らあめん男 ６
大堀敏靖
そのときテーブル席が一つ空いて中に入ってきたの
は、先ほどのオネエ系の二人だった。
反射的に弦は店の奥に引っ込もうとした。
「今藤。今入ってきたお客さんには待ってもらってく
れるように言ってくれ」
「ええッ」
「何が、ええッだ。待ってもらえ。店の都合だから仕
方ない」
ズンコ、ウメコと呼び合っていたオカマの二人はよ
うやく店内に入れた喜びをかみしめるようににこやか
にしていた。
「やっと入れたわねぇ」
「ほんと。こんなに待たされるとは思わなかった。さ
っきのふざけた店員いるかしら。文句言ってやらない
と」
「あ、ズンコ。さっきの兄さんよ」
修行の身である弦は副店長の命令には従わなければ
ならない。任務を遂行しなければならない。我を捨て
て。
「ちょっと、アンタ、さっきは酷いことをしてくれた
わね。なんで私を突き飛ばしたのよッ」
「すいません。重ねてすいません。あの、もう少し外
で待ってもらえますか」
「はぁ〜ん？何言ってんだよ。私たち中に入れって外
の店員さんに言われたんだよ。なんでまた寒空の下に
出ていかなきゃなんないのよッ」
「店の都合がありまして、テーブルを一つ空けないと
いけなくなりました」
「はぁ〜ん？店の都合って何なのよッ。お客より大事
な都合ってあるのか」
「テ、テレビ局の取材が入りまして」
「はぁ〜ん？テレビ？テレビと客とどっちが大事なん
だ」
「さぁ、僕にはわかりません」
「店長呼びなさいよッ。客をバカにするにもいいかげ
んにしてよッ」
「そうよ。店長呼びなさいよ」
仕方なく弦はカウンター越しに店長にちょっと出て
きてくれるように言った。
「そういうのは小室君に言って。私はラーメン作って
るから」
今度は、ニヤけた顔で大島明日香たちと打ち合わせ
をしている小室に言った。
「うるせぇな。仕方ないだろ。テレビ局が来たんだか
ら。怒ってる？店長出せ？しょうがねぇなぁ」
小室が店の入り口へと向かった。
「すいませんね。ちょっと立て込んだ事情がありまし
て。もうしばらく待っていただけませんか」
「アンタが店長か」
「いえ、副店長です。店長はラーメン作りに専念して
ますんで」
「まぁいいけど、客を一旦店の中に入れといてまた出
てけってのはどういうことなのよ。テレビ局の取材か
なんか知らないけど、寒空の下に四十分も待ってたん
だからね。しかもあの店員に突き飛ばされてパンツ丸
見えの写真撮られたし」
「え、突き飛ばした？」
弦は顔の前で右手を振って否定した。
「おめー、大事なお客さんに乱暴を働いたのか」
「違います。息苦しかったので、つい」
「息苦しい？わざわざいらっしゃったお客さんのこと
を息苦しいってか」
「違います。おっぱいに挟まれて」
「オッパイ？おめー、何言ってんだ、さっきから」
小室はオカマたちに向き直って、
「すみません。うちの若いもんが失礼しました。こい
つは入りたてだもんで、段取りもよくわかっておりや
せん。何卒この副店長の小室に免じて許してやってお
くんなせぇ」
「なんか、任侠映画みたいね」
「そう。じゃあ、許してあげるからすぐに店の中に入
れて頂戴。寒くて我慢できないから。ラーメン大盛た
べさせて頂戴」
「すいやせん。今ちょっと、まずいんでごぜいやす」
「何がよッ」
「席がいっぱいで」
「いっぱい？さっき家族連れが出ていってテーブルが
空いたはずじゃないの」
「それが間違ってまして、すいやせん。外に立ってる
ヤツも新米なもんで」
「ウソ言ってるわよ、このお兄さん。テレビ局の取材
を優先したいんで私たちを座らせないのよ」
「一体どこのテレビ局のなんて番組なのよ」
「愛テレの『名古屋を食べちゃえ』でごぜぇやす」
「あ、あれね。あたし見たことある。アンダー・ボー
イズが出てるやつよ」
「知らないわよ、そんなローカル番組。私は教育テレ
ビと衛星放送しか見ないから」
「名古屋メシを巡って紹介する番組であたし、アン・
ボのショーヤが気に入ってる。え、ってことは店の中
にショーヤがいるの？ヤバいッ。ズンコ。テンション
あがってきた」
ウメコは中を覗いた。
「あ、いるいる。ヤバッ。ショーヤいるよー。握手し
てもらえるかなぁ」
「そんなことはお安い御用です。私が頼んできやすか
ら、申し訳ごいません。今少しここで待っててもらえ
ますか」
「いいわよ。わたし待つ」
ウメコは納得していた。しかし、ズンコという巨体
の方は、
「納得しないわよ。テレビ局だって並んで入るべきで
しょうが。アポ取らずに来てるわけでしょ、突撃取材
とか言って。マスコミの横暴じゃないの。マスコミが
何偉そうにしているのよ。ただの媒体じゃないの。バ
イタ（売女）みたいなもんよ。あたしが非を悟らせて
やるわよ。ぶざけるんじゃないよ」
ズンコは店の中に入っていき、名前の通りずんずん
と店の奥の、テレビ局の一向がいるテーブルの前にま
で進んで行った。
「ズンコはずんずんと前に進んでいく牛みたいなとこ
ろからあるから学生時代からズンコって呼ばれている
のよ」
と、ウメコが解説した。
「チョットー、あんたたちも並びなさいよ。突然割り
込んでやってきてラーメン食べるなんてズルいわよ。
暗黙のルールってもんがあるんだから。テレビ局だか
らって、超法規は許されないわよ。他の客は許しても
あたしは許さない」
「ごもっともでございます。私も並ぶべきだと思った
んですが、副店長さんがその必要はないと言われるん
でお言葉に甘えようとしていたところです。わかりま
した、並びます」
ディレクターは素直に応じてくれた。
ところがズンコはそのとき局アナの大島明日香と目
があって、お互いに「あー」と叫んだ。
「ズンコー！」
「アスカー！」
「ナニ、お知り合い？」
「大学の同期のズンコです」
「大学の…」
「チョットー、アスカ、何でこんなとこにいるのよぉ。
テレビ出てたなんて全然知らなかったぁ。十年ぶりだ
よね。急にいなくなるんだもん。ずいぶん探したんだ
よぉ」
「ごめん。あの時はホントにごめんね。あたしにっち
もさっちも行かなくなって」
「いろいろ訳アリってことは感じてたけど、まさかタ
レントやってたなんて夢にも思わなかった。びっくり
したなぁ」
「ごめんね。でもズンコは相変わらずね。全然変わっ
てない」
「それ喜んでいいの。進歩がないってことでもあるわ
ね」
二人は笑い合った。
スタッフは大島とオネエ系のズンコの会話に唖然とし
ていた。
「すいません。仕事忘れてました。並ぶんでしたね」
大島が言うと、
「アスカ。いいわよ。アスカならいい。許せる。あた
し文句言ったこと撤回するからそこのテーブルに座っ
てラーメン食べて仕事進めて」
ズンコの怒りに燃えたさっきの顔は一転して穏やか
な笑顔に変わっていた。
「え、いいの？でもズンコ、さっき文句言ってたよね。
どこの自己主張の強いオカマかと思ってたけど」
「ここの店員に突き倒されたから頭に来てたのよ。私
のお店の仲間のウメコはハグしておいて私は突き飛ば
すんだもん。差別よね。あ、こちらウメコ、よろしく
ね」
ウメコが大島に投げキッスを送った。
「突き飛ばした？ひどい。こんないい子をねぇ」
「そうなのよぉ。暴力的な店員がいるって、放送して。
この店客が減って困っちゃうから。そうしたら並ばず
にラーメン食べれるよね」
巨体のズンコはしゃべり続けていた。
テーブルに大島明日香とアンダー・ボーイズがつい
た。三人はノーマルな「博多塩とんこつラーメン」を
注文した。
ディレクターがキューを出す。
「はい。私は今、名古屋の今池にある麺屋やまとさん
にお邪魔しています。今日もアンダーー・ボーイズの
二人と楽しくレポートしていきたいと思います。今日
はおいしいラーメンが食べられそうです。よろしくお
願いしま〜す」
お笑いコンビのアンダー・ボーイズが、いつも決め
ポーズをする。店の外で歓声と拍手が起こった。ファ
ンが入り口付近や通りに面したウィンドー前に溢れて
いる。並んでいる客とごちゃ混ぜになってしまってい
る。
「ラーメンが出来上がるまでこちら麺屋やまとさんの
副店長さんにいろいろお話を伺いたいと思います」
小室が緊張した面持ちで大島の横に座る。
「副店長の小室さんです。小室さんよろしくお願いし
ます」
「ホイッ」
緊張のため声が裏返ってしまっている。
これに受けてしまった大島は笑いをこらえている。
「副店長さん、緊張してはるわ。オレらなんかまだ売
れてへん芸人やから緊張なんかすることおまへんで」
「オレは緊張されて嬉しいわ」
「それではお聞き…します…。プッ」
大島は噴き出してしまった。
「あかんで。明日香ちゃん、仕事にならんがな。笑っ
とってどないやねん」
「すいません」
小室は笑われていることにも意識がいかないようで
顔を引きつらせてインタビューを待っている。
「ご、ごめんなさい。笑ってしまって。それではお聞
きします。ここのラーメンは…プッ」
「失礼やがな、明日香ちゃん。ナニ笑うてんねん。仕
事せな」
「ギャラ抜きやで、ほんま」
「ご、ごめんなさい。クククッ」
大島は顔を真っ赤にして笑いをこらえようとしてい
るが、どうやらツボにはまってしまったらしい。ディ
レクターは生放送でこんな放送事故のような状態にな
って怒っているかと思いきや、ニヤニヤ笑って見守っ
ているだけである。
後で聞いた話によれば、大島はたびたびこういう状
態になって、それが自然で視聴者に大受けして「おも
しろい」「あの天然の女子アナを出せ」という声が殺
到しているらしい。
大島に代わってお笑い芸人の一人が小室に尋ねた。
「ここは創業何年なんですかぁ」
「し、知りませんッ」
「ギョギョ、魚拓ッ」
それが彼らのギャグだった。
「知りません。…それくらい長い歴史があるお店って
ことでっしゃろな。イチオシのラーメン何ですか」
「博多とんこつ塩ラーメンでッす」
「ああ、ぼくらがさっき注文したラーメンですわな。
特長はどんなところにありますねんやろ」
「濃厚にしてあっさり、麺しこしこ、デッス」
「ほぅ、濃厚にしてあっさり」
「矛盾してまんな」
大島がようやくツボから脱出して、正気を取り戻し
たようだった。
「ここのラーメンは、博多天神軒の流れを汲む、とん
こつラーメンで、天神様のお陰がラーメンに籠ってい
て頭のよくなるラーメンとして評判でもあるんです。
それで受験生が合格祈願もこめてよくやってくるとい
うことです、よね」
「そうなんですか？知りませんでした」
うつろな目をして小室がいうので、
「ええっ。違うんですか。私、昨日勉強してきました
よ」
「他のラーメン屋さんと間違えたんちゃうの、あんた、
そそっかしいからな」
「山田次郎さんが屋台から始めた元祖博多塩白湯（ば
いたん）ラーメンじゃないんですか、そうですよね」
「たぶん、そうです」
「たぶん？」
「副店長さん、もっとここのラーメン熱く語らなあき
まへんで。そんなあいまいなことゆうててどないや」
そこで大島が、
「私が語ります。ラーメンに対するこだわりとお客様
のことを一筋に考えて、屋台のラーメンから博多に地
上十階建てのビルを構えるまでに大成長を遂げた天神
軒の精神を受け継いで、ここの店長の北野恭子さんは
お父さんから二代目の女店長として毎日ラーメン作り
と絶え間ない研究に余念がないんです。ですよね？」
大島が小室をのぞきこむ。
「そうだと思います」
「副店長さん、あかんて、そんな、人ごとみたいやん
か、もっと語らんと」
「はい。わが麺屋やまとは、創業、えっと何年だった
かな、…何年だかちょっと忘れましたが、味一筋、お
客様のことなんかよりとにかくラーメンでやってきま
した。ラーメン一筋で…」
「なんや、それ。客はどうでもええんかいッ」
また大島に大受けして、大島は今度は大口を開けて
笑っていた。目に涙さえ浮かべて笑っていた。
ほとんどお笑いバラエティーのコントである。こん
なひどい中継が生放送で流れてしまっていいのだろう
か。真面目に食レポやれとか、視聴者をバカにしてる
のか、とか批判が殺到しているのではないか。ディレ
クターはニヤニヤ笑いながら見守っているだけである。
こういう破天荒な女子アナとお笑い芸人の容赦ない
ツッコミが受けているのかもしれない。
そこへ弦が出来上がった三杯のラーメンを運んでい
く。自分もテレビに映ることになると思うと緊張した。
けっつまずいてタレントにラーメンをかけてしまった
り、こぼしたり、指を入れてテーブルに置いたりする
ことのないようにしなければならない。
「さぁ、そんな内容のないインタビューをしている間
にラーメンが出来上がってきましたで」
「うわッ、メッチャうまそー」
「ヤバッ」
「運んできた店員さん、小栗旬君にちょっと似てるや
んか。そう言われません？」
弦は突然自分に振られたため、舞い上がってにやけ
た笑顔を作っているうちに三杯目のラーメンをテーブ
ルに置く動作がおろそかになり、手に指が入り、スー
プが少しこぼれる。
「あっ、指入ってる。スープこぼれた。オレのだけな
んでや」
そう言われて動揺した弦は指を抜こうとしてさらに
器もろともひっくり返してしまい、それがよりによっ
て小室に全部かかってしまった。
「あちあちあちあっちッー、あっちー、バカヤロー」
それは熱いだろう。なにしろ作りたてのラーメンで
あるから。横にいた大島がとっさにテーブルに置かれ
ていたお冷を小室めがけてかけたが三杯目は顔にかけ
ていた。
「うわっ、なんで顔ー」
「副店長さん。脱がなあかんて、火傷になりまっせ」
膝の上に麺やチャーシューが乗っていた。スープは
たっぷり中に沁みているだろう。立ち上がると麺やチ
ャーシューは下に落ちた。小室はズボンを脱ぐと下半
身パンツだけになった。
「明日香ちゃん、今こそ水や、水掛けたって」
カメラマンは止せばいいのに股間にズームアップし
た。小室のパンツがお茶の間に映し出されていただろ
う。どういうわけかこんな状況であるのに小室の股間
はこんもりと膨れ上がっていた。大島の隣にいてずっ
と下半身も緊張していたのかもしれない。
ディレクターはさすがに中継をあきらめてスタジオ
に切り替える判断をしてもよかったが、相変わらずニ
ヤニヤ笑ったまま見守っていた。おそらく、このあご
髭にサングラスの男は視聴率しか考えていないのだろ
う。珍しい絵を撮って来いと厳命されているため、多
少品位に欠けることでも、事実を捏造してでも視聴者
を驚かせる映像を撮って上司に褒められ、褒賞をもら
い、出世することしか考えていないのだろう。
「ええんかな、こんなひどい中継してて。ラーメンど
ころやないで」
「ほんまやて。今日はオレら出る幕なしや。お笑い芸
人を超える店員と局アナにお株とられまくりやがな」
全国放送ではないが数万人、数十万人の人々がこの
滑稽な模様をお茶の間で固唾を飲んで見守り、腹を抱
えていただろう。
外で見ていたアンダー・ボーイズのファンたちも手
を叩き、指をさして、顔をゆがめて笑っていた。
すね毛の濃い小室の両足に、弦が冷水器から汲んだ
水を芸人と大島にリレーされて掛けられ、赤くはなっ
ていたが大した火傷にはならずに済んだようだった。
小室は悲壮な面持ちで奥に引っ込んだ。
「さ、気ぃ取り直してラーメン食べまひょか。伸びと
るかもしれんけど」
「オレのはなくなってもうたがな。半分くれ」
「私のを食べてください」
中継は続いていたが、弦はドタバタが一件落着した
ところで、オカマのズンコに捕まっていた。
「おい、お前。さっきあたしを突き飛ばしたわね。ど
ういうことだ」
腕を まれている。謝るしかない。
「すいません。そんなつもりなかったんです。胸に挟
まれて呼吸ができなくなって生命の危機を感じたもん
ですから」
しかし、怒っているかと思ったら表情は意外と柔ら
かい。
「あたしの胸どうだった」
どう答えていいかわからない。
「ねえ」
「豊満でした」
「そうでしょ。ウメコより弾力があったでしょ。そこ
らの女には負けないから。きつく抱きすぎてごめんね」
「いえ、僕の方こそ力が入りすぎて突き倒すことにな
ってしまってすみませんでした」
「いいわヨ。豊満って言ってくれたから許してあげる。
あたしさぁ、おっぱいには自信あるからおっぱい褒め
られるとなんでも許せちゃうのよ」
「あんな立派なおっぱいは初めてです。僕は貧乳しか
知りませんでしたから」
「何、アンタの彼女貧乳なの」
「今は彼女いませんが、前付き合っていた彼女は自分
では美乳と言ってましたが貧乳でした。物足りなく思
いました」
「おっぱいに挟まれてイったことなんかなかったでし
ょ」
「ありません。それはできないって、謝ってました」
「謝ってたの。いい彼女じゃん。でもかわいそー」
「大きければいいってもんではないって、慰めてまし
た、あ、すいません。大きいことはいいことです」
「そうだよ。大は小を兼ねるって言うからね。大きい
に越したことはないのよ。なんで別れたの」
「他に好きな男ができたとか言って去っていきました。
フラれたんですね、僕が」
ズンコはしばらく考えていたようだが、
「違うと思う。オカマの直感だけどね、彼女はアンタ
から身を引いたのよ」
こういう人たちは男女間の機微を敏感に感じ取る能
力に秀でているのかもしれないと弦は思った。わずか
な時間に和解してこんな深い話をできているのが驚き
だった。こういうのもこの界隈の人間の特殊な能力か
もしれない。
そう言われれば、結婚をたびたび口にするようにな
った彼女のことを、結婚など考えたこともない弦がわ
ずらわしく思い始めたころ急に彼女が別れ話を切り出
してきた。べったりと自分にくっついてメールを欠か
したことのない彼女からぷっつりとメールが来なくな
ってその急激な変化が信じられず、いい男が現れると
そんなものかと驚いたが、結婚を言い出さない弦が歯
がゆく、煮え切らない態度が結婚を強く願望していた
彼女には我慢できなかったかもしれない。結婚が眼中
にない弦に愛想を尽かしたともいえるが、結婚まで考
えさせることのできない自分は弦にはふさわしくない
女と悟って身を引いたとも言えないことはなかった。
「身を引いた…。そう思えば僕は救われますが」
「アンタくらいの男がフラれるはずないって。フる方
がどうかしてるわよ。その彼女、そんなすごい玉だっ
たわけでもないでしょ。貧乳だし」
「確かに…」
はっきり言って彼女の周囲の評判はそんなによくな
かった。身勝手だとか、仕事がいいかげんだとか、自
己中だとか批判めいた話をよく聞いた。弦にはそんな
ことをあまり感じさせなかったが、それは自分と自分
が気に入った男だけを考えて行動していたためかもし
れない。気が少し変わればたちまちに嫌な女に成り下
がってしまう女かもしれなかった。
そこで思い出したのが、研修で知り合い、弦に近づ
いてきた博多の女磯村美和だった。今週末にも名古屋
に来ると言っている。あの女も向こうから近づいてき
た女である。唐仁原と喧嘩になりそうになっていた。
唐仁原からすれば嫌な女だったろう。
「アンタ、自分からいい女を探してぶつかっていかな
い限り、変な女の餌食になって翻弄されて苦しむこと
になるのよ。私の直感だけど」
どうして人の心を見透かしたようなことばかりこう
ポンポン言えるのか、不思議だった。やはり、普通人
とは異なる特殊な経歴を歩み、特殊な体験や思索を通
じて特殊能力を培ってきたのだろう。預言者や易者や
人生相談員に向いている。あるいは宗教の教祖になれ
る。言うことは間違っても確信をもって断定的に言わ
れると意志薄弱の人間はそちらに靡いてしまう。
「あたしと付き合いなさいよ。あたしと付き合えば、
きっといい彼女に巡り合えるわ」
付き合うとはどういう意味か、このオネエ系と枕を
共にするということか、オカマとはどういう性交渉を
するのかさえわからない。気味が悪いばかりで考えら
れない。
「あたしと付き合いなさいよ。時々お酒飲んだり、ピ
クニックに行くだけだから。それ以上は求めないから
」
客にプライベートな付き合いを求められた場合、我
を捨ててそれに応ずるべきなのか、断るべきなのか、
長いものには巻かれておくべきなのか、判断がつかな
かった。とりあえずは受けておいて後で考えればいい。
「わかりました。ご指導お願いします」
「アンタ、偉いわね。見直した」
磯村美和といい、このズンコといい、ぐいぐい迫っ
てくる身勝手な女に翻弄されるところがある。こちら
も選択の権利があるというのはズンコの言う通りで、
ズンコや磯村がその変な強引な女だとすれば、拒絶す
る自由はある。しかしそれをしないのは、自分でも強
引な女に弄ばれたいという変質的な願望があるからか
もしれない。しかし、少なくとも磯村はともかくオカ
マに翻弄されたいとは一度も思ったことはない。ない
のだが、もう一人のウメコを抱きしめたときの高校時
代の淡い記憶を思い出させる心地よさは何だったのだ
ろう。ああいうところから開花していくということは
ありうる。通常の女性にはない何かに嵌りこんでしま
って抜け出せなくなってしまうかもしれない。
そんなことを考えると恐ろしくなった。厳しく一線
を画して、二人だけでは会わない、ホテルなんかへは
間違ってもいかない、接触させない、こういう戒律を
決めて付き合いをさせてもらおうと弦なりに決心して
いた。
テレビの取材はいろいろあったが、なんとか終了し
て、ズンコと大島アナはラインでつながり再会を約束
したようだった。
弦は地下鉄車両の窓に頭を凭せ掛けながら、今日一
日を振り返ってこんなことでラーメン修行ができるも
のかと反省した。
人間関係に翻弄されて、寄り道、道草、突発的出来
事に精力を削ぎ取られて、進むべき道も進めないでは
ないか。なんで歌を歌ったり、オカマを抱きしめたり、
オカマと付き合う約束をしてしまったのだろう。それ
は単なる災難ではなく、自らが招き寄せていることで
ある。中村師匠も「すべての因は己の中にある」と言
っていた。ラーメンの道を極めなければならない。余
計な人付き合いは峻拒して、贅肉をそぎ落としシェイ
プアップして、シンプルな精神となってラーメン道に
ひたすら進むべきだと弦は思った。
その時、ラインの着信を知らせる音がして見ると、
磯村美和だった。
「お疲れ〜。今度の日曜、のぞみに乗っていくけん。
よろしく〜」
光を抱いた鉄の塊が暗黒の坑道を轟音とともに滑っ
ていった。
つづく
月刊ＷＥＢ風 ２０１８年月３号 通巻第１０８号
［原稿用紙３０枚］
