らあめん男 ９
大堀敏靖
組関係の男とエレベーターに乗り展望露天風呂があ
る大浴場へと弦は向かっていた。
「おめぇ、歳はいくつだ」
男は徐に弦に尋ねてきた。
「ボクですか、僕は三十二です」
「意外といってるじゃねえか。二十歳そこそこかと思
ったがな。仮に二和会の回しモンじゃねぇとすると仕
事は何してるんだ」
「ラーメン屋で働いてます」
「ナニ、ラーメン？」
男がラーメンに反応したようだった。
「どこのラーメン屋だ」
「今池の『麺屋やまと』です」
「ナニ、今池の…」
「はい…」
「キョウコさんとこか？」
店長は確か北野恭子とか名刺に書いてあった。
「だと思います…」
「そうか、オメエ、キョウコさんとこで勤めてるのか。
あすこの先代にオレは世話になってな。オレが若ぇこ
ろ、今池辺りの…」
男は急にしんみりして語りだしたが、チャイムが鳴
って最上階にエレベータは到着してドアが開いてしま
った。すると男は何を思ったか、矢印のお互いに向き
合った印のボタンを押して続いて数字の１を押した。
「ちょっと聞いてほしいからもう一往復するぞ。兄ち
ゃん」
弦は逆らうこともできず承諾した。拉致監禁されて
いる。
「オレがまだ跳ねっ返りだった若え頃の話だ。今池で
ヤンチャしていたオレは仲間と喧嘩してな。家も飛び
出してたし、金もねぇし、仲間とも喧嘩しちまって、
ぼこぼこに撲られてうずくまってたところを先代のオ
ヤジさんに声掛けられてな」
「先代というと今の店長の親父さんということですか」
「そういうコッタな。オヤジさんは店まで俺を連れて
ってくだすって、腹へってるかってラーメンを作って
食べさせて下すったんだ。そのラーメンのうめぇこと
はなかったぜ」
そこで男は眼鏡をとって涙を拭った。
「オヤジさんは、オレにこんこんとまじめに働くこと
の大切さや人の世のしくみみてぇなことを話してくだ
さってな。オレはヤンチャしても堅気として働くこと
の大切さはその時分かって、店で働かせてくれるよう
に頼んだんだ。しかし、オヤジさんはここで働けばオ
ヤジさんに甘えることになるからそれはできねぇって
おっしゃって今の組の親分を紹介してくだすったんだ。
オレの本性を見破ってらっしゃったんだろうな。堅気
はオレには勤まらねぇっていうな」
そういえば店の厨房の客には見えない上方の壁には
「天神軒」山田次郎会長の写真と共に小さい写真なが
ら先代の店主つまり現店主の父親の肖像が掲げてあっ
た。高齢のため働けなくなって一線を退いている。
「そうですか。それでおヤクザさんの道に」
「まぁそういうコッタ。オレはそれでもオヤジさんの
ことを父親みてぇに思ってな。本当の親父はいるんだ
けどな、水商売の母親にヤクザの親父が生ませた子供
がオレで実の父親は姿をくらましちまったんだ。ひで
ぇ話じゃねぇか。な、そう思わねぇか」
「思います」
「バカヤロー。俺の身内を悪く言うんじゃねぇ」
「すいません」
「そういう時はな、わかりませんって言え」
「わかりません」
「とにかくな、俺は『大和』のオヤジさんになついて
毎日ラーメン食べに通ったんだ。もちろん金は払った。
オヤジさんは金はいいって言って下すったんだが、組
の中で一人前にやっているからには金を払わねぇわけ
にいかねぇじゃねぇか。オレは甘えずにちゃんと金を
払って毎日通ったんだ。そしたらな…」
こんなやくざの話を延々といつまで聴かされるのだ
ろうかと弦は思った。ズンコはどうなっているのか。
磯田美和は弦を待っているだろう。
「そしたらなオヤジさんの娘のキョウコさんが時々店
に顔を見せて手伝ったりしてたんだが、このキョウコ
さんが今も美人だろうが、若えころはアイドルにして
もいいくれぇの美人でかわいい人でな、オレは身の程
もわきまえずにキョウコさんに惚れちまったんだ。そ
れでいつしか『やまと』へ通う目的はオヤジさんじゃ
なくてキョウコさんになっちまったんだ。かわいいキ
ョウコさんに会いてぇ一心でオレは『大和』に通いつ
めてしかし、こんなヤクザもんがキョウコさんに口利
くのははばかられて話しかけられずにいた。わかるか
この気持ち？」
「わかります」
「バカヤロー。おめぇなんかに分かってたまるか。堅
気のおめぇなら可能性ってもんがオレよりあるだろ。
やくざもんには堅気のお嬢さんに惚れるような資格も
ねぇんだよ」
「そんなことはないと思いますが」
「ねぇんだよ。おめぇに何がわかる」
話し方が店の副店長に似ていると弦は思った。
「そしたらな、ある日キョウコさんが毎日ラーメン食
べに通っているオレの顔を覚えてくだすって、『お客
さん、毎日ありがとうございます。これサービスです
ヨ』っておっしゃってな、餃子一皿をサービスで付け
てくだすったんだ」
「へー、餃子をですか。僕も餃子は好きです」
「バカヤロー。おめぇの好みなんかどうだっていいん
だ。オレは涙が出るくれぇうれしくてな、この親子の
ためなら命を賭けてもいいと思ったぜ。店に何か問題
が起ったら、オレが身体をはって守ろうと思った」
一体いつまでこの男の話に付き合わねばならないの
かと弦は思った。エレベーターはすでに二往復してい
る。
「あの、すいません」
「なんだ」
「上で待ってる人がいます。そろそろ降りませんか」
「バカヤロー。まだ話は終わってねえんだ。コッカラ
がクライ、クライ…」
「マックス」
「そうだ、マックスなんじゃねえか。黙って聞いてろ」
逆らえば何をされるかわからない。事務所に連れて
いかれたら殺されるかもしれない。しかしこんな男の
半生など何の興味もない。店長がこの男に対してどう
いう態度をとったかは多少興味があるが。
「キョウコさんはな、たぶんオレがキョウコさん目当
てに通っていることを気づきなさったんだろうな。迷
惑なら普通露骨に態度に現われるだろうが、オレは曲
りなりにも客だからな。それにオヤジさんから、ぼこ
ぼこに撲られてうずくまっていたオレのことを聞いて
いなすったんだろう。同情もあったかもしれない。オ
レを映画に誘ってくだすってな。要するにデートって
ヤツだ。おめぇはデートしたことあるか」
「あります」
「バカヤロー。柄にもねぇこと言うんじゃねぇ」
「ありません」
「オレはもう天にも昇る思いでな、デートの日まで夢
のような毎日を過ごしてニヤニヤ笑って仲間から気味
悪がられ、親分からもっと締めろとかいって注意され
たがな。うれしくて仕方がなかった。それでとうとう
そのデートの日がやってきた」
「天気はどうでした」
「晴れた。雲一つない秋晴れの日だった。お天道様も
オレたちを祝福していなさったんだろう。オレは一張
羅のスーツを着て、頭はポマードでべたべたに仕付け
てナナちゃん人形に向かった」
「その頃もナナちゃん人形はあったんですか」
「あった。キョウコさんは珍しくスカートをはいて髪
にリボンをつけてただでさえ可愛い人が映画のヒロイ
ンのようにかわいく美しかった。わかるか」
「わかります」
「いや、わからねぇだろ。おめぇは実際に見てねぇん
だから」
どうでもいいこんな話は早く終わってほしい。いつ
終わるんだ。
「オレたちは連れ立って映画観に入った。何観たと思
う」
わかるわけない。どうせ否定されるなら適当に言っ
てやれ。
「寅さんでしょう」
「え。おめぇ、なんでわかる？占い師か」
「いえ、ラーメン店従業員です」
「そうなんだ、『男はつらいよ 柴又純情篇』を観た
んだ。いい映画だった。笑えるし、泣けるし、キョウ
コさんも笑ったりハンカチを取り出して目に当ててい
なすった。おめぇも見たことあるか」
「ユーチューブで少し」
「なんだ、そのニューチューブってのは。映画館の名
前か」
「いえ、パソコンです」
「……。チューブとか絆創膏とかおめぇの言うことは
よくわからねぇ。とにかくオレとキョウコさんは楽し
く映画を観てだな、それから駅前の洋食の店に入った。
いい雰囲気だった」
「ラーメンじゃなくて、洋食ですか」
「そりゃそうだろ、ラーメン屋がデートでラーメン屋
に入ったら仕事の頭になっちまうだろう。仕事を忘れ
るためにもラーメンや中華ではダメなんだ。そういう
デリゲート（デリケート）な思いやりっていうもんは
おめぇにはわからねぇだろう、な、わからねぇだろ」
「はい」
五往復ほどしたときに一階でドアが開いて泊まり客
の男が乗ろうとしたが、やくざ者に睨みつけられて諦
めた。
「大正時代に開業した老舗でオムライスがうめぇ店に
入った。それでオレはここで思い切ってキョウコさん
に結婚を前提としたお付き合いをしてほしいという気
になっていた。映画に誘ってくだすったんだから、キ
ョウコさんもオレにまんざらでもねぇことは確かだと
思ったからな。男としては攻めに行ってもおかしくね
ぇと思ったんだよ。おかしくねぇだろ」
「おかしくありません」
「ホントかぁ。おめぇ、おかしいと思ってるだろ。オ
レがキョウコさんのような美人に迫るのは分不相応だ
と心の中では思ってんじゃねぇのか」
「思ってません。あなたは若いころさぞカッコよかっ
たと思います。今でもイケメンです」
「バカヤロウ。人を喜ばせるような調子いいこと言う
んじゃねぇよ。心にもねぇ。…でも、ホントにそう思
うか。思うの？そうだよな。オレもまんざらじゃねえ
よな。若ぇ頃はずいぶんと女を泣かせたもんだからよ
ぉ。年増が多かったが」
ようやく男は気づいたようだった。何もエレベータ
ーの中で話す必要なんかないことを。一階のロビーに
ソファーがある。ドアが開くと先ほどの泊り客の男が
立っていた。
「おっさん、いいぜ、乗ってくれ」
弦はズンコの所在と展望露天風呂の磯村美和のこと
が気になっている。ロビーのソファなんかに落ち着い
てしまったらどれだけ長くなるかわからない。
「そこに座れや、兄ちゃん。コーヒーでも飲むか」
「いりません」
男が睨んだ。
「あ、頂きます」
男が合図してやってきた若い従業員にコーヒー二つ
を注文する。
「あ、俺のはミルクを二つつけてくれ」
「かしこまりました。フレッシュ二つで」
「フレッシュじゃねぇ。ミルクだ。こんな簡単な英語
もわからねぇのか。それでな、オムライスが運ばれて
くる前に思い切っていってしまおうと思っていた。す
るとオレの悪い癖でな、緊張するとウンコがしたくな
る。この時もしたくなってしまって、それが第一波、
第二波と波状的に押し寄せて、次第に激しくなってく
る。正直に言ってトイレに駆け込めばいいのだが、ウ
ンコをしたいからトイレに行くなんてことは美しくて
かわいいキョウコさんに向かって言えることではない。
小便ならまだいいが」
「で、どうしました」
どうでもいいがそこは聞きたかった。
「オレは男の意地にかけてケツの穴を締めて耐えた。
狂おしいような便意の攻撃にオレの健気な肛門は耐え
ていたんだ。怒涛のように押し寄せる敵の軍勢を少数
の門番が必死に押さえて耐えているようなもんだ」
「わかりやすい例えです」
「『キョウコさん、お、オレは』と告白して結婚を前
提とした付き合いを申し込む腹だったんだが、そのと
き肛門の門番が限界の悲鳴を上げた。漏れそうになっ
たんだ。好きな人の前でクソちびってしまうのは恥か
くよりもマズいとオレは咄嗟に判断して、『お、オレ
はちょっとトイレに行ってきます』と席を立った。な
るべく平静を繕ってたんだが、角を曲がったところで
ダッシュしてベルトを緩め、トイレに駆け込んだ。と
ころがだ。何ということか、男の大便の部屋が閉まっ
ているじゃねぇか。先客がいたわけだ。ばかやろーと
オレはドアを蹴った。こんな時にクソしてんじゃねぇ
と思ってドアをガンガン叩いて先客に圧力をかけた。
したらな、やがて出てきたのは同業者だったんだ。オ
レより十は年配の若頭風の頬に傷跡のあるそれは恐ろ
し気な人だった。いきなり襟首つかまれて、『おい。
若えの。クソぐれぃお互いゆっくりしてぇじゃねぇか。
な、そうだろ』というが早ぇか下腹に思い切り蹴りを
いれられた」
ただでさえ限界の時に下腹にケリを入れられたら多
分ウンコは洩れただろうと弦は予想した。
「いや、ホントに怖ぇ人でオレはマジでビビッてしま
ったもんだからクソが腸の奥に引っ込んじまったんだ。
それからオレは三日間便秘になった」
コーヒーが運ばれてくる。
「おう、いいから遠慮せずにやってくれ」
「そういうもんですかぁ。便は引っ込むもんなんです
か」
「川の水も津波の時は逆流してさかのぼっていくみて
ぇなもんだと思う」
「なるほど。それでキョウコさんに告白できたんです
か」
「それがな。テーブルに戻るとキョウコさんはいなく
なっていた。トイレに行ったから嫌われたのか、急用
ができて帰ってしまったのか、ポケベルの時代で何度
か鳴らしたんだが返事は返ってこねぇ。オムライスが
虚しく二人分運ばれてきてオレは泣きながら二人分食
ったことを一生忘れねぇぜ」
「なんでキョウコさん、ウチの店長は帰ってしまった
んですか」
「わからねぇ。オレは嫌われたと思ってそれから『大
和』へは行ってねぇんだ。キョウコさんに迷惑かけた
くねぇしな」
「ハッキリさせた方がいいんじゃないですか」
「いや、そういうのはハッキリせずにウヤムヤの方が
いい場合もある。あれから二十年も経ってるし、済ん
だことだ。どうしていなさる、キョウコさんは」
「店長として店を切り盛りしてます。結婚はしてない
ようです」
「え、ホントか。そうかぁ。」
男にとっては嬉しい情報だっただろう。
「まだチャンスはあるってことです」
「バカヤロウ。人をその気にさせるようなこと言うん
じゃねぇ。焼け棒杭に火が付くじゃねぇか」
「一度ふらっと店に来てみてください。火が付くか付
かないかそれでわかるはずですから」
「絶対に付く。さっきからオレはキョウコさんのこと
を昔と同じように思って胸が若ぇ頃のようになんかこ
う苦しく切なくなってるんだ。それに油をぶっかける
ようなことは言うんじゃねぇ」
「でも自分にウソをついてごまかしちゃあいけません
よ。けじめってものきちんとつけたほうが今後のため
ですから」
「だからもう付いたんだって言ってるだろ。二十年前
に付けた。元々オレとは世界の違う人だ。オレが分不
相応だった。それだけだ」
「だったもう普通の客として何気なく来ればいいでし
ょう」
「わからねぇヤツだな。普通に行けりゃーとっくに行
っとるわ」
「普通じゃなくても下心見え見えでもラーメン食べる
っていう大義があるなら来れると思いますけど」
男はそこで黙ってしまった。行ってもいいという気
になったのかもしれない。
「わかった。考えとく。ところで何だっけかな、おめ
ぇとエレベータで上へ行く用があったな。ああ、オカ
マが本当にいるかどうかだったな。しかし、ラーメン
屋の兄ちゃんが二和会の回しもんだってことはねーだ
ろ。もういい。無罪放免だ。もしかしたらおめぇんと
こ、行くかもしれねぇから。その時はよろしくな」
「そうですかッ。ありがとうございます。ぜひ来てく
ださいッ。コーヒーご馳走様でした。失礼しますッ」
男は弦を見送ると感慨深げに煙草を吹かしていた。
弦には解放の喜びがあった。殺されずに済んだ。店
長のお陰だ。この恐怖に比べれば巨体のオカマなどな
んでもない。弦はエレベーターの上向きのボタンを押
した。やがてチャイムが鳴ってドアが開いたが誰も乗
っていない。最上階展望露天風呂に向かった。磯村か
ら電話をもらって二十分ほど経過している。磯村も怒
っているかもしれない。部屋にまた電話したかもしれ
ない。
最上階に至ってドアが開くと大浴場まで広い空間が
広がっていてそこに驚くべき光景があった。
巨体のズンコと磯村が並んで座ってこちらに背を向
けている。その背中がほとんど相似形でよく似ている。
彼女たちの前には水槽があって、その中に手を入れて
いるようだった。「ドクターフィッシュ」と表示され
ている。二人は打ち解けて仲良し友達のように見えた。
実質は男女なのだが、かなり長い付き合いの女友達同
士のように見える。あの二人のキャラならすぐにそう
いう仲になって打ち解けることもありうる。
声を掛けづらかったので磯村の背中を突いた。磯村
が振り向く。
「あッ。今藤さん。どげんしよっとったとですか、遅
かったとですね」
怒っていない。続いて恐るべきズンコが振り向いた。
「あ、お前、よくもあたしを再び突き飛ばしたな、コ
ノヤロー」
しかし、目は穏やかで笑っているようにも見える。
「すいません。本当にすいません」
「ま、いいわよ。あたしも突然訪ねてったんだから」
「これおもしろかよ、今藤さん。ドクターフィッシュ
ゆうて、ほら手についた垢を食べてくれるんよ」
それはおもしろそうだったが、それよりも二人が並
んで座っている理由が知りたい。
「お前。あたしたちが何でこんな仲良く座ってるか理
解に苦しんでいるんだろ」
さすがにオネエ系は感が鋭い。図星である。頷くと、
磯村が笑いながら答えた。
「うちら兄妹ばい。今は姉妹やけど」
「えーッ」
「お兄ちゃんとゆうかお姉ちゃんの純之進はたまたま
名古屋におったから、今藤さんのお店に偵察に行って
もらったとですよ。したら突き飛ばれたとか、テレビ
番組が取材に来たとか聞かされておもしろか店やな思
うてすぐにでも行きたか思ったとですよ」
猪突猛進型の性格が似ている。そして後ろ姿が相似
形でそっくりだった。兄妹（姉妹）と聞けば納得がい
く。
「今藤さんもやってみて。手に魚が寄って来て突いて
くれるのが気持ちよかよー」
動 、動揺、恐怖、不可解、驚愕、安心等、様々な
感情を短時間で味わい心の整理もつかなかったが、い
われるままに水槽に手を入れると魚たちが一斉に弦の
手を目掛けて寄ってきた。
「うわー、すごかー。めっちゃ寄ってきたー」
「手が汚い証拠ね。心も汚いかもしれない。あたしを
突き飛ばすくらいだからね」
数十匹のメダカほどの大きさの魚たちが弦の手を代
わる代わる突いてくれる。咬まれるような痛さはない。
優しい感触でそれで手の垢をとってくれて浄化される
のであれば、まさにヒーリング・フィッシュといって
いい。
「一尾くらいピラニアを入れとけばおもしろいのにね。
癒されると思ったら突然肉を食いちぎられて悲鳴を上
げる人がいてもおもしろいわよ」
兄（姉）のブラック・ジョークに妹の美和は笑って
いた。
「明日さー、三人で名古屋の食べ歩きしない？天むす、
きしめん、エビフライ、そしてシメは『麺屋やまと』
の博多とんこつ塩ラーメンでどう？」
ズンコが提案する。
「よか。賛成―」
美和が同意する。弦はあまり自分の職場に来てもら
いたくはないと思う。
「でも明日は休日でうちの店やってませんよ」
「なんとかしなさいよ。せっかく妹が博多から来たん
だから。店長に頼んで店開けさせなさいよ」
「そんな無茶な…」
しかし、巨体のオカマは承知しない。
「開けさせるんだよッ」
「兄ちゃん、そげんコツいってんムリばい」
「アンタは黙ってんしゃい。お前はあたしを二度にも
渡って突き飛ばしたという罪がある。その罪滅ぼしに
休みの日もあたしたち兄妹が貸し切りで行列しなくて
もゆったりとしてラーメン食べれるように手配しなさ
い。いいわね」
「そんな…。まだ働き始めて一週間の新米にそんなこ
とできるわけ…」
「ミッション・インポッシブルでもやりなさい。そう
しないならばあたしのオカマ仲間に呼びかけて大挙し
て店に抗議にいくわよ。暴力を振るう店員がいるって
オカマが騒ぎまくるわよ。いいの」
二人のオカマでも大変だったがあんなのが大挙して
押し寄せて店の前で騒いだりしたら溜まったものでは
ない。土の中から蛇の巣窟を掘り当てて集団の蛇が飛
び出してきたようなものだ。考えただけでもおぞまし
い。
「兄ちゃん、他の店でもよかやなかね。名古屋にはラ
ーメン屋さんがたくしゃんあるけん」
「美和んために兄ちゃんな言いよーんやなかか。アン
タはだまってんしゃい」
ズンコは妹には博多弁で応じている。弦に対しては
オカマ的標準語を話して使いわけているのを心の中で
感心していた。
それにしても休日の店を開けさせてまで自分の思い
を叶えさせようとするその自己実現根性には恐れ入る。
それが九州博多なのかと思う。しかし美和は弦をかば
っている。
「ダメ元でいいから店長に交渉しなさい。美和に『麺
屋やまと』のラーメンをあたしは食べさせてやりたい
んだから」
弦はダメ元で店長に掛け合ってみるしかないと思い
始めていた。店長は休みの日も仕込みやスープの研究
に店に来ているはずである。頼み込めば作ってくれる
かもしれない。
「わかりました。とにかく店長に頼んでみます。ダメ
だって断られたら仕方ないですよね」
「その時はお前が作れ」
「ムリですよぉ。まだ修行に入ったばかりで、何もわ
かっちゃいないですから」
「作れ」
そのとき弦の心の中にカップラーメンでも出してや
れ、という横着な考えが浮かんだが、考えてみれば弦
がこの道に進んだ当初の志はインスタント・ラーメン
に慣れた味覚の人々にインスタントに近い味を提供す
れば大受けするのではないかということだった。仲間
には即座に否定されたが、やってみなければわからな
い。インスタント・ラーメンの味が好みならインスタ
ントを食べた方がてっとり早い、確かにそうだ。しか
し、本格ラーメンを食べたいがそれがインスタントの
味に近いというのもアリではないか。とにかくこの志
は大事にして修行に励もうと思った。
「わかりました。店長が作ってくれないのなら僕が作
ります」
ムリを言っているのはわかっているズンコは言った。
「おおー。アンタは偉い。美和が一目惚れするのもわ
かる」
一目惚れされていたのか、と弦は思った。
その日は展望露天風呂に入ると、部屋のダブルベッ
ドで三人で寝た。ズンコは静かだったが、美和の鼾が
凄まじかった。弦に一目惚れしているはずだが、恥じ
らいもなく開き直った美和と違ってオカマはけっこう
繊細に鼾の対策もしているかもしれない。
予期せぬ兄（姉）ズンコの出現により、弦は美和に
迫られることはなかった。ズンコがおかしな真似をす
ることもなかった。二人が熟睡しているのを見届けて、
明け方、弦は部屋を抜け出し始発の電車で帰った。
昼近く、店長が店に出てくると思われるころ電話を
入れた。案の定店長北野恭子は店にいた。
「ラーメンを作ってくれないかってこと。三人分くら
いならいいよ。何時に来るの。五時ころ、あ、そうわ
かった」
意外と淡々と了承されてしまった。金を貸してくれ
とか、待遇を改善してくれとかいう要求なら聞き入れ
られなかっただろうが、ラーメン作りのことしか考え
ていない店長にとっては休みの日であってもラーメン
作ってくれという要求なら、むしろマラソン選手のラ
ンニングのようなもので快いのかもしれない。
午前八時くらいに磯村から電話があった。知らぬ間
にいなくなっていたことをなじられた。モーニングを
一緒に食べたかったのだと言った。そのホテルのモー
ニングは自家製の八丁味噌が自慢でそれを弦とともに
美和は食べたかったのだと言った。
「ごめん。今日の夜のことを店長に了承取らないとい
けないと思ったし、なんかよく寝られなくて黙って帰
ってしまってごめん」
十一時半に「ナナちゃん人形」の前で待ち合わせを
した。
ナナちゃん人形とは、名古屋駅名鉄デパート１階エ
ントランス前にある六メートルのマネキン人形のこと
で、名古屋人はよくここを待ち合わせ場所としている。
東京の渋谷ハチ公、東京駅構内の銀の鈴、大阪梅田の
巨大液晶画面ビッグマンみたいなものである。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１８年９月号 通巻第１１４号
［原稿用紙３０枚］
