らあめん男 ７
大堀敏靖
「麺屋やまと」に二日勤めて、水曜日の休日となっ
た。「今度の日曜行くけんね〜」と磯村美和からライ
ンが入ったが、お互い日曜は休日ではなく、天神軒グ
ループの休日は水曜日だった。もっとも無休で営業し
ているチェーン店もある。「麺屋やまと」はしっかり
と週休二日制で、火・水が休みだった。
磯村美和の入った店も水曜休みだった。美和は火曜
日の最終の新幹線に乗って名古屋に行くとラインを送
ってきた。そんな夜中についてどうするのか。泊まる
あてはあるのか。
「一分デモ一秒デモ今藤君と時を共有したかとです」
などと送ってくる。
「夜中に着いてどうするの？」
「泊めて」
泊めて、と言われても自宅に家族がいるところへ、
博多から来た小太りのミニダル女を連れ込むわけにも
いかない。
「２４時間営業のお店あるとね。そこでお話しよっか」
眠くなる。夜は寝たい。
「じゃ、ホテルでよかよ。駅前のラブホで一緒に泊ま
ろ」
朝一の新幹線で来ると言ったではないか。それで十
分だろう。
「いけん。私、日に日に弦クンへの想いが強まって、
夜も寝られんくらいになっとるけん。飛んで行きたか
ぁ」
ラブホに泊まるか。五千円くらいで泊まれるのだろ
う。それも悪くないと思った。しかし、そんなところ
に男女が宿泊すれば一晩中語り合ったでは済まされな
いだろう。済ましてもいいと思うが、先方が承知しな
いだろう。シャワーを浴びるとか言って、バスタオル
を巻いて出てくるだろう。ベッドに横になれば放って
おけなくなる。需要があれば供給を満たさなければな
らない。小太りでチンチクリンの自己主張の強い女で
ある。通常ならば相手にするはずもない。完全にスル
ー対象である。しかし、美和のアプローチを許してし
まっているのは、弦の中に高校時代に想いを寄せてい
た佳純、古谷佳純に美和が似ているためイメージが重
なって、そのイメージを追いかける気持ちがあるから
である。高校時代の淡い恋の相手への想いが確かに美
和に会ってから高まっているのを感じている。
―― 古谷佳純。高二の同じクラスにいた佳純は弦
の窓際の席の右斜め前に座っていた。教師が黒板に板
書するのをみれば必然、佳純の姿が視界に入ってきた。
艶のある黒髪、まっすぐ伸びた背筋、純白のセーラー
服の襟、肌の白さを際立たせる美しい鬢、比類なき優
れた芸術作品を目前に置かれて勉強を強いられる理不
尽に耐えがたきものがあった。飛びついてこの子をさ
らってどこかへ行きたい。そういう衝動を抑えるのに
必死だった。勉強のためには席を変えてもらった方が
いいとも考えた。しかし、学校が休みになり佳純の姿
が見られないこともまたそれ以上に切ない辛さがあっ
た。
高二の夏休みには完全に佳純に恋していることを自
覚して親しい友人にも公言していた。
「古谷がいい。古谷が好きだ。あ〜あ、会いたい、ホ
ントに会いたい」
友人は笑っていた。背が低い。一五〇を割っている
かもしれない。演劇部に所属しているが、配役は老婆
だった。
「お前はマニアか。全く理解できん。どこがいいのだ、
あんな女」
「天使としか思えない」
「どう見たらあの女が天使に見えるのだ。お前の美意
識を疑う。基準が狂っている。中近東かアマゾン方面
の美意識ではないか」
「何とでも言ってくれ。俺にはエンゼルなんだ」
「エンゼルというよりも俺には縁ゼロだな。しかし、
蓼食う虫も好き好きって言うが、あんな女でも結構男
関係が激しいみたいで、よく駅前あたりを歩いている
が男が毎回替わってるな。今藤と同類のマニアが結構
いるかもしれん」
それを聞いて弦は動揺した。自分だけの佳純だと思
っていたらやはりかわいい佳純に目をつけているライ
バルが複数いたのである。
「本当か、それは…」
「本当だ。物好きが世の中には結構いるってことだ」
「ショック」
「ショックか。さぁ弦君。ショックを受けてどうする
かだ。ライバルの出現。あっさり身を引くか、ライバ
ルと古谷を巡ってコンフリクトを繰り広げるか」
「争いは好まない」
「じゃ身をひくか。あきらめるんだな」
「いや、あきらめない。戦わずして勝つ」
「そんな孫子の兵法のようなことを言ったってはじま
らんよ。どうやって勝つのだ」
「ライバルを無視して、古谷の気を引きつける」
「どうやって」
「勉強がんばる。がんばって名前張り出される」
弦の高校では定期テストや実力テストがあると必ず
ベスト・テンが廊下に張り出されていた。当然注目を
浴びる。弦は一度も名前が載ったことがなかった。
「馬鹿か、お前は。そんなことで気を引けるわけない
だろ。勝手に頑張って、で終わりだろ。女は男をこっ
ち向かせたいんだよ。こっち向いてる男しか興味ない
んだよ。勉強の方向いてる男を好きになるはずないだ
ろうが。男だってそうだろ。あの学年一位の不細工眼
鏡の山本澄子を好きになる男なんかいるか、いないだ
ろ」
「いないな」
「佳純さん、僕は貴女のために勉強がんばります。が
んばってベストテンに入って見せます、とか言って、
今まで一度も載ったことないお前の名前が廊下に麗々
と張り出されたら、そりゃ古谷も少し感じるところが
あるかもしれんけどな」
「そうか。じゃ、そうしよう」
「告るってことか」
「手紙書く」
「手紙…。お前今時手紙なんて流行らんぞ。メールか
電話か直接言えよ」
「ムリ」
「じゃあ、電話にしろ」
「もっとムリ」
「なんで」
「緊張するもん」
「手紙なんて男らしくねぇぞ。もっとストレートにや
れよ。女はな、ストレートにぐいぐい押し込まれるの
に弱い生き物なんだよ。最初は拒んでも、直接にぐい
ぐい押し込まれると理屈抜きにいい気持ちになってま
ってな、それが続くと離れられなくなってしまうんだ
よ」
「ムリ」
「ムリ、ムリ言うんならあきらめることだな。遠くか
ら眺めて詩でも小説でもマスでもかいていりゃーいい」
「ムリ。胸がパンクしそうになって何も手につかない」
「ほーオゥ。そこまで思い詰めているんか。じゃ告っ
てスッとするしかねぇな。直接言うのが一番成功率が
高い。その次電話、メールだと成功率は下がる。手紙
はシカトされて終わりだろ」
「そうなのか」
「手紙なんか相手の反応が時間差だからな。待ち時間
は地獄だし、相手もどう反応していいかわからん」
「そうか」
「直接言え」
「ムリ」
「じゃあ、電話にしろ」
「電話もムリ」
「手紙なんか地獄だって言ってるだろ。返事が来んぞ」
「…」
「電話の方が男らしい。その場で片付く」
「わかった、じゃ、電話にする」
「よし、それなら善は急げだ。今しよう」
「え、今？それはムリ」
「今ムリなら永遠にムリだろ」
「だって準備できてないもん」
「準備もヘッタクレもあるか、好きです。あなたのた
めにベストテン入ります。それだけだろ」
「そうだけど…」
「今だよ。林先生も今でしょ、って言っている。今を
逃がしたら永遠にチャンスはないぞ」
弦は半分おもしろがっている友人にけし掛けられて
少しずつその気になってきた。
「今か。…でも家にいるかな」
「いる」
「なんでわかるの」
「そういうもんだ」
クラス名簿を見るまでもなく、弦は電話番号を暗記
していた。携帯電話をポケットから取り出す。
「よし。弦。やれ。男になるんだ。青春の一ページを
飾るんだ。当たって砕けろ、だ」
番号を押す。後は通話のボタンを押せば古谷佳純の
自宅電話にかかる。
「押せ。押すんだ、弦」
「……」
「押せ」
「…ダメだ。押せない」
「なぜだ。なぜ押せない。薔薇色の世界が待っている
というのに、なぜ押せない」
「地獄の世界かもしれない」
「ちがう。薔薇色のお花畑に蝶が舞い、鳥たちがさえ
ずっている。それを押せば扉は開かれる」
「地獄に鬼が待ち構えてて、血の池が煮えたぎってい
る」
「は？チキンか、お前」
臆病者、小心者、チキンと言われるのが弦は一番イ
ヤだった。
「違う。予想しているだけ」
「そういう予想をして何もできないヤツのことをチキ
ンっていうのだ」
それを聞くと瞬間的に弦は通話のボタンを押してし
まった。
呼び出し音が鳴りだした。一回、二回、三回、…
出ないことを弦は祈った。呼び出し音が続いてくれ。
四回、五回の途中で受話器の取られる音がした。
「はい、もしもーし」
「あ、あの、ふ、古谷さんのお宅、ですか？」
「はーい、そうですがー」
老人の男性の声である。おそらく佳純の祖父だろう
恋も愛も子育ても責任も超越した老人の声に弦は心落
ち着くものがあった。父親なら娘をねらう男からの電
話に敵対心を剥き出しにするだろう。
「あ、あの、か、佳純さんはいますか？」
「はぁ、なんですかー。わっしはねぇ、耳が遠いんで
よく聞こえんのやわ」
「か・す・み・さ・ん・は、い・ま・す・か？」
「嫁か。嫁は今畑にいっとるでな、ちょっと呼んでこ
か。そのまま待っとって」
佳純の祖父は「嫁」と言っているから自分の奥さん、
つまり佳純の祖母かあるいは息子の嫁、つまり佳純の
母親に用だと勘違いしている。
保留のボタンを押していないため、バタバタと音が
して、「和子さんは畑か」とか声が聞こえる。「知ら
ん」と返事をしたのは確かに佳純だと弦は思った。あ
あ、佳純さん、そこにいるではないか、あなたです、
あなたに用があるんです。畑で仕事している人にでは
ありません。あなたが電話口に出てください。
「なんか、おじいさんが勘違いをして、古谷じゃなく
てお祖母さんかお袋さんに取り次ごうとしてる」
「はぁ？佳純さんて言ったやろ」
「言った」
「また取り次いでもらうしかねぇな」
母親や祖母なら父親程には抵抗はない。
引き戸を開け閉めする音やテレビの音が聞こえた。
佳純がそばにいるはずだ。聞こえるかもしれないと思
った弦は叫んでみた。
「ふるやかすみさーん、出てくださーい！」
すると誰かが電話口に接近してくる音がして、弦の
胸は最高潮に高鳴った。身構えると、ガチャガチャと
音がして、ツーツーという機械音に変った。切られて
しまったようだ。
「切られた。叫んだら切られたッ」
「おいおい、何やってんだよ」
「叫び声が聞こえて僕だと分かった古谷が切ってしま
ったと思う」
「違うって。受話器がはずれていると思って直して切
れたんだろ、たぶん。もう一回掛けてみろよ」
「もういやだ」
「弦、こんなことくらいで引っ込むのかよ。あのな、
恋の道は必ずしも平坦じゃないんだ。イバラあり、落
とし穴あり、猛獣あり、山賊あり、増水した濁流あり、
そこを乗り越えていって恋人の元へ至ってこそ相手は
感動して成就することになるのではないか。電話の取
次ぎをうまくしてもらえなかったくらいで挫けてどう
する。さぁ、もう一回掛けるんだ」
「いやだ」
「わかった。俺が取次ぎまではやるから古谷が出たら
代わることにしよう。それならいいな」
言い終わらないうちに友人はリダイヤルを押してい
た。
「もしもし、古谷さんのお宅ですか。僕は同じ学校の
今藤と言いますが、佳純さんはいらっしゃいますか。
はい、すいません。お願いします」
受話器を弦に差し出す。
「いたぞ。ほれッ」
「え、マジで」
弦の心臓はばくばくと早鐘のように鳴った。受話器
を耳に当てる。
「もしもーし。あのな、今孫は風呂入っとるで、出れ
んわ」
また老人の声である。
「そうですか。それなら…」
すると佳純と思われる怒りの声が近づいてきた。
「おじいちゃん、いい加減にしてよ。どうしてそんな
でたらめばかり言っとるの。誰からやの」
「お父さんの会社の人やぞ。おめえは関係ねぇ」
「でも今、孫とか言っとったでしょ。もぉーッ。おじ
いはどいて、どけッ」
乱暴な言い方をしている。
「もしもし、代わりました。どちら様ですかぁ？」
まぎれもなく憧れの佳純の声である。
「あ、ご、ごめんなさい。こ、今藤です」
「え、今藤君って、クラスの今藤クン？めずらしいな。
こんにちは。ナニ？」
「急にごめん。言いたいことがあって、電話しました」
「えっ、そうなの。なんかこっちこそごめんね。じい
ちゃんが半分ボケてて」
「いいよ。おもしろいおじいちゃんです」
会話がぎこちない。
「電話が大好きでね。電話が掛かってくると真っ先に
出て、でたらめなことばっか言って、真面目な用件で
電話してくる人もおるのにね、迷惑やてホント」
学校とは違う佳純の話し方に弦は少なからず驚いて
いる。憧れの人なんかではなく、そこらにいる普通の
女子高生である。しかし、ここでじゃあと切ってしま
うわけにはいかない。志があって電話をした。目的を
達しなければならない。
「あの、佳純さん」
「はい」
「ボ、ボクは、…」
「…」
「ボクは佳純さんのためにベストテン入りますッ」
「え、ナニ？私のため？勉強のことだよね。それって、
私のためになるのかなぁ」
まったくその通りである。弦がベストテンに入った
ところで、佳純には何の利益も還元されない。弦は言
葉に詰まった。
「わかったよ。私のことを想って勉強がんばるってこ
とだよね。私もがんばるから一緒にベストテン入ろっ
か。って、それはムリッ」
「…」
「ムリ」と言われてしまった。拒絶されたということ
か。
「あ、ムリっていうのはベストテン入ることね。私、
中の下だから、私文（私立文系）考えてるから」
「佳純さん。僕は、佳純さんが好きですッ。ベストテ
ン入りますッ。じゃさよなら」
それで弦は電話を切ってしまった。
「おいおい、切るのかよ。そこからじゃねぇのか」
「言うこと言ったからいい」
「会う約束とかせんのか」
「いらん」
弦は憧れの佳純と電話で話し、想いを伝えることが
できただけで、これまでに体験したことのない達成感
と異様な高揚感を感じていた。
「言ったぞ。告白したぞ。勉強もがんばれるぞ」
「ちょっと違うと思うけどな。返事聞かんと何も始ま
らんと思うけどな」
その通りだった。告白したら、相手が受け入れてく
れるか返答を待たなければならない。それを弦は待た
ずに切ってしまった。佳純の方でも二階に上りかけて
その途中で階段が消滅したようなものだ。
翌日、弦は佳純から校舎の屋上に呼び出された。放
課後三時に来てほしいと朝教室の入り口で言われた。
佳純はまじめな顔をしていた。まったく授業は頭に入
らずすべて上の空で昼の弁当を食べたことも無意識の
中で記憶にない。ホーム・ルームが終わって胸の動悸
を感じながら屋上に昇っていくと佳純は柵に腕を凭せ
掛けてグラウンドの方を見ていた。後ろ姿に近づいて
いく。まともに呼んだこともないので何と声をかけて
いいのかわからない。
「古谷、サン」
佳純が振り向く。佳純の髪が豊かに揺れた。背景に
は蒼い空、白い雲があった。グラウンドの隅の樹木の
緑もあった。少女漫画に描かれるような星が見えるく
らい何もかもきらきらと輝いていた。それが高速度撮
影の動画を見るように弦の中に記憶されている。
弦と目が合うと佳純は白い歯を見せて微笑した。
「今藤クン。呼び出したりしてごめんなさい。昨日は
電話くれてありがとう。うれしかった、っていうか、
びっくりした。急にあんなこと言うんやもん」
「急でごめんなさい。どうしても言いたかったから」
「返事しなきゃと思って来てもらいました」
「はい…」
わざわざ呼び出すんだからいい返事だろう、私もあ
なたのことをずっと思ってましたからお付き合いして
ください、っていうことだろうと弦は予想した。そん
なことになったらどうしよう。めまいがして身体の細
胞がばらばらに崩壊するような気がした。
「私のことを好きとか真面目に言ってくれる人は初め
てで嬉しかったんだけど…」
そこで佳純は一呼吸置いた。
「だけど…」となぜそこで逆接の接続助詞が入るのだ。
逆接の後には予想外のこと、流れを変えるような内容
のフレーズが続くと国語の小林が力説していた。
「…嬉しかったんだけど、私みたいなチビでかわいく
ない女の子でもいいんですか。なぜ私なのか、一晩考
えたんだけど全然わからなくて、もしかして冗談でか
らかわれているじゃないかと思ったんだけど、違う？」
「違うよ。僕は古谷さんのことを想っていてどうしよ
うもない自分があったんで友達に相談したらそれは告
るべきだと言われたんで、昨日背中を押されて電話し
たんです」
「ホント？」
「ホントです」
「嬉しい。でもなんで昨日電話すぐ切っちゃったの？」
やはり不自然だったかと弦は反省した。
「ごめんなさい。恥ずかしくて、言うべきこと言った
ら耐えられなくて切ってしまいました」
「もっと普通に話して。私たち同級生なんだから」
「あ、はい」
「私たち」という言葉が弦は嬉しかった。カップル
となった二人が人生の航路を船出したような気がした。
「私のことはかすみって呼んでくれる。私は今藤クン
のことをゆずるって呼ぶから、それでいい」
「いいよ」
「じゃあ呼んでみて私のこと」
「か、かすみ…」
「ナニ、ゆずる。もう一回」
「かすみ」
「ゆずる」…
校庭では野球部が練習を始めて独特の掛け声が飛び
交い始めていた。
「ゆずる、今度映画観に行こうか。『タイタニック』
観た？」
「観てない。観たいと思ってた」
「じゃあ、行こ。今度の土曜日、シネマ・エックス」
こうして弦は古谷佳純と清らかな付き合いを約半年
した。が、卒業と同時に大学が東西に隔たり二人の関
係は破綻したというのでもなく自然消滅してしまった。
佳純が結婚して子供もいることを風の便りに聞いた。
ラーメンのことばかり考えていた弦は別に何とも感じ
なかった。高校時代の淡い恋の思い出として完結して
いる。佳純の方でも今の生活に手いっぱいで昔の記憶
を反芻するような余裕すらないだろう。弦のことなど
完全に過去の遺物となって、記憶の蔵の奥深く埃をか
ぶって封印されてしまっているだろう。
そこへ、どういうわけか佳純にタイプの似た女がま
た接近してきた。遠距離であるのに現代の利器を使っ
て暴力的に迫ってくる。
結局、磯村美和はどうしても火曜日の夜に名古屋に
行きたいと言い張って、そんなに言うならそれもいい
かと弦は承諾してしまった。女の一念というのは強烈
なものがある。これと狙いを定めたら豆タンクの戦車
のように突進してくる。特に美和は思い込みが激しく、
意志というものを明確に持った女のようだった。こう
いう女に愛されているうちはいいだろうが、敵に回し
た時は大変かもしれない。恨みを買えばどんな復讐を
されるかわかったものではない。言ってみれば弦は蛇
に睨まれたカエルみたいなもので、もう美和の餌食と
して覚悟するしかない所に追い込まれてしまったかも
しれない。
考えてみれば仕事が終わって最終でやって来て駅前
のラブホで泊まりたいなどというプランは二十代そこ
そこの娘が立てるには非常識過ぎる。最終ではなく始
発で来るほうが余程健全である。そこを非常識という
批判もモノともせず強引に闇を引き裂くように突っ走
って八〇〇キロの距離も乗り越えてしまう女の一途さ
は侮りがたいものがある。逆らったらひどい目に遭い
そうである。ここは仰せに従うしかない。
「八時一分の最終に乗るけんね。到着は十一時二十分、
ホームまで出迎えお願いします。名古屋はいっちょん
わからんと。うち方向音痴やし」
名古屋の地理もわからず方向音痴の女の子が深夜に
新幹線のホームに降り立つのを放っておくわけにはい
かない。弦はラブホテルではなく駅前の普通のビジネ
スに予約を取った。
そこに寝かしつけて自分は帰ればよい。明くる日迎
えに行って、名古屋港水族館や栄に連れて行って名古
屋メシを食べさせればいい。
「了解。でも、八時一分の新幹線に乗れるのかな。仕
事は一番忙しい時じゃないですか？」
「平気です。早退しますから」
「研修生がそんな勝手なことしていいの？」
「研修生だろうが、正社員やろうが、人権ってもんが
あろうもん。用事があれば早く引けます」
目的のためなら山をも動かし、川を埋め立てても突
き進む。九州女、博多女子の面目躍如である。
こういう明確な意志をもって目的遂行のためにまっ
すぐに突き進んでくる人間に対しては下手に逆らわな
い方がいい。逆らって角を立ててもつまらぬ思いをす
るだけである。受け手としてはフレキシブルに受け止
めて相手の力を吸収し、それをこちらの力として利用
する方が賢い。どう考えてもイニシアティブは磯村美
和が取るだろう。弦は引きずり回されることになるだ
ろうが、考えてみればたかが九州から来た娘に名古屋
を案内するだけの話である。国運を掛けた外交で他国
の首脳を接待するわけでもない。相手に任せて成り行
きを見守っていればいい。向こうとしても嫌われたく
はないだろうからそんな身勝手はいわないはずである。
蛇に睨まれたカエルかもしれない。交尾の途中で頭
を喰われてしまうカマキリの雄かもしれない。仮にそ
うだとしてもそこにマゾヒチックな快楽が潜んでいる
ような気がする。逞しい気の強い女に乗っかられて攻
め立てられて首を絞められでもするところに甘美な悦
楽が潜んでいるような気がする弦だった。
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０１８年５月号 通巻第１１０号
［原稿用紙３０枚］
