らあめん男 １８
大堀敏靖
考えてみれば美和が博多からやってきて、ホテルで
カップ麺を食べるまでは二人きりだったが、その後は
姉だが兄だかわからないズンコの出現によって翻弄さ
れ、どういうわけか名古屋市長、やくざ者諸星まで絡
んできて、二人きりになる時間はなかった。美和は兄
ズンコの出現を歓迎したのか迷惑に思っているのかわ
からないが、弦と二人きりになろうと思うならば確実
に邪魔な肉親に違いない。市長、諸星に至ってはなお
さらである。
お互い明日からまた仕事で美和は新幹線に乗って帰
らなければならない。高校時代、屋上で待っていた古
谷佳純が乗り移ったのではないかと思われる美和の、
弦に向けられたこの微笑は一体何を意味するのだろう
単にラーメンがおいしいからその満足感を共有しよう
と同意を求めているだけなのか。やくざ男の諸星卓郎
がその身分にふさわしからぬ純な気持ちを表明し、恭
子さんが昔の真相を語ることで疑念が氷解して二人の
ヨリが戻るような展開になったことと、自分たちの関
係を重ねて、美和は弦に手を重ねてきたのだろうか。
いずれにしても、わざわざ新幹線に乗って博多から名
古屋にやってきて行動を共にしているのだからただの
会社の同期というわけではない。美和の弦に対する思
いは伝わってくる。弦としてもそれには何某かの形で
応えなければならない。二人きりになればもっと迫ら
れるだろう。抱きついてきたり、唇を重ねられるかも
しれない。新幹線のホームでたとえ衆目が集まろうと
も美和ならやりかねない。抱きつかれたら抱き返した
り、唇を重ねられたらこちらからも吸い付いていくか
しなければならないだろう。しかし、そういう受け身
ばかりでいいのだろうか。もっと積極的にしてくれる
ことを美和は求めているのではないか。そうしなけれ
ばやがて適齢期の美和は自分に愛想を尽かして他の男
に対象を移してしまうのではなかろうか。そんなこと
まで弦は瞬間考えていた。
高校時代とは違っていくらかは恋愛や女性との関係
も経験した弦はとりあえず、重ねられた美和の手の甲
にさらに自分の左手を重ねてこちらからも微笑した。
すると美和は「ありがとう」と声は出さずに唇を動か
すだけで礼を言って、すっと手を引っ込めた。他の人
々はこのわずかな間の二人の情交に気づかなかったよ
うである。
そのとき突然、市長のスマホの着メロが鳴った。曲
目は「津軽海峡冬景色」だった。
「もうちょっと、らしい着メロがあるんじゃないの。
何も青森くんだりの北辺の歌にしなくってもねぇ」
とズンコが文句を言うと、
「いいんじゃないの。人には好みがあるから、着メロ
の選択はその人らしさが表れると思う」
と、店長が市長を庇うように言う。
「店長は何よ」
「私？私はEXILE 。ソング・フォー・ユー」
「へー、意外」
市長は電話には出ずに切った。
「いいんですか。市長。大切な電話切っちゃって。ラ
ーメンなんかのんびり食べてたら市政が滞っちゃうん
じゃないですか」
「家内やで。出んでもええんや。はよ帰ってこい、い
うこっちゃ」
「奥さんも大事にしないと。家庭は大切だからね。い
い政治をやる人は家庭の中もしっかりしてるよ。火宅
の男では政治も炎上しちゃうからね」
「火宅の男か。そんな小説があったな」
「田（でん）和男。映画も見たし原作も読んだ。娘が
女優の田ふみ。あたし東京へ行ったとき新幹線で隣に
なったことがあってずっと話してたのよ。女優ってさ、
カメラが回ってないとイヤなヤツが多いんだけど、田
ふみは小説家の娘だけあって、話がおもしろいし、こ
んなあたしなんかにもニコニコして相手してくれた。
好感度抜群だったな。ラインも交換してくれたし、今
度食事行きましょ、って誘ってくれた。あたしのこと
も気に入ってくれたみたい。いっぺんにファンになっ
ちゃった。まだ食事には行ってないけど」
「ああ、ワシも国会議員やっとったころ一回パーティ
ーで話したことある。感じのいい人やった」
「でも言ってたわね。ある映画で監督に何度も撮り直
しさせられて、毎度ダメ出しされるんで頭にきちゃっ
て監督の飲むコーヒーに唾を入れやってそれをナニゲ
に監督が飲んでいるのを見て溜飲が下がったそうよ」
「そんなひどいことをするヤツか」
「大女優ともなるとね、生半可な根性ではやっていけ
ないのよ。彼女がトイレに入っていたときに清純派女
優で通っているＫが鼻歌歌いながら入ってきてまさか
彼女がいるとは知らずにドアの閉まる音の後、大きな
長いオナラが何度も聞こえてきたことも教えてくれた。
ホントにおもしろかった」
「イメージが狂ってくるな。当分そのイメージでＫを
見なあかんくなる。長い大きなオナラとＫが結び付い
てまう」
「オフレコだね。でも今の世の中そういうのもどんど
ん広まって拡散しちゃうから。ここで言った時点で五
人の人が知ってしまったから一人くらい口の軽い人が
いてそこから広まるでしょうね」
と、恭子さんが言った。
「一番軽いのはこの人やろ」
市長がズンコを指さして言った。
「冗談じゃないわよ。市長でしょ。だいたいラーメン
食べに来てあたしたちとこんな話をしていること自体、
庶民的とも言えるけど軽いのよ。口も軽い。なんでも
ぺらぺら余計なことまでしゃべってしまうから毎度秘
書に止められて撤回してるんじゃないの。あなたには
言われたくありません。あなたにだけは言われたくあ
りません」
「何を言うか。そもそもそんな話をこちらが聴きもせ
んのに話し出したのはおまさんやないか。ぺらぺら話
して拡散しとる張本人やないか」
また始まったと思った。
「もうよか。よかですよ。どんだけ言い合いしたら気
が済むとですか。大の大人同士がみっともなかけん」
美和が仲裁に入る。つい先ほど睨み合って収まった
ばかりだったが、もう別の話題で言い合いになってい
る。
「どうもワシがこの場におるのがあかんみたいやわ。
家内から電話掛かってきたことやし、まぁ、帰らして
もらうわ。女将ごちそう様。旨かったよ。これは皆さ
ん分のお代やで、取っといてチョ」
恭子さんは慌てた。
「要らないですよ。今日は営業じゃなくて私の奢りで
すから」
「エエて。こんな旨いもん、突然やってきて食べさせ
てもらってそのまま帰るわけにはいかんて。取っとい
てチョ」
「麺の研究途上のを出しましたから、皆さん実験台み
たいなもんです。だからいいです」
「なにぃ、スープじゃくて麺の研究か」
「そうです。製麺機で作ってるんですけど、埼玉から
取り寄せているかん水の工場まで出かけていって勉強
してきたんです」
「かん水。かん水ってよう聞くけど何や。素人の質問
で申し訳ないけど」
「かん水はつなぎの水のことだよ。そんなことも知ら
ないのか、市長は」
ズンコがたしなめる。
「つなぎは知っとるわ。やけどもかん水の正体までは
あんたも知らんやろ」
「水よ。水。小麦粉を一つにまとめてラーメンの麺ら
しくする特別な魔法の水よ」
「ほれみろ。知らんやないか」
「私も知りませんでしたけど、勉強してきて、炭酸カ
ルシウムと炭酸カリウム、リン酸二ナトリウムが主成
分のアルカリ塩溶液のことだとわかりました」
「店長すごい。化学者みたい。あたしには全然わから
ないけど、よくそんな名前覚えられたわね」
「私だって学生時代理科なんてチンプンカンプンだっ
たけど、おいしい麺のためだと思えば踏ん張らないと
いけないと思って、一所懸命説明聞いてノートにメモ
して覚えたんです。なんでもね、中国の北部の内モン
ゴルにある鹹湖（カンコ）の水を使って作った麺が中
華麺の始まりらしんですけどね」
「マンコ？」
「カンコ。塩分の多い湖のことを塩湖または鹹湖（カ
ンコ）というらしくてかん水のカンはそこから来てい
るんだと思います。その水で粉をこねるとうどんとは
違ったモッチリ感が出て、弾力のある滑らかな麺を作
ることができるのでその成分を分析するとさっき言っ
たような化学物質だったわけね。それぞれの量の違い
で麺にもまた違いが出てくるんで、麺も追究し出すと
果てしなく奥が深まってきちゃうのよね。出来合いの
麺とスープでイージーに作っている人にはわからない
奥深さとおもしろさがあるってことね」
弦は店長の恭子さんがいうことをすかさずスマホに
メモした。かん水＝炭酸カルシウム、炭酸ナトリウム、
リン酸二ナトリウム…。
恭子さんの説明によれば、かん水を多く使えば柔ら
かいちぢれ麺になり、少なめに使うと堅めのストレー
ト麺になる。柔らかいちぢれ麺はあっさりスープのラ
ーメンに向き、ストレート麺はこってりスープ向けと
いうことになる。
恭子さんはあっさりスープを追究しているのでかん
水は少なめの柔らかいちぢれ麺ということになるが、
麺は平打ちにこだわりがあるようでかん水の割合をど
うするか、また卵をつなぎに使いたいがその兼ね合い
はどうするべきかを埼玉のかん水製造業者のところま
で行ってみっちりと学んできたということである。そ
んなことをしなくてもすでに行列のできる評判の店に
なっているのに、さらなる進化を目指して研究を重ね
ていることに対して敬服に値すると弦は真に思う。弦
もそういう意識高い系のラーメン経営を目指さなけれ
ばならない。
ラーメン店の経営は味ばかりではなく、サービス内
容、店の構え、食器、システム、ＢＧＭなど無限に広
がってくるが、恭子さんは、自分は味の追究に専念し
てその他は副店長の小室に任せている。テレビ局が来
た時にトンだピエロを演じた野暮で偏屈な小室に任せ
て大丈夫かと弦は思うが、恭子さんはどういうわけか
小室に全面的な信頼を寄せているようで、小室もそれ
はわかっているので信頼に応えるように懸命に彼なり
に努力しているのだろう。客数が減るとか妙な評判が
広がっているとかいうことはなく、ますます繁盛して
いる。
「とにかく山村市長さん。今日はお代はいただきませ
んから。おいしかったとお聞きして安心しました」
「ホント、旨かったよ。ワシ、市役所の全職員に推薦
しとくで。ここのラーメンいっぺん食べてみぃて言っ
とくで。市長命令で食べにいかせるわ」
「ぜひお願いします。せっかくいいラーメンを開発し
ても宣伝しないとお客さんは来てくれないし、宣伝だ
けでも競争が激しい業界だから常に進化していかない
と正直なお客さんに飽きられて他に移られちゃいます
からね」
「大変なんやね。食べる方はこの一杯に癒されて心が
和むけどカウンターの向こう側は修羅場なんやね」
「でも楽しいですから。『おいしかったよ』『また来
るね』って一言言われると苦労も吹っ飛んで力が湧い
てきます。もっとおいしいラーメンを作って食べてい
ただこうって力が湧いてきます。それが楽しいからや
っていけるんですね」
「ホントにおいしいと思う。あたし、ここのラーメン
にハマってるからお世辞抜きでガチで旨いと思う」
とズンコも言う。
「私も兄ちゃんと同感です。博多のラーメンもおいし
いですけど、また別の名古屋的なおいしさが加味され
ていると思います。名古屋コーチン使ってますか」
「スープにはね。肉としては使ってないけど」
「チャーシューじゃなくて鶏肉を入れてもいいと思い
ます」
「岐阜の鶏（ケイ）チャンとラーメンを合体させて鶏
オンリーのラーメンでやっている店もあるわね、栄に」
「ケイチャンは旨かったな。岐阜の郡上に行ったとき
に鉄板焼きの店で出してもらったケイチャンは忘れら
れん」
市長が言う。
岐阜といえば、弦は禅寺で研修した時の中村小拙師
を思い出した。岐阜の曹洞宗の禅寺で弦のやること為
すことに文句をいう担当の若僧に腹を立ててめったに
人前では感情を出さない弦が思わず喰ってかかってし
まった時に、
「それでいいのです。あなたが出ましたね。それを忘
れないでください」と微笑しながら言ってくれた小拙
の涼やかな目が懐かしい。たびたび手紙のやり取りを
しているがまた会って話してみたいものだと弦は思っ
ている。
「それではすんません。ワシはこれで失礼します、み
なさん。女将、そんならゴチになりますで。みんなに
宣伝しときます。名古屋市長のお墨付きやったらまち
がいないでな」
市長は店を出た。
「あたしたちもそろそろ失礼しようか。あとは店長と
タクさんと水入らずでやって頂戴」
「え、アッシは何もそんなつもりで来たんじゃ…、み
なさん、いてください。恭子さんと二人きりとかは恥
ずかしくてたまりヤせんから」
「ちがう、ちがう。絶対ちがう。あたしたちはお邪魔
虫にちがいないんだから、昔話もじっくりしたいでし
ょ」
「ゆっくりしていってかまわないのよ。今日は休みだ
から」
「でも仕込みとか、麺の開発とか休みの日も忙しいん
とちげーますか」
「そんなのキリないから。今日は試食して頂いて満足
したからいいのよ」
今日の主賓はわざわざ九州からやってきた美和であ
る。美和が満足してくれれば、あとのズンコや弦、諸
星は名古屋の近辺の住人でいつでもその気になれば『
麺屋やまと』のラーメンを食べられる。弦が美和の方
を見ると微笑して頷いた。美和も明日の仕事があるの
で新幹線で帰らなければならない。
「店長。今日はありがとうございました。皆満足して
くれました。ムリ言ってすいませんでした」
「全然だいじょうぶ。市長やタクちゃんまで来てくれ
たから楽しかった」
「本当ですか。恭子さん。アッシのようなものが突然
訪ねて来て、迷惑じゃなかったんスか」
「迷惑なら、迷惑って言うわよ。私の性格知ってるで
しょ。お客さんでも迷惑な人は帰っていただいてるか
ら」
「そうっスね。またたびたびお邪魔します。恭子さん
の研究なさってる味がわかるようになるまで通わせて
いただきヤス」
「田島さんっていう常連の人みたいに先代の味と比較
して厳しいこと言ってくれる人になってほしいな。言
われるカチンとくるけど、大抵図星で、時間が経つと
そのお陰で一皮剥けたと思うことがよくあるから、ご
意見番の存在はありがたいと思えるようになってきた
の。タクちゃんもそういうお客さんになってね」
「めっそうもございやせん。アッシのような者がそん
な大それたご意見なんて言えるはずもございやせん。
ただ恭子さんの作りなすったラーメンを食べれるだけ
で幸せなんでごぜーヤス。ご意見なんてめっそうもご
ざいヤせん」
「じゃあたしがその役目を引き受けるわよ。あたしな
ら思ったことズケズケ言えるから。言いたいこと言っ
て恨まれたって平気だから。人間、結婚も家の新築も
あきらめると開き直って強くなれるんだから」
「そうなの？結婚と家の新築をあきらめると強くなれ
るもんなの？ズンコちゃんはどこに住んでるの」
「本山の古い一軒家」
「タクちゃんは」
「アッシは池下の安アパートでごぜーヤス」
「私はこの店舗の入っているビルの上の階に住んでる
けど、家の新築をあきらめればいいわけね。結婚はほ
とんどあきらめてるからいいけど、家は欲しいと思っ
てた。でもそれ以上に強くなりたいと思ってた。メン
タルにもフィジカルでも。そのカギは新築をあきらめ
ることだっていうのね。でもなぜ」
「家を建てるために忍耐していたことを忍耐しなくて
開き直ることができるからです。例えばムカつく会社
の上司に堂々とモノが言える。本心を偽らずに開陳す
ることができる。開き直った人ほど強い者はいません」
「それは言えてるわね」
「もっと突き詰めれば死を決した人が一番強いんでし
ょうね。人間が一番恐れるものを超えちゃってるから。
だから『葉隠れ』には『武士道と云うは死ぬことなり
と見つけたり』って書いてあるんでしょ。一番強くな
れる道が死ぬことだから」
「そうか。死ぬことは怖いけど、家の新築ならあきら
めることができる。強くなってもっとラーメン作りに
精を出したい。おいしいラーメンを作ってお客さんを
唸らせたい」
「もうそれは出来ていると思うけど。随分いろんなこ
とを切り捨てて、ラーメン一筋って感じで十分お強い
と思いますけど」
「まだまだ。自分が一番よく知ってる。メンタルが弱
いのよね。すぐに投げやりになっちゃうところがあっ
て。粘りが足りないんだよ」
「そうかなぁ。粘りも根性もかなりのもんだと思うけ
ど」
「全然。もっと、深いところまで行って究極の味に至
らないことには父や山田会長を超えられないよ。父や
会長は地獄も見てきたんだと思う。ぎりぎりの限界の
がけっぷちまで追い詰められてそこをなんとか切り抜
けるか、谷底まで突き落とされてそこから這い上がっ
てきたんだと思う。そういう人間の底知れない奥の深
さがラーメン作りに現われているもの。私のラーメン
なんてまだ序の口でそういう人知を絶した奥行きがま
だ出ていないから、ビギナーはごまかすことができて
も本当の通には見破られてダメ出しされているんだと
思うよ」
「自分に厳しいんだね、店長は」
弦は店長恭子さんの言うことに心打たれて感動して
いた。ラーメン作りのためにそこまで求道的になって
いるのか。これはもう禅寺の公案と同様である。答え
を求めて七転八倒のもがき苦しみを味わって高みに達
しようとしている。悟りに至ろうとしている。まさに
拉 道である。
「自分に厳しい人は人に優しくなれるって父がよく言
ってた。わたしはそういう父に育てられたから自分に
厳しくすることが習慣になってるかもしれない」
「あたしなんか、人には厳しく、自分には蜜のように
甘くなっちゃってるからね。ひどいもんよ」
「楽でいいけどね、その方が。それはズンコちゃんの
生き方だからそれに徹すればまた大したもんよ。大抵
の人は中途半端にどっちつかずだから」
「褒められたの初めて」
「兄ちゃん。もうそろそろ」
美和がなかなか立とうとしないズンコを促した。
諸星も含めて四人は立ち上がった。
「タクちゃんはいいじゃない。久しぶりだし、もっと
ゆっくりしとけば。積もる話もあるし。父ちゃんとこ
行く？」
と、恭子さんは諸星を引き留めた。
「先代のオヤジさんっスか。あー、ご無沙汰なんであ
いさつに行かないといけねぇんでごぜーヤスが、また
の機会にさしておくんなセー。今日は心の準備ができ
てヤせんから」
「心の準備なんていらないって。タクちゃんが行けば
きっと喜ぶと思うよ。タクはどうしてるかなぁ、とか
言ってよくタバコを吹かしながら目を細めてるから。
心配してるんだよ、ずっと」
諸星は驚いた顔をした。そして、みるみるその表情
が崩れてきた。
「それは本当でごぜーヤスか。…アッシなんかのこと
をオヤジさんは気にかけてくださってるんでごぜーヤ
スか…」
諸星は顔を覆って泣き始めた。
ズンコが優しく語りかける。
「ご挨拶にいったらいいよ、おやくざのタクさん。人
間の繋がりは大切にしなきゃいけないから。袖触れ合
うも他生の縁っていうからね。血はつながってなくて
も血よりも濃い繋がりってあるから。親子でも縁切っ
たり殺し合ったりしてるかと思えば、血のつながらな
い他人同士が親子以上につながっているから。こうし
てラーメンを一緒に食べたのも何かの縁だし、お世話
になったラーメン屋のオヤジさんなら、本当の父子の
ように慕っていけば先代さんもきっと喜んでくれるは
ずだから」
「そうでごぜーヤスね。わかりヤした。それならそう
させていただきヤス」
諸星は承知した。
「あんた、イカツい顔の割にはピュアね。なんかおヤ
クザさんのイメージが今日は変わったな」
「アッシは弱ぇ人間なんでごぜーヤス。イキガッてる
ようなヤツらはみんな一人になれば弱ぇヤツばかりで、
人の情けに飢えてるヤツらばかりでごぜーヤス。アッ
シはオヤジさんや恭子さんに出会うことができて救わ
れやした幸せもんでごぜーヤス」
「ズンコという名前は出てこないわね」
「ズンコさんに会えて幸せでごぜーヤス」
「そうだろ」
ズンコ、美和、弦の三人は店を出た。
日はとっぷりと暮れて辺りは暗くなり、街の店々の
ネオンが瞬いて夜の表情を見せていた。
「じゃ、駅まで送ろうか」
ズンコが言った。
「いいよ。ここで。兄ちゃんも仕事あるとやろ」
「あたしは自由出勤だから構わないのよ。久しぶりに
会った妹だからもっと優しくしてあげないといかんの
やけど、きしめん食べて、お城見て、手羽先食べて、
プラネタリウム観て、ラーメン食べたくらいの安っぽ
い歓待でごめんね」
「よか。名古屋に来れただけで満足やけん」
「今藤はどうするのよ」
「新幹線のホームまで美和さんを見送りします。会社
の同期同僚がはるばる名古屋まで来てくれたんですか
ら。ここでじゃあね、というわけにはいきませんよ」
「偉いね、あんた。こんなあたしに体型の似た妹だけ
どよろしくね。美和はあんたのことが好きみたいだか
ら、迷惑かもしれないけど、付き合ってやってね。イ
ヤならイヤとあたしを介して言ってちょうだい。ムリ
して付き合うことはないから。猪突猛進の亥年生まれ
だからこんなふうに博多から突進してくるけどイヤな
らよければいいから。まっすぐにしか進まないから」
「どげん意味たい」
「決してイヤとかムリとかありませんから。美和さん
のようなはっきりした人が僕は好きです。僕は優柔不
断なところがありますから、快刀で乱麻を断つような
人が僕としては爽快でいいんです。方向をはっきり定
めてくれる人が頼もしいんです」
「Мだ、それ。マゾッ気あるんだ今藤は。顔に美和の
おっぱいや尻を押し付けられて窒息寸前までいたぶら
れて喜ぶタイプだね。あたしのお尻だったらどう」
弦はズンコと性的交渉を持つことなど考えも及ばな
かった。心の中では今でも化けモノだと思っている。
「大丈夫です」…
ズンコはタクシーを拾って巨体を後部座席に沈める
と弦と美和に向かって人差し指を立てて振りながら街
中に消えていった。
二人は地下鉄の駅に向かって歩き出した。
「今藤さん、びっくりしたでしょう。あんな兄が私に
いることを知って」
「確かにびっくりだったね。店に来たオネエ系の人が
磯村さんの実兄だったとは驚きだった」
「オカマなんてイヤでしょ。兄を突き飛ばしたんでし
ょ。そばに寄られるのもイヤなんじやなかですか」
その通りで、女性とも見紛うくらいのきれいなオカ
マならまだしも中途半端に男が残った、しかも太った
巨体のオカマは気味悪いばかりで、それはヘビやサソ
リを嫌うのと同様だった。
「確かに偏見があって好きではなかったけど、ズンコ
さんと今日一日一緒にいて少し見方が変わったかもし
れない」
「へー、ホントですか」
「内面は女なのに肉体は男に生まれてしまった気の毒
な境涯で、カミング・アウトするまでは相当苦悩の日
々だったと思うけど、一旦開き直ってしまうと、人生
が開花したようになって、自由に生きているように見
えるね。言いたいことを言って、食べたいものを食べ
て、イヤなことはイヤとハッキリ言って、それで恨ま
れもしないで愛されているように見えるから、自由人
と言えると思うね」
「でもそれって、赤ん坊と同じです」
「そうだけど、普通の大人はできない生き方で、悲惨
な若いころの反動で思い切り自由な境地に至ることが
できたんだと思う。それはそれで意味のあることで、
赤ん坊は泣いたりおっぱいを飲んだり、寝たりしてい
るだけだけど、ズンコさんの場合、若いころ苦労した
分だけ、人の痛みもちゃんとわかって微妙な気配りを
していることがよくわかるよ」
「微妙な気配り…。本当かなぁ」
「天真爛漫でありながら、欲するところに従って矩を
踰（こ) えず、みたいなところがあると思う」
「そうかな。けっこう敵も作ってると思うけど」
「誤解されているうちわね。僕みたいに、よくわかっ
てないうちは良さがわからずにその見た目と歯に衣着
せないモノのいいように反感を持ったりされるんだと
思う」
「買い被りがかなりあると思いますけど、身内をよく
言ってもらえてうれしいです」
地下鉄に乗り込み、暗いチューブの中をゴォーと走
っていく。誰かがこれを都市の内臓だと例えていた。
消化器系の内臓の中を高速で移動するということは、
さしずめ乗客は腹を下した時の消化不良の汚物のよう
なもの（下痢糞）だろうか。
下痢糞は名古屋駅でぴたりと止まった。下痢止めが
効力を奏したのだろう。ＪＲの構内まで歩いて美和が
新幹線の切符を買うのを待つ。
サングラスをかけているので他の人々は気づいてい
ないようだったが、よくテレビドラマや映画に出演し
ている若い俳優が女性と親し気に歩いていくのに弦は
気づいた。女性は俳優に腕を回していたが、奥方では
ない。奥方は大物俳優の娘で双子の子供がいる。不倫
をしているのかもしれない。こんなのが発覚すればワ
イドショーや週刊誌は大騒ぎだろうが、弦の知ったこ
とではない。
弦はラーメン作りの技を磨いて、行列のできるラー
メン店を自分の店として経営することをめざしてラー
メン修行に専心するばかりである。
頼みもしないのに、美和は弦の入場券まで買ってき
た。
ホームに出ると美和は弦をじっと熱い目で見て、身
体を摺り寄せてくる。まったく人目など気にしていな
い。
「毎週はムリですけど毎月来ますから会ってくれます
か」
潤んだ目で言う。弦はヘビに睨まれた蛙のようにな
って動けなくなる。
美和は目を閉じて顔を近づけてくる。接吻を求めて
いるのだろう。美和の後ろに小学生の男の子がいて弦
の方をじっと見上げていた。美和は背伸びして顔を近
づけてくる。男の子は目を見開いてこちらを見ている。
躊躇している弦の頭に抱きついて美和は唇に吸い付
いて舌まで入れてきた。
驚いて弦が目を開けると小学生は、
「めっちゃエロい」と小さく叫んで家族のいる方に駆
けて行った。
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０２０年３月号 通巻第１３２号
［原稿用紙３０枚］
