らあめん男 ８
大堀敏靖
「平気です。早退しますから」
目的のためなら山をも動かし、川の流れも捻じ曲げ
てしまう豆タンクのような磯村美和だった。
弦は一週間、「麺屋やまと」で働き少しずつ店のテ
ンポに慣れてきたところだった。二日の休みはありが
たい。一日は英気を養って、もう一日はラーメンの研
究に充てようと考えていた。ところが、猪突猛進の磯
村美和が火曜日の最終新幹線でやってくるという。
「困る」とか「もっと仕事に慣れてからにしようよ」
ということもできた。いや、言うことができなかった
のだ。思うことができただけである。相手の意向など
お構いなしに行動しひれ伏させてしまうような九州女
の迫力があった。強いて抗っても跳ね飛ばされ弾かれ
てしまうだけということは予想できた。そうであるな
らば敢えて抗うよりは長いものには撒かれて身を委ね
た方が得策に思われた。翻弄され、いいように利用さ
れて主体性も何もなく、奴隷のように扱われても男女
の仲であればそこに快楽が伴ってむしろ快感が得られ
るかもしれない。
祖父にこんな自分のことを打ち明けたら叱られるだ
ろう。現今の日本はアメリカのいいなりになり、アメ
リカを頼りに国家の舵取りをしているため、主体性と
いうものがない。サムライの国としては実に嘆かわし
いことで、サムライの精神がまだ生きていた頃のこと
を知る祖父としては、悲しくてとても政治のニュース
は見ていられないという。国際政治においては発言権
があるのは核保有国だけで、いくら経済力を持っても
核保有国には頭が上がらないのだから、日本の主体性
を発揮するには核武装しかないなどと過激なことすら
言っていた。
しかし、父の話では祖父は祖母の言いなりになって
いるので思想と実生活が乖離しているということだっ
た。
弦としては戦後生まれとしてまず「平和」を希求し
なければならないから、核武装などトンデモない話で
唯一の被爆国としては核兵器の使用がいかに甚大な悲
劇をもたらすかを全人類に訴え、これを廃絶する方向
にもっていかなければならない。同じ人類同士が争う
ような愚かなことはないのであるから、奴隷となって
も武力は使わず「平和」を訴えて、他国の良心を目覚
めさせて、争いのない幸福な地球環境を構築しなけれ
ばならない。
こういう思想をもって、然る後に実生活も強引な女
性がいても男性原理を強いて抑えて相手の言うがまま
に従い、平和な交際を営まなければならない。こうす
れば、思想と実生活が一致することになる。祖父のよ
うな思想と実生活の乖離をとやかく人から批判される
ことは回避できる。
しかし、考えてみれば、人からのそんな批判を回避
したところが何だというのだ。己の本心を押し殺して
人の批判をかわしたところが、それで保守できた価値
とは何なのだ。
一本筋の通った生き方はすばらしい。どこを切って
も同じ顔の出てくる金太郎飴のような人生は賞賛に値
する。しかし、金太郎が何なのだ。今どき金太郎の生
き方が価値的生き方と見做されたりするのか。切る所
によって金太郎だったり、桃太郎だったり、慎太郎だ
ったりするほうがおもしろいし、今風ではないのか。
思想と現実が乖離した祖父の生き方の方が人間的で多
様なのではないか。
そんなことを考えながら午後十一時二十分名古屋着
ののぞみ最終号を待った。
ホームのアナウンスがまもなくのぞみ９８号が到着
することを告げる。ラインでは五号車に乗車している
とあった。そこまで迎えに来いということである。
別に改札待ち合わせでもいいはずである。改札口は
広いが私鉄への連絡口を除けば一つしかない。ドアが
開いたところに男を待たせたいのだろう。抱き付いて
くるかもしれない。しかし、まだそんな関係ではない
付き合うと決めたわけでもない。何の契約もしてい
ない。幻想を抱いた女が恋の気分を味わいたいだけの
話だろう。そんなのになぜ付き合わないといけないの
かと思うが、自分の中でも高校時代の古谷佳純のイメ
ージが重なって懐かしい幻想を結び付けようとしてい
るところがあって、それを許している。
のぞみが最終の終着駅への到着らしく一日の仕事を
終えて帰宅した人のように静かにホームに入ってきた
ペリカンの嘴のような先頭車両から次々と連結された
車両がホームに入ってくるが新幹線というものは長い
ものだと改めて思う。ホームに入ってきた車両はちょ
うど魚の切り身のようで全貌がよくわからないが、特
にカーブを曲がって走っているところを空撮した動画
をみるとやはり蛇のように見える。漱石が「草枕」の
中で明治の列車を蛇に例えて、「ホームにつくと蛇は
横腹を空けて乗客を吐きだした」と書いていたが、新
幹線もメタリックに洗練されたとはいえ、蛇には違い
ない。
二十一世紀の巨大な、高速走行をする蛇は静止する
とプシューっと音をさせて横腹を開いた。
出張帰りのビジネスマン、水商売系の女、ミュージ
シャン風の男、国会議員らしいてかてか顔の老紳士、
学生、そして博多から弾丸のようにやってきた磯村が
降りてくるはずだったが、なかなか降りてこない。乗
客は多くはない。キャリーバッグを持ちサングラスを
かけた細身の女性を最後に五号車を外から覗いても客
はいなくなった。
「あれ」
場所か日時を間違えたか、磯村が最終に間に合わな
かったか、とにかく降りてこない。トイレにでも入っ
ているのだろうか。
弦はスマホを取り出して確認しようとした。ライン
には何も入ってない。博多女にからかわれたのか。そ
うだとすれば文句を言わなければならない。ホームま
で迎えにこさせてひど過ぎる。ラインを打とうとした
ところで、背中を突かれた。振り向くとそこに磯村が
下のほうから弦を見上げていた。
「今晩は。お出迎えありがとうございます」
にこにこ笑っている。
「あれ、五号車じゃなかったの。全然降りてこないん
で乗り遅れたんでは…」
「退屈してたけん、食堂車でビール飲んでました。そ
したら隣にいたおじさんが話しかけて来て、退屈しと
ったから、相手しよったら、そんおじさん国会議員の
人でびっくりですよ。毎日地元から東京まで通うとう
らしかね。偉かことだと思いました」
先ほどのてかてか顔の紳士だと思った。代議士の方
でも美人に鼻の下を伸ばしたというより、一人でビー
ルを飲むチンチクリンの若い女に退屈凌ぎで話しかけ
たのだろう。
「国会議員はフリーパスだから…」
この九州女をどう処遇していいのか、よくわからな
い。
「あー、お腹すいた。お昼からなーんも食べてないけ
ん」
「食堂車で食べてたんでは…」
「ビールとおつまみだけです。今藤さんはお腹すいと
ーとですか」
「夕食は食べたけど…」
「もう夜中ですからうちはバリお腹すいとーとですね」
深夜営業のファミレスにでも連れていくか。
「ラーメン食べに行きましょか」
「え、ラーメン？」
お互いラーメン店に勤めている。それで夜食にラー
メンか。
「名古屋のラーメン食べたかとです。激戦区があるっ
ちゅう話聞いとります」
「今池の僕の勤めている『麺屋やまと』に来てほしい
けど今日は休みだな」
「そーか、名古屋っちいえば『せがきや』があるたい」
「せがきやなら駅前にもありますよ。行く？」
「名古屋コーチンでとったスープですか」
「さあ、そこまでは知らないけど。きしめんはどう」
「あ、きしめん！よかです、よかよか」
「駅の構内の店があります。でももう閉まってるかな」
改札を抜けて、きしめん店まで歩くとすでにしまっ
ていた。駅前の『せがきや』もシャッターが下りてい
た。
「今藤さん。コンビニでカップラーメン買っちホテル
ん部屋で食べましょか」
ホテル、と磯村の口から洩れるのを聞いて弦はどき
っとした。やはりそのつもりなのか。
「私、駅前のウパホテルに予約入れっちきたばいから。
一緒に部屋でカップラーメン食べましょ」
ラーメン食べて少し話をしたら帰ればいいと思った。
弦は駅まで車で来ていた。コンビニでカップラーメン、
サラダ、飲み物、スナック菓子などを買った。磯村美
和は自分が払うと言って譲らなかったので、任せた。
一階ロビーでチェックインをしてエレベータで七階
に上り、カードを差し込んで入室すると弦は驚いた。
シングルの狭い部屋を予想していたらダブルの広々と
した部屋である。ゆったりとした応接ソファやテーブ
ルも備わっている。テレビ塔、ライトアップされた名
古屋城など名古屋の夜景が美しく見渡せる。
「よか部屋たい。景色もきれかねー」
ラーメン食べて「じゃ」と言って帰れる空気ではな
い。ベッドが二つある。美しい名古屋の夜景を見なが
らロマンチックな夜を過ごそうとしてはるばるやって
きた博多女を一人にして帰るわけにいかない。
シャワーを浴びたかー、とか言い出すだろう。一緒
にどーね、と誘ってくるかもしれない。磯村の中では
すべてシミュレーションできているはずである。今藤
が名古屋を案内するというより、磯村の名古屋行幸に
随伴を命じられた小姓みたいなもんだろう。言うとお
りに従うしかない。こちらにはきしめん、名古屋城、
水族館くらいの漠然としたプランしかない。
「ああー、職場から直行で新幹線に乗ったけん、さす
がにちょっときつかー」
「そうでしょう。ゆっくり寝たらいいよ」
すると、
「いかんッ」
それ来たぞと思った。寝させてくれないのだろう。
男を一人ゲットしてムダにするわけにはいかないとい
うのだろう。
「ここはねぇ、一晩中しよる大浴場があって、展望露
天風呂とかサウナとか充実してますけん寝るわけには
いかんのです」
拍子抜けした。はぐらかされた気がする。弦の身体
が目当てではないのか。安堵したが残念に思う気持ち
もあった。
「そん前にこれ食べましょ」
磯村はポットに水を入れて湯を沸かす。
弦は「せがきや」のノンオイル・ネギラーメンを選
んだが、美和は月清のカップヌードルのキングサイズ
とポヤングの通常の四倍ある焼きそばを購入していた。
おそらく備え付けの小さなポットでは湯が足りない。
開封してスープの粉ややくみを全部入れてくれたが、
さすがに弦は驚いていた。
「そんなに食べれるの」
「昼から食べてませんからですね、これくらい食べん
ち夜寝られましぇんちゃ」
「そのポヤングの超超超特盛ウルトラマックスのソー
ス焼きそばを僕も食べたことありますが、途中でもう
げんなりしてきて小麦粉で作ったゴムひもを口に押し
込んでいるような気分になってもう二度と食べたくな
いと思ったよ。ハンパない量だから」
「いっぺん食べてみたかと思っとりました。メッチャ
お腹空いたときに食べてみよかと思っとりました」
「ムリだと思うよ。カップヌードル・キングサイズと
ウルトラマックス焼きそば両方なんて。第一お湯が全
然たりないから」
「そうですか」
すると美和はフロントに電話をかけてお湯が足りな
いので大きいポットを貸してほしいと訴えた。目的の
ためなら、猪突猛進する。お湯が足りなければどんど
ん沸かせばいいのである。また博多女の逞しさを見せ
つけられた。
ドアのピンポンが鳴って従業員がまた巨大な電気ポ
ットを持ってくる。
「これなら大丈夫っちゃ」
まず備え付けのポットで湧いたお湯を弦のカップ麺
の器に注いで蓋をする。巨大なポットに一杯の水をい
れてスイッチを入れた。消火器くらいの大きさのポッ
トで時間がかかると思ったが最近の電気ポットは進化
していてカップ一杯くらいのお湯なら一分で湧く。
弦のカップ麺が出来上がって食べようとしたころ、
ぐらぐらとお湯が湧き上がって、スイッチの部分の点
灯が消えた。
「お湯の湧いたっちゃ」
一・三リットルのお湯が焼きそばにはかかり、さら
にキングサイズのカップヌードにお湯を注ぐとあらか
た巨大ポットのお湯はなくなってしまった。
「ギリセーフやね」
弦は「お先に」と断って「せがきや」のネギラーメ
ンをすすり始めた。お湯を注いで待ちの磯村が弦の方
をじっと見ていた。
「うまかとですか」
自分のもすぐできるのに、羨ましそうな顔をしてみ
ている。
「ちょっと食べる」
磯村は嬉しそうな顔をして頷いた。
「ちょっとだけでよかですよ」
そういいながら、豪快に割り箸で麺を掬うのであら
かた麺はなくなってスープばかりになったようだった
が、そのスープも豪快に器に口をつけて呑むのでくず
のような麺とかやくが残るスープばかりとなってしま
った。
「あ、すっません。ほっちんどなくなってしもうた」
「あー。ひどい。少しだけとか言ったのに、全部食べ
てしまった」
と言いたかったが、
「あ、いいよ。食べてきたから…」
「うちのキング食べちゃんない。申し訳なかです」
「いいって」
三分経って同時に焼きそばとカップヌードルができ
あがった。焼きそばは湯切りをして、ソースやかやく
を混ぜなければならない。
その間にキングサイズのカップヌードルを少しだけ
食べさせてもらった。
「遠慮せんとどんどん食べるっちゃ」
こちらもかなりボリュームがあったが、焼きそばの
方は驚くほどの量だった。通常の四倍というから、う
ら若い普通の女性の胃袋ではとても収まりきらない。
麺は三百三十グラムある。
「カップ焼きそばはソースをまんべんなく麺にからま
せないといけんとです」
そうして出来上がった焼きそばの直方体の容器を前
にして磯村は合掌した。
「いただきまーしゅ」
豪快に箸で掬ってすする。すするというより口の中
に流し込まれていくように口の中にみるみる入ってい
った。
「今藤さん。うちはこれだけでよかですから、それ全
部食べてください」
キングの方も通常の二倍近くはある。食べられない
ことはないが磯村に遠慮がある。
「うちのことスゴイ大食いだと思っとられるかもしれ
ましぇんが、上には上がおって、このカップ焼きそば
を五個も平気で平らげよるツワモノがうちの友達にお
るとですよ。よほどのデブ女だろうと思いきやそれが
スレンダーな美人系だから信じられんとです」
「美人の大食いがテレビで時々出てくるよね」
「ギャル曽場とかですね。うちはお酒は底なしに飲め
る自信があるとですが、食べる方は限界があります。
このウルトラマックスとキングサイズ一個ずつで限界
になるとです」
そんなことを話しながらも磯村はカップ焼きそばを
すすり続け、もうあらかた完食に近づいていた。
弦はキングサイズのカップヌードルを差し出した。
まだ半分以上残っている。
「そうですか。すんまっしぇんねぇ」
磯村は遠慮しない。これも豪快に麺を掬って口に入
れてあっという間にスープまで飲み干した。
「なんかまだいけそうだね」
「いや、もうよかです。お風呂に入らないけませんか
ら、これくらいがよかとです」
食事が済むと磯村は何の躊躇もなく衣服を脱いでホ
テル用の浴衣に着替えた。下着だけの磯村を一瞬見て
しまったが、思った以上に胸が大きく弦の下半身は緊
張してしまった。性格も豊満なら肉体もやはり豊満で
ある。あの胸に圧迫されて一晩過ごすことになるのか
と思うと震えが来た。
「今藤さんも一緒にいきまっしぇんか。もちろん向こ
うは別たいばってん」
「ああ、後で行きます」
磯村は独りで部屋を出ていった。
帰ってしまうなら今がチャンスかもしれない。怖く
なって逃げたと思われても、倫理的な理由からその場
を辞したと思われてもなんでもよい。磯村は嫌われた
と思い落胆するかもしれない。それでもよい。とにか
く知り合って間もなく、お互いよく人間性も理解せず、
付き合うことを了承し合った仲でもなく、いきなりカ
ップラーメンを食べて夜を共にしてしまうのはそこら
の軽い軟派人間と同じになってしまう。人間の付き合
いというものはもっと厳粛なもので、獣が繁殖期に適
当な相手を見つけて交尾するのとは違うだろう。
そういうことは磯村も理解してくれるはずである。
とはいいながらとにかくシャワーだけは浴びようと
思い、弦は部屋のシャワーで緊張から出た汗を流して、
浴衣ではなくまた服を着て思案を続けた。
窓から見えるテレビ塔のイルミネーションが何かを
急かすように明滅している。こんな美しい夜景、そし
て二つあるベッド。
今ダッシュして部屋を出て行ってしまったら、これ
らはすべてムダになる。博多から猪突猛進でやってき
た女は落胆し、泣き出すかもしれない。
しかし、一方ここに留まればどうなるか。
湯上りで上気した顔の磯村が浴衣を少しはだけて、
部屋に戻ってくる。
「あー、風呂上りは気持ちよかー」
などと言って、途中で買ってきた缶ビールのプルト
ップを開ける。
「今藤さんもどーね。ジュースがよかですか」
などと言う。
「あー暑か」
といいながら、浴衣を脱ぐ。下着だけになる。
弦の腕をひっぱって引き寄せる。
「景色もきれかね。今藤さんとこうしていれてうち最
高たい」
と言いつつ、濡れた目でじっと見つめてくる。
あーっ、ダメだダメだ。そんなことになってはダメ
だ。同じ「天神軒」傘下のラーメン店に勤める同僚と
こんな軽く関係を持ってしまっては絶対ダメだ。理性
で拒絶しないといけない。何かのトラップかもしれな
い。ライバルを消していくための巧妙なワナが仕掛け
られているのかもしれない。紳士を貫いて間違ってい
るはずはない。長い目でみれば理性を働かせた方がい
いに違いない。
その時ドアのピンポンが鳴った。缶ビールを手にし
た磯村が戻ってきたのだ。
オートロックのドアを開けた。
「あ、やっぱりいた」
「うわッ」
弦は腰が抜けるほど驚愕した。そこに立っていたの
は磯村ではなく、もっと背の高い、横幅もある、化け
物だった。確かに化け物に見えた。
「いーい。入るわよ」
それは先日店にやってきたオカマの一人のズンコだ
った。
「なんで、来たんですか」
「あたしたち付き合うって言ったわよね」
「どうしてここがわかったんですか」
「ＧＰＳ機能だよ。アド交換したからね」
「えーッ。まずいですよ」
「何がまずいのよ。付き合っている者同士が会ってま
ずいことなんてないでしょ」
「場所とタイミングを考えて下さいよ」
「あたしはね。思い立ったが吉日って信仰してるんだ
よ。あたしの気持ちが動いた時が絶好のタイミングで、
場所なんてどこだってかまやーしないのよ。地の果て
でも地獄の底でも」
この女（男）もまた凄まじい意志を持っている。思
い立ったことは天が割れ、地が裂けても成し遂げよう
とする。どうしてこんな人間ばかりが弦に近づいてく
るのだろうか。弦の一途なラーメンに賭ける思いがこ
ういう強靭な意志の者たちを引き寄せているのだろう
か。だとしたらいいことでもあるのか。
「地の果てや地獄の底の方がまだマシですよ。よりに
よってこんな時刻にこんなところに来なくたっていい
でしょう。来るにしてもアポぐらい取ってくださいよ」
「拒否されるに決まってるじゃないの。こういうのは
ね、押しかけていくに限るのよ」
「迷惑です。絶対迷惑です。住居不法侵入で警察に訴
えますよ」
「ナニ、アンタは友達が尋ねてきても、恋人が会いた
い一心でやってきてもそうやって法律を楯にして自分
の生活を守ろうとするわけ。そんな嫌なヤツなのか」
「フツーに尋ねてきたのならそんなことしませんよ。
非常識なタイミングと身勝手なんで言ってるんです」
「とにかくアタシがせっかく来たんだから取り合えず
中に入れなさいよ」
まもなく湯上りの磯村がルンルンして戻ってくるは
ずである。こんな化け物のような巨体のオカマが入室
しようとして弦と揉めているのを見たらなんと思うだ
ろう。
「とにかく今日は帰ってください」
「いやだ。とにかく入れろ」
「入れません。帰ってください」
「帰らない。入れろ」
「帰れ。オカマ」
部屋の入り口でズンコと押し問答をして揉めている
ところに部屋の電話が鳴りだした。
「電話だよ。電話が鳴ってるよ」
苦情の電話だろうか。とにかく出なければならない。
弦はドアを閉めようとして、仕方なくズンコを思い切
りドンと押した。するとズンコは後ろによろけて倒れ
るとドレスの裾が捲れて開脚した太い足の間からパン
ツが見えた。またやってしまったと弦は思った。が、
そんなことに構っていられない。
ドアを閉めると鳴り続ける電話に出た。
「はい、もしもし」
「あ、今藤さん。部屋にいたと？」
磯村だった。
「おもしろかもんがあるけん、ちょー大浴場まで来ん
しゃらんとぉ」
瞬間、弦は考えた。すぐに行くと言って、電話を切
ってから、ズンコを部屋の中に入れる。そしてちょっ
と出てくると言って、ダッシュでホテルから逃げてし
まえば、後は野となれ山となれで、とにかく窮地から
は逃れることができるではないか。背に腹はかえられ
ない。逃げるが勝ちである。よし、そうしよう。
「わかった。すぐ行くよ」
電話を切る。外には突き倒されて怒っているズンコ
がいる。丁重に詫びて中に入れよう。
ドアを開けると、しかし、そこにズンコの姿はなか
った。どこか物陰に隠れてじっとこちらを伺っている
のだろう。エレベータの方に曲がる角に身を潜めてい
るかもしれない。部屋のキー・カードを持って、恐る
恐る角を曲がると、しかしそこにもズンコの姿はなか
った。あの巨体を隠すような場所はそうそうあるもの
ではない。観葉植物の陰にもカーテンの向こうにもオ
ネエ系の姿は見えなかった。諦めて帰ったかもしれな
い。だとすれば助かる。
大浴場は最上階である。展望露天風呂がある。その
入り口に何かおもしろいものがあるのだろう。エレベ
ーターに乗って最上階へ行こうとしたが、ズンコはエ
レベーターの中に潜んで獲物を待ち続けているかもし
れない。そうだ。その可能性は高い。エレベーターは
二つある。箱はそれぞれ一つずつ上下に昇降を繰り返
している。ズンコの体は一つだろうから両方に乗って
いることはないだろう。しかし、化け物の類だから分
身の術でも使って両方に潜んでいるかもしれない。い
ずれにしても二分の一以上の高い確率でズンコと密室
に閉じ込められることになる。誰か他の客でもいれば
まだ助かるのだがと弦は思った。
誰か来ないだろうか、としばらく待っていると、パ
ンチパーマに薄い色のサングラスをしたそっち系の人
と思われる男がやってきた。手にタオルを持っている
大浴場に向かうのだろう。弦はしめた、と思った。上
向きのマークのボタンを押す。ところが男はどういう
わけか下向きのマークのボタンを押した。それは困る。
「あの、大浴場にいかれるんですよね」
思わず言うと、男の眼光が光って弦の方を見た。ま
ちがいなく組関係の人間である。
「大浴場は上だと思いますけど…」
「そんなことは知っとるわい。下に用があるんじゃ」
「あ、すいません」
まもなく下へ降りていくエレベーターの到着を知ら
せるチャイムが鳴ってドアが左右に開いた。誰も乗っ
ていない。弦はチャンスだと思った。男の後について
一緒に乗った。
不審に思ったのは男の方だろう。上に行くはずの弦
が階下に降りるエレベーターに急に乗ってきたからで
ある。
「おい、おめー、上に行くんじゃないのか。なんでオ
レについてきた。何か用か」
「いえ、何も」
「なんで下へ行くこれに乗った」
「誰も乗ってなかったからです」
「オレが乗ってるじゃねぇか」
「だれか乗ってた方が都合がいいんで…」
「なんだ、そりゃあ。あ、もしかしておめぇ、二和会
の回しモンか。そうだろッ」
二和会というのは対立抗争する別の組織のことだろ
う。そんなのと間違われてしまってはかなわない。
「いえ、そんなんじゃありません。ただ、オカマのズ
ンコを避けたいと思って…」
「岡田のズンドウを裂けたいだと…、おめぇ、ウチの
組長を殺ろうって腹か」
男は弦の襟首をつかんだ。
「チ、違います。ゴ、誤解です。岡田じゃなくてオカ
マです」
「そうだよ。ウチの組長はオカマだ。それは知られて
は困るトップシークレットだ。おめー今日ここに親分
が組の若頭と泊まってらっしゃることをどこで嗅ぎつ
けた。言え」
「そ、そんなこと何も知りません。親分がオカマであ
ることはもちろん、親分さんの存在さえ知りません」
「ウソをつけッ。なら、なんで下へ行くエレベータに
乗ってきた、なんで親分がオカマってこと知ってる」
「ズンコのパンツが見えて怒ってるに決まってて、エ
レベータに隠れているのが怖くてです」
「はあん？なんだ。パンツがどうした」
「僕が押したからズンコが後ろに倒れてパンツが見え
たんです。だからズンコは怒ってるはずだから、エレ
ベータに乗って僕を待ち受けていると思ったから、ズ
ンコの乗ってないエレベータに下行きだけど乗ったん
です」
半泣きになって弦は訴えた。
こんな男がスジモンとはどうしても思えないし、組
同士の出入りの偵察役が務まるとは思えない。堅気の
世界のアマちゃんだと思うが、そこが向こうの策略か
もしれない、と男は考えただろう。
「わかった。じゃあ、そのオカマのズンコさんのとこ
ろへオレと一緒に行こうや。本当にそのオカマさんが
いたらオレは納得する。オカマがおめーに危害を加え
そうになったら、オレが庇ってやろう。しかしな。も
しいなかったら事務所まで一緒に来てもらおうか」
事務所に連れていかれる。こんな男たちがごろごろ
いて、場合によっては殺されるかもしれない。トンデ
モないことになってしまったと弦は思った。こうなっ
たら、ズンコがいてくれることを望むしかない。ズン
コならいくら何でも弦を殺しはしないだろう。ヤクザ
の事務所に連れていかれるよりオカマにいじられる方
がまだマシである。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１８年７月号 通巻第１１２号
［原稿用紙３０枚］
