らあめん男 ２０
大堀敏靖
牡蠣ラーメンの磯の香とその濃厚クリーミーなスー
プ、ごわごわ食感の中太ちぢれ麺、ぷりぷりの牡蠣二
つ、カイワレ、ネギ、刻みのり、針唐辛子などを堪能
した弦と中林小拙師は、満足していた。これなら千円
出しても「拉麺食べた」という満足感がある。腹が膨
れる以上に芸術作品を味わった後のような高揚感があ
る。ラーメンに命を賭けた職人のこだわりやその心意
気が伝わってくる。初めて食べたという新鮮な感動も
ある。
何度もリピートしていればやがて飽きて来るだろう。
衝撃が強すぎると長く続かず、地味な感動ほど余韻は
続くかもしれない。しかし、人生を変えるようなイン
パクトのある作品に出会ってその後もハマり続けると
いうことはある。
小拙師も弦もスープまですべて平らげて、器の底に
書かれた「完食感謝。魚々！」の文字を見ていた。
「クセになるかもしれません。いいものに出会ったっ
て感じです。名古屋の深さをまた知りました」
「名古屋がオリジナルではないですが、名古屋の店で
あることは確かです」
その時、チャイムが鳴って若い女性三人の来店があ
った。また「いらっしゃいませ。ギョギョ」とお決ま
りの店員の出迎えが店内に響いた。
「え、ナニナニ」
「マジで。ヤバーい」
「チョー受けるんですけど」
若い女性特有の話し方をしていた。
「一汁一菜の粗食が毎日の私たちにとってはこういう
シャバの味はまさに御仏からのみ恵のように感じます」
「そうですね。でも、ラーメン店に勤めて毎日ラーメ
ンを見て賄でもラーメン食べたりしている人間にして
も美味しいと感じます」
「ならよほどですね。プロの職人も唸らせる味ってい
うヤツかもしれません」
「プロの職人というにはまだ早いですが」
「今藤さんは志がありますから必ず天下に名をなすプ
ロの職人にならはると思います。行列ができる店にな
ってテレビでも紹介されるような」
「だといいんですが、まだ駆け出しでなんとも雲をつ
かむようで」
「それでいいと思います。最初はがむしゃらに進めば
いいんです。方向もはっきりわからなくてもがむしゃ
らに進んでいけばそのうち見えてくるものがあります
から」
「見えてくるもの」
「そうです。進んでいる者だけに見えてくるもので、
止まっていたり、後ろ向きになっている者には見えな
いものです。最初完全にゴールなんて見えるわけはな
いですから。遠大な目標こそ尚のことです」
「そうでしょうか。成功する人というのは、明確なビ
ジョンが見えていてそれに向かって突き進んでいると
聞いたことがあります。ゴールが見えていればそれに
向かって意識を集中してただひたすら進んでいけばい
いですからいいのですが、ゴールが見えないではどこ
に向かって意識を集中していいのかもわからず、間違
った方向、例えばゴールと反対側に進んでいるならば
ひたすら進めば進むほどゴールから遠ざかることにな
って、むしろじっとしているほうがマシということに
はなりませんか？」
「なりません」
「どうしてですか」
「じっとしていたのでは何も変わらないし、わからな
いからです。間違った方向に進んでいたとしても動い
ていればわかることがあります。なんかおかしい。回
りの風景や人の助言や天からの声、私たちは御仏のさ
さやきと呼んでますが聞こえてくるものです。動いて
いればこそわかってくることがあるのです。それで軌
道修正されてきます。気が付くと最短距離を突っ走っ
ていることになるのです。動いていればこそです」
「なるほど。ゴールは見えなくて不確かでもがむしゃ
らに突き進むものは幸いだということですか」
「ほんまにそうです。不思議なものでがむしゃらに頑
張ってる人は身体が磁石のようになって必要なものが
集まってくるし、協力者が出てくるものです。必ずこ
うしたいという強い意志は天や御仏に通ずるものなん
とちゃいますやろか」
「そうでしょうね。そういうものなんでしょうね。僕
はインスタント・ラーメンのような味のラーメンを作
ったらインスタント・ラーメンの味覚で育った人たち
に受けるんではないかと考えてそういうラーメン作り
を目指そうと思ったんですが、インスタント・ラーメ
ン専門店というのがすでに全国あちこちにあってイン
スタント・ラーメン通の間ではよく知られているらし
いのです。そうすると僕がインスタント・ラーメンに
近い味のラーメン店を作っても本物のインスタント・
ラーメンにはかなわないから、似非インスタント・ラ
ーメン専門店ということになってしまって、そんな店
は見向きもされないかもしれません。ストレートにイ
ンスタント・ラーメンを作ってネギや卵やチャーシュ
ーや海苔をトッピングしてあげたほうが手っ取り早い
ですからね。本物のラーメンの味を真似たインスタン
ト・ラーメンの味を、さらに真似た本格ラーメンなん
てワケわからないですからね。そんなものに飛びつく
より、インスタント・ラーメンを自分で拵えた方が安
上がりですからね」
弦はつい熱く語ってしまう。
「今藤さん、ラーメンとなるとやっぱり熱がはいりま
すね。そういうところ好きです。人が自分のハマって
いることに熱くなって語るのはいいですねぇ。私も仏
教について熱く語る人間になりたいと思います。いま
のところ仏教よりＫＹＴのアヤナちゃんですが」
そのとき弦たちの座るカウンター席の後ろのテーブ
ルに座った三人の若い女性客の空気が一瞬固まったよ
うに感じた。笑いさんざめいていた話し声がピタリと
静まった。
弦はなんとなく後ろを振り向いてそれを確かめた。
二人が手を口に当ててくすくす笑っていた。一人が気
まずいような顔をしていて振り向いた弦と目線が合っ
た。美しい顔立ちの娘だった。学生かもしれない。大
学の何かのサークルの友達同士かもしれない。
小拙師は後ろの女の子たちには気づかず話し続けた。
「握手会に行くべきですかね、私は。どう思います」
「え。握手会？そりゃ行くべきですよ。行かない理由
がありません。心の中では行きたいと思ってこだわっ
ているわけですから素直に行けばいいと思います」
「でもなー。坂本彩菜さんと私がこう、握手するなん
て考えただけでも天地がひっくりかえってまうような
驚天動地の世界やからなー。そんなことしてええんや
ろか。御仏は許してくれるんやろか」
大きな声で嘆息するので、また背後で忍び笑いをす
る気配がした。坊さんが握手会などと言っていること
が若い学生たちには余程奇異で可笑しいのだろう。
またふと弦が振り向くと三人のうちの二人が弦と目
を合わせ、反対側に座った一人を指さしてアピールし
ていた。そういえばこの娘たちはどこかで見たような
気がする。指をさしている二人は帽子を被っているし、
指を指されている方は大きな伊達めがねをかけている。
もしかして、「麺屋やまと」の行列の中で星野源の「
恋」ダンスを踊ってくれた娘たちだろうか。一緒に踊
って上気した中で顔を確かめたので記憶している。か
わいい子たちだったがここにいる子たちはちょっと違
う。独特の華やかなオーラが出ている。それにその子
たちなら手を振るはずである。「あの時のやまとの店
員さんですよね」などと声をかけてくれるはずである。
二人はもう一人を指さしながら何か唇を動かしてい
る。また弦には先ほどの美和のように「ラーメン」と
言っているようにも思える。しかし、「ラーメン」に
しては短か過ぎる。刻んだ三文字のように思える。ど
うも「ア・ヤ・ナ」と言っているように思える。
「うーん。行くべきなんでしょうね。このままこうい
う気持ちを引きずっていても埒があきまへんもんなー。
やけど、考えただけでどぎまぎして、おしっこなんか
もらしたら恥ずかしいし、上ずってしまって、わわわ
わわ、くらいしか言えんやろな。大好きです。応援し
てます。ガンバッテください。それくらいは言わんと
あかんのやけど言えんやろなぁ」
小拙師は呟き続けている。また女子たちは口に手を
当てて忍び笑いをしている。この子たちは何なのだろ
う。指をさされている子は「アヤナ」という同名なの
でそれが可笑しいのだろうか。
また振り向くと今度は二人が「○・○・○・○」と
四文字を刻んで訴えていた。今度こそ「ラ・ア・メ・
ン」だろうかと思った。いや違う。オ段の音のような
唇である。どうやら「ホ・ン・モ・ノ」と訴えている
ようだ。「ホンモノ」とは何か。本物？そのとき弦は
ようやく理解できた。そこにいるのはＫＹＴのホンモ
ノ坂本彩菜なのだ。
「え、本物のア・ヤ・ナ？」
弦が伊達メガネの子を指さしてやはり唇だけで尋ね
ると二人は大きく頷いた。
「えッ！」
弦は驚愕して目を丸くした。そして前を見たまま呟
き続けている小拙師の肩を軽く叩いた。
「いますよ」
「え？」
「後ろにいます」
「だれが？」
「アヤナさん」
途端に小拙師の顔がフリーズした。
そして顔はそのままで小拙師はさっと後ろを振り向
く。
三人の女の子たちが手を振る。
「ああッ…。ウソや」
事態が飲み込めず信じられないようだ。
「たぶん仏さまの計らいだと思いますよ。会いたい気
持ちが通じたんでしょう」
「なんで？…信じられない…。ナーニャ、ゆうみょん
もいる。なんで？これは夢か？」
「私たちナゴヤドームでコンサートがあって名古屋に
来たんですが、三人ともラーメン大好き人間で名古屋
に来るたびにここに来ます。アヤナちゃん推しなんで
すね」
小拙師が呆然としているので弦が、
「きかれてますよ、和尚」
小拙は呆然として頷くだけである。
「アヤ、票、獲得できるで。チャンスや。握手せな」
坂本彩菜が席を立ち小拙師に近づいてくる。小拙師
はなおも事態がのみ込めず呆然としている。
「坂本彩菜ですー。私のこと推してくださるんですか？
ありがとうございますー。応援よろしくお願いします
ー。握手いいですかぁ？」
「わ、わたしは京都永久寺の一介の僧、小拙…。推し
メンはアヤナさん…」
「ありがとうございますー。あの、永久寺って京都駅
のすぐ近くですよね。私、実家がそのすぐ近くですか
らお参りに行ったことありますー」
きらきら目を輝かせてまっすぐに小拙を見て話しか
けてくる。
「そ、それは、知ってます。何かで読みました。それ
で親近感が湧いて…」
「そういえばお見掛けしたような気がします。もしか
していつも受付にいてはった人やないですか」
「受付？はい。たぶん私です。お参りしていただいて
たんですか。実家がすぐ近くで…」
「おばあちゃんが熱心に永久寺さんを信じてますから
小さい時からお参りといったら永久寺さんでした。い
やあ、そこのお坊さんに私を推してくれはる人がいた
なんて幸せです」
「よかったナ、アヤ。そこの信者さんはがっつりアヤ
推しにもってけれるで。一万票は獲得や」
「そんなぁ。私、総選挙のためにそんなこと言ってる
んじゃないですから。ホントのこと言ってるだけです
から」
「アヤナさんはピュアな人で、選挙のためにファンに
媚を売るような人ではないです。私が受付にいたこと
も事実です。信じています…」
「おおきにー。京都からわざわざここへ食べに来はる
んですかー」
「ここは初めてです。実はナゴヤドームの帰りで…」
「え、私たちのコンサートに来てはったんですか？」
「そ、そうです。すばらしいコンサートでした。アヤ
ナさんソロで歌ってましたね。ステキでした…」
しっかり会話しているではないかと弦は思った。緊
張して失禁するとかよだれを垂れ流すとかもなく、フ
ツーに会話している。
「ありがとうございますー。初めてでわたし、緊張し
てたんです。声が震えてしまってみっともなかったと
思います」
「全然気づきません。あんな大きなドーム会場の大音
響の中ですからわかりません…」
「でもあのときドームが静まって私にスポットライト
が当てられてましたから、みんなと一緒に歌ったり踊
ったりの時とは違いました。でも褒めていただいてう
れしいです。握手していただけますか。初めてですよ
ね、私と握手？」
「そうですが。え、握手した人みんなの顔、覚えてる
んですか？」
「覚えてますよ。わざわざ私と握手をするために来て
いただいたファンの方の顔と声と名乗られる方は名前
と絶対に忘れません」
「すごいなぁ。ＡＩよりすごい…」
「ＡＩにはかないません。あの、実を言うとこっそり
ビデオ撮っていて後から何回も見て覚えてるんです」
「アヤ。それ言っちゃあダメだよ。支配人に怒られる
で」
「あ、大丈夫です。私は人に言いませんから…」
小拙師が言う。
「そんなことネットの中ではすでに広まってるから。
今更隠したって」
「ビデオ撮ってリピートするのもファンに対する熱意
の表れですよ…」
「ありがとうございますー」
さっと坂本彩菜が手を差し出した。
「今ラーメン食べた手で、ちょっとスープがついてる
かもしれないんで…」
「大丈夫です。私たちも同じものを食べますから」
「ホンマにですか。こんなとこでアヤさんと握手する
ことになるとは思いませんでした」
小拙師はなかなか握手をしようとしない。
「プライベートですけどホンマええんですか…」
「握手なんて減るもんじゃないですし。それにコンサ
ート来ていただいた方ですし、実家の近くのお坊様で
すし、感謝の意味もこめて握手してくださいッ」
「ちがうて。アヤちゃん、その人はコロナ気にしては
るんやて。握手したらあかん。グーでタッチや」
「ち、違います。コロナやなんて。アヤナさんのコロ
ナやったら喜んで…」
「ウチらコロナなんてもってへんけどな」
星のマークのついた帽子を被った子が不服そうに言
った。
「わかりました。じゃ、お手洗いでしっかり手を洗っ
てから握手しましょう。それならお互いに安心ですか
ら」
そういうとすぐに坂本彩菜はトイレの方に向かった。
「そういうことやないんやけどなぁ…」
「和尚。しっかり手を洗ってあこがれの人と握手すれ
ばそれでいいんじゃないですか」
「なんか誤解されて、私がコロナを気にする小心者の
ように思われてしまいました」
「ま、和尚、こういう時節柄仕方がないですよ。あの
子たちの握手会も最近延期が続いて再開の目途もたっ
ていないようだし」
「わかりました。手を洗ってきます。スープも少しつ
いてますし」
小拙師もトイレに向かった。すぐに坂本彩菜が戻っ
て来た。
「入り口にアルコール消毒もありましたからやってき
ました。完璧です」
「あんまりしゃべったらあかんで。唾が飛び散るから
な」
無地の野球帽の子が言った。
「やからウチら感染者やないって。なんでそこまでせ
なあかんの。黴菌あつかいやないの」
星のマークの子が反論する。
「これもファン・サービスのうちやて。思いやり」
ところが小拙師はなかなか戻って来ない。手を洗う
だけにしては遅すぎる。入念に洗っているのだろうか。
それともにわかに便意を催して用を足しているのだろ
うか。
「遅いですね。ちょっと見てきます」
弦がトイレに向かいドアを開けようとするとちょう
ど小拙師がドアを開けたため、ドアが弦の額にぶつか
った。弦は目から星が出るように衝撃を受けた。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫ですか」
弦は額に手をあてて、
「大丈夫です。あんまり遅いんで。どうしました？」
「すいません。いや、やっぱり緊張して急にお腹が痛
くなって便座に座ったんですけどオナラしか出ません
でした。お寺の公案の時でもこんなに緊張しません。
どうしたんやろ」
「アヤナさんは入り口のアルコール消毒もしたらしい
です」
「じゃ私もやります」
坂本彩菜は待っていた。アルコール消毒をして小拙
師が戻る。
坂本は小拙師をまっすぐ見て手を差し出す。
「いいですか？」
おずおずと小拙師が坂本彩菜の手に触れる。握る。
そうするとそれが定石のように坂本彩菜はもう片方の
手を重ねて小拙師の手を包み込んだ。そうすると御仏
に仕えて慈悲深い小拙師もまたもう片方の手を坂本の
手に重ねた。二人は両手で握手をする格好になった。
「ありがとうございます。私のことこれからも応援し
てください。実家に帰った時は必ず永久寺にお参りに
行きます」
坂本は小拙から片時も目線を逸らさずに話す。
「握手会ならすぐに剥がされて引き離されますけど、
こんなに長く一番あこがれのアイドルとこうして居ら
れて握手してもらってお話してもらって、またお寺に
も来ていただくつながりができて、ホンマなんていっ
たらええか、天にも上るような気持ちです。これもき
っと御仏のお計らいだと思います。ありがとうござい
ます」
握った手を離すとき、これも定石のように坂本は小
拙師の右手を名残を惜しむように一瞬強く握った。濡
れたような哀切な目線、「あなたは特別です」という
ような手の握り返しはアイドルの中でファンを獲得す
る常套手段となりつつあることを知らない小拙師でも
なかったが、実際やられてみるともうメロメロだった。
一生この子を支持したい、何か不祥事を起こして人気
が急落しても、引退しても、世間が一顧だにしなくな
っても自分はアヤナを応援し続けるんだと堅く決意せ
しめるだけの強力な何かが伝わってきた。
坂本彩菜はＫＹＴだけでなく、元締めであるＡＢＫ
の選抜メンバーにも入っているので全国区なのである。
ローカルなアイドルとは格がちがう。帽子を被った他
の二人とは見ている方向や視界が違っている。もしか
したら世界を射程に入れているかもしれない。
「プライベートなのに手を洗ってアルコール消毒まで
して握手してもらってありがとうございました。私た
ちはこれで失礼しますから、プライベートタイムをお
楽しみください」
「あ、こちらの方も握手いいですか」
坂本は額を押さえていた弦の方を向いた。よく知ら
ないが、きらきらしたアイドルで有名人なら握手して
もらって損はない。職場でも他の従業員に自慢して話
せるかもしれない。
「手を洗ってアルコール消毒してきます」
と弦が言う。
「ナーニャやゆうみょんも握手する？」
二人は顔の前で手を振って拒絶した。
「プライベートやし、ついでの握手はせーへんことに
しとる。ウチはええわ」
「ウチも」
「あの、じゃあスマホで写真撮っていいですか。こん
なチャンスはなかなかないんで」
「そうですね。じゃあみんなで撮りましょうか。店員
さんに撮ってもらいましょうか」
「いいよ。ウチが撮ったるから。店員さん忙しそうや
し」
星型のついた帽子のナーニャが言った。
弦が戻ってきて、坂本と握手をする。やはり目をじ
っと見て、両手で包み込む握手をして、離すときはぎ
ゅっと握り返してきた。これでまたファンを一人獲得
して選挙の時は一票増えるかもしれない。
ナーニャが小拙師のスマホを構えて他の四人がポー
ズをとってフラッシュが光った。小拙師までピースサ
インをしていた。僧侶がこんなことしていていいのか
と弦は思う。日本の仏教界は限りなく柔らかくなって
しまっているのではないのか。
「気さくなお坊さん。ピースなんかしてはる」
「すいません。軽すぎて。でもすべての仏教界がこん
なんだと思わないでください。私は特別、というかウ
チの寺が特別で、ヤバいくらいにミーハーなのかもし
れません。住持からしてが寄席通いですから」
「へー、おもしろいお寺かもしれない。行ってみたい」
ナーニャが言う。
「京都駅近くやったらすぐ行けるで」
「そやな。今度三人で新曲のヒット祈願とＫＹＴの人
気がますます上がるようにお参りに行こか」
「そやな。それいいな。ご利益ありそうやし」
「ご利益あるんですよね、和尚様」
坂本が小拙師をまっすぐ見てまた尋ねる。
「あります。最近うちの永久寺は住職の話が落語みた
いにおもろいいうて参拝者が増えてます。修学旅行の
学生さんなんかもようけ来よりまして、おもろいおも
ろい、言うて帰ってかはります」
「人が集まるっていうのは勢いがあるのよね。つまり
パワースポットみたいになってるってことですよね」
「そうだと思います。人が集まるということはやはり
そこに何かがあるということです。人は明るいところ、
おもしろそうなところ、自分を受け入れてくれるよう
なところに集まります」
「それにこの和尚さん、けっこうイケメンやし、若い
女の子たちが集まりそう…」
小拙師は「イケメン」と言われて顔を赤らめた。
「そんなこと言われたのは初めてです。私は子供の頃
から勉強のよくできる優等生の姉とイケメンで女の子
たちにモテモテの弟に挟まれて、いつも頭や顔を比較
されて悔し涙に明け暮れて生きてきました。劣等感の
塊のようになって、母だけは、あんたは気立てがやさ
しい、いうて慰めてくれたんですが、父は露骨に、真
ん中はアカン、とか人に言ってましたから。私がこの
道に入ったのもここでしか生きる道はないと思ったか
らです。イケメンなんて言われたことなんか一回もあ
りません」
「そんなことないよね。シュッとした雰囲気やし、ス
キンヘッドやけどなんか色気が漂ってて、抱きしめた
くなるようなフェロモン醸し出してはるもん」
「そうや、ウチのおっぱいにそのツルツルの頭を抱え
て顔を埋めさしてあげたい」
「出た〜、ナーニャのエロ路線」
一同は笑った。
「これくらい別にエロやないで。フツーの気持ちやん
か。アヤちゃんもそう思うやろ」
「うん。思う思う」
「ほれみい。美しいお坊さんに抱かれたいとか抱きし
めて自分のもんにしてみたいとか女ならだれでも心の
奥底に願望持っとるんちゃうか。お坊さんの頭が男の
人のあれ見たいとか言ったらそれはエロやけどな」
「すいません。うちのナーニャが変なこと言って。お
酒が入ってないのにこんなこと言い出す子なんです。
グループのイメージダウンですよね。不適切な発言の
ありましたことをお詫びして訂正いたします。放送事
故でした」
「放送なんかしてへんやん。ウチ、放送しててもこれ
くらいは言うで」
「あかんて。ファンの人がおるやんか。放送と一緒や
て」
「二人とも笑ろうてはる。怒ってはらへん」
「怒ってませんけど、呆れてます」
と弦が言う。
一同がまた笑う。
「なんかイメージがだいぶん変わりました。テレビで
もトークはおもしろくて好きなんですけど、プライベ
ートだともっとおもしろいんですね。やっぱ個性的な
子たちが集まってるんですねぇ」
「いろいろ路線があってですね、アヤちゃんみたいな
正統派路線、ウチやゆうみょんみたいなぶっちゃけ路
線とかいろいろあって、…」
「ちょっと一緒にせんといて。ウチはぶっちゃけでも
あんたのようなエロやないで。すぐ下ネタに行くよう
なあんたとは一緒にされたないわ」
「なんでやの。ぶっちゃけってことは結局エロやろ。
みんなしたいんやから。したくない人なんておる？」
「程度の問題やて。あんたはそればっかやろ。うちら
は生活の中の一部や。あんたは九九％とちゃうの」
「ヒド…」
「でも、恋愛がご法度なんですよね。それってキツく
ないですか。若い女の子たちが恋愛を禁止されるなん
てことは異様なことで、歪んだ形で噴出するような気
がしますが」
弦が疑問をぶつけた。
「いい質問だと思います」
ゆうみょんが応える。
「あんなのは看板だけでもう恋愛の坩堝というか溜ま
り場みたいなもんです。どうやってわからないように
恋愛をするかという秘伝が先輩たちから伝授されて公
演や歌やダンスの練習の合間を縫って男に会いに行っ
てるんです。ヤリ手の子たちは、ですね。でも忠実に
規則を守っている子もいます。真面目な子たちですね。
優等生なんです。なんでもきちんとやって。勉強もで
きるし、生徒会長とかもやってた子もいます。でもた
いていはヤンキー崩れみたいな元ヤンの子がほとんど
で、ぱぁーっとした人気が出るのはそういう子の方が
多いんですね。時々それが発覚するのは、チクられる
のがほとんどです。人気が出てくると嫉妬からマネー
ジャーや支配人、総監督にチクったりたりして突き落
とされるんですね。それは怖いですよ。女の世界は」
「なるほど」
「妊娠して卒業していった子もいました。活動より相
手との結婚を選択する子も何人かいました。修道院の
ようなところもありますが、主に男の人たちを惹きつ
けようとしている女子集団ですから色気ナシというわ
けにはいかないですよね」
その時、そこへ頭にタオルを巻いた店員がおずおず
と割り込んできた。
「すいません。ちょっといいですか。ギョギョ」
小拙師はまた笑う。
「あの、ＫＹＴの方ですよね。すいません、サインし
ていただいてよろしかったですか。ギョギョ」
「ギョギヨ」は余計だろうと弦は思う。小拙師は笑っ
ている。メンバーの子たちは突然の闖入者に少し驚い
ている。
「店長の八窪といいますが、ＫＹＴのオタなんです」
「えー、地元名古屋拠点のＮＧＹやないんですか」
「あいつら、ガキですからダメです。鼻たれのころか
らよう知った子ばっかですから膨らむイメージがあら
せんでね。やっぱＫＹＴの子たちは千年の都京都の歴
史と伝統をバックにやってますから、はんなりとした
雅な情緒がどこかあると思います」
「はんなりした雅やて。ナーニャ」
「そうやろ。ウチは特に、はんなりキャラやてよう言
われるわ」
「どこが？どちらかというたら、げんなりキャラやろ」
ナーニャがゆうみょんの頭を平手で軽く叩いた。
「あの、ボクは特にナーニャさん推しなんです。こう
いうのはハッキリ言った方がいいと思って言いますけ
ど。それからあっちでラーメン作ってる太った男はゆ
うみょんさん推しなんです。すいません、二枚色紙も
ってきましたからサインいいですか」
小拙が坂本彩菜推しであるから、これで三人ともフ
ァンがそろったことになる。弦だけはだれ推しでもな
い。どうでもいいことである。ただここにいる子たち
は華やかで、明るい雰囲気があるし、話せばおもしろ
いし、若さの魅力もあるので中年のオヤジたちがハマ
るのも何となくわかる。
「すいません。お金出しますから色紙もう一枚ありま
すか。私はアヤさん推しですから私もサイン欲しいん
です」
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０２０年７月号 通巻第１３６号
［原稿用紙３０枚］
