赤池洋二
十二月の夕暮れどき、たったの七歳で少女が逝った。少女にとって一
番の宝物はおはじきで、その次がみかん色の夕焼け、三番目は僕のこと
だった。師走の押し詰まった時期、世間は年越の準備に追われていた。
金策に走り回る者、既に走り回る先もなく止むなく家を捨てる者。世間
は少女の死に関わる暇はなく、少女の死もまた世間に何も問い掛けはし
なかった。
丸ノ内にある大手商社の警備のバイトを終え、高円寺の駅を降りると
午前零時を少し回っていた。乗客の姿は朝のラッシュ時と左程変わらな
い混雑で、真夏の日中の熱気が夜中まで続いている。うねりのようにホ
ームの階段を下りる人混みに押され、朝までの熱帯夜を思うと溜め息が
出た。僕の前を会社帰りの中年のサラリーマンが、同じ歩調で降りてい
く。上衣を階段にひきずりながら左手をだらしなく持ち、ネクタイを緩
めたワイシャツが汗で背中に密着している。彼の背中を見ただけで脂っ
こい粘着質の汗が出てくる。
コンパの帰りか女子学牛がジーバン姿の男子学生に腰を抱えられなが
ら千鳥足で下っていく、
「もうすぐ俺のアパートだから」
耳元で囁く男子の肩に頭をあずけ、女は酔いの回った躯から発散する
解放感のままに頷きながら歩いている。この女が、少し前を歩くワイシ
ャツの背中を汗で濡らしたサラリーマンの娘であったとしたら、父娘は
互いにどんな言葉を交わすのか。まあどうでもいいことだ、僕にとって
は。
僕は北口の改札口を抜けると、真っすぐに「ナジャ」へ向かった。今
僕の頭の中に呪文のように繰り返し響いているのは、強力エアコンの効
いた寒いくらいの部屋で冷たいビールを飲み干す真っ白な瞬間、ターミ
ナルを迂回、環七沿いの一筋西側にある早稲田通りに抜ける商店街へ急
いでいる。急げば急ぐほどじっとりした汗が幅を包み、僕は嫌悪感にが
まんできず走り出した。
「ナジャ」の前に着くと狭い階段を照らす入口上の両サイドのライト
が消えていた。
「もう客はいないな」
僕はかなり満足して一気に二階まで階段を駆け上がった。白塗りのド
アを開けたら、オスカー・ピーターソンの〃サテン・ドール〃が響いて
いた。
カウンターの中にしゃがんでいたナナコがドアの音に気づいて立ち上
がり、アーリー・タイムスを持ったまま不思議そうに僕を見た。僕も立
ったまま不思議そうにナナコを見返して生ツバを飲み込み咽喉を鳴らし
た。ナナコは素早い動作でハイネケンの中瓶を抜いて笑いながらカウン
ターの上に置いた、瓶は汗をかいていた。握り占めた掌の感触。僕はラ
ッパ飲みのまま足の長い丸椅子に腰を掛けた。途中ナナコが何か話し掛
けたがよく聞き取れず、目で分からないと合図を送り頭をのけぞらせて
最後の一滴までビールの雫を吸い尽くした。
「まったく、親の敵みたいな飲み方するのね。エアコンがこわれている
から寄ったんでしょ」
そう言って、ナナコはいつの間に栓を開けたのか、右手で僕が空にし
た瓶を片付けながら左手でもう一本ハイネケンをカウンターに置いた。
「今日は真っすぐマンションに戻るって出掛けに言ってたじゃない。戻
って勉強するんだって」
「そう思ってたけど、あんまり蒸し暑いから少し淀んでいこうと思って
ね」
ナナコは唇をすぼめて頭を小刻みに横に揺らし、伝票を付け始めた。
ナナコはややチャーミング。年齢の割には若く見える。
僕が初めてこの店に来たのは、まだ二月の寒い季節だった。東京には
珍しい大雪の日で、僕は下宿に帰る途中で温まろうとこの店に初めて寄
った。その日もバイトを終え、電車も中野で雪のためにストップしてし
まい、歩いて戻る途中だった。とにかく寒い日だった。出店の前でナナ
コが三脚に立て掛けた店名を白墨で書いた小さな黒板をしまおうとして
いた。躯を震わせながら僕は一杯だけ飲んでいいかと尋ねた。ナナコは
無愛想に「一杯だけなら」と肩の雪をはらないながら答えてくれた。ナ
ナコは三十五歳になっていた。
僕は二十四歳で大学院の仏文研究室に籍を置いて、ラブレーを専攻し
漠然と大学に残ることを考えていた、先の見通しは何も立っていず、金
がなくてその日その日をバイトでうっちゃるのがやっとだった。僕はち
ょっとチャーミングで無愛想なジャズ喫茶のママが気に入り、客が引け
たこの時間を狙って数回店に寄った。二回ほど客がいたこともあり、そ
の時はアメリカンを一杯飲んで下宿に戻った。五度目に店に寄った頃は
三月に入っていた、僕が同じように深夜に店のドアを開けると、ナナコ
は奥の大きな木目の円卓に座っていつも通りの無愛想な表情で一人ウォ
ッカを飲んでいた。
「今日は店開まいよ」
彼女はそっけなく言った。かなり酔っている様子。
「電気が付いていたし、ママがいるみたいだったから……。そう、帰り
ます」
僕は左肩に掛けたカバンを軽くしょい直して、ドアに向かって反転す
る。と、
「君が来るような気がして鍵を閉められなかったの」
強い口調でナナコが言った。
「僕を待っていたの」
「違うったら。鍵を閉められなかったの」
ナナコは真っすぐに僕を見て繰り返した。円卓にはガラスの水差しと
角氷、透明なウォッカと水より一回り大きいカットグラスが適当な距離
で並んでいた。ナナコは氷一つをつまんで小さなカットグラスに入れ、
ウォッカを一口分注いでくれた。
「もうすぐ桜が咲くわね」
ナナコはケニー・ドュリューの大きなポスターを見ながら眩いた。
「私、桜の木の下で写真を撮りたいの。君、シャッターを押してくれる
？」
僕は彼女の横に腰掛けた。左四十五度から見る彼女の横顔は何故がと
ても悲しそうに見えた。
「何かあったんですか」
「何もないわよ。別にね。今日一日は昨日と同じように一日中ジャズを
聴いて、お酒を出して終わったわ。これが私の仕事」
「…………」
「桜の木の下で三つの娘を抱いて写真を撮りたいと思っちゃいけない。
女ですもの」
〃ホヘェン・ユー・ウィッシュ・アポン・ア・スター〃が部屋中に響い
ている。
「娘さんがいたなんて知らなかったな」
「娘なんていないわよ。私独身だもの」
「でも今、写真撮りたいって」
僕の体は、右手に持ったカットグラスを宙に浮かせたまま静止してい
る。
「馬鹿ね。夢を見ちゃいけない？ 推でも当たり前に見ている夢を見ち
ゃいけないの。君って案外詰まらない人ね。洒落じゃない。女の洒落ぐ
らい分からないの。せっかく鍵を閉めずにいたのに」
大きな口を開けて笑っているナナコの確に涙が流れた。僕は窓から見
えるサンプラザの光りに目を移して、ウォッカを一口呷った。冷たい液
体が咽喉を焼いた。
その朝、僕は店のソファでナナコを抱いた。外はまだ暗く、光りを落
とした部屋を楕円形のペチカストーブがほの暗く照らしている。僕もナ
ナコもジーパンだったが、脱ぐのに左程手間はかからなかった。お互い
が自然の成り行きで求め合った。電気を消しに行くナナコを僕は後ろか
ら抱きしめた。パチン、というスイッチの音と同時に僕は立ったまま全
裸になった。そして口づけした。ナナコの頬はまだ濡れていた。彼女の
セーターをＴシャツごと脱がせ、ブラジャーをはずすと、痩せた胸が腕
に触れた。僕は胸に顔を押しつけ跪きながら彼女の腹に唇をはわせた。
僕は片手で彼女の華著な尻を抱えジーパンのジッパーを下ろし下腹部を
開いた。ナナコの白い肌に臍から下腹部に柁行する傷跡があった。ナナ
コの悲しみがこんなところにあったことを知らなかった。暫くその傷跡
を見凝めたあと、傷の上に舌を這わそうとした時、
「止めて、ね。お願いだから、止めてちょうだい」
ナナコはうわずってかすれた声で言い、僕の両肩に置いた掌に力を込
めた。
僕は一気に下着を降ろして抱きかかえ、ナナコを壁際のソファに運ん
だ。ペチカストーブの炎が重なった二人の影を揺らしていた。壁に映っ
た僕らのシルエットが無言でピアノを弾くケニー・ドュリユーのポスタ
ーを包み激しく揺れている。抱き合う二人のリズムは、僕とナナコの頭
の中でポスターから流れる同じ旋律で揺れている。ナナコの足が小さな
テーブルを倒した。僕は腰を揺らしながらナナコのぴゅっと伸ばした足
を眺めた。淡い体毛が逆立ちし銀色に光っていた。僕はいつまでも激し
く腰を揺らし続けた。
僕たちが抱き合った日は、ナナコの離婚一周年に当たる日だった。そ
の日から僕たちはナナコの部屋で共同生活を始めた。翌朝は水旺日で
「ナジヤ」が定休日だったこともあり、レンタカーを借りて僕の少ない
荷物をナナコの部屋まで運んだ。早稲田通りを超えた下和町の僕の下宿
から高円寺南口の彼女のマンションまで車で二十分とかからなかった。
２ＬＤＫの玄関を入った左手南側の四畳半を僕の部屋にした。
離婚の慰謝料を元にジャズ喫茶を始めたナナコの生活も楽ではないた
め、家賃、電話代、雑費は全て半分ずつ支払う条件だった。寝室や居間
は共同だから、勉強部屋を確保できた僕にとっては申し分ない条件とい
うことになる。無論、電話も彼女のものだった。そして今日まで続いて
いる。ナナコは僕を君としか呼ばない。僕もナナコをナナコとだけ呼ん
だ。
僕は一人で三本目のハイネケンを飲んでいた。いつの間にかナナコは
僕の横に座り、伝票の整理をしながら「最近上がりが少ないわ」とぼや
いている。僕はナナコが一年前離婚し、一人でジャズ喫茶を経営してい
ること以外は何も知らない。ナナコは僕の年齢と大学院で仏文を専攻し
ていること以外、何も知らない。そんな二人が五度月に会った日から共
同生活を始め、数ヶ月続いている。明日もきっと同じ部屋で暮らしてい
るだろう。一週間先のことさえ語り合ったことがない。不透明な未来に
向かって時間を滑らせつつも不安はない。ただナナコの瞬から下腹部に
伸びた傷跡が僕らの距離を作っている。この溝は埋まりもしなければ広
がりもしないだろう。ある日ベッドの上で汗だくの体を離したとき、僕
は仰向けになって呼吸を整えながら、横抱きに絡みつくナナコの傷跡を
指でなぞった。僕の指の届かないようにナナコは少しずつ僕の足元まで
腰を引き、僕のものを口で含んだ。口の中で強く吸い摩擦し、僕の精子
を咽喉を鳴らして飲んだ。僕はナナコの髪を両手で愛撫しながら、この
傷跡だけは僕らが努力しどんなに愛し合っても癒えることはないだろう
と思った。また僕がどれ程ナナコを傷つけたとしても、この傷跡が悪化
することもないだろうと。僕はバイトに行き大学に通う。ナナコは「ナ
ジャ」へ行き、ジャズを掛け酒をふるまう。これが僕らの日常だ。「大
変、もうこんな時間」というナナコの一声で毎朝目覚め、マンションに
戻り、同じベッドで愛し合い眠り、二人でシャワーを浴びる。しぶきを
浴びながら抱き合い、くすぐり、カード占いで笑い散歩にも買物にも行
く。映画も見て口論をし、歩きながらハンバーガーをほおばる。二つし
かない同じ鍵でドアを開ける。何の不満もない、不安もない。このまま
時間が止まり人生が終わってもいい。僕らは確かに愛し合っている。こ
れでもかというくらいに求め合っている。それなのにナナコの傷跡に触
れることができない。ナナコの傷跡を見て二人で笑うことも泣くことも
怒ることも出来ない。すでに数え切れないほど重ねた性交のある時、
「私は子供が産めない体だから、気にしないで中でいってね」
ナナコは目を瞑ったままそう言い、両手で僕の尻を押さえて離そうと
しなかった。
「女に生まれて、普通、人生の大半は母として過ごすわよね。勿論、一
生女だけど。母の資格を奪われた女は、母として過ごせない大半をどう
やって埋めたらいいのか分からないわ」
ナナコが傷跡について語った最初で最後だった。彼女は三年前に子宮
外妊娠から子宮内膜炎を併発し、手遅れになって子宮を切除した。傷跡
はそのときのものだった。
「関係ないね。ナナコは綺麗な女だよ。打算的な女子大生や、男から男
を渡り歩く表面的な生き方上手のＯＬなんかよりよっぽど女性的だよ」
僕は本当にそう思った。説得や慰めではなく、心からそう思い言葉に
しながら愛しさが募った。
「でも子供が出来ない安心感はあるでしょ。男の人ってみんなそうじゃ
ない」
僕はナナコの言葉を反芻して動揺した。赤面していくのが分かった。
ナナコの傷跡を見たときから「もしかして……」の気持ちがあった。そ
れでも性交のとき妊娠の心配を考えていた。ナナコの下腹部に傷跡があ
ったから、一緒に暮らすことへの躇いがなかったのかもしれない。「面
倒臭くない女と……」。汚い男の身勝手な第一条件を、無意識のうちに
ナナコの傷跡が満たしていたのかもしれない、ナナコをむさぼり、蹂躪
するように肉体を弄んだ夜。怠惰な興奮を鎮めるためにナナコを求め、
不快な疲労感のあとその体をつき放した夜。目覚めの気まぐれで抱き寄
せた朝もあった。
ナナコは僕の裡の汚いエゴイズムを見透かしながら抱かれていたん
だ。
「母にはなれないけど、私は女よ。だって君を欲しいと思うもの。週末
はもうがまんができないほどよ。子供が産めない分だけ、大らかな性を
楽しめる気がするわ。ふしだらじゃなくってよ。だから考え方を変えれ
ば、私って開放されているのね、きっと」
喋りながらナナコは僕のセクスをしごき、馬乗りになって奥深く腰を
沈めた。母になれない大半を埋めるように。母になれない代償としての
快感を躯一杯に浴びるように僕を求め。
「フーツ、終わりました。今度、酒屋にバーボン二ケース持って来させ
なきゃ。さあ、帰るわよ」
僕は窓の外のサンプラザの光りを見ていた。三本目のハイネケンも空
いていた。
ナナコはアート・ブレーキのポスターを掌でこすって伸ばし、画鋲を
刺し換えていた。エアコンが故障している部屋に帰るのは、気が重かっ
た。朝まで冷水シャワーを浴びて、いたいほどの熱帯夜だ。「ナジャ」
を出たのは午前二時を回っていた。環八を走る車の響きが途切れずに聴
こえていた。部屋に戻る夜道を並んで歩きながら、
「明日は日旺日だから、お店は午後からにしましょう。ゆっくり目が醒
めるまで眠りたいわ。久し振りに」
ナナコは頭を僕の肩にもたせかけてきた。
〈アッ〉
僕は小さく胸の裡で叫んだ。数日前、仏文科の二年に在籍する石原涼
子とキャンパスで偶然出くわしたとき、日旺日の今日、四谷の聖イグナ
チナ教会前で会う約東をしていたことを忘れていた。約束といっても一
方的に彼女が喋り、生返事をする僕から約束を取りつけた恰好になって
しまった。彼女は以前から何度か研究室に顔を出し、研究テーマの資料
を集めていた。僕も数回その場に居合わせたが、彼女はカソリックの信
者で、有志数人で孤児院や老人ホームを回るボランティアに参加してい
るとのことだった。二、三度参加するように誘われたが、笑って聴き流
していた。涼子の屈託ない笑顔と水色のボックススカートから伸びた足
がまぶしかった。僕は涼子の白い歯が覗く二十一歳の口元を見凝めてい
た。
「じゃあ。きっとですよ。必ず待ってますから」
最後の言葉を残して、涼子は若い躯を反転させて駆けて行った。僕は
涼子の後ろ姿が夏の陽に溶けて見えなくなるまで目で追い、溜め息をつ
いた。
ナナコと並んで歩きながら、涼子との約束の言葉を喉まで出かかって
飲み込んだ。横浜にある孤児院を訪問すると言っていた集合時間は確か
午前十一時だったと記憶している。子供たちに会いに行くとはどうして
も言えなかった。明確に結んだ覚えのない約束なのだから無視しようと
決めた。とたんに涼子の笑顔が浮かんできた。「どうしたの。考えごと
」ナナコが謝しそうに僕の肩から顔を上げた。
「いや、別に大したことじゃないんだ」
「心配ごとでもある？ 君らしくないわね」
「明日の午前中、研究室にレポートを提出しに行かなくちゃいけないん
だ。明日が締切りなんだけど。面倒くさいから日旺日にしようかと思っ
て」
僕は咄嵯に嘘をついた。
「あら、大変ね。日旺日だと言うのに御苦労なこってすな。でも君は学
生なんだから本文を全うしなさい。私は寝てます」
ナナコは言ったあとで可笑しそうに僕の頬を指で突いた。僕は連られ
て照れ笑いをしたものの軽い背徳意識で胸が詰まった、星空が綺麗な分
だけ。
カーテンの狭間から差す陽の強さで外の快晴が分かった。僕は若干緊
張していたのだろう、午前十時過ぎに目を醒ました。枕に深く顔をうず
めて寝息を立てているナナコの横をすり抜け、起こさないように静かに
ベッドを降りた。シャワーを浴びる時間は無かった。床に落ちている下
着とジーパンをはき、Ｔシャツにスニーカー姿で緑色のブレザーだけ鷲
掴みにして部屋を出た。中央線の快速に飛び乗り、四谷に着いたのはき
っかり十一時だった。教会の前には十人程の男女が一群をなしてフェン
ス際の銀杏の下に集まっていた。僕よりも涼子が先に僕を見つけ、走り
寄ってきた。
「本当に来てくれたんですね。信じられない。でも、どうして。来ない
と思ってたわ。何故来たんですか」
涼子は「どうして来る気になったんですか」と問うつもりなんだろ
う。
「来いと言って約束させておいて、何故来たのかはひどいな。こんな糞
暑い日に呼び出しておいて」
涼子は悪びれずに笑って僕の手を引き、仲間に紹介した。僕は彼らと
一緒に聖堂に入り、日旺の礼拝が終わるまで後ろの壁に凭れて待った。
涼子は白いレースをかぶり、長い竹ざおの先に袋がついた棒を持って前
から順に寄付金を集めに後方の席まで通路を歩いてきた。最後列の席ま
でやって来て、僕の顔を見てペロッと舌を出して笑った。賛美歌の時も
涼子は祭壇の上に数人で並び合唱していた。僕は初めて入った聖堂の広
さに驚いたと同時に、一斉に神に向かって頭をたれる信者の姿に圧倒さ
れ、場違いな自分に気づいて聖堂を出た。二十分程して多数の信者たち
が聖堂から出てきた。それに混じって涼子たちのグループも扉から姿を
見せた。
「何故、ミサの途中で外に出ちゃったの」
涼子の問いに僕は答えず、ボランティア・グループと一緒に横浜へ向
かった。終始、涼子は僕の側に居てくれた。初対面のグループにいる僕
に気を使ってくれたのだろう。横須賀線の中でも僕の横に腰を降ろし
た。グループの中に涼子に好意を寄せているらしい男性の視線が気にな
った。彼は印刷会社に勤めていると挨拶のとき語っていた。僕は彼の視
線が気になってできる限り黙っていた。涼子はそれには気づいているら
しく、僕の横に座っていても、親し気な話し掛けは避けるようにしてい
た。横浜で電車を一本乗り換えて、最寄りの駅から孤児院まで十分ほど
歩いた。孤児院は寿町にある生活館といった。寿にしては何隻もの船上
生活者の群れがあり、甲板にはナベ釜のほか、洗濯物が吊り下がってい
た。川に沿った道路には浮浪者の姿も多く、すえた臭いがどこからとも
なく立ち込めていた。私設の孤児院で園長以下男性二人、女性二人の計
五人の先生と、六歳から十五歳までの院生十八人が共同生活を行ってい
る。七十歳を超えた園長が戦後私費で院を建て、戦災孤児の面倒から始
まったという。卒院生は二百三十人を数え、様々な人生を歩んでいると
いう。市から補助金が給付され、また園長が事業を行っているため何と
か運営はしているが、実情はかなり苦しい。先生方も点字翻訳や電気メ
ーカーの内職をこなし運営を助けている。元福祉行政の仕事にたずさわ
っていた人達らしいが、誰もクリスチャンではなかった。年少の子供た
ちは涼子たちが来るのを楽しみに待っていた。彼らが門に入る姿を見つ
けると、院内にいた子供たちが一斉に駆け寄ってきた。ボランティアの
男性は両手に持った土産や紙芝居の小道具などを頭の上に上げ、もみく
ちゃに耐えていた。どの子供も既にお目当ての人がいて駆け寄る先を心
得ている。涼子のところにも一人の女の子が走り寄って来た。厚いレン
ズの眼鏡を掛け、不安定な足取りで近づいてきた。本人は懸命に駆けて
いるようにも見えるし、ふざけているようにも見える。やっと涼子の所
へ辿り着き、
「ヤッちゃん会いたかったわ」
と涼子に抱き上げられると、ヤツちゃんは嬉しそうな顔をして涼子の
顔を小さな両手でピタピタたたいた。その子は涼子から離れない。僕も
涼子の側にいる都合上、半日、その子と接することになった。
紙芝居、人形劇を館の中で上演し、陽が落ちた午後三時過ぎから外に
出てドッヂボール、鬼ごっこに興じた。子供たちを相手に先生もボラン
ティアも皆汗だくになり夢中で遊んでいた。
僕は一歩下がって彼らの様子を眺めていた。
木陰にあるブランコに座り、懸命に動く人影を目で追い、歓声と悲鳴
を耳にしながら僕はナナコのことを思った。今頃、ナナコは客の注文に
応じてレコードを掛け、酒やコーヒーをだしている。この場にナナコが
いたら、どうするだろう。涼子の様に子供たちと一緒にはしゃげるだろ
う。母の権利を奪われたときに母性を放棄したとしたなら、冷笑を浮か
べて立ち去るだろう。
「桜の木の下で写真が撮りたい」と言ったナナコの声が耳の後ろで響
いた。涼子やここにいる数人の女性たちは、数年後に母になることを信
じているだろう。無意識の裡に将来約束された母なる実像があるから、
彼女たちは無垢な魂で子供に接することができるのか。彼女たちにナナ
コと同じ傷跡があったら、子供たちに接する以前に神を信じることがで
きただろうか。聖堂で見た彼女達の姿の中にいくら捜してもナナコの姿
は見えない。十字架上のイエスの茨の冠が、ナナコの傷跡を剥がして円
形に作ったように感じる。そしてナナコの下腹部が再生されるなら、そ
の時初めて彼女たちに混じってナナコも聖堂の祭壇に並ぶだろう。白い
べールをかぶり、信じて高らかに賛美歌を合唱するだろう。ナナコの裡
に涼子の姿は見えても、涼子の裡にナナコの姿は見えない。
僕はナナコに嘘をついて涼子達と今日この場に来てしまったことに後
悔し始めていた。僕は目の前に什んだ細い影に気づいて顔を上げると、
息を弾ませた涼子が立っていた。
「何を考えているの、さっきから」
涼子は肩で息をしながら流れる汗を拭おうともせず、隣のブランコに
腰を降ろした。陽に向けた涼子の顔は日焼けして淡い朱色に染まってい
た。
「随分焼けたね」
「うん、少しヒリヒリする」
涼子は僕の方を向いて顔の筋肉を縦横に伸ばし、おどけた表情を作っ
て笑わせた。
「今日、連れて来てしまったこと悪かったかしら」
涼子は西陽で長く伸びた自分の影に目を落として眩いた。
「そんなことないさ。僕が好きで来たんだから。楽しかったよ。石原君
の知られざる一面も拝見できたし」
表情だけで笑う涼子の顔に今日一日の疲れが出ている。
「あのね、あの子」
涼子は園内をたどたどしく走り回るヤツちゃんを目で追いながら、
「あの子、可哀想なの」
と言った。この少女は靖子と言った。涼子の話では、神戸で生まれた
靖子が三歳のときに母親は若い男と逃げた。五歳のときに定職を持たな
い父親と一緒に横浜へ流れて来たらしい。父親は賭け事と酒の金を稼ぐ
ために日雇いの仕事に出かけ、横浜に来て数カ月後、港の荷上げの仕事
の最中、クレーンからはずれた荷台の下敷きになって死んだ。どや街の
簡易宿舎で保護されたとき、泣き声も聞こえなかったほど衰弱していた
靖子は、極度の栄養失調から色弱になってしまった。一日限りの旦雇い
労務だった父親の死には補償も下りなかった。生活館に引き取られてか
ら、母親が大阪にいるらしいという情報を頼りに職員が捜し歩き、よう
やく見つけだしたが、母親は次の日には姿を消してしまっていた。この
母親も男に捨てられ、場末のバーで働いていたらしいが、すさんだ生活
に首までつかり自分一人生きて行くのが精一杯で、娘どころではなかっ
た。
母親は職員に向かって
「あの野郎と一緒にガキも死んでくれりゃ清清すらあ」
と悪態をついた。昼間から酒を飲んでいたという。
涼子は母親の言葉を語るとき、声を詰まらせた。様々な形で不幸に見
舞われ孤児になった子供は沢山いる。それよりも実の母が靖子に向けた
という言葉に、涼子は救いを奪われるような思いだったのだろう。涼子
は園長から聞いたという話を僕に伝え、人指し指で目の下を押さえた。
僕は涼子から靖子の話を聴きながら、またナナコのことを考えた。桜の
木の下で娘と写真を撮ることを夢見、女の洒落と言ったナナコの顔を思
い出した。子を産んだ靖子の母と子を産めないナナコ。神はどっちに靖
子を授けるべきだったのか。この子たちに接する涼子を含めたボランテ
ィアの一群が、何故神を信じられるのか、何故信仰を持ち得るのか僕に
は不思議だった。
孤独のとき、不安のとき、僕は確かに祈っている。現実を了解し歩き
出すために、この思いから解放してくれと。自分本意の困難から抜け出
るために僕は祈る。世界平和のためでも隣人のためにでもない僕は小さ
な人問だ。誰のためにでもない、僕自身が解放されるために祈り、この
限りにおいて神を信じ縋ろうとする。靖子の現実を前に神を否定する僕
は、それでも自分のために祈る矛盾を抱えた弱い人間だ。必要なときだ
け神を信じるが、信仰という鎖の束縛は受けない。神は罰を与えない。
罰は人が選び取っているだけなら、靖子に罰を選び取る意思があったの
か。ナナコに罰を願う気持ちがあったのか。矛盾に接したとき、宗教は
前世の行いを持ち出す。便利な言葉だ。また試練という。僕は自分に課
せられた罰の原因を知っている。知った上で解放を求めて祈っている。
しかし、七歳の靖子に前世や試練を持ち出して救われるのか。誰が納得
する。少なくても僕は納得しないし、する気もない。涼子が僕の顔を見
ている。僕は真っすぐに涼子を見返し、かすれた声で訴えた。
「分からないんだ」
涼子は声に出さず唇をふるわせた。
〈何を？〉
彼女の瞳は優しかった。僕は胸が苦しくなってこらえ切れなくなった。
涼子の瞳は、
〈私の前よ。大丈夫だから楽になったら〉
と語ってくれているようだった。僕は咄嵯にナナコのことを考えた。
楽になる寸前に、ブランコから立ち上がった。生活館を出て京浜東北線
で品川に向かう車中で、涼子に好意を寄せているらしい会社員の安本君
が食事をして帰ろうと提案した。涼子の家がある小田急沿線や京王線な
ど新宿を起点とする支線に住む住人が多く、僕らは安本君が行きつけと
いう新宿の居酒屋に入った。六人掛けのテーブルを二つ寄せて十一人が
座った。
涼子は居酒屋でも僕の横に腰を降ろした。共に行った仲間は日焼けし
高揚した顔でビールを飲みながら談笑し、その日の反省やらを交わして
いた。僕は靖子のことを考えていた。ブランコを立ち上がった僕の長い
形と、隣のブランコに腰を降ろして僕の背中を見凝めている涼子の低く
固まった影に向かって、靖子が手探りで不安定な桟橋を渡るようにたど
たどしく近づいてきた。靖子は二つの影に吸い込まれて立ち上がり、僕
を見上げた。
「もう、お帰りの時間なの？」
数分後には終わろうとする最後の西陽を正面に受けて右目を眠り、ま
ぶしそうな笑顔で尋ねた。靖子があまりまぶしそうだったので、僕はし
ゃがみ込み靖子の視線と合わせた。涼子も僕の横に並んでしゃがんだ。
「また来てくれるの？」
「来月の二度目の日旺日にきっと来るわ」
涼子はあと何日と靖子の指を折って約東し、僕を見た。僕は曖昧な笑
顔を作っただけだった。
「お姉ちゃん、このお兄さんが好きなの？」
唐突に靖子が言った。無邪気なだけ僕も涼子も何と答えていいか分か
らない。否、無邪気な言葉が、漠然と抱いていた僕の涼子への気持ちに
形を与え、それに気づかされて言葉を失った。僕らは束の間、互いに顔
を見合わせた。涼子は靖子の頭を撫ぜ、三度額いてから
「好きよ。きっとね」
と答えて僕を見た。
真顔で視線を落とす僕を靖子は怪しそうに見ている。僕の頭の中にジ
ャズを掛けながらカウンターの奥に腰掛けて単行本を読んでいるナナコ
の姿が浮かんだ。
「お兄さんもお姉ちゃんが好き？」
靖子は、聞いてくるなよと願った質問を無邪気に僕に繰り返した。
「ああ、きっとね」
靖子は嬉しそうに斜視の目で笑って言った。
「良かった」
その後、僕と涼子は居酒屋に入るまでほとんど話を交わさなかった。
僕はずっと考えていた。靖子のこと。涼子のこと。そしてナナコのこと
を。頬杖をついた左手の人指し指と中指に挟んだ煙草の灰が弓なりに反
って燃え尽きようとしていたことにも気づかずに三人の女のことを交互
に考えていた。
（続く）
文芸同人誌「風」第４号 １９９２年夏号 掲載
【原稿用紙３５枚】
来訪者 [since 2009.9.4]
