最近のその男の楽しみ
大堀敏靖
男は機械には疎いほうなのであるが、パソコンを購
入して、最近家庭でもインターネットができるように
なった。線もつながっていないのに世間と通行ができ、
最新のニュースを知ることもできる。本の注文も旅の
宿も芝居のチケットも取れる。買い物もできる。タラ
バガニを注文すると三日後に届けられた。金は銀行か
ら引き落とされ、買ったという感覚もない。
男はテレビよりもパソコンに向かうことが多くなっ
た。テレビはテレビで地デジ対応の４６インチのかな
り大きなテレビを買って、頗る画面が鮮明で、かつて
初めて小学校で見せられた「サイボーグ００９」のア
ニメ映画の美しさに感動した時のその感動がよみがえ
ってきて、現実よりも美しい画像にひきつけられるが、
やがて美しい画像に反してその内容に飽きてきて、長
くみることはない。
男が夜中にいつまでも飽きることがないのは「ユー
チューブ」で過去の歌謡曲を次々に検索して聴くこと
である。あるいは誰かが投稿した懐かしい映像をみて
いると昔の気持ちがストレートに蘇ってきて知らぬ間
に戸外が白々と明けていることもある。
男が好んで見るのは松田聖子の若い頃の映像である。
松田聖子は今も現役であるが、現在の聖子にはほとん
ど興味がない。地元のシティーホテルで年末に聖子の
ディナーショが毎年開かれる。男は是非一度五、六万
出費しても行ってみたいものだと思っているが、五十
近い聖子に求めるものはデビューして連続して歌をヒ
ットさせていた頃の聖子である。昔の歌も歌ってくれ
るだろうが、成熟して、むしろ女性に彼女の支持者が
増えた聖子には男はほとんど興味がない。それは男が
男であるからである。「アイドル」の聖子を愛してい
る。「ユーチューブ」で検索するといつでも昔の聖子
が見られる。
松田聖子がデビューしたのは男が東京の大学に入学
した年である。本当は九州の久留米から出てきた気の
強い女なのだが、画面上ではよく泣いていた。その割
りに涙がでていないと批判されていた。男は自分が聖
子と同じ東京にいることが得意であった。本屋で立ち
読みをして、聖子が原宿のラフォーレや新宿の伊勢丹
で買い物をすると知り、休日になるとラフォーレ原宿
や新宿伊勢丹に出かけて、アイドルと場の共有をする
快感に浸ったりした。大学の友人が、ある会合でアイ
ドル歌手数名が余興にやってきてその中に聖子もいて、
握手をすることができたと言った。その時聖子は歯に
矯正の金具を入れていたと聞いた。そういえば歯並び
が少し歪んでいた。また別の知人がたまたま街を歩い
ていたら着物を着た聖子がＣＭの撮影をしていたと聞
いた。その友人は聖子になど興味はなかったので通り
過ぎたと言った。男は地団太踏んで悔しがった。
生の聖子に会いたい。どうすればよいかと男は考え
た。男は聖子と会うにはコンサートにいくしかないと
考えた。新宿コマ劇場で夏に行われるコンサートのチ
ケットが売り出されることを「ぴあ」で知った。売り
出しの日に買いに行かなければよい席は入手できない。
しかし、折悪しくその日は男の前期試験が三つある日
だった。試験が終ったころ行っても人気のある聖子の
チケットはすでに完売か、二階の最後列の席しか残っ
ていないだろう。聖子に会うことしか頭になかった男
は三つの選択肢を考えた。①あきらめる、②試験を放
棄する、③誰かに買ってきてもらう、男は自分のこと
を最優先して人を利用してでも思いをとげようと考え
た。見海堂という同郷の後輩がいた。見海堂に買いに
行かせればよい。男は「あとで礼をするから」と言い
含めて見海堂を使い走り( パシリ) に走らせた。「わ
かりやした、先輩」みたいなことを言って見海堂は高
田馬場に向かって走っていった。
試験を終えてラウンジで煙草を吹かしていると見海
堂が息を切らして「ここにいたんですか」といって聖
子のチケットを差し出した。「苦労しました」と言っ
た。見海堂が新宿コマに到着した時すでに聖子ファン
の若者の長蛇の列ができていた。並ぶこと三時間。と
ころが見海堂の十人ほど前でチケットは売切れてしま
った。先輩に対して申し訳が立たないと思った見海堂
は売り場の売り子に懇願して一枚でいいからなんとか
してくれないかと頼みこんだ。「もう売れ切れました
から」としか言われなかった。その時、見海堂の肩を
チョンチョンと指で突くものがあった。振り向くとリ
ーゼントで髪をびっちりと固めたツッパリ風の兄ちゃ
んだった。見海堂は撲られるのかと思い身構えたが、
目は意外と優しかった。チケットを差し出して、
「よかったら、これ売りますよ」
「えっ」
「そのままの値段でいいっスよ」
「でも、いいんですか」
「余計に買ったから、ツレが行くかどうかもわかんな
いっスから、どうぞ」
見海堂は、渡りに船、助かったと思った。まるで天
使ではないか。人はみかけで判断してはいけない。
「ま、そうして手に入れてきたんです」
男は申し訳ないと思い、見海堂を居酒屋に連れて行
き酒を飲まして労をねぎらった。
男はそうして手に入れた「聖子・イン・サマーコン
サート」のチケットを大事に机の中に保管し、時々出
してはニヤニヤしながらその字面を見つめて華やかな
ステージを空想するのだった。
コンサートは八月の初旬だった。男は数日前から田
舎に帰省していた。コンサート当日新幹線で東京に戻
り、夕方六時半開演のコンサートを観ることにしてい
た。当日午前九時に名古屋からひかりに乗った。普通
二時間で東京に着く。ところがその日は前線と台風の
影響で雨が烈しく、車軸を流すような雨が新幹線車両
の屋根を叩いた。田や畑が一面水浸しとなり、集中豪
雨は新幹線の速度を緩めた。さらに途中駅で運転を見
合わせて停車したままとなった。東京到着の予定の十
一時を過ぎてもまだ豊橋だった。しかし、コンサート
まではまだ七時間以上ある。間に合わないなんてこと
はまさかありえないと男は思った。動かない新幹線に
乗っているのは苦痛だった。車中の人は一様に不機嫌
に目を閉じている。アナウンスが入る。
「本日は集中豪雨のため列車が遅れましてご迷惑をお
かけしております。ただ今運転を見合わせております。
浜松付近で非常に烈しい雨のため線路が冠水しており
ます。今しばらくお待ちください」
これはかなりかかるかもしれない。天気は西から東
へ動いていく。要するに悪天候と同じ向きに移動して
いることになる。思い切りスピードを出して天気を追
い抜いてしまうか、しばらく待ってなおかつのろのろ
走って天気に道を譲るかである。
ところがこの新幹線は後者を選択してしまったので
ある。午後三時になってもまだ静岡にも至っていなか
った。男の心にあせりが出てきた。もしかして間に合
わないのではないか。いやまだ開演まで三時間ある。
まともな速度になれば一時間でいけるのだ。しかし、
雨は依然として烈しくひかり号はのろのろと走り続け
ては、停車を繰り返した。午後五時になっても三島だ
った。あと一時間。結局、まともな速度になったのは
横浜を過ぎた頃だった。東京到着は実に午後八時だっ
た。男は十一時間新幹線の車両に閉じ込められ、天気
は回復していたが聖子のコンサートは終りかけていた。
男が急いで中央線快速に乗って、歌舞伎町までダッシ
ュしても、コンサートの熱気に上気して会場から出て
くる聖子ファンに出くわすだけだろう。
男は考えた。どうしてこんなことになってしまうの
だろうか。山手線で憮然として腕組みをし、つらつら
考えるにそもそもチケットの入手からして阻害要因が
多かった。前期試験、売り切れ、そして集中豪雨。お
そらく天が聖子に会わせることを拒んでいたのだろう。
しかし何ゆえ拒まれねばならぬのだろうか。後輩をパ
シリに使った罰だろうか。しかし、酒を飲まして償っ
ている。見海堂は確かに授業を休んで男のためにひと
肌脱いでくれた。悪いことをしたと思う。その贖罪意
識からこうなってしまうのだろうか。男は考えてもわ
からなくなり、とにかく悔しいことは確かで、仕様が
ないので、高田馬場で降りると途中にあるあやしげな
書店によって卑猥本を二冊買って今夜はこれで憂さを
はらそうと考えた。結局チケットはパーになったこと
を知れば見海堂も悲しむだろう。
「コンサートはどうでした」
と見海堂はやはり数日後会ったとき訊いてきた。
「あ、よかった」
と一言言った。
男は当時放映されていたＮＨＫの歌番組「レッツゴ
ーヤング」の収録を二回見に行った。聖子が太川陽介
と司会をしていたのでそこで初めて生聖子を見ること
ができた。しかし歌は歌わなかった。コントなどをや
っていたが何千人という女子中高生の黄色い金切り声
の声援にかき消されて何を言っているかもわからず、
やけになって男も「トシちゃーん、マッチー、一本火
事のもとー」などとでたらめなことを叫んでいた。
コンサートに行けなかったことは慙愧に絶えず、とう
とうアイドルとしての聖子の生の歌は聴くことはでき
なかった。それで男はあれから約三十年経過しても初
々しい、恥らったように歌うアイドル聖子の昔の映像
を見て、過ぎし日の記憶を呼び覚まし懐旧の思いに浸
っているのである。
その映像の中に残る世界を今現実にどこかに求めて
もどこにも存在しないことは、男が学んだ大学のキャ
ンパスを卒業して二十年ぶりに歩いてみて実感した。
建物はある。創立者の銅像もある。学生もいる。しか
し、その学生はまるで入れ替わって肌はツルツルして
携帯電話を手にして仲間とコミュニケーションをとっ
ている。地方出も多かろうが、髪も服装も洗練されて
いる。昔のように髪を七三に分けて黒縁眼鏡に安手の
セーターを着たような野暮ったい学生は見当たらない。
男はそのキャンパスの光景に拒絶されているような気
持ちになり、もはや自分の来るべきところではない、
と悟ったのだった。
昔は過去の記憶は個人の記憶の中にだけあった。写
真や絵、あるいは音声でもあるにはあったが限られて
いた。ところが今はありがたい「ユーチューブ」のお
蔭で毎日いつでも懐かしい昔の映像、歌を居ながらに
して検索して取ることができる。それで夜が白々と明
けるまで懐旧の思いに浸れるだけ浸れるのはいいこと
なのだが、その世界は現実ではなく、パソコンの平面
のディスプレイの中だけに再生される世界である。そ
れはいいことはいいのだが、現実逃避ではないかと男
は考えた。過ぎた日々の幻影を追っているばかりでは
何の生産性もない。
その思いを決定的にしたのは、男が中学校時代に好
きだった天地真理の現在の映像を見てしまったときだ
った。それは恐るべき映像で、醜悪を絵に描いたとい
うか、幻滅も超越して戦慄をもたらすものだった。人
間はかくも変るものか。太ったおばさんがマイクをも
って男のような声でかつての自分の持ち歌である「恋
する夏の日」を熱唱していた。ユーモアにもならない。
公共の電波を使ってこんな醜悪なものを流していいも
のか、放送事故かと思われる身も世もないといった風
情の映像を男は見てしまった。現実を投げつけられ、
ぶつけられたようだった。「水色の恋」でデビューし、
真理ちゃんスマイルで一世を風靡した天地真理の可憐
なイメージを持っているまじめな男たちがこの映像を
見ればおそらく頭を抱えてその日一日不愉快になるで
あろう。自分の美しい過去の記憶を土足で踏みにじら
れ、汚された屈辱、それで済めばよいが、さらにこの
世の無常を感じさせさえする。「今昔物語」にどうし
ても死んでしまった好きな女のことが忘れられず、墓
を掘り返すと、腐乱して白骨化した女にうじがたかり、
頭蓋骨に髪の毛が絡んでいるのを目撃して、世の無常
を悟り出家する男の話が出てくるが、天地真理の変わ
り果てた姿を見て、出家を決意したかつての純情少年
もいるかもしれない。
男は古い歌や画像を見ると逆に陰鬱な気分になるよ
うになり、現実、いや現在と向き合わなければならな
いと考えるようになった。二十代だった頃の男は「ザ
・ベストテン」や「トップ・テン」など歌謡曲のラン
キング番組を好んでみていたので流行の歌はほとんど
知っていた。しかし、三十代からは仕事の関係で歌番
組を見なくなり、流行っている歌もわからなくなった。
国民的なアイドルも拡散して、名前だけは聞いたこと
がある程度の認識しか持たなくなった。しかし、そん
な中で今世紀に入ってからオーディション番組から選
び出され編成された「モーニング娘」という若い女の
子の集団にだけは男は興味を持った。素人っぽい野暮
ったさが残った昭和のアイドルを髣髴とさせるモーニ
ング娘の歌に男は元気になる自分を自覚した。それは
久しぶりの感覚で、彼女たちが歌う歌は精神を高揚さ
せる何かがあった。男はモーニング娘のコンサート・
ライブのＤＶＤを何枚も買い込み、繰り返し再生した
モーニング娘がコントやゲームをする番組「ハロー・
モーニング」も毎週欠かさず見た。メンバーの名前も
熟知した。男が特に好きなのは加護亜衣と石川梨華だ
ったが、その他のメンバーも世間の注目を集めて自分
はアイドルなのだという自覚の元に光り輝くようなオ
ーラを放っていた。
ところがこのモーニング娘をプロデュースしている
「しゃ乱Ｑ」のつんくはこの集団を宝塚歌劇団のよう
にしたいと考えていたらしく、メンバーの増加や入れ
替えを頻繁に行った。加護亜衣や石川梨華は卒業して
しまったのである。中国人の女の子も入れた頃には、
男も世間も次第にモーニング娘から興味を失っていっ
た。「ハロー・モーニング」は放映されなくなった。
今はモーニング娘に代って、かつて「おニャン子クラ
ブ」をプロデュースした秋元康による「ＡＫＢ４８」
が幅を利かせている。
男は生活の中の張りを失い、「ポストモー娘」を考
えた。ＡＫＢ４８はどうしてもその気になれなかった。
男は人の薦めもあって、「パフューム」という広島出
身の三人娘を試みた。平成のキャンディーズと言われ
ているらしい。「ポリリズム」という歌は耳にしたこ
とがあった。モー娘と同様、歌って踊って楽しませて
くれる。これはなかなかいいと思い、しばらくパフュ
ームを見たが、メンバーの名前も知らないまま、ＤＶ
Ｄはホコリをかぶるようになった。
仕事と文章の執筆、卑猥ＤＶＤにしか生活の張りを
見出せない日々が男には続いた。そこに突如として男
の心を掴むスターが出現することになる。
それはミュージシャンではない。銀幕スターの女の
子だった。コミカルな邦画が好きな男は仕事が楽にな
るとよくＤＶＤを借りに出かけた。邦画の棚に並ぶパ
ッケージの中にサックスを持ちながら飛び上がる制服
を着た女の子のＤＶＤがあった。それはかつて男がほ
のかに思いを寄せた女に横顔が似ていた。しかし、高
校生のブラスバンドの映画など興味がわかなかった男
は気にはなっても借りないでいた。しかし、そのかつ
てほのかに男が思いを寄せた女が夢に現れて、その日
一日男の心に淡い思いが広がり続けた日があったため、
男はそのＤＶＤ「スウィングガールズ」に手を伸ばし、
借りて見ることになった。主演の女優は上野樹里とい
う。東北の高校を舞台にしたコミカルな映画で、役者
たちが本当に楽器を演奏していることには好感が持て
た。この映画は日本アカデミー賞の各部門の賞を総な
めにして、上野は新人俳優賞を受賞した。男好みの飾
らないコミカルな青春映画だった。
上野樹里に注目した男はＤＶＤの棚を物色して上野
の名を探し、続いて「亀は意外と速く泳ぐ」という何
ともサイケなナンセンスコメディを観た。これもよか
った。テレビドラマにも数多く出演していることを知
り、「のだめカンタービレ」「ラストフレンズ」のＤ
ＶＤをほぼ一ヶ月かけてすべて観た。驚くべきことに
上野はコミカルとシリアスを自由にこなせる個性派の
女優だった。「のだめカンタービレ」と「ラストフレ
ンズ」では完全に人格が異なっていた。髪形が異なる
だけではなく、完全に違う人間だった。若い女の子が
ここまで演技で変れるものだろうかと男は驚いていた
が、その上野は来年のＮＨＫ大河ドラマの主役に決ま
って、男はやはりそれくらいの女優であったと納得し
た。
今人気ドラマに主演し、脚光を浴びている上野は二
十三歳という若さである。役者であるのでそれに応じ
た演技をして年齢を重ねていくものと思うが、あまり
にも強烈な女優になった場合は、原節子のごとく引退
し、一切世間には顔を出さないという手もある。夏目
雅子のように夭折して永遠に老いないという手もある。
死んでしまってはかわいそうだし、これで引退してし
まっては寂しくなってしまうが、松田聖子のようにも
天地真理のようになってもらいたくない、と男は思う。
川上貞奴のように将来は仏門にでも帰依して謎めいた
老後を送りながら、時折渋い脇役として異彩を放って
存在し続けてほしい。しかし、上野の老後のころは男
はこの世にいないだろうから、余計な心配である。
上野は少なくともあと十年くらいは活躍してくれる
だろう。それを観るのが最近のその男の楽しみである。
（了)
月刊ＷＥＢ風 ２０１０年５月号 通巻第１４号
［原稿用紙・２０枚］