らあめん男 １７
大堀敏靖
「きょ、恭子さんッ。お久しぶりでッす」
諸星卓郎は上ずった声で言った。
「タクちゃん久しぶり。掛けて」
カウンターに座る弦、美和、ズンコ、山村市長は店
長恭子さんが作ったラーメンを食べる手を止めて、入
店して来た緊張気味のやくざ風の男を一斉に見る。や
くざ風ではなく実際やくざで堅気の人間ではない。
「ラ、ラーメンをいいッスか」
「もちろん。ここはラーメン屋だから。掛けて」
男はおずおずと市長の横に座ろうとした。するとそ
の時遠慮のないズンコは言ったのである。
「イヤ、あたしやくざはイヤ。やくざとヘビと乾燥シ
イタケはダメだから」
「兄ちゃん」
妹の美和が大人気ない姉（兄) を諫める。大人気な
いというより勇気のいることである。諸星の神経をモ
ロに逆なでている。
諸星は座るのをためらった。
「ゴメンね、ズンコちゃん。この子は大丈夫よ。よく
知ってるから。先代がかわいがっていたヤンチャな子
だけど根はやさしくて寂しがり屋だから堅気の人に迷
惑をかけるようなことは一切しないから大丈夫。私が
それは請け負うから。ちょっとだけ我慢して」
すると諸星は言った。
「恭子さん。迷惑なようだったら自分、また出直して
きますから。ここの従業員の方と昨日ホテルのエレベ
ーターで一緒になって、恭子さんのことを聞いたもん
で無性に会いたくなってやってきたんですけど、また
出直してきます」
「いいのよ。ね、ズンコちゃん、こうやって気を遣う
やさしい子だからヘビみたいに嫌わないで我慢して」
「店長がそんなに言うなら…。あたしね。やくざには
ひどい目に遭わされて死ぬかと思ったことあるから、
絶対ダメなのよ。テーブルに包丁刺されて脅かされた
ことがあって、あたしは全然悪くないのよ。悪いのは
あたしが勤めていたお店のオーナーなんだけど、家賃
を滞納して逃げちゃったのよ。ひどい話ね。たまたま
店に居合わせたあたしが脅かされる破目に陥って、あ
たしはどうしようもないから親しくしている常連の社
長さんに電話して来てもらって借金を肩代わりしても
らったことがあったのよ。オシッコが少しチビッてた。
怖いと本当にオシッコチビるもんね」
「もしかしたらそれはウチの組の者かもしれやせん。
申し訳ありやせん。アッシから代わって詫びさせてい
ただきやす」
諸星が言った。
「そりゃ、家賃を滞納したそのオーナーが悪いのよ。
取り立てるのも組の人の仕事だからね。脅さないと出
さないから」
恭子さんが言った。
「とにかくあのテーブルに刺さって店の照明を照り返
していた包丁は一生忘れないわよ。映画で見るより何
百倍も凄みがあって恐ろしかった。今思い出してもオ
シッコ漏れそう」
「すいやせん。アッシの同業者が堅気さんに迷惑をお
かけしやした」
市長が口をはさむ。
「トラウマか。仕方ないけど。ムカつくことの多い中
国人や韓国人でも中にはエエ人間もおる。やくざさん
にもエエ人はおるで。神戸の震災のときに真っ先にボ
ランテア活動始めたのはやくざさんやったし。コワモ
テの顔しとっても心根はやさしい人が多いかもしれん」
「あれ、もしかしてあなたさんは市長さんでゴゼーや
すか」
諸星はそこにナニゲに市長が座っていることに驚い
た。
「そうだがね。名古屋市長の山村ですがね。今気イつ
きゃーたか」
「まさかこんなとこに市長さんがいなさるとは夢にも
思いやセンですから」
「ソリャそうだ。市長は非日常。ラーメンは日常だか
ら」
とズンコが言う。
「そんならわしは非日常が日常になっとるってことか」
やくざ男諸星はそういう複雑な言葉のやり取りには
ついていけなかった。
「タクちゃん、座って。このオカマちゃんのことは気
にしないでいいから。なんでも思ったことをそのまま
口にする子だけど、悪気はないから」
諸星はようやく固定丸椅子に腰をおちつけるが、そ
こで美和が口をはさんだ。
「それは違うと思います。いくら悪気はなくても言っ
ていいことと悪いことがありますから。兄ちゃんの言
ったことは非常識な、社会性の欠如した、人道に反す
る発言だったと私は思います」
社会性とか人道とかやはり極道の諸星にはよくわか
らなかったが、そのぽっちゃりした若い女性は自分の
ことを擁護して実の兄の非を咎めていることはなんと
なくわかった。
「よくわかりやセンが、アッシのようなもののことを
庇ってくだすってありがとうゴゼーやす」
「すみませんね。兄、というか性転換して今は姉です
けど無神経な言い方をして妹のわたしから謝らせてい
ただきます」
「ちょっと。美和。でしゃばらんでよか」
「こんヤクザさんはさっきから頭低うして控えめにさ
れとるやなかね。よか人たい。大体そんな悪か人が一
人でラーメン食べに来よらんと」
極道が単身でラーメン店の行列に並んだり、カウン
ターに座ってラーメンをすすり、スープを飲み干すこ
とはあるだろうかと弦は考えた。まず行列に並ぶこと
は考えられない。手下の者に並ばせて後で悠然と入っ
て来るか、行列ができていても店主に掛け合って「一
番に食わせろや」と強引に割り込んでしまうだろう。
カウンターに座るにしても必ず関係者を引き連れて来
るだろう。単身ラーメン店に入店する人に悪い人はい
ないと僕も思います、と言おうとすると、市長がまた
口をはさんだ。
「よっぽどラーメンが好きならやくざさんの幹部でも
来やーす。帽子かぶってマスクしてサングラスして身
分を隠してでも食べに来やーす。大体このわしがそう
やで。わしの場合は身分なんか隠さんけどな。隠す必
要もないで。このままやで」
「ち、違うんでゴゼーやす」
そのとき、また引きつった声で諸星が言った。
「アッシは確かにラーメンは好きでコゼーやす。毎日
食べても一日二食食べてもかまわねえんでゴゼーやす
が、独りでこうやってやってきたのは恭子さんにお会
いしてぇと思ったからでゴゼーやす」
やくざ男のドラマチックな告白がはじまるのかと一
同ラーメンを食べるのも忘れて諸星に注目した。
恭子さんもラーメンを作り終えて神妙な面持ちで諸
星に対している。
「そこに座っていなさる青年の方がたまたまアッシと
エレベーターで居合わせて聞けばラーメン屋に勤務さ
れているということで、さらに聞けば今池の『麺屋や
まと』に勤めてらっしゃるということで驚きやして恭
子さんが店長として頑張っていらっしゃることを聞い
たらもう矢も楯もたまらず無性にお会いしてぇと思っ
たもんですからこうやってやってきたような次第です。
アッシは本当に先代のオヤジさんにお世話になってオ
ヤジさんに声をかけていただかなければ今頃はムショ
暮らしかコンクリートで固められて海の底に沈んでた
と思いやす。どんだけ感謝しても足りねーような大恩
をこの『やまと』さんから享けてるんでゴゼーやす。
それと…」
そこで諸星は少し言い淀んだ。諸星が言い淀んだの
を潮に四人は一斉に麺をすすった。話が長くなりそう
でせっかくの麺が伸びてしまうことを四人は怖れたの
である。
「ああ、どうぞ召し上がりながらお聞きくだせえ。ア
ッシのつまらねぇ話でせっかくのラーメンが食べ時を
逃していけやせんから」
「そうね。しっかり食べながら聴くことにするから続
けてください」
ズンコも諸星の人柄が次第にわかってきて許す気に
なったようだった。
「…それと、ですね、最後に恭子さんと会った時にオ
ムライスの旨い店に入って待っている間にトイレに行
きたくなって、戻ってきたら恭子さんがいなくなって
いたんでゴゼーやす。アッシが肝心なことを言おうと
するときに便意なんか催すのがいけなかったんでゴゼ
ーやすが、わずか五分くれーの間だったと思いやすが、
なんで恭子さんはいなくなってしまったのかそこら辺
の事情をお聞きしてぇと思ったんでゴゼーやす。アッ
シみてーなやくざモンが恭子さんと対等に付き合わせ
ていただけるわけはねぇことは重々承知しとりやすが、
映画を見て食事をしていい感じの雰囲気になっていた
ところでなんで急に姿をくらましてしまわれたのか、
それをお聞きしねぇことにはアッシの気もおさまらね
ぇとこの二十年間ずっと思い続けていたんでゴゼーや
す。それで今日こうやって恥を忍んで参ったような次
第でゴゼーやす」
話が一段落したと思われるところで、また四人は一
斉に麺をすすった。市長と美和はチャーシューを弦と
ズンコはメンマも口に入れてレンゲでスープを掬って
飲む。
「タクちゃんは麺固めのチャーシュー増量でよかった
わね」
そういうと恭子さんは諸星のラーメンを作り始めた。
諸星は目を丸くして二十年も前の自分の好みをしっか
り記憶している恭子さんに感動している。
「恭子さん。…ありがとうゴゼーやす」
「ねぇ、店長。なんでいなくなっちゃったの。やっぱ
りちゃんと真相を話してくれないと収まらないわよ。
このやくざさんもそれが知りたくて来たんだから。ラ
ーメンもいいけど話してよ」
ズンコが遠慮なく言う。
「そうね」
恭子さんは器にタレを入れてから少し虚空を見つめ
た。
「ねえ、どうしていなくなっちゃったの。このやくざ
さんがイヤだったから？デートの途中でウンコにいく
なんてあまりにロマンチックの反対だったから？乙女
心を踏みにじってるもんね。その無神経に愛想が尽き
たんでしょ。そうでしょ、ね、店長」
「兄ちゃん。兄ちゃんこそ無神経やなかね。デリカシ
ーがなかと…」
「そやけん、突っ込まんとしらばっくれてなかなか言
ってくれんけんね。店長」
「二十年も前のことだからね、よく覚えてないのよ」
「でもこの人のラーメンの好みはしっかり覚えてるじ
ゃないの」
「それは仕事のことだから。他のお客さんでも顔をみ
れば麺の硬さやスープの濃さ、具材の好みもすぐに出
てくるから」
弦は流石にプロだと思った。客の数は行列ができる
くらいだからハンパではない。何千人、いや何万人の
好みをインプットしていることになる。そんなことが
自分にできるだろうか。円周率を何万桁記憶している
人がいたが、それに匹敵する。ラーメンのプロを極め
るならそのくらいにならないといけない。ラーメンに
生涯を捧げていればそれくらいのことはできてしまう
のだろう。
そこで市長がまた口をはさんだ。
「それはスゴイことだけどもね、この人の立場に立っ
てみれば自分は大勢の客の中のワンオブゼムになって、
自分の好みだけ特別に覚えててくれたわけやないと知
ればそれはおもしろないことになる。それは言っちゃ
あアカンことやないかね」
「別にかわいそうじゃないわよ。記憶していることが
事実なら仕方ないじゃないの。ワンノブゼムであって
も記憶しててくれたことは確かなんだから喜べばいい
し、そのプロ意識に徹した記憶力は称えればいいのよ」
「それは違うて。それは客観的な見方というもんで、
当人の立場に立てば自分一人が特別でありたいという
のが恋した男の男心やろ。自分はスペシャルやないと
満足できん。オネエ系のどっちかわからん人にはそこ
らへんはわからんのと違うかね」
市長の言葉は挑発的だった。
「皆さん、聞きましたか。今の完全に差別発言ですよ
ね。レッドカードですよね。『どっちかわからん人』
ってどういうことなのよ。名古屋のようなそれなりに
都会の、市長までやっている人が少数者を差別するそ
ういう発言をしていいんですか。皆さん。ちゃんと聞
きましたよね。これだけの人が証人となって訴えても
いいですけど、撤回してもらえますか、市長、今の発
言」
「何を言っとる。どこが差別や。ホンナもん、事実を
言っとるだけで、差別もへったくれもないやろ。いち
いち『差別』やとか『人権』やとか、ヒステリックに
なってまくしたてる人が最近ようおるけど、そういう
のを言葉狩りちゅうのと違うんか。昔はめくらとかち
んばとかきちがいとかフツーに使っとったけど、差別
用語やとか言って使えんようになってまった。言葉が
だんだん制限されて憲法で保障されとる言論の自由は
どうなるんやといいたいわ」
弦はまた始まったと思った。この二人は余程相性が
いいのだろう。これだけ議論ができるということは共
通の何かがない限りできるものではない。
「人権を冒してまで保障される言論の自由なんてない
のよ。自由と放縦は違う。市長のは言論の放縦ってい
うヤツで人権蹂躙に相当するんです。撤回してくださ
いッ」
こういう時仕事の場でなら、理性的な秘書がそばに
いて軌道を外れがちな市長に「ここは撤回なさってく
ださい」とそっと耳打ちするのであるが今はプライベ
ートで秘書はいない。
「撤回せんぞ。ワシはなんも悪いことなんか言っとら
ん。なんでイチイチ言いたいこと言って言葉尻捉えら
れて批判されなあかんのや。ワシは日ごろから腹に据
えかねとるもんがある。ここは徹底的に言わしてもら
うわ。『どっちかわからん人』というのは事実であっ
て差別やない。皆さんそうでしょ」
市長は周囲に同意を求めた。
やくざ男諸星は、元より撤回とか蹂躙とか放縦とか
いう難しい漢語にはついていけずナニが議論されてい
るかもよくわからなかった。自分が恭子さんに真相を
尋ねるということはどこかへ飛んでいってしまったこ
とを残念に思うだけだった。
「な、どうや、さっきから黙っとる君はどう思う。ワ
シは間違っとるか、ドーヤ」
市長が弦に振ってきた。
弦は祖父の保守的な思想的感化を受けていたため、
どちらかというと市長の肩を持ちたかったが、本心を
言ってしまってその場はいいかもしれないが、ズンコ
に後から首を絞められるのは怖かった。
「ボ、僕ですか。僕はよくわからないんですが、ＬＧ
ＢＴの人たちの人権は多くの人が理解を示していかな
いといけないと思いますし、極端な言葉狩りもどうか
と思います。ムズかしいですが、考えていかなければ
ならない問題だと思います」
偏りのない中庸な意見を述べた。
「おい、今藤。お前はＭＨＫの局アナか。当たり障り
のないこと言ってるんじゃないよ。クソのフタにもな
らない発言じゃないか」
弦は言い返すこともできずうつむくしかなかった。
「美和。お前も意見を述べなさい。妹らしくあたしを
リスペクトする意見を述べなさい」
ズンコが美和に意見を求めると、市長が抗議する。
「そういう圧力をかけるのはおかしいやないか。妹や
ろーが親子やろーが一個の独立した人格として自分の
意見を述べるのが憲法で保障された言論の自由や。オ
カマとかゲイとか身障者とかいうだけで健常者が不当
な圧力をかけられるのはまちがっとる。美和さん。そ
うは思わんか」
「じゃあいいますけど、そんなのどっちだっていいと
思います。白か黒かなんていう二律背反の議論は幼稚
な議論だということを私は大学で教わりました。世の
中白か黒かなんかで動いていません。大抵はグレーで
皆妥協したり納得したりして動いています。白か黒か
の議論は頭の中にあるだけの抽象論であってそんなの
は実際には存在しないんです。だからどっちだってい
いと思います」
「また、乱暴なことを言うじゃないか。美和、お前ど
こでそげん生意気な考え方を教えられっちゃ」
「だから大学で」
「九大か。しよーもなか。頭デッカチの口先人間を養
成しとうとよ。大学出はそやけん好かん」
「大学は関係なか。それよりも今はそんな議論じゃな
くてその方、タクさんの気持ちに応えることが大事や
なかったんですか。二人の不毛な論議よりも」
「フモウ…」
「まったくそうや。その通りや。ワシもちょっと言い
方が悪かったかもしれんが、突っかかって来たオカマ
のせいでこんな議論に変わってまったんや」
「冗談じゃないわよ。無神経発言を繰り返すカバ市長
が百倍悪かでしょうが」
「誰がカバや。バカと言われたことはあるがカバなん
て言われたことはない。デブオカマにそんなこと言わ
れたない」
ズンコは思わず手に持っていた割り箸を市長に投げ
つけた。箸は二本とも市長の顔面に命中し落下したが、
箸についていたネギが市長の鼻の頭にはりついた。
「何するッ」
鼻の頭にネギをはりつけたまま市長が丸椅子から立
ち上がった。ズンコも応じて立ち上がる。二人は睨み
合う。
「はい、そこまでそこまで。名古屋場所は夏だからね。
こんなところでお相撲とられちゃあ困ります」
恭子さんが言った。
「止めておくんなせー。ホントにすいやせん。元はと
いえばアッシのせいなんです。ケンカするのはお止め
になってくだせー」
諸星も言った。
「兄ちゃん。いい歳なんだからもうケンカっ早いのは
卒業せんと」
美和が言った。
弦は何も言わなかった。
ラーメン店を経営していれば大人しい客ばかりでは
なく、ヤンチャな客も来て、暴力沙汰になったりする
こともあるのだろう。そういう時の収め方も学ばなけ
ればならない。
「どうもアカンね。この人としゃべっとると不思議と
血の気の多かった若いころに回帰してまう。ワシも市
長までなって丸なったと思っとったんやが。ついつい
熱くなってまってすんません」
そういうと床に散乱していた箸を拾った。ズンコは
市長の鼻の頭についたネギを取り除くと丸椅子に戻っ
て座り直した。
「じゃあ、店長、話を戻しましょうよ。二十年前に。
どうしてこの人を待っていてあげなかったんですか」
恭子さんは麺をほぐして湯だった釜に入れようとし
ている。
「ねえ、店長。話してよ」
「ええ、何だっけ」
「タクさんを待っててあげなかったワケよ」
釜に入れられた麺を菜箸でかき混ぜている。
「ああ、それさっきも言ったけどよく覚えてないのよ。
二十年も前の話でしょ。タクちゃんと映画観て、それ
からお店に入ったことは覚えているけど、その後がど
うも記憶の霧の中にかすんでわからないのよ。ズンコ
ちゃんだって一週間前の朝食は何とか言われたって思
い出せないでしょ」
「それはそうだけど、平凡な朝食じゃなくて人生のエ
ポックとなるような出来事は覚えてるでしょ。卒業式
の後行った焼肉店とかファーストキスの日の天気とか、
普通覚えてるわよね」
「それは覚えててもその夜に見たテレビ番組とかまで
は覚えてないでしょ」
「それはそうね。卒業式と結びついていない記憶は忘
れてるね」
そこで弦が発言した。
「いえ、人間の脳はパソコン並みにすべてを記憶して
いるらしいです。ただ表面の意識に上ってこないだけ
で記憶の底に沈殿しているらしいです。それが何かの
拍子に、大魚が海底でうねったために海底がかき乱さ
れて沈殿物か浮遊してくるように昔の記憶が不意に蘇
って夢に出てきたりします。デジャ・ビュのようなこ
ともあります。前世の記憶までもため込んでいます」
諸星は弦の話にまったく要領を得ない顔をしていた。
「注意深く記憶をたどれば確認できるってことね。ラ
ーメン作ってるから今はそれどころじゃないけど催眠
術にかけるかして記憶をたどれば思い出すはずね」
ズンコが言った。
茹で上がった麺を金ざるで掬っている恭子さんは、
「あッ」
と小さく叫んだ。
「思い出したッ。ああ、そうだった」
「え、ナニナニ」
五人は恭子さんに注目する。
「ポケベルが鳴ったんだ。それは父からだったんだけ
ど、それで電話を掛けようと思って立ち上がった時に
ガクっとなって世の中が歪んだかと思うとコケそうに
なって手をついたのよ。その日慣れないヒールを履い
てたんだけど、安物だったんでしょうね。踵がとれち
ゃったのよ。それで乙女心にこんなところをタクちゃ
んに見られたら恥ずかしいと思って、タクちゃんがト
イレに行っているのを幸いに店をこっそり出て片方踵
の取れたアンバランスなヒールを履いたまま家に帰っ
たんだった。タクちゃんがまた店に来たら事情を説明
して謝ろうと思ってたんだけど、それっきりタクちゃ
んは来なくなって当時は携帯もなかったから連絡先も
聞いてなくてタクちゃんの来店を待つしかなかったん
だけどとうとう来てくれなかったから、私は突然いな
くなって嫌われたんだと思ってた。それからラーメン
作りに一所懸命になったんで、忘れてしまったんだと
思う。でも今思い出した。確かにそうだったよ。ごめ
んね。タクちゃん」
諸星は呆然とした表情で恭子さんを見つめていた。
そして目がうるうると潤んで感動しているようだった。
「そうだったんスか。そういうことだったんスか。そ
れならアッシが何事もなかったように来ていれば二十
年も遠慮していることなかったってことッスね」
「そうね。私もヒールが取れたくらいで帰っちゃうこ
となかったんだけど、若かったからそんな突飛なこと
してしまったんだね。ごめんなさい」
語りながらもラーメン作りの作業の手は止めず、メ
ンマや海苔と共に表面いっぱいにチャーシューが敷き
詰められて諸星のラーメンが完成した。
「うわーっ、チャーシューがイッパイ。愛情がこもっ
てる」
「愛妻ラーメンって感じや」
「まだ『妻( さい) 』ではないカナ」
「ほんでも、そういうすれ違いで分かれてまった二人
がこうして二十年ぶりに会うことができたのは縁があ
るっていうことやろうで結婚したらええ。エエ組み合
わせやと思う」
「トンデモございやせん。アッシのようなチンピラと
堅気の世界の恭子さんが対等にできるわけがございや
せん。滅相もないことでコゼーやす」
「足を洗ったらええだけや。あんたが堅気になってま
っとうな職について善良な市民になればええだけやな
いか」
「トンでもゴゼーやせん。アッシの身体には桜と竜の
入れ墨が入っておりやす。とても堅気の世界に入れて
いただくわけにはまいりやせん。アッシが望んでも恭
子さんが承知なさるはずはありやせん」
「店長。どうなの。店長もラーメンばかり作ってない
で身を固めることもしっかり考えないといけないんで
しょ。どうなのよ」
ズンコが振るとまた四人は店長に注目し、諸星だけ
は目の前に置かれたラーメンにまだ手をつけず、割り
箸を持ったまま固まっていた。
「ちょっと。どうしてこんな展開になっちゃうのよ。
私はラーメン作りと結婚したようなもんだし、こんな
おばさんになっちゃって結婚とかもう考えていないか
ら。やめてよ」
「おばさんって言ったってまだ四十そこそこやろ。ま
だイケるて。子供も産める。こないだニュースでやっ
とったがインドで七十のばあさんが出産したらしい。
四十代やったらいくらでも初産の人もおるで。それに
名古屋市としても少子高齢化になんとしても歯止めを
掛けたいで一組でもたくさんのカップルが誕生して、
一人でもたくさんの赤ん坊が産まれてほしい」
「そうよ、店長。あの、ちょっと話は変わるけど、市
長。その少子高齢化についてあたしに秘策があります」
ズンコが言った。
「秘策？」
「計画停電です。それとコンドーム販売禁止。または
不良コンドームの大量生産です」
「ホウ。それで」
「ニューヨークの大停電の翌年は出生率が上がったそ
うだから。それから性欲を持て余した二十歳前後の男
と一番性欲の激しい四十前後の女たちを裸にして一つ
部屋に放り込めば自然の成り行きで励んでくれると思
います」
「そんなことして子供ができたとしても育てれるとは
限らん」
「市がなんとかなさいよ」
「市がなんとかしてもそんな乱暴な方法で生まれた子
が幸せになれるはずないやろ。犬猫とは違うわ」
「それでも少子高齢化の歯止めにはなると思うけど」
「後々まで考えなアカンて。それだから素人は困る」
「それなら、計画停電はいいでしょ。夫婦が励むんだ
から」
「それはエエかもしれんが、停電なんかしたら困ると
こもあるやろ。病院とか夜の店とか夜間学校とか」
「そういう犠牲は目をつぶらないと何もできないんじ
ゃないですか。病院は停電から除外すればいいのよ」
「そんなこといいだしたら除外してほしいとこはいっ
ぱいあって、皆文句言い出すよ。停電したらすべての
都市機能がストップやで。そう簡単にはいかん」
「ならコンドームの販売禁止」
「製造会社が困るやろ。売れ上げがストップしてまっ
たら」
「市がその分を企業の資産に補填する」
「風俗店もあれナシでは困ると思う」
「なら不良コンドームの大量生産。穴を一部に開けと
けばその穴を掻い潜って子宮に到達する精子が出てく
る」
「だからむやみに妊娠したら困る人も出てくると言っ
とる。そんな乱暴な手っ取り早い方法で解決するなら
とっくの昔に行政が実行しとるわ」
「タクちゃん。こんな人たちの与太話に付き合ってる
ことないから食べて」
店長がいつまでもラーメンに手を付けず遠慮してい
る諸星に言った。
「すいやせん。それではいただきやす」
諸星は箸を割ると豪快に麺を掬って一気にすすった。
「その食べ方変わってないね」
「すいやせん」
「おいしい」
「おいしいッス」
「昔と比べてどう」
「全然変わってやせん」
「え、変えてるんだけど」
四人から笑いが起こった。
「アッシの舌は雑なんですいやせん。昔よりもコクが
増したような気がしやす」
「あっさりを追究したんだけどね」
また三人が笑った。
「すいやせん。おいしいことには変わりありやせん。
骨身に沁みておいしいっス」
「よかったわね。店長」
「お似合いの二人や、結婚したらエエ」
その時ふいに美和が弦の方に手を伸ばしてきて、弦
の手の甲に美和の小ぶりの手が重ねられた。
弦は驚いて美和を見ると、高校の同級生だった古谷
佳純が校舎の屋上で振り返った時と同じ微笑を弦に向
けていた。
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０００年１月号 通巻第１３０号
［原稿用紙３０枚］
