この見合い
大堀敏靖
「いい子じゃないの。育ちも学歴もいいし、控えめで
大人しそうだし、あんたにはぴったりと思うけどね。
先方も乗り気で、星占いも見て相性がいいって喜んで
るし。ね、どうかしら。お母さんと同居でも構わない
って言ってるし、今時こんないい子はそういないと思
うわよ」
そんないい子がどうして三十過ぎても独身でいるの
だ。紹介するおばちゃんたちにはいい子かもしれない
が、私にとっては華やかさのないお荷物を背負うよう
なもので、幸福な結婚生活など全く描けない。
私に限って言えば、お見合いでは絶対に好みの相手
は見つからない、と思っていた。が、心の中に温かい
灯が点ったような恋の予感がしていた私は封筒を渡さ
れ、相手の写真をみるまで期待はしていたのである。
その封筒を開封するときも微かな期待とどうせ裏切
られるだろうという予想が交錯していた。身上書が出
てくる。十二も年下である。まだ二十代である。こん
な年上のおっさんでいいんのだろうか。写真は封筒の
下の方に沈潜してなかなか出てこなかった。サイドを
挟んで振る。下に落ちてしまって拾い上げたスナップ
写真は、確かに若い女で、まっすぐにこちらを見てい
る。瞬間その視線は私の瞳孔を通って心臓まで入り込
んで来たような気がした。
「来たか、とうとう来たのか…」
どこかの城を背景にしてベンチに座ってカメラをま
っすぐに見ている写真だったが、カメラではなく、私
の方を見ていた。髪がセーターの前まで垂れていた。
セーターの胸のふくらみがはっきりしていた。背筋を
しっかり伸ばしている。あなたのためにすべてを捧げ
ますと語っているように思った。
学歴は私立高校卒業でその後は有名な清掃用具業者
に就職して事務をやっている。写真は少し遠目で顔の
微細な部分まではよくわからないが、整った美形の顔
立ちであることは確かであるし、愛嬌のあるかわいら
しさも十分伝わってくる。当然選りすぐりのベストシ
ョットを持ってきたはずだから、それを差引かねばな
らないが、不細工はベストショットにしたところが不
細工で、化粧や修正では隠し切れない。美人はどんな
ワーストショットでも匂い立つような何かは必ず伝わ
ってくる。
私は幾度も写真を見て、心に花が咲いたような浮き
立った気になった。すでにこの女性が私を熱烈に愛し、
私との結婚が内定したような気にさえなっていた。
私は母に「こういう人が紹介されたがどうだね」と
聞かれたとき、「いい。すぐに会いたい」なとど露骨
なことは言えないので「うーん。まぁ、会ってもいい
けどねぇ」といつもように気のない返事をした。
「じゃ、義男さに話しとくよ」
この「義男さ」というのは、母の従弟にあたる人で
私の亡父の口利きで県庁に就職が決まった人である。
その義男さの友人の樋口という頭のバーコードになっ
た背の低い男は仲人が趣味であちこちの縁談をまとめ
上げていた。その人の紹介である。
すでに以前私は樋口氏の紹介で一回見合いをしてい
た。
見合いの翌日、樋口氏から電話が掛かってきた。
「ええ娘やったやろ。私もね、今回は自信があったん
やわ。先方は乗り気やで、いいね。これは、ぴったり
の話やでね。文句なしやろ。そしたら今度はいつ会っ
てまえるね。あんたの方から連絡してまえるかね。私
の方からしてもええが」
勝手にどんどん話して、こちらの意向は聞こうとし
ない。
「今度の日曜でどうやね。こないだはお茶だけやった
で、こんどはグランドホテルでゆっくり食事して、映
画でもどうやね。今『君の名は』っちゅう映画が評判
らしいで、それでも見たらどうやね。な、そうしやー」
私は乗り気がしないのである。先方は私のことを気
に入ったようであるので、女性が気に入れば男の方は
結婚したいばかりで女でさえあればだれでもいいよう
な飢えた狼ばかりだとでも思っているのだろう。女が
了承すればそれで話は決着したと勘違いしている。私
にも意思というものがある。嫌なものは嫌と言わなけ
ればならない。
「日曜でええかね。何時に待ち合わせるね」
「あの…」
「何時？」
「あの、僕は…」
「日曜日はあかんかね」
「いえ、あの…」
「何ぃ」
「まだよくわからないですから」
「何がぁ」
「相手の人がどうかということが…」
「それは私が保証するて。いい娘や。すぐにはわから
んでもそのうちわかる。それで何べんも会ってだんだ
んわかってくる。そういうもんや、見合いっちゅうも
んは。日曜日でええね」
そうまで言われればもう一回くらい会ってもいいか
と思った。
「わかりました。じゃあ、十一時で」
「よし、なら先方に伝えとくで。今度からはあんたか
ら連絡したってちょ」
今度の仲介者はこれまでとは違う。物わかりのよい
やさしい人ではない。強引に進めてまとめ上げてしま
う人である。煮え切らない気の弱い男たちはそれでま
とめ上げられて結婚してしまったのだろう。それで仲
介お礼料をガッポリ手にして樋口氏は小金を貯めこん
でいるのだろう。渋々でも結婚できればそれは良いこ
となのかもしれない。結婚とはそういうもので、夢に
描いているようなものではなく、すこぶるリアルで、
言うほどの価値あるものではないのかもしれない。
何回会っても同じだろうと思ったが、良さがわかっ
てくるかもしれないと言われてそんなものかと思って
会うことになった。しかし、食事や映画を見るなどの
長丁場はとても耐えられないと思ったので、またお茶
だけで帰ろうと思った。
私の従妹は見合いではないが求婚されてどうも乗り
気がしなかったが、相手に求められて嫁ぐのが一番幸
せなのだと説得され、首を傾げながらも、マリッジブ
ルーどころかマリッジブラックというほどの婚前を経
て、ホテルの大宴会場で派手な披露宴をした。結婚す
れば相手の良さがわかってくると言われたが、一向に
わからず、三か月後には家出して車の中に寝泊まりし
たこともあった。子供ができれば覚悟もできて結婚生
活も落ち着いてくると説得された。それでわきがの強
い岩のような旦那に抱かれて妊娠した。男の子を出産
した。その子は目にいれても痛くないかわいいわが子
だったが、旦那のことは一向に愛することができず、
とうとう離婚することになってしまった。
長くいれば愛着が湧くとか情が移るとかある程度は
あるかもしれないが、とにかく結婚というのにも疑問
の目を向けなければならない。
従妹の場合、結婚披露宴の式場費用だけでも六百万
円かかっている。もろもろ諸経費を合算すれば裕に一
千万は超えるだろう。両家で折半したとしても少なく
とも五百万円の大金が無駄に費やされたことになる。
結婚式を挙げたというだけでも無意味ではないかもし
れない。子供を授かればそれだけでも意味があったか
もしれない。しかし、その子の親が離婚することにな
れば、幸せとはいえない。両親のそろわない家庭は多
いが、どこかに陰がつきまとう。引きこもったり、道
をはずれたり、結婚しても親と同じように離婚するケ
ースがある。
そう考えて私は本心を偽らないで、日曜日にはあま
りその気はないことを示すためにお茶だけにして帰ろ
うと思った。午前十一時にホテルのロビーに待ち合わ
せをして、そのままラウンジでコーヒーを注文して一
時間、趣味や海外旅行の経験などについて話した。
「じゃあ、今日はこれで」
と私が言うと、相手の顔が一瞬ゆがんだように見え
た。食事をして映画を見て、景色の良いところへ連れ
ていかれ、唇を奪われ、そのままホテルへ連れていか
れて、関係を結び、プロポーズされることを相手は夢
想していたかもしれない。しかし、二回目に会っても
前回と印象は特に変わらず、心惹かれることもなかっ
た。
「じゃ、今日はこれで」
コーヒー代二人分を支払って、ロビーで別れた。
私はこれではっきりと自分の意思表示はできたと思
った。
ところがその日の夜、樋口氏から電話があった。
「なんでお茶だけで帰らしてまったの。あんた、どう
いうつもりやの」
「どういうつもりって、用事があったもんで」
「食事して映画見ることになっとたんやねぇかね。そ
れを午前中に呼び出しといてお茶だけで帰してしまう
っちゅうなんてありかね」
「……」
「先方はぷんぷんに怒ってりゃーすよ。どうするの。
破談なってまったら」
私としては破談をこそ望んでいた。
「こんなええ縁談はまたとあらへんのやでね。真面目
にやってまわな、まとまるもんもまとらへんよ。まぁ、
私がうまいこと言っとくで、今度だけは許してまえる
と思うけど、二度とこんなトロくせぇことやったらあ
かんでね。絶対にうまくいってもらわなあかんのやで。
私の言うとおりにしとりゃあ間違えあらせんのやで」
私は樋口氏に女を当てがわれ、その女と結婚するよ
うに強制されている窮屈さを感じ、大いなる束縛を感
じて強引な樋口氏のやり方に憤りの気持ちが湧いてき
た。なんであんな禿バーコードの言いなりにならなけ
ればならないのか。あの禿は私の意思を一体確認した
ことあるのか。人の気持ちを確かめもせず勝手に決め
つけておいて、女の方が乗り気だからうまくいくに違
いない縁談だと勝手に了解してしまっている。誤解し
ているのである。いや誤解ではないかもないかもしれ
ない。私の煮え切らない性格を見抜いて強引にやって
も流されてずるずると結婚まで至ってしまう意志のな
い人間と見做して、とにかく縁談をまとめ上げ、両家
の親からは感謝され、謝礼をガッポリ懐に入れること
しか考えていないのだろう。だとすればますます憤ろ
しい。そんな利得優先、人の人生も考えない中国式オ
ヤジはぺしゃんこにしてやらなければならない。
私は母の従弟に樋口氏が少々強引に事を進め過ぎて
私の気持ちが蔑ろにされていることを訴えた。
「ホントかな。それは知らんかった。すまんかったな
ぁ。嫌な思いをさせてまった。ほんならおじさんの方
からあいつには言っとくで。ムリして付き合ってもあ
かんでね。あんたの気持ちが一番やで。わかった。言
っとく」
禿頭に同調してまた説教でも食らうのかと覚悟して
いたが、案外すんなりと了解してもらえた。
「義男さがうまいこと話してくれたらしい」
母から伝え聞いた話では、義男さは気の置けない友
人である樋口氏に遠慮会釈なくその強引な縁談まとめ
の遣り口に苦言を呈した。
「なんじゃ、おめえは、当人の気持ちも確認せんとむ
ちゃむちゃ勝手に話進めとるらしいな。頭抱えて悩ん
でまっとるやねぇか。ほんな遣り方はねぇやろ。気持
ちが一番大事なデリケートなもんなんやで」
「そんなことねぇて。ちゃんと確認しながらやっとる
て。よっちゃんの親戚の子もまた会いてぇて言ったし
な。確かめながらやっとるて。当たり前の話やねぇか」
「強引に言わせとるだけやろ。おめえが強引に言うも
んで本心も出せんと苦しんどるんや。そんな風で話進
めても、どっかで破綻してまうわ。おめえ、金儲けで
やっとるやろ」
「なぁ〜にを言っとるッ。そんなことねぇて。一つで
も縁談をまとめて喜んでまいてぇと思ってボランテア
でやっとるんや」
「ボランテア？ウソこけ。おめぇ謝礼をたんまり取っ
とるくせして、よう言えるな。仲人もして一回で二十
万くれぇもらっとるんやろ」
「そらまあ、どうしても受け取ってくれっていわれり
ゃあ、貰わんわけにもいかん時もある」
「それみろ。もらっとるやねぇか。ボランテアとか言
うな」
「ボランテアの時もある。前にあった」
「とにかく、今回の話はなかったことにしてくれ。こ
っちの方で全然乗り気やないらしいで。うまいこと言
って断ってくれ」
そんなやり取りがあったらしい。話はそれで終わり
になった。
ところが、樋口氏またひと月もしないうちに話を持
ってきた。それが、私の心をとらえてしまった写真の
入った封筒だった。
「そんな若いきれいな子があんたのようなおじさんを
相手にくれるんかね。他の男がほっとかんやろ」
母の言い分ももっともである。これほどの若い妙齢
の女が見合いで相手を探すとは思われなかった。言い
寄ってくる男はあまたいるはずである。ひどい失恋を
してヤケッぱちになっているとか、他に好きな男がい
るが、厳しい親から不本意な見合いをさせられている
とか、そういう訳アリかもしれないことは私も予想で
きた。
しかし、それにしても美しい。吸い込まれるような
瞳、ふくよかな顔立ち、豊かな身体、長い髪、十人中、
十人の男がお見合いしたいと思うはずである。とうと
う私にも理想の女性が巡ってきたのかとハイな気分に
ならざるを得なかった。何度封筒から写真を取り出し
てつくづく見入ったかしれない。
身上書も幾たびか読み返した。名前は、後藤彩美、
年齢二十八歳、十月生まれの天秤座、血液型Ａ型、趣
味・特技は編み物、料理、古跡巡りと書いてある。県
内で二番目くらいの私立高校の商業科を卒業して、清
掃用具とドーナッツを売る会社の事務をやっている。
日商簿記２級の資格を持っている。パソコン検定、英
検の３級に合格している。真面目に高校生活を送った
ことがこれでわかる。古跡巡りが趣味とは外見からは
想像がつかないが、地味で古風な性格なのかもしれな
い。海外旅行などと書いてあるより余程いい。そして
なんといっても、趣味・特技の筆頭が編み物、そして
料理が書いてあるのが、男をこれほど喜ばせるものは
ない。家庭的な女はいい。しかも、これだけの美貌を
備えている。少々不器用でも非家庭的でも許されるが、
編み物、料理が趣味・特技とはなんと奥ゆかしい女だ
ろう。今すぐでも結婚してほしくなる。会ってその日
のうちにプロポーズしてもいい。あのバーコード禿の
樋口氏がよくもこういう相手をさがしてきてくれたも
のだ。
そんなことで、私はお見合いの日まで天に昇るよう
な幸せな気持ちで、設定されたお見合いの日を待った
のである。
心の中に広がる温かい幸福な恋の予感は的中した。
これまで数限りなくしたお見合いの相手は「彩美さん」
を迎えるための踏み台だった。プロムナードだった。
待てば海路の日和あり、石の上にも三年、苦節十年だ
った。
写真を日課のように毎日見つめ呟いた。
「彩美さん。僕はあなたを待っていた。僕はあなたと
結婚する。僕たちは赤い糸でつながれていたんだ。や
っと巡り合えた運命の人はあなただ。彩美さんだ」
当日は入念に髪を洗い、トリートメントもしっかり
やり、髭を剃り、歯を丹念に磨いた。鏡を合わせて後
頭部もチェックした。スーツは一着しかないので仕方
ないが、ネクタイは一番新しいシルク百％、フェラガ
モの茶色の斜め縞模様のをつける。展開によっては下
着を見られることにもなると考えて、勝負パンツとし
てビトーンズのボクサーパンツを履いた。これでほぼ
完璧だと思った。身上書は暗記するくらいに読み込ん
でいる。こちらの話をしながらさりげなく相手の趣味
や日常のことを聞いていけば話題に困ることはない。
これまでのお見合いだとホテルのロビーで待ち合わ
せ、仲介人の世話焼き女がついてきて、手土産を渡し、
御茶代はすべてこちらが負担して、面倒が多かったが、
バーコード樋口氏が反省し、気を利かせ、当人たちが
お互いの家からの中間地点辺りにある喫茶店で会うこ
とになっていた。
十分前に着いた。
これまでだと、その気がないことを露骨に示すため、
ぎりぎりか少し遅れて到着し、世話焼きばあさんから
叱られたこともあった。しかし、今日は違った。やる
気はみなぎっている。早く会いたい。足元を見られて
も構わない。女に飢えていると思われても構わない。
会いたい気持ちがイッパイであることをむしろ大宣伝
したい。早く着きすぎたと思って車の中で待つような
ことはせず、すぐに店に入った。まだ来ていないと思
ったが、独りで黄昏たように座っている若い女性が数
人いた。中には煙草をくゆらせているギャル風の女も
いた。
「あれはちがう」
白い帽子が目印と樋口氏は言っていた。すると窓際
にアンゴラの混じったふわふわの白いベレー帽を被っ
た美人がいた。アイドル、いやモデルにも見えたが、
きょろきょろしている私と目を合わせると軽く会釈し
ている。写真のイメージより目元がきついと思ったが
まぎれもなくこの人が後藤彩美さんだろう。
「後藤さん、ですか？」
すると美人は立ち上がって
「後藤彩美です。大洞さんですか？」
「大洞です。初めまして」
「ああ、よかった。わからなかったらどうしようかと
思いました。あ、スイマセン」
そうして私と後藤彩美は一時間半に渡って忌憚なく
お互いのことを語り、確かめることができた。
私としてはとにかく美人なので見ているだけで飽きな
かったし、それで会話などは二の次で美人と相対して
いることがとにかく幸福だった。こんな女とずっと一
緒にいられたら申し分ない。後藤は控えめで、「スイ
マセン」を口癖のように言っていた。同時に話し出し
ては「あ、すみません」と謝り、しゃべりすぎたと思
っては「すみません」と詫びた。気負ったところは少
しもなかった。
趣味・特技のことを尋ねた。
「あ、あれは書けといわれて書いただけで、ほとんど
ウソです」
「え、そうなんですか？」
私は笑って聞き返した。
「はい。料理は好きですが、得意ではありませんし、
編み物も前に少し習っただけですし、古跡巡りなんて
やったことありません。私、何もありませんて言った
ら、それはまずいだろうと言われたので、あんなこと
を書いてしまいました。スイマセン」
「そんなこと言っちゃっていいんですか」
「隠したっていつかバレますし、かまいません。本当
の私を早く知ってもらった方がいいと思いますし」
「検定はどうなんです。簿記とかパソコンとか」
「あれは本当です。でも、あんなのみんな取りますか
ら。いばれるようなもんじゃありません。猫も杓子も」
店内にはバロック音楽が静かに流れていた。天井が
高く木組みが見える。
「休みの日はどうしてるんですか？」
「小学生の姪が遊びに来てマインクラフトを一緒にや
ってます。三代目ジェイソウルブラザーズにも二人で
ハマッて、ライブに一緒に行きました。私は頭が小学
生レベルで大人の友達より小学生の姪といる方が楽し
くて、姪も私を叔母さんというか、友達よりもレベル
の低い変な大人だと思っているみたいで気が合ってま
す。あ、スミマセン」
少し離れた席に座っていたギャル風の女のところに
パンク・ファッションの男やってきて、「マジか」「
ヤベーよ」「ウケるー」というフレーズが繰り返し聞
こえてきた。この席では「あ、すみません」がリピー
トされている。
「仕事はどうなんですか」
「仕事ですか。職場の上司は私のことを潤滑油だと言
ってます。何のことかよくわからなかったのですが、
私がいると職場のギスギスした人間関係がスムーズに
いくようになるらしいです。要するに現場の生産性に
は直接何の関わりもなく、ただ人間関係を取り持って
組織の運営を円滑にしているということで、まぁ、生
きた福利厚生というところでしょうか」
「生きた福利厚生…」
「私はコピーとるのでも、単純なパソコン作業でも、
お茶くみでも仕事はありがたく受けるのですが、私が
会社の売り上げに直接貢献することはないんです。素
晴らしい企画を打ち出すとか、営業で実績を上げると
か商品開発をするとかそんなことはありえません。そ
ういう厳しい仕事に従事する社員の心を安らかにして、
仕事に邁進しようという気力を充填するとかではなく、
ひたすら潤いを与えるんですね、まさに潤滑油の役割
なんです。それでも使ってもらえるだけでもありがた
いと思っています。従軍慰安婦といってもいいと思い
ます。あ、スミマセン」
「それはあんまりでしょう。そんなひどいことを言わ
れるんですか」
「いえ、自分でそう思っただけです」
蝶ネクタイをしたウェーターがグラスの水を注ぎに
きた。店員が去ってから私は思い切って聞いてみた。
「あなたほどの人なら会社の男がほっておかないでし
ょう。誘われるんじゃないですか、よく」
「入りたての若いころは結構誘われました。誘われた
らホイホイついて付いていって、妻子のある上司から
今日は帰さないよといわれたことがありました…」
「それで」
「それだけです。私が帰りたいですと言ったら、そう
かと言って帰してくれました」
「上司じゃなくても同年代の男から迫られたこととか
はないんですか」
「うーん、あったかなぁ。あるにはあったんですが、
誘われて食事したんですけど、私があんまりにも大食
いでいっぱい食べるので目を丸くして、それからは誘
ってもらえませんでした。私、大食い大会に時々出て、
テレビ中継にも出たことあります。ローカル番組です
けど」
「大食い大会？」
「スイマセン。なんか大洞さんだと全部正直に話した
くなりますから、話しますね。私の特技は実は料理や
手芸ではなく、大食いなんです。そんなに太ってない
ので意外でしょうけど、いくら食べても太らない体質
なんです。両親もそうです。よく食べるのに痩せてい
ます。医学的にいえば腸の吸収が弱いということです
が、とにかく食べても食べてもあまり満腹感がなくて
いくらでも胃袋の中に入っていって、吐いたりはしな
いで、下から出てくるんですけど、とにかくよく食べ
るので、私のこと化け物みたいに思ったんでしょうね。
気味悪く思われてそういう噂が広まって私は敬遠され
るようになったかもしれません」
それは私には好都合だった。どんな大食いかは知ら
ないが食費が少し嵩む程度であとは近寄ってくる害虫
をシャットアウトできる。三角関係や相手の浮気の妄
想には散々苦しめられた私としては虫のつかない女と
いうのは理想的である。これだけの美貌で他の男から
ガードする苦労がないと思うと助かる。
「あの、スイマセン。それからもう一つ言っておいた
方がいいことがあります。言っちゃっていいですか？」
「どうぞ。ちょっとやそっとのことでは驚きませんか
ら」
何を言い出すんだろう。家族か当人に前科でもある
のだろうか。病気持ちだろうか。
「えーッ、そっち系？マジッかよー、ヤベーよ、ガチ
で」
ギャル、パンクのカップルは何かの話で盛り上がっ
ていた。こちらも話が佳境に入っていた。
「あの、私、食欲もそうなんですけど、アッチの欲望
も異常に強いんです、あ、言っちゃった、スイマセン」
「アッチ、と言うと睡眠欲ではなく、セイヨク、とい
うことですか？」
「はい…。スイマセンッ」
性欲が強い。淫乱ということか。どの程度強いのだ
ろう。性欲を競うような大会は聞いたことがない。
「性欲はないと困るもので健全な証拠ですが、度が過
ぎているということですか？」
「そうです。スイマセンッ」
「どうして度がすぎているとわかったんですか？」
「知り合いの人に聞いても私のようなケースはほとん
どないからです。食欲にしてもそうですが、私の体は
普通ではないことはわかってますから、そんなにショ
ックでもないですが、自分でもほとほと困り果てて、
お寺に相談に言ったことがあります」
「お寺に？…精神科医とか泌尿器科じゃなくて」
「そうです。お寺のお尚さまに相談に行きました。病
気も治してしまう偉いお坊さんだと聞いてましたから。
そうしたら、大洞さんが今おっしゃったように性欲は
健全なことであるばかりでなく、多くの人が大好きな
ことだから、それが人並み以上に与えられたというこ
とはむしろ歓迎すべきで、風俗産業は永遠に滅びない
し、確実に儲かるし、性欲が少ないよりどれほどあり
がたいことかわからないから贅沢な悩みだと言われま
した。それからアハ〜ンからネハ〜ン（涅槃）へ、性
から聖へ意識を変えていけばよいといわれました。つ
まり、性も極めれば仏の道に至ることができるのだと
いわれました。本当に気持ちが楽になりました。それ
で今ではそれほど気にしてはいませんが、とにかく人
の十倍は強いことは確かです。変な話でホント、スイ
マセンッ」
こんな美女に毎夜迫られて一晩中求められ寝かせて
もらえないとすれば全世界の圧倒的大多数の男は羨ま
しがるだろう。その羨望の的に私はなろうとしている。
「なんかすごいことをいっぱい聞いたような気がしま
すが、正直に話してくれてありがとうございます」
「あの、私のこと嫌いになりましたか？化け物みたい
な女だと思いましたか？」
「いえ、全然。むしろ好感を持ちました。正直に話し
てもらえて嬉しかったです」
「よかったぁ」
ここで私がお付き合いしてほしい、とハッキリ言う
べきなのかなと思ったが、真ん中に入っている樋口氏
に言えばいいことだと思って控えた。
後藤彩美は自分も割り勘で払うとかなり主張したが、
私が払った。男が当然払うべきものだといわんばかり
に、礼も言わない女がいたが、この点でも彩美は奥ゆ
かしい女だった。
店を出て彩美はスズキのラパンに乗り込んだ。
「今日はありがとうございました」
彩美はシートベルトを締めながら笑顔で会釈して、
「また、よろしくお願いします」
と言った。私は彩美の車が見えなくなるまで見送っ
た。彼女もバックミラーでそれを確認していたことだ
ろう。
私は大満足して帰ってきた。私は意気揚々として天
下を取ったような気分だった。明るい未来が限りなく
広がるようだった。
しかし、結論から言うとこの縁談は破談となった。
バーコード樋口氏はまたなんとかこの縁談を成立さ
せようと奔走してくれたが、前の一件があり、心にブ
レーキがかかっていたのだろう。そして間に入ってい
る母の従弟の義男さは樋口がまた金目当てに暴走する
ことを警戒して、やり過ぎには警戒の目を光らせてい
た。
そして私は母の手前、露骨に本心は見せられず、
「どうやった、今日の人は」
と聞かれてもいつものような気のない返事をしていた。
ようやく理想の人に巡り合えた喜びをストレートに表
明すべきだった。それを、
「うーん、大食いみたいだし、どうかな、ようわから
ん」
などと言ってしまった。
「私立の高卒ではあんたに合わんかもしれんね。せめ
て四大出とらんとね」
そんなことは構わなかった。私は彩美と結婚に向か
って交際したかった。
「大食いって何ぃ。食べるのか、そんなに」
「大食い大会でテレビにも出たらしい」
「そんな娘か。そらあかんわ」
大食いで淫乱かもしれないが、そんなことは気にし
ていない。美しい彩美と私は結ばれたかった。
「まぁ、断った方がええね、それも」
違う。僕は彩美と付き合って結婚したい。
わたしはそこでそうハッキリ言うべきだった。とこ
ろが、話の流れから何も言えなかった。何も言わなく
てもまた樋口氏がうまく強引に取り計らって黙ってい
ても事は運ぶだろうと私は高を括っていた。
母は従弟に今回も倅は煮え切らない様子で、学歴も
釣り合わないし、難しいだろうという予測を伝えた。
「そうか。そんなら仕方ねえ」
と義男さも承知した。
樋口氏は頑張ってくれた。直接携帯に電話が入り、
先方は乗り気になっているので、また会う約束をして
ほしいと言った。
「今度の日曜日でいいやろ。ほんなら、十時に竹田駅
の前でどうやね。よし決まりや。あ、あんたもよかっ
たんやろ。そうやね、イヤやないね。また強引とか言
われるとあかんでね。気持ち確かめとかなあかんで」
私は日曜日の午前十時に竹田駅の前に行き、そこで
彩美を車に乗せてデートに出かけるつもりでいた。
ところがもう一人の仲介者義男さが樋口氏に破談に
してくれとハッキリ断ったことを母からわたしが聞い
たのは日曜日の午前八時のことだった。出かける準備
をしようとしたところで、寝耳に水とはこのことだっ
た。晴天の霹靂ともいえた。
義男さと樋口氏とは話が食い違っていることを巡っ
て口論となった。
「何言っとる、タワケ」
「おめえこそ糞ドダワケや」
と気の置けない仲の二人は口汚く罵り合って、お互
いの正当性を主張して譲らなかった。元をたどれば私
の優柔不断がいけない。ハッキリしないのがいけなか
った。
二人は決裂して罵詈雑言の捨て台詞を浴びせかけて
互いの電話を切った。
聞いた話によれば後藤彩美は電車に乗って十時に竹
田駅前に降り立ったが私の姿が見えない。待てど暮ら
せどやってこないので、樋口氏に確かめ、話がこじれ
ていることを聞くと泣き出したということだった。
まだ情がうつるほど付き合ったわけでもなく、泣く
ほどのことかと思ったが、私のために泣いてくれる女
がいたことは事実である。彼女は私に将来を期待した
のだろう。私もその気になったのは確かだった。
ところが普通の出会いとは異なる見合いの出会いであ
ったため、二人の仲介者が存在し、微妙な心理ややり
取りの中で二人は接点を一度持ったが、また交わるこ
とはなかった。これは宿命というしかない。運命の糸
はつながっていなかった。運命であれば、いかなる困
難をも乗り越えられたはずである。義男さも樋口氏も
踏みつけて結ばれたはずである。それができなかった
というのは、それだけの縁しかなかったのだろう。
私はそう受け止めたが、私が今一歩前へ出ていれば
また違う成り行きになったのではないかと思うと、後
悔の気持ちも多分にあるのは確かである。
たくさんした見合いの中でこの見合いだけは残念な、
後悔の念が残る見合いだった。
（了）
月刊ＷＥＢ風 ２０２１年４月号 通巻第１４５号
『風』第１２号（２０１７年２月）初出
［原稿用紙３２枚］
