草津白根・蓬莱岩
坂井瑞穂
先日の硫化水素大量噴出騒動が災いしているのか駐車場に車は数
台しか留まっていなかった。毎年夏休み期間中はこの横手山頂駐車
場に入進する車が渋滞を引き起こし、草津方向、志賀高原方向とも
に数キロの車列ができて山岳道路は全く機能不全となる。
妙子伯母の運転する軽ワゴンで、まだ薄暗い日の出前に到着した
和明は湯釜を見に行くといって砂礫の斜面に階段状にのびる遊歩道
を駆け足でのぼっていった。おばちゃんも一緒に行こう、甥っ子は
言ったが彼女は気がすすまなかった。
妙子自身はこれまで何度も草津白根山を訪れ、その都度湯釜を見
ている。それに１０数年前までは水際まで降りて行くことができて、
あのクリーム色の湖水に触れることが可能だったのが、いつからか
だいぶ手前に立入禁止の親綱が張られ湖面まで行けなくなってしま
ったのである。名物の高原アイスクリームでも食べながら、甥が絶
景を堪能してくるのを待っていようかとも考えたが、弓池ロッヂの
売店はまだ開店前の様子だ。否、観光客が少なければ店がいつにな
っても開かないこともありうる。
それにしても和明はどうしたのであろう。１時間を過ぎても戻っ
てこない。妙子は不安感をおぼえ、彼が歩いていった遊歩道を後を
追って登りはじめた。近辺の立入禁止表示看板の多さは火山活動へ
の警戒を如実に表しているのであり、まさに一昨日警戒基準が１か
ら２に上がっている。
もしかしたら和明は湯釜の幻想的な色合いに吸い込まれるように
ロープを潜って湖面まで降りてしまったのではないか、彼女の不安
はいっそう脹れあがった。砂礫面から流れ出る高濃度の硫化水素を
ひとたび吸い込んだらまず助からない。
When I've catched kitten heart
I listened songs of dragonfly and butterbor
Such lirting songs conforted me
上機嫌で歌を口ずさむ和明を妙子が見つけたのは展望台広場の脇
に突出した溶岩堆積帯のところであった。
〃かずちゃん、どうしたの。戻ってこないから心配したじゃないの。〃
〃あっ、おばちゃん、ゴメン！ つい長居してもうた。けどおばち
ゃんも僕と一緒に上がってきたらよかったんや。僕がここに着いた
とき、まだ五里霧中状態で湯釜もどっちにあるんかもわからんかっ
た。だんだん霧がぬけていって湖面が見えはじめたとき、そりゃ感
動したで。写真とかで知ってはいたけど本物見るんは初めてやさか
いな。言葉ではいい表せないちゅうか、もうバスクリン色しとった
んや。下まで下りて行きたかったけど、あの辺有毒ガスでとんのや
ろ。〃
妙子伯母は殺風景な周囲に半ば呆れた表情で和明を木製ベンチに
座るよう促した。閑散とした早朝の火口湖が、甥っ子には嬉しいも
のになっているのが満足ではあった。
〃やっぱりニュースで皆んな知っているのね。警戒レベルが上がっ
て人がほとんどいないもの。
かずちゃんは英語の歌を歌えるのね。それにそのメロディーは、
アルハンブラの思い出じゃないの。〃
〃ええ歌やろ、同級生が作詞したんや。〃
〃今晩、みんな集まったら話題になるんじゃないかしら。かずちゃ
んの進路のことも、音楽の大学への推薦のこととかも。〃
〃冗談言うたらあかんがな、おばちゃん。僕自身Ｚ高校入って少し
は気ィ引き締めなあかん思うて、勉強でもなんでも真面目に取り組
むようになったけど、うちの学校は超個性派いうか凄い奴の溜まり
場なんや。
前に紹介した鈴木康敏いうんは中学生の頃からポリーニとかボゴ
レリチとか言われてピアノの才能を認められとったし、さっきの英
語の歌詞をしあげた松尾宗久なんか普段はあんまり目立たんけど、
伊賀忍術士の末裔らしいんや。ほかにも在学中にシンガーソングラ
イターでデビューするいうてる奴もおる。こいつはまだ会うてない
んやけど、瀬田の唐橋の袂で大津絵の店をやってる家の息子やった
筈や。
その点僕なんか平々凡々。とてもやないが音楽専科に進学する値
打ちなんてあらへん。〃
〃そうかしら、私はかずちゃんの歌声には人を引き付ける魅力があ
ると思うけど。〃
〃褒めてくれるのおばちゃんだけや。〃
和明は拍子をとっては同じフレーズでDragonfly and Butterber
の歌を口ずさんで、上機嫌であった。
〃ねえ、かずちゃん。私ね、弓池ロッヂの高原アイスクリームを食
べたら草津へ戻っていようと考えているの。旅館に入れるのは午後
だけど皆んなこっちへ向かっている頃でしょう。渋滞に巻き込まれ
たりして私が一番遅くなるのは嫌だから。〃
〃そっかぁ、おばちゃんは草津温泉も白根山も何度も来てるんやも
んな。横手山頂のアイスクリーム、僕も欲しいわ。僕の分も買うて
きて。〃
今日の午後、和明の両親や兄の美岐男、妹茜たちの他親戚一同総
勢２５人ほどが草津温泉桂井旅館に集まることになっている。宴会
を企画したのは和明の父だが、妙子伯母と和明が先発隊の役割を任
されていた。一族の大半は京都や滋賀県の在住者で、群馬県や志賀
高原の地理には詳しくないというのが実情なのである。
〃おばちゃんはそれまでの時間、湯めぐりとかやるの。逆に疲れが
溜まるんとちゃう。それより熱帯植物園とか見に行ったら。〃
〃ラフレシアとかサラセニアとか珍しい花があるところでしょ。あ
そこも何度も行ってるの。〃
〃じゃあ、西の河原にある< じんべえ茶寮> は。〃
〃よくは知らないけど、お汁粉や田舎善哉の店かしら。〃
和明が弓池の向こうの草津白根山最高地点のほうをむいたきり返
事をしないので、妙子がぽんと彼の肩を叩いた。
〃かずちゃん、乗って。出るわよ。〃
〃おばちゃん、僕はも少しいろいろ見てから歩いて草津まで下りる。
逢ノ峰から殺生河原までロープウェーも通っているし、歩いてでも
２時間くらいで旅館に着けると思う。
さっきから気になっとんやけど弓池の向こうのあのへんてこな岩
の上から誰かがこっちへ手を振っているみたいなんや。もしかした
ら僕を手招きしてるんやないかって思うてきた。〃
〃あすこは蓬莱岩っていう爆裂火口壁の岩場ね。崩れやすい岩だか
ら誰も登ったりしないんじゃないかしら。〃
〃ずっと見てるけど、誰かいる。気のせいなんかやない。僕のこと
を呼んでいるんや。〃
〃気をつけて行くのよ。〃
〃大丈夫や。墜落危険箇所やガス発生地帯はだいたいわかってる。
これでも高校のワンゲル班で活動してるからな。〃
弓池を一周する木道は蓬莱岩を真上に見上げる位置で二岐に分か
れている。左のみちは木道からすぐに普通の小路に戻り道標がここ
を基点に鏡池や白根山最高地点に向かうことを示している。
和明は二岐のところで蓬莱岩へダイレクトに取り付く踏み跡がな
いか見回した。明瞭とはいえないが岸壁の上のほうへ行くことはで
きそうや、岩の割れ目から幹をのばす高山松を手づかみしながら徐
々に高度をかせぐと見晴らしのよい盤状テラスの上に出た。
……キャッホー……
和明は嬌声をあげたがよく見ると登ってきた側と反対側に回り込ん
でいる様子である。今いるテラスからでは弓池も駐車場も岩陰にな
って見ることができない。岩場づたいに回り込もうと試みるも切り
立った崖に行く手を阻まれどうすることもできない。
あとすこし登れば尖った岩峰ピークに辿り着けそうなのだがあい
にくこの日は登攀用具を持ち合わせていなかった。仕方ない、とテ
ラスに腰を下ろし再びワンダフルデイズのテーマを口ずさんだ。
ワンダフルデイズのテーマ
おお、なんと素晴らしき日々よ
聳える山の、岩蔭に脚をとどめ
綿菅は揺れ、そよ風は私の頬を撫で
あらん限りの素晴らしき日々よ
おお、思い出すのは
遥か谷の深きより、生まれ来る雲の流れ
大空へと沸き立ち、さすらい、消え行く
私の胸の思いにも似て
突然、和明の耳に岩陰から誰かが手を叩いて拍手をするのが聞こ
えた。
〃美しい歌声ね。私が好きな映画の主題曲に日本語の歌詞があるな
んて知りませんでしたけれど。〃
和明は己が上機嫌で歌っているのを岩の反対側で誰かが聞いてい
るとは思いもしなかった。それに姿こそ確認できないが若い女性が
ひとりで佇んでいる様子なのだ。彼は一瞬顔を強張らせ歌うのを止
めた。
〃そこにいらっしゃったんですか。ほんま恥ずかしい。〃
〃下のほうから歌はずっと聞こえていましたよ。このあたりの風景
をそのまま歌詞に表したようで、爽やかな歌だって感じていました。
あなたはどちらから来たの。関西訛りがあるわね。〃
〃僕でしたら滋賀県の甲賀、忍者で有名なところです。夏の間、高
崎郊外のおばちゃん宅に居候してます。名前は小田和明、和の心で
明るく、と書きます。歳は１５歳、高校一年。〃
〃男の方でしたの。私はてっきり女の方だと思いました。響きわた
る歌声がとても高くて軽やかなんですもの。〃
〃いえいえ褒めていただけるなんて。僕の声なんて甲高くてかまび
すしいだけですよ。仲間うちでもよく言われるんです。自分、鳥が
囀るみたいで落ち着きがないて。〃
〃そんなことありませんわ。本当に鳥の囀りのようにまっすぐで、
何と表現したらいいのかしら、笛の音のように清らかな響きをもっ
て聞こえてくるのね。〃
〃声が楽器見たいに、ですか。民謡歌手がそうや、とは聞いたこと
があるけど。僕は民謡はあまり得意やないし。あっ、これは専門の
師匠について習うてない、いう意味で。ほんまは民謡も好きなんで
す。英国民謡の< 緑の小袖> なんてもう最高。〃
〃〈グリーンスリーブス〉でしょう。あの歌にも日本語の歌詞があ
るんですか。聞いてみたい。〃
〃歌いましょうか。〃
〃歌ってください。〃
緑の小袖
つれなき微笑み 面影のこして
果てなき丘を 現れては また消え
緑の小袖よ 悲しきさだめよ
とこしえ風に吹かれ 栄寿の花はなびき
〃やっぱり私が思い描いていたとおりね。あなたの声は単なるビブ
ラートではないの。聞こえる向きによって音程が違ってくるみたい、
ご自分では気付かないのかもしれないけれど、私は４度高い声を確
かに聞きとめた。独唱が二重唱のように聞こえてくるのよ。〃
〃へぇえ、そないなっとったんですか。初めて知ったわ。でも音楽
について詳しいんですね。〃
〃専科を出て、いまは声楽クラスを受け持っています。〃
〃大学を卒業って、僕よかずっとおねえさんやないですか。姿は見
えないし、話し声だけで判断すると同じ高校生かなあ、て思うたん
やけど。僕は女のひとの知り合い、あんまりおらんし。〃
〃同世代じゃなくて残念だったかしら。〃
〃そないなこと、ありませんよ。先生みたいで、もっといろいろと
教わりたいくらいです。そうや、僕もそっち側へ行ってもいいです
か。〃
和明は滑りそうな断崖の草付きをわしづかみして、岩の裏側への
移動を試してみたがどうにもうまくいかず、尖峰を乗り越えていく
のも不可能と察せられた。
〃もう、せっかくおねえさんの隣り合わせでお話できる、思うたん
にどうにもなりまへん。声だけなんて、寂しすぎます。〃
〃私はこのままでじゅうぶん満足です。〃
〃そない非情な、世紀の美男子がすぐ近くにおるんに。〃
〃あら、そんなに綺麗なお顔なの、私、自分で誇らしげに美を強調
する方は初めて。〃
〃えぇまあー、言葉のあやとでも言いましょうか、オ○○○スの地
主道夫に似てるてよく言われるんです。けど最近は、ふ○○○うの
細坪基佳やて言われとるかな。一番好きなのはと○○○ゃんの市川
善光なんですけど。あとジョージ＝ベンソンやボズ＝スキャッグス
もはずされへんわ。フォーリナーのルー＝グラムもいい。尤も僕自
身があないやれるかどうかは別やけど。〃
〃夢や目標がいっぱいあっていいわね。それにとても楽しそう。〃
〃僕はおねえさんの隣へ行けたら、もっと楽しかったやろな。まっ、
えぇか。声だけの物語なんて、水仙と木精みたいで物悲しいかとも
考えたけど、それはそれで結構、新たな発見もあったし。おねえさ
んはまだ下りないんですか。〃
〃私はもう少し高原の風に吹かれていようかしら。雨雲も近づいて
来ないようだし。〃
〃僕はそろそろ草津へ行かないと。親父や兄貴も来ている頃やし、
今晩親戚一同集合して大宴会やるんです。〃
〃ひとつ歌をお願いしてもいい。あなたが弓池のほとりに出たら、
大声で歌って、フォーレのパヴァーヌを。〃
〃モンテスキューの詩が歌詞になっている曲ですね。あれなら僕は
得意にしてます。そうやった、そっち側からは弓池方向がよく見え
るんでしたね。ほんなら僕からもひとつお願いがあります。歌が聞
こえたら手を振って僕に合図してください。〃
和明は勇んで岩稜帯を抜けると弓池を取り囲む木道に立って、蓬
莱岩を見上げ、パヴァーヌを絶唱した。
C'est Lindor! C'est Tircis!(せらんど せちるす) 心うばわれ
C'est Myrtill! C'est Lyde'( せみるち せりで) 胸は高まる
あらん限りの尽きせぬ思い 天にとどけと
示したもう 我が………
……あれ、なんで霞んどんのやろ……
和明は眼を凝らして蓬莱岩のピークを見た。そこには彼がその場所
ではついに姿を見ることができなかった彼女、暫くの間話し込んで
いた相手が大きく手を振っている。
……確かにあのひとや、眼鏡をかけとったんか、やっぱ姿も優しそ
うなひとや、長い髪が風に揺れとる……
月刊ＷＥＢ風 ２０１８年６月号 通巻第１１１号
［原稿用紙１９枚］
