみはこ
このマスターの内縁の妻なんだからそんなことしたら
僕は間男になってしまう。そんなつもりなんかこっち
は毛頭ないし」
「私は勝手にここに飛び込んできた子猫にすぎないの
ですから、また勝手に飛び出していけばいいのです」
「一宿一飯の恩義というものがあるだろう」
「それは犬の話。猫にはそんなものないの。恩人にも
あっさり背を向けて自分の世界を探求するのが猫の属
性なんですから」
「きみは猫なのか」
「可愛い子猫、ニャン」
「化け猫じゃないのか」
「化け子猫よ、ニャンニャン」
いずれにしてもこんな有閑少女の相手をいつまでも
していたくない。すぐにでも職場に戻って恭子さんと
麺やスープの開発に取り組む協力をしたい。
「僕はもう行かないといけない。スマホを預かっても
らって感謝してます」
「あなたもラーメンの神様に魅入られた人のようです
ね。私と一緒に月光のブラックホールに無限に落ちて
いってくれる候補かと思ったのに…」
「なんだよ、その月光のブラックホールって。言葉に
矛盾があるよ」
「月光のブラックホール。それは月のコアに至る道程
のことで、ブラックというのは例えで無限でよく分か
らないという意味です」
「そこに落ちていくのがきみの願望なのか」
「そうです。二人で手を取り合い、あるいは身体が合
体した状態でどこまでも落ちていくのです。二人は永
遠に離れることはなく、合体し続けているんです」
「心中か。そんなのは空想の世界だけにした方がいい。
実際にそんなことをやったら苦しいし、後始末が大変
だし、ブザマで、迷惑がかかる。小説家が愛人と上水
路で心中したんだけど、女の方は顔が三倍くらいに膨
れ上がって苦しそうだった。小説家は酒に酔っていた
んで水も飲まずに薄ら笑いを浮かべてたらしいけど」
「それは川に飛び込むからそうなるんです。月光のブ
ラックホールへの心中はただ美しさだけがあるんです。
身体は燃え尽きて後には何も残りません。苦しさも月
が全部吸い取ってくれるんです」
「永遠に合体しているなんて耐えられないね。絶対に
離れたくなる。離れているから引っ付きたくなるだけ
で、合体してそこそこ満足したら今度は離れるのが願
望になる。永遠に合体状態なんてのは地獄だろう」
「……」
「それに心中を奨励するような月は感心しないよ。悪
魔の誘惑のようなものだから。そういうのは長続きし
ない」
「……」
「デブ丸」マスターの若い愛人は黙ってしまった。が、
やがて言った。
「それは言えるかもしれない。ずっと一緒にいると飽
きてくるから。飽きたら別の人を求めてまた旅に出る
方が賢明ですもんね。それは言えてます」
「なんだよ、自説の撤回かよ」
「はい」
「軽いな。きみも」
「きみもって、あと誰が軽いんですか」
「オレだよ」
若い愛人は笑う。
「やっぱりあなた、面白くていい人です。ねぇ、一緒
に月に行きましょ」
弦は早くこの浮世離れした荒唐無稽な会話を打ち切
って家路に着きたかった。マスターが表に出て来て「
何やってんだ」とこの浮気な愛人を怒鳴ってくれない
か。
「そうだな。行けるもんならぜひ月でも火星でも行っ
てみようか」
「火星？」
そのとき願望した通りに、閉まっていた店のドアが開
いて店主がぬっと顔をのぞかせた。愛人は怒鳴られて
店の中に引っ込むことになる。ちょっとした修羅場に
なることを弦は予想した。「この娘が勝手にいろいろ
話しかけて来るんで相手をしただけです」と弦は言い
訳を考えた。
「アヤ。ここにいたのか。寒いと風邪ひくよ」
「あ、パパ。助けて」
「どうした」
「この人にスマホ渡したら、アヤを誘惑するようなこ
とをいろいろ言ってくるんだよ」
弦はさすがに驚いた。そんな事実はまったくない。
平然とウソをついている。
「今藤さん。アヤが魅力的な娘だってことはソレガシ
も認めるよ。誘惑したくなるのはわかる。でもアヤは
ソレガシのもんだでね。横取りするような真似をして
もらっては困る」
「冗談じゃありません。僕はただスマホをもらいに来
ただけで、ほとんど口を利いたこともないこの人を誘
惑しようなんて考えは微塵もありませんよ。あなたも
デタラメなこと言わないでくださいよ」
「アヤ。またデタラメ言ったのか」
また、と言っているから度々虚言を吐く娘なのだろ
う。
「違うよ。パパ。この人がね。あんなジジイ相手にし
ているより若い男の方がいいだろう、とかエロいこと
言うんだよ。私の身体をジロジロ眺めながら」
弦は呆れかえった。よくもこんな出まかせを言える
ものだ。
「ウソを言わないでよ。月がどうのとかいって、誘惑
してきたのはむしろ自分でしょう」
「ジジイは精力が弱っているからせいぜい週一回だけ
ど、オレなら一日七回はいけるとか、私、顔から火が
出るくらい恥ずかしかった」
「デタラメ言うな！」
弦はさすがに感情的になった。
「アヤ。デタラメなのか。この間も取りすがりの学生
を誘惑してたね」
「この間は本当に私、魔がさして自分でも何をしてい
るのかわからなかっけどあれから反省してもう二度と
男の人を誘惑しないって誓ったんだよ。信じて、パパ。
それなのにこの人ったら、ただ私がスマホを渡しただ
けなのに、その渡した私の手を引き寄せて顔を近づけ
てきて、『君はかわいい。一人にして置けない』なん
て調子のいいことを言って、それから次々にエロい言
葉を連発して私、頭がくらくらしてたんだよ」
「今藤さん。本当なのか」
「だから、デタラメだってさっきから言ってるでしょ」
「アヤ。またデタラメなのか」
「この人は私の身体が目当てなんだと思う。特に私の
胸をじっと見てたから」
「今藤さん。このオッパイはソレガシの専有物なんで
人様に開放するわけにはいかんのだよ」
「誰も開放しろなんて言ってません」
「アヤもそんな胸の谷間の見えるような格好でこんな
月の明るい晩に男の前に出てきちゃあいけないよ」
「そうかな。これくらいの恰好は夏場なら誰だってし
てるよ」
「今は夏場ではなく冬だよ、アヤ」
「あれ？あぁ、そうだった。冬場だよね。そうだった
ね。テヘペロ。パパ、アヤが軽率でした。ゴメンなさ
〜い」
「まあいい。今藤さん、誰にでもでき心とか魔がさす
ときがある。特にこんな月光の晩は人が少々おかしく
なるもんだ。今夜のことはなかったことにするからこ
のままお引き取りください」
「ちょっと待ってくださいよ。僕は本当に何もしてな
くてこの人がいろいろ絡んできただけですからね。僕
の無実を認めてくださいよ」
「まぁ、認めるよ」
「まぁって、どういうことですか」
「半分は認めるってことだ」
「ホンットに、僕は何にもしてませんし、この子を誘
惑するようなことなんて一言も言ってませんから」
「この人の言うことは大ウソだよ、パパ。ジジイより
オレの方が喜ばせられるとか言って前をはだけて自慢
してたんだよ。あたし、暗くて見えなかったけど」
「そんなことをしたのか。そりゃ今藤さん、犯罪だよ」
「じょ、冗談じゃない。ウソつくな、なんて女だ。マ
スター。僕はそんなことしておりませんよ。天地神明
に誓ってしてませんッ」
「証拠は」
「証拠？僕の股間を見てください。普通でしょ。膨張
した形跡なんかありません」
「膨張して元に戻っても形跡なんか残らんからな」
「ガマン汁とかも出てません。お見せしましょうか」
「いらん」
「ほらパパ。また人に自慢げに見せようとしたでしょ。
変態だよ。この人」
「うるさい。ウソつき女。名誉棄損で訴えるぞ」
「今藤さんの言うことも一理ある。アヤの言うことも
真実味がある」
「ありませんって」
「この場はドローということで収めましょう。ソレガ
シの名において今藤さん、そういうことで、何もなか
ったことにしてください」
「ドローも何も、このデタラメ女がそれでは有利にな
ってしまう点で納得なんかできませんよ。マスター、
こんなトンデモ女をよく囲ってますね。サイテーです
よ。クズですよ」
「パパ。この変態を早く追っ払って。アヤ、怖い」
「よしよし、アヤ。怖い思いをさせてすまんかったね。
家の中に入りなさい。もう大丈夫だから」
「あああああああーーーーー。なんなんだーッ。この
理不尽、この不条理」
マスターの愛人が家の中に引っ込むと「でぶ丸」マ
スターは申し訳なさそうに近づいてきて弦に言うのだ
った。
「すまんかったね。今藤さん。ああいう女なんだ。月
の晩になると通りすがりの男を誘惑して、ソレガシが
出ていくと手のひらを返したように被害者面をしてご
まかそうとする。訳のわからん性癖があって、ソレガ
シも持て余しとるんだわ。勘弁な、今藤さん」
「よくあんな女を囲ってますね。失礼な言い方かもし
れないけれど」
「タイプだから仕方ない」
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０２１年７月号 通巻第１４８号
［原稿用紙３０枚］
