らあめん男 ５
大堀敏靖
白人の男女と黒人の親子の相手をしてはしゃぐよう
にしていると、いきなり背後から肩を掴まれた。セカ
ンド・マン副店長と思われる小室が立っている。開店
前にネギを刻む包丁捌きに弦が感心して見とれた男で
ある。
振り向くと、
「ちょっといいか」
と言った。
もとより外人客とじゃれ合っていただけで重大な接
客をしていたわけではない。
返事をすると、店の奥の従業員控室に連れていかれ
た。
「何か…」
「何かじゃねぇよ。おめぇ、調子に乗るんじゃねぇぞ。
新米のクセして客とじゃれ合ってんじゃねぇよ」
「いえ、ただ、ツーショットを頼まれたんで…」
「断れ。気安く応じてんじゃねぇ」
「はい。でも、店長は店の評判になるんで客に受ける
ことならいいというような許可をくれましたけど…」
「うるせぇ。そんなことはラーメンとは関係ねぇこと
だ。歌、歌いたかったらてめぇライブハウスでも行っ
て歌ってりゃあ、いいじゃねぇか。一生ラーメン屋で
歌、歌ってるつもりか、バカ野郎」
「でも店長はいいと…」
「うるせぇな。恭子さんはラーメン作りのことしか頭
にねぇんだよ。店の経営とか、従業員の教育とかそれ
は俺が仕切ってんだ。イチイチ口答えすんじゃねぇよ」
「はい」
弦は不本意だったが受け入れるしかなかった。
「でも、僕はお客さんの要求に応えただけですが、そ
れでもダメなんですか」
「うるせぇな。口答えすんなって言ってるだろ。あか
んもんはあかんのだ」
「出過ぎたことは何もしてませんよ。歌、歌ったのも
要求されたからで、自分から歌いますなんて言ってま
せんし」
おそらく客にさきほどあんなに受けてしまったこと
が自信になっていたかもしれないが、小室がただ新米
イジメをしているに過ぎず、初日から客の心をつかん
でしまった弦に僻んでいるんだろうと思えたので自分
にも信じられないくらい強気に出てしまった。
「ラーメンも大事ですが、お客さんに喜んでいただく
ことが同じくらい大事ですから、僕のやったことは間
違っていたとは思いません」
「うるせぇな。だから歌、歌いたかったら歌番組のオ
ーディションでも受けて歌手デビューすればいいだろ
うが、ラーメン屋ですることか」
「歌手デビュー目指すほど上手くはないんで」
「だろ。だったらラーメンに専念すべきじゃねぇのか」
それは正論である。ラーメン屋で歌を歌って受けた
って所詮、余興に過ぎない。そんなことで客を寄せ続
けられるわけではない。今日のようなことを毎日やる
ことなど考えてはいない。弦にしても歌を歌うつもり
など毛頭なく、常連の田島さんに乗せられてやろうと
したら偶々ノリのいい女子大生風の女の子たちがいて
予想外のパフォーマンスになっただけの話である。自
分の本分はラーメン修行であることは重々承知してい
る。
「ごもっともです。僕はラーメン修行の為にここにい
ます。歌唱修行じゃありません」
「だろ、だったら変な自己主張はするな。ラーメンの
ことだけ考えてオレの言うことには絶対服従しろ」
「はい。でも、店長は客寄せにはいいことだって…」
「だから、恭子さんは職人で、経営にはオンチだって
いってるだろ」
「店長と副店長ではどっちが偉いんですか」
「そういう問題じゃねぇんだ。偉いとか下とかじゃな
くて、役割分担なんだよッ」
「僕はどっちの言うことを聞けばいいんですか」
「どっちも聞け」
「そんな…」
「口答えすんな。俺たちのころは口答えなんかトンデ
モない話で、先輩には気に食わねぇとすぐに裏につれ
ていかれて撲られた。俺は暴力は振るわねぇが、我慢
も限度を越すと、水とか粉とかぶっかけるぞ」
修行とはそういうことであることは承知している。
中村小拙師にも言い含められている。我をなくすこと
が修行の最大眼目で理屈を言っていたのでは成長はな
い。理屈は何とでもつけられる。
小室の目をじっと見た。
「なんだ。まだなんか言いたいのか」
「いえ、もう何も言いません」
「わかったか」
「はい。わかりました。調子に乗ってすみませんでし
た。新人らしくします」
「よし。戻れ」
「はいッ」
外人が運ばれてきたラーメンを写メにとって、戻っ
てきた弦にまた一緒に映るように要求したが、弦はや
んわりと拒否した。
「すみません。仕事中なんで」
「ホワイ？さっきはツーショット、オーケーでしたね」
「すみません」
特にすることもないのだが、弦は忙しいふりをして、
表に出ていった。
相変わらず行列ができている。たかが一杯のラーメ
ンのためにこんな寒空の下をよく行列できるものだと
思う。人間よほどの価値があるものを求めない限り、
好き好んでこんな忍耐を引き受けられるものではない。
その時、店長の無心にラーメンを作る姿が脳裏に浮か
び、人々は店長の一杯一杯のラーメンに籠める何か、
それは愛といってもいいかもしれないが、芸術にもつ
ながる価値的なものを求めて千円近い金額を払って行
列待ちに忍耐するのだと思った。そう考えると単に腹
を満たすだけではない、非常に創造的な価値が付加さ
れて一杯のラーメンは供給されているのだと思うと、
たかがラーメンであるが、偉大なことのように思われ
てきた。軽薄な気持ちで歌を歌ってパフォーマンスな
んかしていい気になっていた自分が恥ずかしいと思っ
た。店長のラーメンを引き継ごう。その技を自分のも
のにして、そのあとでオリジナルを出せるのなら出し
ていけばいい。とにかくそのまま盗み取ろう。盗むと
いっても不法なことではなく、弟子として伝授させて
もらうということである。
「お待たせしておりまーす。寒い中申し訳ありませー
ん。しばらくお待ち願いまーす」と弦は声を張り上げ
て行列の人々に向かって言った。
「ねぇお兄さん。どれくらい待つのよ」
オネエ系と思われる二人組が尋ねてきた。行列の真
ん中辺りである。
「二十分くらいだと思いますが…」
「寒いのよ。あたしたち薄着だから。何とかしてよ」
「店内は暖かくなっております。熱気でムンムンする
くらい」
「店内じゃなくて今よ。寒くて仕方ないのよ。もう行
列並ぶの辞めちゃうわよ。客が二人減って本日の売り
上げに響くわよ。いいの」
「どうしましょう。従業員のダウンジャケットでよろ
しければお持ちしますが」
「いやよ。人のジャケットなんか。体臭が染みてて」
「ウメコ、若い男の体臭ならむしろオッケーじゃない
の。このお兄さんくらいなら許せるでしょ」
「そうね。あなたのジャケットなら貸してちょうだい」
弦はそれはごめん被りたかった。オカマは蛇と同程
度に苦手である。手足のない蛇のイレギュラーな動き
が恐怖であるのと同様、こういう人たちの内面の闇の
深さはやはり恐怖の対象だった。同じ地球上生物とは
到底思えなかった。
「すいません。僕は今日ジャージを着てきただけでダ
ウンジャケットは持ってないんです」
それは嘘だった。厚手のダウンジャケットを着て木
枯らしに備えてきた。
「じゃあ、あたしを抱きしめてよ。温めて」
それは尚遠慮したいところだった。
「客が困っているのよ。お客様は神様でしょ。なんと
かするのが、神様に対する礼儀じゃないかしら。ねぇ
ズンコ、そうよねぇ」
「そうよ。その通りだわ。でもこの兄さん、オネエが
苦手みたいよ。なんか腰が引けてるじゃない」
「なによ。わたしたちのこと気持ち悪いって言うの。
エイリアンみたく毛嫌いしているわけ」
「いえ、決してそんな。滅相もないことです。大事な
お客様ですから」
「なら、温めなさいよ。ぎゅっと抱きしめて冷えたあ
たしの身体を抱きしめて。内側から炎を燃やせるよう
にハグしなさいよ」
これも修行かと弦は思った。弦はウメコと呼ばれる
男だか女だかわからない、慣れない生命体に一歩近づ
いた。背の高さは同じくらいである。胸のふくらみが
あるので体は女になっているのかもしれない。大体二
十人に一人くらいは男子でありながら女子、女子であ
りながら男子がいると聞いたことがある。入浴したと
きに股間をまさぐって硬い筋があれば完全な男だが、
それがなければちんちんがついていようとも女なのだ
そうだ。幸い弦は固い筋があって完全な男だと確認す
ることができた。この前にいる人たちはちんちんは確
かについていて男子と確認されたが、それと肛門の間
が陥没していて半分は女の身体だったのだろう。そし
て男子としてなんとか生きてきたが、本心を言えば、
女より男のほうが気になるし、服装やおしゃれに興味
があったし、母親の留守にこっそり口紅やアイライン
を引いたりすると異様に興奮したりしたのだろう。そ
してもやもやしたものが、ある日同じ境遇の人によっ
てそういう宿命なのだと教えられ、開き直ることにな
って楽になり、オネエとしての人生が始まったのだろ
う。
そういう想像はできるが、異人種、異星人、異生命
体であることには変わりはない。皮膚はぬるぬるして
いるのだろうか。粘液が付着するかもしれない。特殊
な香水かコロンか香を焚きしめているかして嗅いだこ
とのない異様な匂いがするかもしれない。
「さあ、早くハグしなさいよ」
もう一歩近づいた。意外と美しい顔がそこにあり、
お化粧の細部がわかるとそれは男の顔に女を演出した
ものを超えて完全に女としてその美しさを際立たせる
ための化粧になっているのがわかった。男女の性を超
えてそれは美的な完成品で芸術作品として抱擁しても
構わないと思った。
「失礼しますッ」
目をつむってウメコを抱きしめた。胸のふくらみが
感じられ、その柔らかい全体の感触は高校時代に初め
て後輩の女子を抱きしめた感触と似ていた。明らかに
人形やマグロを抱いているのとは違っていた。抱擁に
もいろいろあって心が伴っていないとモノとしか感じ
られないが、気持ちが入ると格別なものがある。
この場合意外なことに後者に近かった。相手に強烈
に男を求める気持ちがあって、弦の後ろ向きの気持ち
を凌駕してしまったようだ。
周囲から拍手が起こった。
十秒くらいして目を開けた。行列待ちの客が全員こ
ちらに注目している。
「あの…」
「ダメ。まだダメ。もっとずっとこうしてくれなきゃ
温まんないから」
「いいな。ウメコ。そのあとあたしも頼むわね」
これも修行か。しかし、自分は一体何をしているの
だ。オカマをハグして、また拍手をされることになっ
てしまった。ラーメンとは何の関係もない。店長はこ
れも客寄せとして理解してくれるだろうが、こんなと
ころを小室に見られたら何を言われるかわかったもの
ではない。撲られるか水か粉を浴びせかけられ、店長
に破門、解雇を進言されるだろう。
弦は三分間ほどウメコというオカマを抱きしめて結
構甘い気持ちに満たされた後、
「もういいですか」
とウメコから離れた。
「今度は私」
とズンコが言うと向こうからいきなり抱き付いてき
た。豊胸手術でもしているのかやたらと巨乳の胸に顔
を挟まれた。
「仕事たいへんなんでしょ。まず私が温めてあげるか
ら。私のミート・テックで温まりなさい。身も心も温
かくしなさい」
しかし、呼吸が困難になるほど締め付けられた。
「く、苦しいです。息ができません」
オカマの巨乳の合間から籠った声で弦は訴えた。
「いいのよ。窒息しなさい。私の胸に挟まれて窒息す
れば涅槃に行けるから」
弦はこの力の強いオカマに殺されるかもしれないと
思った。真面目に苦しくなり、得体のしれないオカマ
に底知れない恐怖を感じた。
「あーーーーーッ」
と、叫んで死の恐怖から体をよじらせてズンコをか
ら離れようとして突き飛ばしてしまった。
ズンコは後ろによろけて仰向けに転倒し、開脚した
タイツの足が反動で上がってドレスがまくれあがりパ
ンツが見えた。
オカマのパンツなどは見たくもなかった。この滑稽
な模様をスマホで撮影し、ＳＮＳに投稿する者もいた。
「オカマのパンツ」というタイトルでもつけたのだろ
う。
「ああ、痛、イタタ」
「すいません。大丈夫ですか。息できなくて苦しかっ
たもんで」
「ちょっとぉ、何すんのよぉ。どーして私だけ突き飛
ばされなきゃいけないのよぉ。ウメコとは待遇が違う
じゃないのぉ。どういうことよー」
「生命の危機を感じましたもので」
その時店のドアを開けて小室が外を覗いた。
まずい。怒られる。
「すいません。店の中に戻らないといけません。暖か
くしてお待ちください」
「どうやって暖かくなるのよぉ。人を突き飛ばしてお
いて待ちなさいよぉ」
ズンコは背後で喚いていたが構わず、店の中に戻っ
た。
「何やってた。外で」
「いえ、待っているお客さんに声を掛けてただけです」
「拍手が聞こえたそうじゃねぇか。また歌、歌ったの
か」
「いえ、決して歌なんか」
「初日からクビになりてぇのか、お前は」
「いえ、絶対そんな、なりたくありません」
「店の中にいろ。余計な真似すんな」
「はいッ。すみません」
余計なことをしたことは確かだった。並んでいる客
に声を掛けた。そんな指示はされていない。それくら
いは許されると思った。何かこれをしろとしっかり指
示を与えてほしい。
「僕は何やったらいいんですか。洗い場でも、オーダ
ー取りでも、肩もみでもなんでも指示されればやりま
す」
「だから、見てりゃあいいんだ。しっかり見て研修生
らしく段取りを覚えろ。それが仕事だって言ってるだ
ろ」
「見ているだけって、どこを見てればいいんですか」
「自分が大事だと思うところだろうよ」
「小室さんを見てればいいんですか」
「バカ野郎。オレは見世物じゃねぇ。オレ以外を見ろ」
「でも、小室さんのネギを刻むあの包丁捌きはスゴイ
ものがありました。あれは職人技というか芸術的でさ
えありました」
「バカ野郎。上からモノ言うんじゃねえ。あんなのは
誰だって、一か月もネギ刻んでりゃあ、できるんだ」
「一か月もネギ刻み続ける人なんて滅多にいないです
から、やはりスゴイですよ」
「バカ野郎。そうやって人をおだてて機嫌取るんじゃ
ねぇ。とにかく、オレ以外をしっかり見て店の段取り
を覚えることなんだ。余計なことはするな」
「はいッ。でもネギの刻み方教えてください。お願い
します」
「バカ野郎。そんなのはな、盗むもんなんだ。じっと
見てて真似して自分のものにしてしまうものだ」
「小室さんを見ているということですね」
「バカ野郎。ネギなんてもんは、上からまっすぐに叩
くように刻んだらな繊維がつぶれちまうから手前から
向こうにスライドさせて切りゃあそれでいいんだよ。
そうすりゃあ俺がやりゃあ十日は腐らねぇな」
話しているうちに小室の人の好さがにじみ出てきて、
その意外な単純さに好感が持てた。
「凄いですね。そういう要領があったんですか。繊維
がつぶれるってどういうことですか」
「バカ野郎。そんなことも知らねぇのか。ネギってぇ
のはな、植物で中に繊維ってもんが、すーっと通って
んだよ。それをまっすぐに叩くように切ったらおめぇ、
顕微鏡で見ると断面が凸凹になって、空気と触れる面
が多くなるだろ。それで早く酸化して腐りやすくなる
んだ。そんなことも知らねぇのか」
「知りませんでした。成程。スライドさせて切れば断
面はどうなるんですか」
「バカ野郎。まっつぐキレイになるんだよ。それで新
鮮さが長持ちして旨い刻みネギをお客さんに食べて頂
けるってことじゃねぇか。そんなことも知らねぇのか」
「知りませんでした。勉強になります」
「バカ野郎。なんで俺がこんなとこで刻みネギの講釈
をしなけりゃなんねぇんだ。人を乗せんじゃねぇよ」
「すみませんッ」
小室は厨房に戻った。
しばらく弦は入り口近くの壁を背にしてじっと立っ
ていた。段取りを覚えろといっても、客が来て博多と
んこつ塩ラーメンの大盛か普通盛か、トッピングにネ
ギ、メンマ、チャーシュー、海苔、スライスにんにく、
もやしをつけるかどうかとライスの大・中・小を注文
するかどうかのオーダーを取り、後はラーメンを作り、
トッピングを乗せ、ご飯をお茶碗に盛るだけの話であ
る。
問題はそのラーメンであるが、すべて店長が独りで
拵えている。父親から受け継いだ頃は「天神軒」の傘
下に入ってスープも麺もトッピングの具材もすべて調
達することにして言われた通りにやっていたらしいが、
それでは次第に満足できなくなり、まず父にも聞いて
スープを自家製にし、客の反応を見ながら、客が捌け
てから深夜に開発研究を繰り返し、「昔の味に戻った
ね」と言われるようになった。それにも満足せず独自
の味を開発しようとして、週に一度は副店長に店を任
せて評判のラーメン店を巡って新しい味を模索した。
味も進化していく一方で客の舌も進化していることを
感じた。つけ麺や油そばがこれまでのいわゆるラーメ
ンの領分を次第に侵しつつある。一方で変わらぬ味、
スタイルを支持する客もいるのは確かである。そうい
うジレンマの中で気づかれないような微妙な変化を少
しずつ取り入れていくことにした。一年ぶりに食べな
ければ気づかないような変化をスープに取り入れてい
った。流行を少しずつ取り入れて、常連の舌に慣れて
もらうことを考えたのである。
そして麺もどうしても自家製手打ち麺にしたくなっ
た。それは今研究途上で、まだ今は製麺機でほとんど
作っている。チャーシューや具材の仕入れ、使う水も
こだわりを持ちたい。最高のラーメンを客に提供する
ことをいつも考えて渾身の力を込めてラーメン作りに
専念している。売り上げが最高額に達したことを従業
員から聞いてもそんなことは大して嬉しくもない。客
が並ぶ列が長くなっても気の毒に思うばかりで、歯医
者のように予約制にして待たずに食べて頂く手はない
かと考えている。
そういうことでラーメンの作り方はまだよくわから
ないが、そのラーメン作りにかける店長の姿勢は見習
わなくてはならないと弦は思う。無心に丁場で麺を茹
でて湯切りをして一人一人の客にラーメンを作ってい
る店長の姿の背後にある情熱を学ばなければならない
と思った。
弦は先ほどのオカマのコンビが店に入ってくるのを
気にかけていた。ウメコはいいにしてもズンコの方は
突き飛ばして転倒させてしまった。きっと店内で弦を
見つけたら文句をいうだろう。行列の中ほどにいたか
らもうすぐ店の中に入ってくるはずである。
別の従業員が、席が開くと少しずつ客を店の中に入
れていた。
入ってくる客がオカマだったらさりげなく店の奥に
逃げようと思っていた。外国人の四人連れが食べ終わ
り弦に「バイバーイ」と手を振って出て行き、スタッ
フに促されて入ってきたのは、はじけたようなオーラ
があるのでてっきりオカマかと思って奥に逃げようと
するとそれはオカマではなく、この地方で人気タレン
トの大島明日香だった。
「あのー、ちょっといいですかぁ。今『名古屋を食べ
ちゃえ』という番組の収録中で、突然なんですけどぉ、
取材させていただいもいいですかぁ」
弦に向かってそう尋ねた。取材許可を求めている。
弦では判断できない。
「店長に聞いてきます」
ラーメン作りに余念のない北野恭子店長にカウンタ
ー越しに尋ねた。
「店長。テレビ局が取材に来ています。許可していい
ですか」
「私はどっちでもいいの。小室君に聞いてみて。それ
でよければＯＫだから」
小室が権限を握っているのか。ラーメン以外に情熱
を燃やすことに厳しい考えだからこれは難しいだろう
と思った。奥にいた小室が出てきたので尋ねた。
「小室さん。テレビ局が取材に来ていますが、許可し
ますか」
「バカ野郎。またお前がチャラいことやって連れてき
たのか」
「違いますよ。純粋なラーメンの取材です。僕は関係
ありません」
「もういいよ、テレビ局は。常連さんだけで堅固にや
っていけばそれでいいんだ。チャラいお客が冷やかし
で増えなくてもいい。こちらも客を選ぶ権利がある。
断れ」
「え、マジですか。テレビ局の取材を断るんですか」
「バカ野郎。あんなものは視聴率さえ取れればいいっ
てゆう寸法で勝手にやって来て引っ掻き回して、店の
雰囲気を変えようが、経営がどうなろうがお構いなし
の無責任野郎たちの集まりだからな。テレビというと
庶民はへーこらして恐れ入るとでも勘違いした不届き
野郎たちの集まりだからな。関わらねぇ方がいいに決
まってるんだ」
「大島明日香が来てるんですよ。いいんですか」
それを言うと途端に小室の表情が急変した。眉間の
縦じわが消えた。
「大島明日香が来てんのか。明日香ちゃんが…。どこ
に」
「そこです。入り口に立ってます」
「あ、ホントだ」
急にかわいくなって、店を副店長として取り仕切る
小室から一人の三十代後半のミーハーの男の顔に変わ
っていた。
「バカ野郎。お前、それを先言えよ。明日香ちゃんな
ら話は別だろ。取材に応じてもいい。ＯＫ」
弦は入り口で待っているタレントの大島明日香に許
可が出たことを告げた。
大島は花が咲いたような笑顔になって喜び、外に待
機しているスタッフや他のタレントに両手で頭上にマ
ルを作ってＯＫを知らせた。
一行を取り仕切るディレクターと思しき男、カメラ
マン、ヘチマのようなマイクをもった音声、関西のお
笑いタレント二名が入ってきた。
「おい、今藤。色紙を買ってこい。明日香ちゃんにサ
インをもらう。二枚買ってこい」
「どこに売ってます。コンビニに色紙なんてないでし
ょ」
「バカ野郎。角の文具屋で買ってこい。店は閉まって
いると思うが、シャッターをガンガン叩けばハゲオヤ
ジが出てくるから買ってこい」
「そんな無茶な」
「バカ野郎。大島明日香ちゃんが来てんだぞ。こんな
チャンスはそうあるもんじゃねえ」
「なんで二枚なんですか」
「バカ野郎。余計なこと聞くな」
「私用で従業員を使っていいんですか」
「うるせぇな。黙って買ってこい」
「わかりました」
弦は言われた通り、角の文具店に走り、シャッター
の下りた「羽毛田文具店」のそのシャッターをバンバ
ン叩いた。しばらくすると「はいはい、なんですか」
と中から声がして、気の弱そうな頭の禿げた老人がシ
ャッターを開けた。
言われた通りだったので笑いそうになったが、パジ
ャマ姿で寝ていたかもしれない老人に悪いと思って笑
いはこらえた。
「すみません。こんな営業時間外に」
老人は弦の顔をじっと見ると言った。
「色紙が欲しいんですか」
弦は驚いた。
「え、なんでわかるんですか」
「顔に書いたりますよ」
弦は顔に手をやった。
「はははっ。こんな時刻にやってくるのは芸能人が店
に来てサインしてもらいたくて色紙が欲しなったくら
いしかないですでね。五十年も文具店やっとりゃあ、
そりゃわかります」
「そうですか。その通りです」
「あなた、そこのラーメン屋ですか」
「そうです」
「誰が来やーたんです？」
「大島明日香です。知ってますか」
「知っとる何も、あの子は小学校の時分、この近くに
住んどって、ようここにノートやらシールやら消しゴ
ムやら駄菓子やら買いに来よったですよ。顔なじみで
すわ」
「マジっスか。どんな小学生でした？」
「気の利いた明るい子やったですね。おじちゃん、お
じちゃんって言って、道で会っても挨拶してくれまし
た。あれは芸能人になっても、会社勤めしてもどこで
も好かれるタイプです」
若い男だけに好かれるフェロモン放出型やぶりっ子
アイドルとは違う。老人に受けるというのは本物だろ
う。あまり意識しなかったが、大島明日香のイメージ
がずいぶん上がった。小室も熱烈なファンのようであ
る。
色紙を二枚、言われた通り購入し、時間外に店を開
けてくれた羽毛田文具店店主に礼を言って弦は店に戻
った。
相変わらず長い列ができていたが、大島明日香や関
西の若手お笑い芸人アンダーボーイズが来ていると気
づいたやじ馬が入り口辺りに群れナマズの身体のよう
な人だかりができて騒然としていた。
人をかき分けて中に入ると、小室が大島やディレク
ターたちと打ち合わせをしていた。しかし、小室は棒
立ちになって大島に話しかけられてもろくに返事も出
来ないような状態だった。
「やっぱり店長さんに話をきいた方がいいかな」
とさすがにディレクターが言った。
「あ、いえ、店長は忙しいんで僕が、明日香さんの相
手をします…」
「そうですか、じゃあお願いします。まず、この三人
にここのイチ押しメニューを食べてもらいますが、や
っぱ、僕たちも並んだ方がいいんですか」
ディレクターは尋ねた。
「そんな必要ありません。カウンターでもテーブルで
も空けさせますから」
弦はそれは無茶な話だと思った。放送局が取材に来
たからと言って長蛇の列を待ってやっと店に入ってき
たものをタレントを優先させて座らせたりしたら客は
怒るだろう。大島明日香やアンダーボーイズなんて知
らない年配者やテレビを観ない若者もいる。
「え、いいんですか。でも他のお客様に迷惑でしょう」
「いや、そんなのどうでもいいんです。明日香さんが
寒空に待つことはないですから」
どうでもいいなんて言っちゃってるよ、と弦は不安
になった。
そのときテーブル席が一つ空いて中に入ってきたの
は、先ほどのオネエ系の二人だった。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１８年月１号 通巻第１０６号
［原稿用紙３０枚］
