京都・山形
岩木讃三
京都で暮らしたいと語っていた柿本あかねは、第一志望の立命館
大学は不合格だったが、それ以外で受験した佛教大学に合格したこ
とによって、京都で暮らし、京都の大学で学ぶという夢を実現させ
た。だが、京都の大学ならどこでも良かったというわけではなく、
やはり本命は立命館大学だった。佛教大学に入学したあとも、あか
ねは、妥協し、不本意にその大学に入ったという思いが心の中でく
すぶっていた。古堂がそのことを知るのは何年も経ってからだった。
たまにあかねから古堂のＰＳにメールが入る。と言っても半年ぶ
りか、一年ぶりぐらいの間隔である。それはあかねが郷里の東京大
田区・池上に、大学の夏休みか春休みに帰ってくるときである。メ
ール内容はだいたい〈横浜で、予備校仲間だった小林友紀子と一緒
に会いませんか〉、つまり〈飲みに行きませんか〉というメールだ
った。それは〈飲みに連れてって〉というメールでもあり、費用は
ぜんぶ古堂持ちだったが、彼にとっては嬉しい出費でもあった。
あかねが合格し、入学を控えていた四月の初め、横浜駅の広大な
地下街「ポルタ」の中のカフェバー「プロント」に、あかねの合格
祝いを兼ねて三人で入ったことがあった。小林は既に東京家政大の
二年生になろうとしていた。
「ここ最近どうしてる？ 合格して、することなくて暇じゃない？」
古堂があかねに話を向ける。
「最近、ネット見てるの。２チャンネルを見てると、俊英ゼミナー
ルのことが、いっぱい出てるよ」
「あんなの柿本見てるんだ」
掲示板サイト・２チャンネルは、この世のありとあらゆる悪口雑
言の吹き溜まりではないかと古堂は思っている。個人の名誉棄損に
かかわることなら限りなく投稿されている。それでも管理者が摘発
されないのは、サイト自体が海外から配信されていて、誰が運営者
なのか全くわからないということだからだ。闇のサイトを覗くよう
で、古堂がそこにアクセスすることは殆どない。
「俊英ゼミナールの悪口、けっこう書かれているよ。先生の好き嫌
いや、授業の良し悪しなんかも書かれてた」
そんなことを言われたら、古堂も自分のことが書かれてないかと
気になる。
「オレのこともなんかあった？」
「先生のもあったよ。古文の授業、これと言って特長のある授業じ
ゃなかったけど、ビートルズの話なんかしてくれて、いい先生だっ
たというのがあった」
予備校講師として、プロであるからには「いい先生」と言われる
よりは、「上手い先生だ・力のある先生だ」と言われたいものだと
古堂は思った。それにしてもビートルズ・ファンでもない自分が授
業でビートルズのことを語ったことなどあっただろうかと考えた。
ややあって思い出したのは、古文の上級クラスでポピュラー音楽の
話のついでに、ビートルズは聴かないけれど『ロング・アンド・ワ
インディング・ロード』は名曲だと語ったことがあったことだ。ビ
ートルズについてはそれ以外にない。男女が交じったあの十数人の
クラスの中で、自分が何気なく放ったその一言を印象深く記憶に留
めていた生徒がいたのだと思った。
「現代文では、山田先生のことが一番書かれていた」
あかねがそう言うと、小林も山田支持者であることを表明する。
「山田先生、よかったな。どこまでも理詰めで納得のいく講義だっ
た。ね、あかね、海原先生も良くなかった？」
「海原先生もよかったね。あの人は直感派だったよね」
「そうそう、とくに理屈はないんだよね。でも、ここがこうだから
こうだと簡潔に言われると、飛躍はしてるんだけど分かるんだよね」
飛躍していながら理解できる解答って、果たしてあるのだろうか
と古堂は思うが、何も言わない。
「山田と海原は対照的な授業だったけど、俊英ゼミの現代文の両輪
だったよね」
小林がそういうと、あかねもそうそうと言って同意する。山田と
海原のことは古堂も知っているが、二人の評価がそれほど高いとい
うことは、全体での評価もやはり高いのだろうと古堂は思った。古
文以外に現代文も教える古堂は、自分のことが二人の話の蚊帳の外
に置かれているようで複雑な気分で聞いていたが、何も言わない。
しばらくして話が一転する。
「影山の現代文も取ったことあるんだけど、アイツ最低。セクハラ
受けた」
聞き捨てならないことをあかねは言う。そういうことだったら、
予備校の経営サイドに訴えて、厳重な処分をしてもらわないといけ
ない。が、それは身体的な性的被害というものではなかった。
「どういうこと？」
「受験終わったら、〃してあげる〃って言われた」
言葉の性的被害ということだったが、それにしても、何なんだ、
それは？ と古堂は思う。影山という講師は話したことはないが、
確かに古堂も知っている。
「影山ってどういう男かって何人かの人に聞いてみたら、知ってて
教えてくれた人がいて、そしたらアイツのために何人も犠牲になっ
た女の子がいることが分かったの。あいつの手口は、まず生徒と仲
良くなるでしょう。生徒の面倒をよく見て、合格したら十分にお祝
いしてあげて、大学生になり十八歳以上になった後、十八歳未満だ
と法律に触れるでしょう、自分の仕事のアシスタントに来て欲しい
って自宅に呼ぶのよ。女の子はそれで強引にエッチされちゃうんだ
よ」
飲み会のときはいつもは機嫌のいいあかねなのだが、この時は真
顔で吐き捨てるかのように語る。
影山っていう人物、講師控室で、ある別の講師と「好みは男か、
女か」といった話をしていたことを古堂は思い出した。同性愛の話
をしているのだろうかと漠然と思ったが、そんな話を人前でするな
んて、と強い違和感をもったことがあった。
それにしても、あかねも影山のターゲットにされたということな
のだろう。容貌に色気がなくはない。性格として無邪気で人懐っこ
いところがある。そうした面がこの中年男の気を引き、さらには情
を欲している女だと思わせるものがあったのだろう。ただ、あかね
自身、「してあげる」を「セクハラ」と断じ、内心憤慨していると
ころに気丈な側面があった。古堂はあかねの新たな一面を見たよう
な気がした。
あかねの性格にはずぼらと言えるところもあった。予備校の午前
の授業にはよく遅刻してくる。それも授業の中程に教室に入ってく
る。理由は夜更かししての寝坊だった。古堂は、だからと言って叱
ることはなかったが、よく面倒をみてもらった日本史の犬山には何
度も叱られたという。
小林は一度、池上のあかねの自宅に遊びに行ったことがあった。
「どうだった？」
と古堂が聞くと、
「そうですねえ…」
と言葉を濁して苦笑いしている。
「言っちゃだめ、友紀ちゃん」
あかねが傍で言うものの、強く制しているわけでもない。あかね
の部屋はだいぶ散らかっていたらしい。下着も何枚か脱ぎっぱなし
だったようだ。小林は一緒に片づけ掃除してあげたという。そんな
話を聞き、古堂はあかねのことが、自分の十分な友人であり、どこ
か娘のような気もするのだった。
あかねの大学一年の夏に、近況報告のためのように、また三人で
横浜に集まった。それから何も音沙汰はなく、メールが届いて再会
したのは、その一年後の夏だった。
（つづく）
月刊ＷＥＢ風 ２０１７年月１０号 通巻第１０３号
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